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説教日:2014年2月23日 |
こここでは、ヨハネに啓示されたイエス・キリストの栄光の御姿とのかかわりで示された「七つの星」と「七つの金の燭台」が何を表象的に表しているかを、イエス・キリストご自身が示してくださっています。まず、 七つの星は七つの教会の御使いたち・・である。 と言われています。ここで「七つの教会の御使いたち」と言われているときの「御使いたち」がだれを指しているかにつきましては、以前お話ししたことがありますので、その点に関しては要約してお話してから、さらにいくつかのことをお話しします。 これはとても難しい問題で、意見の一致を見てはいませんが、大きく二つに分けられます。一つは、これは文字通りの「御使いたち」すなわち天使たちでのことであるというものです。もう一つは、主のみことばを伝える「使者たち」のことであるというものです。 黙示録の中では、御使いたちが大切な役割を負っている存在として頻繁に出てきますが、この1章9節ー20節に出てくる「七つの教会の御使いたち」以外の用例では、「御使い」と訳されていることば(アンゲロス)が人を表す例がありません。それで、これは御使いのことであると考えられます。 そうしますと、これは「アジヤにある七つの教会」のそれぞれにかかわっている「御使い」であるということになります。 このこととのかかわりで注目されているのは、二つあります。一つはダニエル書10章に記されていることです。引用はしませんが、13節には「ペルシヤの国の君」が出てきます。また、20節では、この「ペルシヤの国の君」が「ペルシヤの君」と呼ばれていますが、これに続いて「ギリシヤの君」が出てきます。彼らは主の啓示をダニエルに伝えようとしていた、おそらくガブリエルであろうと考えられる御使いを阻止しようとして働くという形で霊的な戦いを展開しています。21節では、この御使いとともにミカエルが彼らに立ち向かうとも言われています。このことから、この世の国々を支配している霊的な存在がいることが分かります。ただし、この場合の「ペルシヤの君」や「ギリシヤの君」は、暗やみの主権者であるサタンの下にある悪霊たちです。 もう一つ注目されているのは、マタイの福音書18章10節に記されていますイエス・キリストの教えです。そこでイエス・キリストは、 あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。 と教えておられます。ここでは、主の民の一人一人に対してかかわっている「天の御使いたち」がいることが示されています。ただ、この御使いたちがどのような働きをしているのか啓示されてはいません。言うまでもなく、私たちは御使いたちを礼拝したり、御使いたちに祈ったりしてはなりません。 これらのことから、主の民のそれぞれだけでなく、キリストのからだである教会の一つ一つの群れにかかわっている御使いがいると考えられます。 けれども、これについては三つほどのことを考え合わせる必要があります。 第一に、教会の一つ一つの群れにかかわっている御使いがいるといっても、その御使いがいわゆる「守護天使」のような形でかかわっているという意味ではありません。聖書全体を通して見ても、いわゆる「守護天使」のような御使いがキリストのからだである教会にかかわっているという記述は、他にはありません。 第二に、黙示録2章ー3章に記されています、栄光のキリストが「七つの教会」のそれぞれの教会の御使いに語られたことばを見ますと、スミルナにある教会の御使いとフィラデルフィアにある教会の御使い以外は、 しかし、あなたには非難すべきことがある。 と言われたり[2章4節(エペソ)、14節(ペルガモ)、20節(テアテラ)]、悔い改めるべき点を指摘されています[2章5節、16節。21節ー22節、3章3節(サルデス)、19節(ラオデキヤ)]。けれども、御使い自身はそのような罪を犯すことはありません。というのは、もしある御使いが罪を犯したなら、その御使いは堕落して、悪霊となってしまうからです。 第三に、今お話ししましたように、栄光のキリストはいくつかの教会の御使いたちに、 しかし、あなたには非難すべきことがある。 と言っておられます。けれども、実際に、そこで問題を引き起こしているのは、それぞれの教会の信徒たちや信徒を装って教会を荒らしている者たちです。また教会の御使いたちが称賛されている場合も同じで、実際に称賛されるべきことをしているのは、その教会の信徒たちです。 これらのことから、この「七つの教会」のそれぞれの教会の御使いは、それぞれの教会を代表的に表わす形でそれと同一視されていると考えられます。 先ほどお話ししましたように、黙示録では、「七つの教会」の御使いたち以外には、この「御使い」ということば(アンゲロス)は天にある存在である「御使い」を表していますので、「七つの教会」の御使いたちも天にいる御使いであると考えられます。同時に、この御使いは地にあるキリストのからだである教会の一つ一つの群れを代表的に表わす形で。その群れと同一視されています。 このように、御使いが「七つの教会」の一つ一つの群れを代表的に表していることには意味があると考えられます。御使いたちは、天において、父なる神さまと御子イエス・キリストの御臨在の御前で仕えています。その意味で、御使いたちは天に属しています。ヘブル人への手紙1章14節に、 御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。 と記されているとおりです。この場合、 御使いはみな、仕える霊であって と言われているときの「仕える」と訳されていることば(レイトゥールギコス)は、主の栄光の御臨在の御前で仕えているという意味合いを伝えています。これは、神さまを礼拝することを中心として仕えていることであると考えられます。そして、 救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされた と言われているときの「仕える」と訳されていることば(ディアコニア)は、奉仕すること、お世話をすること、給仕することなどを意味しています。 このことから、「七つの教会」の一つ一つの群れを代表的に表している御使いたちは、「七つの教会」が天に属していることを表していると考えられます。 「七つの教会」は地にあります。そのために、ローマ帝国からの迫害を受けて苦しむ群れがあります。その一方で、教会の内側にも問題があって、かしらであられる栄光のキリストから非難すべきことがあると指摘され、悔い改めるようにと迫られることがあります。そうではあっても、「七つの教会」の一つ一つは栄光のキリストのからだとして、天に属しています。このことは、小アジアにあった「七つの教会」が代表的に表わしている、歴史を通して地上に存在している一つ一つの教会に当てはまります。 1章16節には、イエス・キリストの栄光の御姿について、 また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。 と記されています。ここでは栄光のキリストがこの御使いたちを表象的に表す「七つの星」を「右手に」もっていると言われています。 「右手」は利き手ということもあって、力や権威を表しています。これは、旧約聖書で「主の右の手」は、救いとさばきの御業、特にご自身の契約の民のための救いの御業を遂行される力強い御手として示されていることを受けています。それで、ここでは、栄光のキリストが「七つの教会」の一つ一つの群れを、その力強い御手をもって治めてくださり、守ってくださっていることを意味しています。特に、霊的な戦いにおいて、救いとさばきの御業を遂行して、私たちご自身の民の救いを完成へと導いてくださることを意味しています。 先ほどお話ししましたように、「七つの教会」は地にあって、ローマ帝国からの迫害を受けて苦しむ群れや、自らのうちに異端的な教えを持ち込んで福音のみことばを歪めてしまっている者たちもいて、かしらであられるイエス・キリストから、悔い改めるようにと迫られている群れもあります。そうではあっても、「七つの教会」の一つ一つは栄光のキリストのからだとして、天に属しています。それは、何よりも栄光のキリストご自身が、その力強い「右手に」に、その一つ一つの群れを持っていてくださるからです。このことは、そのまま私たちにも当てはまります。 私たちが取り上げている20節では、 わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、 というように、「七つの星」のことが、わざわざ「わたしの右の手の中に見えた七つの星」と言われています。これによって、改めて、 栄光のキリストが「七つの教会」の一つ一つの群れを、その力強い御手をもって治めてくださり、守ってくださっていること、そして、救いとさばきの御業を遂行して、一つ一つの群れの救いを完成へと導いてくださることを思い起こさせています。 このことをイエス・キリストが、20節において語っておられることには意味があると考えられます。というのは、イエス・キリストは、ヨハネに、ご自身について、 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている とあかしされたことを受けて、このことを語っておられるからです。 ここで、イエス・キリストがヨハネに示してくださったことは、ご自身が契約の神である主、ヤハウェであられ、ご自身の契約に対して真実であり、契約において約束してくださったことを必ず実現し、完成へと至らせてくださる方であることを啓示してくださいました。そして、主がその契約において約束してくださっていることは、ご自身の契約の民である私たちの罪を贖ってくださって、死と滅びから救い出してくださり、被造物に許されるかぎりのことですが、充満な栄光にあってご自身との愛の交わりのうちに生きる者、すなわち、永遠のいのちをもつ者としてくださるということです。 ここでは、そのこと実現してくださるために、ご自身が「最初であり、最後であ」る方として、歴史の主であられ、この世の国々をも治めておられる方であることを示しておられます。また、「生きている者」として、自分からは何もすることができな偶像とは違って、ご自身のみこころをすべて成し遂げられる方であることを示しておられます。そして、 わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。 とあかししておられますように、私たちご自身の民のために十字架にかかって、私たちの罪を完全に贖ってくださるとともに、栄光を受けて死者の中からよみがえられて、死の力を打ち砕かれたばかりでなく、私たちのために栄光に満ちたいのち、すなわち、永遠のいのちを獲得してくださいました。そして、このことに基づいて働かれる御霊によって、私たちを新しく生まれさせてくださり、私たちを父なる神さまとの愛の交わりのうちに生きる者としてくださいました。このようにして、ご自身の民のために贖いの御業を成し遂げられたイエス・キリストは、この地上の世界だけでなく、死んだ者たちの領域をも治めておられる歴史の主です。 20節では、契約の神である主、ヤハウェであられるイエス・キリストが、このような歴史の主として、「七つの教会」の一つ一つの群れを、その力強い御手をもって治めてくださり、守ってくださっていること、そして、救いとさばきの御業を遂行されて、「七つの教会」の一つ一つの群れを救いの完成へと導いてくださることを示しています。 20節では、さらに、 七つの燭台は七つの教会である。 と説明されています。 この場合の「燭台」(リュクニア)はローソクを差し込んで固定するものではなく、ランプ(リュクノス)をその上に置く台のことです。 出エジプト記25章31節ー40節には、主の栄光の御臨在のある幕屋に備える「純金の燭台」(メノーラー)のことが記されています。この燭台は幕屋の前の部分である「聖所」に置かれていました。このことは、この燭台が主の栄光の御臨在の輝きを表示するものであったことを意味しています。この燭台には一つの台座と支柱があり、その支柱自体が燭台となっています。さらに、その支柱の両脇からそれぞれ燭台となる三つの枝が出ていて、合計で七つの燭台があることになります。そして、それぞれの燭台の上に新改訳で「ともしび皿」と訳されているランプが置かれるようになっていました。この「7」は完全数で、主の御臨在の栄光の輝きが完全な輝きであることを象徴的に表しています。 この主の聖所に置かれた「純金の燭台」が背景となって、黙示録1章12節ー13節において「七つの金の燭台」が示されています。そして、20節では、この、 七つの燭台は七つの教会である。 と説明されています。古い契約の下での主の聖所に置かれた「純金の燭台」が主の御臨在の栄光の輝きを表していたように、黙示録1章12節ー13節に出てくる「七つの金の燭台」もイエス・キリストの栄光の御臨在とかかわっています。 10節ー13節には、 私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。 と記されています。イエス・キリストはご自身の栄光の御姿を現してくださるに当たって、まず、ヨハネの背後から語りかけ、ヨハネがこれから見ることを記して、「七つの教会」に送るように命じられました。その上で、ご自身が「七つの金の燭台」すなわち、七つの教会の真ん中にご臨在しておられることをお示しになりました。ですから、イエス・キリストが最初にご自身の栄光の御姿として示してくださったのは、ご自身が「七つの教会」の真ん中にご臨在しておられるということでした。 先ほど、「七つの教会」の一つ一つの群れを代表的に表している御使いたちは、「七つの教会」が天に属していることを表しているということをお話ししました。御使いたちがそのことを表すことができるのは、御使いたちが神である主の栄光の御臨在の御前で、主を礼拝することを中心として仕えているからです。そのようにして、御使いたちは、「七つの教会」が天に属していることを表していますが、御使いたちが「七つの教会」を天に属しているものとしているのではありません。「七つの教会」を天に属しているものとしているのは、1章12節ー13節において記されていますように、「七つの教会」の真ん中にご臨在してくださっている栄光のキリストです。さらに言いますと、栄光のキリストが「七つの教会」の真ん中にご臨在してくださっていることが、「七つの教会」を天に属するものとしているのです。 イエス・キリストはこのことを12節ー13節に記されています、ご自身の栄光の御姿の顕現の最初に、「七つの金の燭台」の真ん中にご自身がご臨在しておられるという形でお示しになっておられます。そして、その最後に当たる20節において、その、 七つの燭台は七つの教会である。 と説明されて、改めて、ご自身が「七つの金の燭台」の真ん中にご自身がご臨在しておられることを思い起こさせておられます。このことにも、先ほどと同じように、ここで、イエス・キリストは、ご自身が、 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている とあかしされる方として、「七つの教会」の真ん中にご臨在しておられることを示しておられます。 繰り返しになりますが、20節では、 わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、 というように、「七つの星」のことが、わざわざ「わたしの右の手の中に見えた七つの星」と言われていました。これによって、栄光のキリストが「七つの教会」の一つ一つの群れを、その力強い御手をもって治めてくださり、守ってくださっていること、そして、救いとさばきの御業を遂行して、一つ一つの群れを救いの完成へと導いてくださることを示していました。これは、栄光のキリストの「右の手」とのかかわりで考えられることでした。 同じ20節で、イエス・キリストは、 七つの燭台は七つの教会である。 と言われました。この場合は、主の聖所に置かれていた「純金の燭台」が栄光の主の御臨在とかかわっていること、また、栄光のキリストが「七つの教会」の一つ一つの群れの真ん中にご臨在しておられることとのかかわりで考えますと、少し異なった意味合いがあると考えられます。ここで、 七つの燭台は七つの教会である。 と言われていることは、「七つの燭台」によって表象的に示されている「七つの教会」が、その真ん中にご臨在してくださっている主を礼拝することを中心として、主との愛の交わりのうちにあることを汲み取ることができます。 このことは、同じく、栄光のキリストがご自身のからである教会にご臨在しておられることを記しているエペソ人への手紙1章23節に、 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。 と記されていることを思い起こさせます。ここで、「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」と言われている方は、20節ー21節に、 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。 と記されている栄光のキリストご自身です。キリストのからだである教会には栄光のキリストご自身がご臨在してくださっています。エペソ人への手紙では、さらにそのことが、2章20節ー22節において、 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。 と記されています。ここには、私たち主の契約の民が「主にある聖なる宮」となり、「御霊によって神の御住まいとなる」と言われています。「主にある聖なる宮」や御霊による「神の御住まい」には、主の栄光の御臨在があります。それは、主が私たちご自身の民の礼拝を受け入れてくださり、私たちをご自身との愛にある交わりのうちに生きる者としてくださるための御臨在です。 ここでは、さらに、私たちが「主にある聖なる宮」や御霊による「神の御住まい」となるのは、私たちが「使徒と預言者という土台の上に建てられ」ていて、「キリスト・イエスご自身がその礎石」となっていてくださるときのことであるということが示されています。「使徒と預言者という土台の上に建てられ」るということは、実際には、「使徒と預言者」たちが伝えたみことば、すなわち、新約聖書に記されている福音のみことばの上に建てられることを意味しています。そのようにして建てられているときに、教会はキリストのからだである教会となり、そこに栄光のキリストがご臨在してくださっています。 そうであるので、先ほど触れましたように、2章ー3章に記されています、「七つの教会」への語りかけにおいて、イエス・キリストは、さまざまな異端的な教えを持ち込んできて福音のみことばを曲げてしまっている者たちに警告を与え、悔い改めない者たちへのさばきを宣告しておられます。 |
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