黙示録講解

(第回)


説教日:2014年2月16日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章9節ー20節
説教題:栄光のキリストの顕現(52)


 黙示録1章17節後半ー18節には、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

という、イエス・キリストが黙示録の著者であるヨハネに語られたみことばが記されています。
 いま取り上げているのは、18節に記されている、

わたしは・・・生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

というみことばです。まず、これまでお話ししたことで、今日お話しすることとかかわっていることを振り返ってお話しします。
 最初の、

 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。

というみことばは、原文のギリシャ語では、強調形の「わたしは・・・である」という言い方で表されています。これは、出エジプトの時代に、神さまがモーセに啓示してくださった、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という神さまの御名を背景として語られたものです。これによって、イエス・キリストは。ご自身が、この、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名の神であることを啓示しておられます。
 出エジプト記3章13節ー15節では、この、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名は、「わたしはある」に短縮され、さらに3人称化されて「ヤハウェ」となっています。
 この、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名は、基本的に、三つのことを示しています。第一に、神さまは永遠にご自身で存在される方であり、天地創造の御業によって、この歴史的な世界のすべてのものをお造りになった方、すべてのものを存在させた方であるということです。第二に、そのゆえに、神さまは、この歴史的な世界の歴史の主であり、いっさいの物事を治めておられる方であるということです。第三に、神さまはそのような歴史の主として、ご自身の契約に対して真実であり、契約において約束してくださったことを必ず実現し、完成してくださる方であるということです。
 これら三つのことは、次のようなことを意味しています。
 神さまがお造りになったこの歴史的な世界のすべてのものは時の流れの中で移り行きます。けれども、神さまは永遠に存在される方であって、時の流れに流されて行く方ではありません。
 そうではあっても、神さまは超然としておられるのではなく、時の流れの中で移り行くこの歴史的な世界のすべてのものと関わってくださり、その一つ一つのものの特性を生かしつつ、始めから終わりまで、真実に支え、導いてくださっています。
 このことは、特に、神のかたちに造られて、神さまがお造りになった、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を委ねられた人との契約にとってたいせつなことです。神さまは創造の御業において人をご自身との契約のうちにあるあるものとして、神のかたちにお造りになり、歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。私たちはこの創造の御業とともに与えられた契約を「創造の契約」と呼んでいます。すべての人はこの契約のうちある者として造られており、生まれてきます。
 神さまはこの契約に基づいて、神のかたちに造られている人とともにいてくださるためにご臨在になり、人をご自身との愛の交わりに生きる者としてくださいました。この神である主との愛の交わりが、神のかたちに造られている人のいのちの本質です。
 また、神さまは、この契約において、人が委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて、神さまのみこころに従いとおしたなら、最初に造られた状態の神のかたちとしての栄光よりさらに豊かな栄光を与えてくださることを約束してくださいました。それは、人がより栄光に満ちた神である主の御臨在の御許に近づいて、主とのより栄光に満ちた愛の交わりに生きるようになるためのことです。この主とのより栄光に満ちた愛の交わりに生きることが永遠のいのちの本質です。これはイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業にあずかっている私たちの間で実現していることで、父なる神さまに向かって「アバ、父」と呼びかけることができるほどの親しさにおける交わりです。
 このことは、人が神さまのみこころに従いとおしたなら当然受けるというものではありません。神さまの一方的な愛と恵みによって与えられた祝福です。というのは、みことばが全体として示していることによりますと、御使いたちは神さまのみこころに従いとおしても、創造の御業において与えられた栄光にまさる栄光を受けるようにはならないと考えられるからです。これは、御使いたちに成長がないという意味ではありません。御使いたちにも人格的な成長があると考えられますが、それは創造の御業とともに与えられた栄光のうちにある可能性であると考えられます。
 神のかたちに造られている人も委ねられている歴史と文化を造る使命を果たしつつ、人として、人格的に成長していきます。けれども、神さまのみこころに従いとおしたことに対する報いとして与えられるより豊かな栄光は、人格的に成長し成熟していくこととを越えた栄光です。そのことは、イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことに対する報いとして死者の中からよみがえられたときの栄光が、地上の生涯で人として成長され、人格的に成熟されたことを越える豊かな栄光であったことから分かります。イエス・キリストは十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされて、神さまが「創造の契約」において約束してくださったより豊かな栄光を獲得されたのです。
 このように神さまは、初めから、人を神のかたちにお造りになってご自身の契約のうちに入れてくださり、ご自身との愛の交わりに生きる者としてくださいました。それだけでも豊かな祝福ですが、さらに、人により豊かな栄光を与えてくださり、ご自身とのより栄光に満ちた愛の交わりのうちに生きる者、永遠のいのちをもつ者としてくださるという祝福を約束してくださいました。
 この「創造の契約」において示された神さまのみこころは、人が、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後においても変わることはありませんでした。神さまは人が罪を犯して、御前に堕落してしまって、「創造の契約」の違反者となり、そのことがもたらしたのろいによって死の力に服してしまった後にも、人をご自身とのより栄光に満ちた愛の交わりのうちに生きる者としてくださるために、もう一つの契約をお与えになり、贖い主を遣わしてくださることを約束してくださいました。この契約を私たちは「救済の契約」と呼んでいます。
 ですから、「創造の契約」と「救済の契約」を与えてくださった神さまの目的は同じです。私たち主の契約の民をご自身との愛にある交わりに生きる者としてくださるだけでなく、さらに、より栄光に満ちた愛の交わりのうちに生きる者としてくださること、永遠のいのちを与えてくださることです。それは、そのまま神さまが御子イエス・キリストをとおして遂行された創造の御業と贖いの御業の目的です。このすべては、神さまの私たちに対する一方的な愛と恵みから出ています。私たちはこのことから、私たちをご自身とのより栄光に満ちた愛の交わりのうちに生きる者としてくださることが神さまの揺るぎないみこころであることを汲み取りたいと思います。父なる神さまはこのことを実現してくださるために、ご自身の御子をも遣わしてくださり、御子の十字架の死によって私たちの罪を贖ってくださいました。
 先週取り上げました創世記3章15節に記されている「最初の福音」は、この「救済の契約」の最初の約束です。その後、神である主はノアの時代には、この歴史的な世界の歴史を保ち続けてくださるという契約を与えてくださり、贖い主の約束に対する信仰に歩んでいた民の中から、アブラハムを召してくださって、アブラハムの子孫によって地上のすべての民が祝福を受けるようになるという約束を与えてくださいました。そして、アブラハムの血肉の子孫の中から、「地上的なひな型」として選ばれたイスラエルの民をとおして、約束されている贖い主による贖いの御業がどのようなものであるかを、さらに詳しく啓示してくださいました。
 そのようにして、主の契約の民として選ばれたイスラエルの民は、その歴史の初めから、繰り返し、自らの罪のために背教してしまい、さばきを招くようになりました。それは、イスラエルの民だけのことではなく、罪によって堕落してしまっているすべての民の現実を映し出すものでした。これに対して、神さまは、さらなる恵みをもって、契約において約束してくださった贖いの御業を遂行してくださるということをお示しになりました。そのようにして、神さまが、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名の神であられることの意味が、旧約の時代、古い契約の下にあった時代の歴史をとおして示されました。
 そして、実際に、時が満ちて、今から2千年前に、ご自身の御子を贖い主として遣わしてくださり、この契約のうちに約束してくださったことを実現してくださいました。
 このようにして、ご自身の契約の民の贖い主として父なる神さまから遣わされた御子イエス・キリストは、ご自身が、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名の神、契約の神である主、ヤハウェであられます。
 このような方であるイエス・キリストは、この黙示録1章9節に記されていますように、ローマ帝国から迫害を受けてパトモスという島に流刑になっていたヨハネに、ご自身の栄光の御姿を表してくださり、ご自身のことを、

 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。

とあかししてくださいました。このあかしのみことばは、イエス・キリストがご自身がどなたであるかを啓示してくださったもの、すなわち、イエス・キリストの「自己啓示」のみことばです。
 この、

 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。

というみことばは、これで一つの文であり、ひとまとまりになっています。けれども、これにはもう一つの面があります。内容の上では、

 わたしは、最初であり、最後である

ということと、

 わたしは・・・生きている者である

ということの組み合わせで成り立っています。この、

 わたしは、最初であり、最後である

ということと、

 わたしは・・・生きている者である

ということのそれぞれが、旧約聖書において、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名の神、契約の神である主、ヤハウェが歴史の主として、ご自身の契約に示された約束を実現し、完成へと至らせてくださる方であるということを示しています。しかも、それぞれが、ご自身の契約の民の「地上的なひな型」として選ばれイスラエルの民が、主に対する信仰を捨てて契約に違反してしまい、主のさばきを招くようになってもなお、さらに豊かな愛と恵みとあわれみをもって贖いの御業を遂行してくださり、救いの完成へと至らせてくださることを示しています。
 この二つのことは基本的に同じことを示していますが、

 わたしは・・・生きている者である

ということは、特に、いのちのない偶像との対比で、生きておられる方として
 今私たちが取り上げているのは、この後の方の、

 わたしは・・・生きている者である

というイエス・キリストの自己啓示のみことばです。このみことばには、さらに、

わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

という説明がなされています。


 ここで、

 わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。

と言われているときの、

 わたしは死んだ

ということは、イエス・キリストが十字架にかかって死なれたことを指しています。これによって、イエス・キリストは私たちの契約のかしらとして、私たちが受けなければならない「創造の契約」への違反がもたらすのろい、つまり、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わって受けてくださいました。ガラテヤ人への手紙3章13節には、

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。

と記されています。また、コリント人への手紙第二・5章18節ー21節には、

これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

と記されています。
 黙示録1章18節で、

 わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。

と言われているときの、

 わたしは・・・いつまでも生きている。

ということは、イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことに対する報いとして、栄光を受けて死者の中からよみがえられたことを指しています。これはただ単に、イエス・キリストが生き返ったということではありません。先ほどお話ししましたように、イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことによって「創造の契約」に約束されていた祝福としての、より豊かな栄光を獲得されたということです。
 また、これは、強調形の「わたしは・・・である」で表されている、

 わたしは・・・生きている者である。

ということをさらに説明するものです。

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名の神であられるイエス・キリストが、

 わたしは・・・生きている者である。

とあかしされる方であるいうことが、私たち主の契約の民にとってどのような意味をもっているかが、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、明らかになったということです。
 どういうことかと言いますと、すでにお話ししましたように、契約の神である主、ヤハウェが、

 わたしは・・・生きている者である。

とあかしされる方であるいうこと自体は旧約聖書においても示されていました。けれども、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって私たち主の契約の民のために贖いの御業を成し遂げられたことによって、旧約聖書においては預言的な形で、その意味でおぼろげに示されていたことが明確な現実として示されるようになりました。イエス・キリストが、

 わたしは・・・生きている者である。

とあかしされる方であるということは、ただご自身が「生きている者」であられるだけではないのです。

 わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。

とあかしされる方として、私たちご自身の民の罪を完全に贖ってくださり、私たちを死と滅びから救い出してくださった上に、私たちをご自身の復活にあずからせてくださって、父なる神さまとのより豊かな栄光に満ちた愛の交わりに生きる者としてくださっている方であられるのです。
 ですから、イエス・キリストの、

 わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。

というみことばは、消極的には、イエス・キリストにおいて、死は完全に克服されており、その力を失ってしまっているということを意味しています。そればかりでなく、積極的には、も林によって脅かされることがない、より豊かなえ行こうにあるいのち、すなわち、永遠のいのちが現実になっているということを意味しています。
 それで、私たちがイエス・キリストのうちにあるということについて、ローマ人への手紙6章4節ー5節には、

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

と記されています。さらに、9節ー11節には、

キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

と記されています。
 このように、イエス・キリストが強調形の「わたしは・・・である」で表されている、

 わたしは・・・生きている者である。

とあかしされる方であられることが、さらに、

 わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。

とあかしされていることから、思い出されるみことばがあります。それは、ヨハネの福音書11章25節ー26節に記されています、

わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。

というイエス・キリストのあかしです。この、

 わたしは、よみがえりです。いのちです。

というみことばは、やはり、強調形の「わたしは・・・である」で表されていて、イエス・キリストが、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名の神、契約の神である主、ヤハウェであられることを踏まえています。さらに、契約の神である主、ヤハウェであられるイエス・キリストが、

 わたしは、よみがえりです。いのちです。

とあかしされる方であることが、私たちご自身の民にとってどのような意味をもっているかということが、それに続く、

わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。

という教えに示されています。

 黙示録1章18節には、さらに、

 わたしは・・・死とハデスとのかぎを持っている。

というイエス・キリストのあかしが記されています。
 ここに出てくる「ハデス」はギリシャ語で、ヘブル語の「シェオール」に当たります。これは基本的に、「死んだ者が行く所」、「死者の領域」を表しますが、しばしば、それと関連するものとして「墓」を表します。黙示録では「ハデス」は常に「」との組み合わせで用いられています(1章18節、6章8節、20章12節、14節)。
 ここ1章18節に出てくる「死とハデス」が何であるかについての見方は二つに分かれています。
 一つは、黙示録のここ以外の個所では「死とハデス」が人格化(擬人化)されているということに着目します。たとえば、6章7節、8節には、

小羊が第四の封印を解いたとき、私は、第四の生き物の声が、「来なさい」と言うのを聞いた。私は見た。見よ。青ざめた馬であった。これに乗っている者の名は死といい、そのあとにはハデスがつき従った。彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。

と記されています。このことから、このように人格化された「死とハデス」は、より具体的な存在、すなわち、罪とその結果である死をもって人を支配する悪しき勢力、悪霊たちを表していると主張されています。ウガリット神話では「死」を意味するモート、ギリシャ神話では「ハデス」が死者の領域を支配している神とされています。
 この見方では、「死とハデスとのかぎ」とは、「死とハデス」という悪霊たちがもっている「かぎ」(複数形)ということになります。古代の文化では、地下の世界へのかぎを持っているのは、そこを支配しているハデス(ギリシャ神話)、プルート(ローマ神話)、アヌビス(エジプト神話)というような神々であるとされていました。東洋では閻魔でしょうか。
 もう一つの見方は、この場合の「死とハデス」は人格化されたものではなく、「死の領域」や「死者の領域」のことであるというものです。この見方では、「死とハデスとのかぎ」とは、「死とハデス」という領域への「かぎ」であるということになります。
 これら二つの見方をめぐっては、福音派の学者たちも意見が分かれています。中には、ここにはこの両方の意味があるとしている学者たちもいます。
 問題は「かぎを持っている」ということです。これは、そのこと、あるいはその領域に対する支配権をもっているということを意味しています。古代の王宮では、かぎを持っているのは重要な役人で、王宮にやって来る人々が王の前に出るのを許可したり、許可しなかったりしました。
 「死とハデス」を人格化して、これらが死者の領域へのかぎを持っているいう見方の問題は、聖書では「死とハデス」が人格化されている場合でも、それらが死者の領域のかぎを持っているという思想がないということです。
 かりにこの見方を取るとしますと、少し厳密すぎるかも知れませんが、イエス・キリストの、

 わたしは・・・死とハデスとのかぎを持っている。

というあかしのみことばは、本来、悪しき勢力である「死とハデス」がもっている死者の領域へのかぎを、イエス・キリストがもっている(あるいは、もつようになった)というような意味合いになってしまいます。聖書のみことばは、またユダヤ教の教えでも、死者の領域へのかぎをもっているのは、始めから終わりまで、神ご自身であるということを示しています。
 それで、「死とハデス」は死者の領域を指していると理解した方がいいと思われます。
 この時、ヨハネが牧会している小アジアにある「七つの教会」は、ローマ帝国からの迫害にさらされていました。そのローマ帝国の皇帝たちやその権威を帯びて小アジアを治めていた官憲たちは、自分たちこそがその支配下にある者たちの生殺与奪の権を持っていると思っていたことでしょう。しかし、それは地上的・肉体的なことでしかありません。また、彼らは殺すことはできても、生かすことはできません。実際、彼らはほかの人のいのちばかりか、自らのいのちを引き延ばすこともできません。そのローマ皇帝たちも、終わりの日には、歴史の主であられるイエス・キリストの御座の前でのさばきに服することになります。
 ここで、イエス・キリストは、

 わたしは・・・死とハデスとのかぎを持っている。

とあかししておられます。これによって、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名の神であられるイエス・キリストは、ただ、生きている者たちが活動しているこの地上の世界だけでなく、死者たちのいる領域をも治めている主権者であられることを示しておられます。
 そればかりではありません。死者の領域を支配しているといっても、そこにいるすべての者を死のうちに閉じこめてしまうという支配の仕方もあります。けれども、

わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

とあかししておられるイエス・キリストは、それとは違う権威を獲得してもっておられます。イエス・キリストは、ご自身の十字架の死による罪の贖いによって、私たちご自身の民を死と滅びの力から贖い出してくださり、ご自身の復活にあずからせてくださって、創造の御業において神のかたちに造られた時の状態よりさらに豊かな栄光に満ちたいのち、すなわち、永遠のいのちをもつ者としてくださっています。それによって、私たちを、父なる神さまとのより豊かな栄光にある愛の交わりに生きる者としてくださっています。


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