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説教日:2014年2月16日 |
ここで、 わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。 と言われているときの、 わたしは死んだ ということは、イエス・キリストが十字架にかかって死なれたことを指しています。これによって、イエス・キリストは私たちの契約のかしらとして、私たちが受けなければならない「創造の契約」への違反がもたらすのろい、つまり、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わって受けてくださいました。ガラテヤ人への手紙3章13節には、 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。 と記されています。また、コリント人への手紙第二・5章18節ー21節には、 これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。 と記されています。 黙示録1章18節で、 わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。 と言われているときの、 わたしは・・・いつまでも生きている。 ということは、イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことに対する報いとして、栄光を受けて死者の中からよみがえられたことを指しています。これはただ単に、イエス・キリストが生き返ったということではありません。先ほどお話ししましたように、イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことによって「創造の契約」に約束されていた祝福としての、より豊かな栄光を獲得されたということです。 また、これは、強調形の「わたしは・・・である」で表されている、 わたしは・・・生きている者である。 ということをさらに説明するものです。 わたしは、「わたしはある」という者である。 という御名の神であられるイエス・キリストが、 わたしは・・・生きている者である。 とあかしされる方であるいうことが、私たち主の契約の民にとってどのような意味をもっているかが、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、明らかになったということです。 どういうことかと言いますと、すでにお話ししましたように、契約の神である主、ヤハウェが、 わたしは・・・生きている者である。 とあかしされる方であるいうこと自体は旧約聖書においても示されていました。けれども、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって私たち主の契約の民のために贖いの御業を成し遂げられたことによって、旧約聖書においては預言的な形で、その意味でおぼろげに示されていたことが明確な現実として示されるようになりました。イエス・キリストが、 わたしは・・・生きている者である。 とあかしされる方であるということは、ただご自身が「生きている者」であられるだけではないのです。 わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。 とあかしされる方として、私たちご自身の民の罪を完全に贖ってくださり、私たちを死と滅びから救い出してくださった上に、私たちをご自身の復活にあずからせてくださって、父なる神さまとのより豊かな栄光に満ちた愛の交わりに生きる者としてくださっている方であられるのです。 ですから、イエス・キリストの、 わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。 というみことばは、消極的には、イエス・キリストにおいて、死は完全に克服されており、その力を失ってしまっているということを意味しています。そればかりでなく、積極的には、も林によって脅かされることがない、より豊かなえ行こうにあるいのち、すなわち、永遠のいのちが現実になっているということを意味しています。 それで、私たちがイエス・キリストのうちにあるということについて、ローマ人への手紙6章4節ー5節には、 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。 と記されています。さらに、9節ー11節には、 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。 と記されています。 このように、イエス・キリストが強調形の「わたしは・・・である」で表されている、 わたしは・・・生きている者である。 とあかしされる方であられることが、さらに、 わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。 とあかしされていることから、思い出されるみことばがあります。それは、ヨハネの福音書11章25節ー26節に記されています、 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。 というイエス・キリストのあかしです。この、 わたしは、よみがえりです。いのちです。 というみことばは、やはり、強調形の「わたしは・・・である」で表されていて、イエス・キリストが、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という御名の神、契約の神である主、ヤハウェであられることを踏まえています。さらに、契約の神である主、ヤハウェであられるイエス・キリストが、 わたしは、よみがえりです。いのちです。 とあかしされる方であることが、私たちご自身の民にとってどのような意味をもっているかということが、それに続く、 わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。 という教えに示されています。 黙示録1章18節には、さらに、 わたしは・・・死とハデスとのかぎを持っている。 というイエス・キリストのあかしが記されています。 ここに出てくる「ハデス」はギリシャ語で、ヘブル語の「シェオール」に当たります。これは基本的に、「死んだ者が行く所」、「死者の領域」を表しますが、しばしば、それと関連するものとして「墓」を表します。黙示録では「ハデス」は常に「死」との組み合わせで用いられています(1章18節、6章8節、20章12節、14節)。 ここ1章18節に出てくる「死とハデス」が何であるかについての見方は二つに分かれています。 一つは、黙示録のここ以外の個所では「死とハデス」が人格化(擬人化)されているということに着目します。たとえば、6章7節、8節には、 小羊が第四の封印を解いたとき、私は、第四の生き物の声が、「来なさい」と言うのを聞いた。私は見た。見よ。青ざめた馬であった。これに乗っている者の名は死といい、そのあとにはハデスがつき従った。彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。 と記されています。このことから、このように人格化された「死とハデス」は、より具体的な存在、すなわち、罪とその結果である死をもって人を支配する悪しき勢力、悪霊たちを表していると主張されています。ウガリット神話では「死」を意味するモート、ギリシャ神話では「ハデス」が死者の領域を支配している神とされています。 この見方では、「死とハデスとのかぎ」とは、「死とハデス」という悪霊たちがもっている「かぎ」(複数形)ということになります。古代の文化では、地下の世界へのかぎを持っているのは、そこを支配しているハデス(ギリシャ神話)、プルート(ローマ神話)、アヌビス(エジプト神話)というような神々であるとされていました。東洋では閻魔でしょうか。 もう一つの見方は、この場合の「死とハデス」は人格化されたものではなく、「死の領域」や「死者の領域」のことであるというものです。この見方では、「死とハデスとのかぎ」とは、「死とハデス」という領域への「かぎ」であるということになります。 これら二つの見方をめぐっては、福音派の学者たちも意見が分かれています。中には、ここにはこの両方の意味があるとしている学者たちもいます。 問題は「かぎを持っている」ということです。これは、そのこと、あるいはその領域に対する支配権をもっているということを意味しています。古代の王宮では、かぎを持っているのは重要な役人で、王宮にやって来る人々が王の前に出るのを許可したり、許可しなかったりしました。 「死とハデス」を人格化して、これらが死者の領域へのかぎを持っているいう見方の問題は、聖書では「死とハデス」が人格化されている場合でも、それらが死者の領域のかぎを持っているという思想がないということです。 かりにこの見方を取るとしますと、少し厳密すぎるかも知れませんが、イエス・キリストの、 わたしは・・・死とハデスとのかぎを持っている。 というあかしのみことばは、本来、悪しき勢力である「死とハデス」がもっている死者の領域へのかぎを、イエス・キリストがもっている(あるいは、もつようになった)というような意味合いになってしまいます。聖書のみことばは、またユダヤ教の教えでも、死者の領域へのかぎをもっているのは、始めから終わりまで、神ご自身であるということを示しています。 それで、「死とハデス」は死者の領域を指していると理解した方がいいと思われます。 この時、ヨハネが牧会している小アジアにある「七つの教会」は、ローマ帝国からの迫害にさらされていました。そのローマ帝国の皇帝たちやその権威を帯びて小アジアを治めていた官憲たちは、自分たちこそがその支配下にある者たちの生殺与奪の権を持っていると思っていたことでしょう。しかし、それは地上的・肉体的なことでしかありません。また、彼らは殺すことはできても、生かすことはできません。実際、彼らはほかの人のいのちばかりか、自らのいのちを引き延ばすこともできません。そのローマ皇帝たちも、終わりの日には、歴史の主であられるイエス・キリストの御座の前でのさばきに服することになります。 ここで、イエス・キリストは、 わたしは・・・死とハデスとのかぎを持っている。 とあかししておられます。これによって、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という御名の神であられるイエス・キリストは、ただ、生きている者たちが活動しているこの地上の世界だけでなく、死者たちのいる領域をも治めている主権者であられることを示しておられます。 そればかりではありません。死者の領域を支配しているといっても、そこにいるすべての者を死のうちに閉じこめてしまうという支配の仕方もあります。けれども、 わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。 とあかししておられるイエス・キリストは、それとは違う権威を獲得してもっておられます。イエス・キリストは、ご自身の十字架の死による罪の贖いによって、私たちご自身の民を死と滅びの力から贖い出してくださり、ご自身の復活にあずからせてくださって、創造の御業において神のかたちに造られた時の状態よりさらに豊かな栄光に満ちたいのち、すなわち、永遠のいのちをもつ者としてくださっています。それによって、私たちを、父なる神さまとのより豊かな栄光にある愛の交わりに生きる者としてくださっています。 |
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