黙示録講解

(第150回)


説教日:2014年2月9日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章9節ー20節
説教題:栄光のキリストの顕現(51)


 黙示録1章17節後半ー18節には、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

という、イエス・キリストが黙示録の著者であるヨハネに語られたみことばが記されています。
 最初の、

 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。

というみことばは、原文のギリシャ語では、強調形の「わたしは・・・である」という言い方で表されています。これは、出エジプトの時代に、神さまがモーセに啓示してくださった、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という神さまの御名を背景として語られたものです。これによって、イエス・キリストは。ご自身が、この、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名の神であられることを啓示しておられます。
 出エジプト記3章13節ー15節では、この、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名は、「わたしはある」に短縮され、さらに3人称化されて「ヤハウェ」となっています。
 この、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名の根本には、神さまが何ものにも依存されることなく、永遠にご自身で存在される方であることがあります。そして、この御名は、神さまがお造りになった歴史的な世界の歴史の主として、いっさいの物事を治めておられる方であり、ご自身の契約に対して真実であり、契約において約束してくださったことを必ず実現し、完成してくださる方であることを意味しています。
 ヨハネは1章4節に出てきます「アジヤにある七つの教会」の牧会者でしたが、この時は、9節に記されていますように、ローマ帝国からの迫害を受けて、パトモスという島に流刑になっていました。自分の牧会する群れから切り離されてしまうということは牧会者にとって、まさに身を切られる思いのすることです。ヨハネは切実な思いで、一つ一つの群れを、その群れの主、教会のかしらであるイエス・キリストにお委ねして、とりなしの祈りをしていたことでしょう。そのヨハネにイエス・キリストがご自身を現してくださいました。1章10節ー13節には、

私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。

と記されています。先週はヨハネが聞いた声が言ったことに注目しましたが、ここで注目したいのは、ヨハネが最初に見たものが「七つの金の燭台」だったということです。20節では、この「七つの金の燭台」が「七つの教会」のことであると説明されています。ヨハネが見たといっても、この場合は、イエス・キリストが示してくださったものを見たということです。ですから、イエス・キリストはご自身の御姿をお示しになるより前に、ヨハネが牧会者として最も心にかけている「七つの教会」を示してくださいました。そして、ご自身がその「七つの教会」の「真ん中に」ご臨在してくださっていることをお示しになったのです。
 ヨハネはローマ帝国からの迫害を受けてパトモスに流刑になっていました。そのヨハネに、イエス・キリストがご自身の栄光の御姿を現してくださいました。それは、何よりも、イエス・キリストがヨハネとともにいてくださるということを意味していました。ヨハネは、その当時、最強の帝国であったローマ帝国の権威によって、遠くへと島流しになってしまっていますが、イエス・キリストは確かにヨハネとともにいてくださいました。しかも、イエス・キリストこそは、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名の神、契約の神である主、ヤハウェであられ、

 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。

という方として、ヨハネとともにいてくださいました。
 そのようにして、ヨハネにご自身の栄光の御姿を現してくださったイエス・キリストは、ヨハネが牧会している「七つの教会」の「真ん中に」ご臨在してくださっていたのです。パトモスにいたヨハネのいる所にご臨在されたイエス・キリストは、同時に、ヨハネが牧会する、小アジアにある「七つの教会」の「真ん中に」ご臨在しておられる方でした。

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名の神、契約の神である主、ヤハウェであられるイエス・キリストが、

 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。

という方として「七つの教会」の「真ん中に」ご臨在しておられたのです。
 このイエス・キリストは歴史の主として、ローマ帝国をも治めておられます。そればかりでなく、世界を制圧してさらにその勢力を拡大しようとの野望に燃えているローマ帝国に働きかけて、ヨハネやヨハネが牧会している「七つの教会」を迫害するよう仕向けている暗やみの主権者であるサタンの働きをも治めておられます。
 私たちの目から見ますと、ローマ帝国はすでに過去の帝国です。けれども、暗やみの主権者は過去の存在ではありません。エペソ人への手紙2章1節ー2節に、

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

と記されているときの、神の子どもたちのかつてのあり方は、新約聖書の時代だけでなく、人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後のあらゆる時代の人に当てはまり、終わりの日まで続いていきます。
 このように暗やみの主権者は、この世の国々が時代とともに過ぎ去っていっても、過ぎ去ることなくその支配を続けています。しかし、契約の神である主、ヤハウェであられ、ご自身のことを、

 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。

とあかししておられるイエス・キリストは、歴史の主として、その暗やみの主権者をも治めておられます。


 そうであるとしますと、一つの疑問が湧いてきます。それなら、どうして、歴史の主であられる神である主は、暗やみの主権者であるサタンが働くままにしておられるのか、サタンをさばいて、その働きを止めればいいではないかという疑問です。
 この問題につきましては、これまでもいろいろな機会にお話ししてきましたが、改めて、要点をまとめておきたいと思います。
 これはひとえに「最初の福音」によっています。神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人が、神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったとき、人は罪によってサタンと一つになってしまいました。主、ヤハウェを神としないことにおいて、サタンと思いを一つにするようになってしまいました。もし、そのような時に、神である主がサタンを最終的におさばきになって、サタンを滅ぼされていたとしたら、罪によってサタンと一つになってしまっていた人をも、サタンとともに滅ぼされたことでしょう。そうであるとしますと、創造の御業において、歴史的な世界をお造りになり、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を神のかたちに造られている人にお委ねになった神さまのみこころは実現しないことになってしまいます。言い換えますと、創造の御業において示された神さまのみこころを、サタンが一時的にではなく決定的に挫いてしまったということになってしまいます。もちろん、そうなっても、サタンは神さまのさばきを受けて滅ぼされてしまいます。それでも、創造の御業において表された神さまのみこころをめぐる霊的な戦いにおいては、サタンが勝利したことになります。
 けれども、契約の神である主、ヤハウェは、そのような状態になってしまったご自身の民を、再びご自身との愛にある交わりのうちに生きる者として回復してくださるというみこころを示されました。それが、創世記3章15節に、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

と記されています「蛇」へのさばきの宣告に示されています。神である主は、サタンが「」を誘惑するために用いた「蛇」をお用いになって、サタンへのさばきを宣告しておられます。皮肉なことに、サタンが用いた「蛇」は、神である主が執行されるサタンへのさばきを示すために、ちょうどよい器であったのです。
 この時、神さまは、ご自身が直接サタンに対するさばきを執行しないで、まず、「」と「おまえ」すなわち「蛇」の背後にいるサタンとの間に、また、「女の子孫」と「おまえの子孫」との間に「敵意」を置かれて、「」と「女の子孫」が、サタンとその子孫に敵対するようにされると宣言されました。これによって、神さまは「」と「女の子孫」をとおして、サタンとその子孫に対するさばきを執行するというみこころを示されました。
 「」と「女の子孫」がサタンとその子孫に敵対するようになるということは、霊的な戦いにおいて、「」と「女の子孫」が神である主の側につくようになるということを意味しています。このようにして、「」と「女の子孫」が神である主の民として回復されるようになります。これは主の民の救いを意味しています。それで、このサタンに対するさばきの宣告が、「最初の福音」と呼ばれるようになりました。
 そして、このサタンに対するさばきの宣告においては、

 彼は、おまえの頭を踏み砕く

と言われていますように、最終的には、「」と呼ばれている「女の子孫」のかしらである方がサタンに対するさばきを執行して、サタンを滅ぼすようになるということが示されました。この「女の子孫」のかしらである方が暗やみの主権の下に縛られているご自身の民を贖い出してくださる贖い主です。
 私たちは自分の罪に対するさばきを受けて滅びるべき者でした。その私たちには救われる権利があったのではありません。そればかりか、罪の暗やみに覆われてしまっていて、自分がさばきを受けて滅びるべき者であることさえ知りませんでした。それで、救いを願い求めることもありませんでした。神さまはそのような私たちを愛してくださり、一方的な恵みによって、私たちのために贖い主を約束してくださり、時いたって、贖い主としてご自分の御子イエス・キリストを遣わしてくださいました。
 このことから分かりますが、サタンに対するさばきが「女の子孫」のかしらである方によって執行されるようになったために、サタンに対するさばきが延期されました。それによって、この世界の歴史が続くようになりました。そして、この世界の歴史が続いている間に、福音のみことばに示された約束の贖い主を信じる信仰によって、契約の神である主、ヤハウェの民として回復される人々が起こされるようになりました。私たちもそのようにして主の契約の民として回復されています。しかし、その一方で、サタンに対するさばきが延期されたことによって、サタンは神さまに逆らって働くさらなる機会を得たことになります。
 これらのことから、先ほどの問題に対する答えが見えてきます。神さまがサタンの働きを止めてしまわれる時は、最終的にサタンをおさばきになって滅ぼされる時です。というのは、サタンは絶対的に堕落していて、ただ神さまに逆らうことを目的として働いています。それで、サタンは存在するかぎり、神さまに逆らって働き続けるからです。神さまが最終的にサタンをおさばきになって滅ぼされる時には、罪によってサタンと一つになってしまっている者たちも、その罪を最終的にさばかれることになります。ということは、その時には、福音のみことばが宣べ伝えられることも終わるということです。ですから、まだ神さまがサタンの働きを止めてしまわれないのは、まだ、福音のみことばを聞いて、そこにあかしされている贖い主を信じて救われ、神である主の民として回復される人々が残っているからです。

 このことと関連して思い出されるのは、終わりの日についてのイエス・キリストの教えを記しているマタイの福音書24章14節に記されている、

この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。

というみことばです。
 これは3節に、

 イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。

と記されていますように、イエス・キリストが弟子たちに教えられたことです。イエス・キリストは弟子たちに、終わりの日が来る前に、

 御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされる

ということを教えられました。もちろん、御国の福音を宣べ伝え、イエス・キリストとイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業をあかしするのは弟子たちです。しかし、この時、イエス・キリストの弟子たちは中央エルサレムから遠く離れたガリラヤ地方の出身者がほとんどである、小さな群れでした。しかも、やがてイエス・キリストはユダヤ当局者によって捕らえられ、ローマ帝国を代表する総督ピラトに引き渡され、十字架につけられて殺されるようになります。その時、弟子たちは散らされた羊たちのようになってしまいます。イエス・キリストの地上の生涯の最後の夜のことをしるしているマタイの福音書26章31節に、

そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる』と書いてあるからです。」

と記されているとおりです。福音を宣べ伝え、神さまがイエス・キリストをとおして成し遂げてくださった贖いの御業をあかしする弟子たちは、そのような頼りない群れであったのですが、イエス・キリストは彼らに、

 御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされる

と教えられました。この「御国の福音」の宣教とあかしは今日に至るまで連綿と続けられてきて、地理的にもはるかに遠くの地に住む私たちのところにまで届いています。
 さらに、これにはもう一つのことがかかわっています。

この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。

というイエス・キリストの教えは24章14節に記されていますが、その前の9節ー13節には、

そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

と記されています。
 ただ御国の福音を宣べ伝え、イエス・キリストとイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業をあかしする弟子たちの群れが頼りないだけではありません。その弟子たちが、苦しい目に会わせられ、殺され、「すべての国の人々に憎まれ」るというのです。このことが、ヨハネが牧会している「七つの教会」にローマ帝国による迫害の手が伸びてきたことに現れています。そこに暗やみの主権者の巧妙な働きがあることは容易に想像できます。
 このようなことを考えますと、御国の福音を全世界に宣べ伝え、すべての国民に、イエス・キリストとイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業をあかしすることは、弟子たちが自分の力でできることではありません。実際、それは、栄光のキリストが、御霊によって、弟子たちとともにいてくださって、弟子たちをとおしてなしてくださることです。マタイの福音書28章18節ー20節に、

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

と記されているとおりです。また、使徒の働き1章8節にも、

しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

というイエス・キリストの教えが記されています。弟子たちは聖霊に導かれ、聖霊の力によって、イエス・キリストとイエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業をあかしするのです。
 そして、そのようにして、福音の宣教によってイエス・キリストとイエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業をあかしするイエス・キリストの弟子たちは、厳しい迫害を受けるようになります。それは、サタンへのさばきの宣告として与えられた「最初の福音」において、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。

と言われていますように、神である主が「」と「おまえ」すなわちサタンとの間に、また、「女の子孫」と「おまえの子孫」との間に「敵意」を置かれたことの現れです。

 このようにして、霊的な戦いは終わりの日にまで続いていきます。けれども、御子イエス・キリストが十字架におかかりになって、私たちご自身の民の罪を全く贖ってくださったことによって、また、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださって、ご自身の民を復活のいのちに生きる者としてくださったことによって、霊的な戦いの様相は変わっています。というのは、先ほど引用しましたエペソ人への手紙1章1節ー2節に、

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

と記されていましたように、暗やみの主権者であるサタンが支配しているのは「自分の罪過と罪との中に死んでいた者」であり、「それらの罪の中にあってこの世の流れに従」って歩んでいる者たちであるからです。
 私たちはかつてはそのような者でした。けれども、福音のみことばをとおしてあかしされている、イエス・キリストとイエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりをもって成し遂げてくださった贖いの御業を信じたことによって、その罪を全く贖っていただいています。そして、コロサイ人への手紙1章13節ー14節に、

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。

と記されていますように、暗やみの主権の下から解放されて御子イエス・キリストの主権の下に移されています。そのために、黙示録12章10節で、

 私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者

と言われているサタンが、どんなに、私たちを神さまの御前で訴えても、

わたしは・・・生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。

とあかしされる主が、私たちの罪はすべてご自身の十字架において全く清算されており、私たちは贖われているということを宣言してくださいます。
 黙示録12章では、先ほどの「私たちの兄弟たちの告発者」のことを記している10節に続く11節には、

 兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。

と記されています。これは先週も取り上げたみことばですが、ここでは、霊的な戦いは「小羊の血と、自分たちのあかしのことば」によって勝利するものであることが示されています。「小羊の血」によってということは、言うまでもなく、イエス・キリストが十字架にかかって成し遂げてくださった罪の贖いにあずかることによってということです。そして、「自分たちのあかしのことば」によってということは、イエス・キリストとイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業をあかしすることによってということです。それは、「小羊の血」によって罪を贖っていただき、罪の自己中心性から解放していただき、御子イエス・キリストの復活にあずかって新しく生まれている者として、愛のうちを生きることに裏打ちされたあかしです。その愛は、基本的には、神である主への愛と信仰の家族の兄弟姉妹たちへの愛ですが、さらにそれは、敵をも愛し、自分たちを迫害する人々のためにとりなし祈ることに現れてきます。
 それは、私たちが自分の力でできることではありません。栄光のキリストが御霊によって私たちの間にご臨在してくださって、私たちを力づけ、私たちを導いてくださることによって私たちの現実になります。ですから、これによってあかしされるのはイエス・キリストの私たちへの愛であり、その愛によって備えられた救いの恵みです。
 すべてのことは、イエス・キリストが、私たちに対する愛によって、十字架の上で成し遂げてくださった贖いの御業によって備えられています。そして、イエス・キリストがまったくの恵みによって、私たちをご自身が成し遂げられた贖いの御業にあずからせてくださっています。ですから、私たちは、信仰によって、イエス・キリストの愛と恵みのうちにとどまり続けるだけでいいのです。その際に、私たちが心に刻んでおかなければならないのは、私たちが信仰によってイエス・キリストの愛と恵みのうちにとどまり続けることができるのも、それに先立って、イエス・キリストが、ご自身のことを、

わたしは・・・生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。

とあかしされる方として、御霊によって私たちの間に、また、私たちそれぞれのうちにご臨在してくださり、私たちを新しいいのち、復活のいのちに生かしてくださり、愛のうちを歩ませてくださっているからであるということです。
 このようにして、この方が私たちのうちにご臨在してくださっているなら、暗やみの主権者は私たちを迫害にさらしたり、誘惑にさらしたりしますが、私たちを損なうことはできません。
 ヨハネの手紙第一・5章18節には、

神によって生まれた者はだれも罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。

と記されています。
 ここにはいくつか説明が必要なことがありますが、今お話ししていることとのかかわりで注目したいのは、

神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。

という教えです。
 この場合の「神から生まれた方」とは、イエス・キリストのことです。また、「悪い者は彼に触れる」と言われているときの「悪い者」は暗やみの主権者であるサタンのことです。また「触れる」と訳されていることばは、この場合は、「悪い者」すなわちサタンが「触れる」ということで、そっとやさしく触れるということではなく、「損なう」、「致命的な傷を与える」ということを意味していると考えられます。これは霊的な戦いにおけることであって、私たちと御子イエス・キリストとの関係を損ない、私たちを滅びへと至らせることを指しています。これまで取り上げてきましたイエス・キリストの教えや黙示録のみことばに示されていますように、サタンはローマ帝国をも用いて神の子どもたちを迫害し、死にまで追いやることがあります。けれども、それによってさえ、私たち神の子どもたちを損なうことはできません。神さまの一方的な愛と恵みによって神の子どもとされている私たちを、父なる神さまと御子イエス・キリストの御手から奪い取ることはできないのです。ヨハネの福音書10章28節ー29節には、

わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。

と記されています。


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