黙示録講解

(第149回)


説教日:2014年2月2日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章9節ー20節
説教題:栄光のキリストの顕現(50)


 黙示録1章17節後半ー18節には、イエス・キリストが黙示録の著者であるヨハネに語られた

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

というみことばが記されています。
 最初の、

 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。

というみことばは、出エジプトの時代に、神さまがモーセに啓示してくださった、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という神さまの御名を背景として語られたものです。これによってイエス・キリストは。ご自身が、この、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名の神であられることを啓示しておられます。
 出エジプト記3章13節ー15節では、この、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名は、「わたしはある」に短縮され、さらに3人称化されて「ヤハウェ」となっています。
 この「ヤハウェ」という御名の由来となっている、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名の根本には、神さまが何ものにも依存されることなく、永遠にご自身で存在される方であることがあります。神さまは、そのような方として、創造の御業によって、この歴史的な世界のすべてのものを造り出し、存在させられた方です。そして、造られたすべてのものをご自身との契約の中にあるものとしてくださり、その契約に基づいて、始めから終わりまで、すべてのものを真実に支え、導いておられる方です。
 このようにして、イエス・キリストは、ここで、ご自身が、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名の神、すなわち、契約の神である主、ヤハウェであられることを啓示してくださっています。
 しかし、これは、単なるご自身についての知識を与えてくださるためのことではありません。
 イエス・キリストは、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名の神として、ヨハネにご自身の栄光の御姿を現してくださるとともに、イエス・キリストの栄光の御姿に接して「その足もとに倒れて死者のようになった」ヨハネを再び立ち上がらせてくださっています。そして、ヨハネに、

 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。

とあかししてくださいました。これによって、ご自身が「最初であり、最後であり、生きている」方として、ローマ帝国からの迫害を受けて、パトモスという島に流刑になっているヨハネにかかわってくださっていることを示しておられます。
 このように、イエス・キリストはヨハネに個人的にかかわってくださっているのですが、それで終わってはいません。イエス・キリストは19節に記されていますように、ヨハネに、

 そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。

と命じておられます。
 このことは、いくつかのことを意味していますが、ここでは二つのことを取り上げます。
 第一に、イエス・キリストは、契約の神である主、ヤハウェであられ、特に、この時には、

 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。

という方として、ヨハネに「今ある事、この後に起こる事」を啓示してくださっています。イエス・キリストは、

 わたしは、最初であり、最後である

という御名が示すように、この歴史的な世界の歴史を始められた方であり、終わらせる方ですし、その歴史の全体を治めておられる歴史の主です。契約の神である主、ヤハウェは、イザヤ書46章10節において、

 わたしは、終わりの事を初めから告げ、
 まだなされていない事を昔から告げ、
 「わたしのはかりごとは成就し、
 わたしの望む事をすべて成し遂げる」と言う。

と語っておられます。イエス・キリストはこの契約の神である主、ヤハウェであられます。それで、この時、ヨハネに「今ある事、この後に起こる事」を啓示してくださっているのです。
 第二に、イエス・キリストは、契約の神である主、ヤハウェであられ、特に、この時には、

 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。

という方として、この時、ヨハネに啓示された、「今ある事、この後に起こる事」を、必ず実現される方です。
 ここでイエス・キリストがヨハネに啓示された「今ある事、この後に起こる事」は、この黙示録に記されていることです。イエス・キリストがこれをことごとく成し遂げられるのは、契約の神である主、ヤハウェであられるイエス・キリストが、

 わたしは、最初であり、最後である

という御名が示す、歴史の主であられるからです。それだけでなく、ここでは、さらに、イエス・キリストが、

 わたしは・・・生きている者である

という御名の主であられるからであることが示されています。この、

 わたしは・・・生きている者である

という御名は、契約の神である主、ヤハウェが、人が考え出した偶像とは全く違う方であることを意味しています。契約の神である主、ヤハウェは、偶像のように物言わぬ神ではなく、歴史の主として、

 終わりの事を初めから告げ、
 まだなされていない事を昔から告げ

られる方であられること、さらに、偶像のように人に運ばれなければ移動することもできない神ではなく、永遠にご自身で存在し、創造の御業を遂行されてあらゆるものを存在させ、ご自身の契約に入れてくださり、その契約に基づいてすべてのものを真実に支え、導いてくださっています。このようにイエス・キリストは、

 わたしは・・・生きている者である

という御名の主として、ご自身がヨハネに啓示された「今ある事、この後に起こる事」すなわち黙示録に記されていること、特に、救いとさばきの御業を遂行され、ご自身の契約の民の救いをすべて実現し、完成へと至らせてくださいます。
 このようにして、イエス・キリストは、

 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。

とあかししてくださって、ご自身が契約の神である主、ヤハウェであられ、ご自身がヨハネに啓示してくださったことをすべて成し遂げてくださることを、ローマ帝国からの迫害を受けて、パトモスという島に流刑になっているヨハネにお示しになりました。


 けれども、これはヨハネだけに啓示されたのではありません。1章9節ー20節に記されている栄光のキリストの顕現の出来事において、ヨハネが最初に触れたのは、10節に記されています「ラッパの音のような大きな声」でした。そして、その声は、11節に記されていますように、

あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。

と命じました。19節に記されている、

そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。

というイエス・キリストの命令は、この11節に記されている命令を受けています。それで、イエス・キリストは、ヨハネが「見た事、今ある事、この後に起こる事」を書き記して、ヨハネが牧会している、小アジアにある「七つの教会」に送ることを命じていることになります。
 このように、栄光のキリストの顕現の出来事を記している9節ー20節では、その最初の部分と最後の部分が同じことを記しています。このように最初の部分と最後の部分が同じことを記す表現の仕方は「インクルーシオー」と呼ばれ、その最初の部分と最後の部分がたいせつなことであることを示しています。この場合は、イエス・キリストがその栄光の御姿をヨハネに現してくださったのは、ヨハネが牧会している「七つの教会」に、「今ある事、この後に起こる事」を、ヨハネを通して、啓示してくださるためであったことが示されています。
 その「七つの教会」には、ローマ帝国による迫害にさらされて苦しんでいる群れ、この世の繁栄から来る誘惑にさらされている群れ、福音を曲げるさまざまな教えを持ち込んでくる者たちに惑わされたり、そのような教えを排除しようとして苦労している群れがありました。しかも、牧会者であるヨハネはローマ帝国による迫害によってパトモスという島に流刑になっていました。
 そのような厳しい状況にあった「七つの教会」に対して、イエス・キリストは、ご自身がその「七つの教会」の、ペテロの手紙第一、5章4節のことばで言いますと、「大牧者」であられることを、牧会者であるヨハネを通して示してくださっています。そして、その「大牧者」であられるイエス・キリストが、ここで、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

と言われて、ご自身のことを啓示しておられます。
 ローマ帝国という、その時代の最強の帝国による迫害にさらされて苦しんでいる群れに対して、ご自身のことを、

 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。

とあかししておられるイエス・キリストは、そのローマ帝国さえも治めておられる歴史の主であられることを示しておられます。この後、ローマ帝国がどのようにご自身とその民に敵対して働くかを示しておられるだけでなく、ローマ帝国が、単なる血肉の戦いではなく、血肉を越えた暗やみの主権者の働きに、それと気づくこともなく、加担して働いていることを示しておられます。さらに、そのことのゆえに歴史の主であられる栄光のキリストのさばきにあって滅び去ることを示しておられます。
 そればかりでなく、イエス・キリストはローマ帝国からの迫害にさらされている主の契約の民を、その「大牧者」として支え、導いてくださって、ローマ帝国との血肉の戦いを越えて、暗やみの主権者に対して勝利を得させてくださることを示しておられます。
 それが霊的な戦いにおける勝利であることは、12章10節ー11節に、

そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。
 「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

と記されていることから分かります。ここで、

 私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者

と言われているのは、この前の9節で、

 この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇

と言われている暗やみの主権者であるサタンのことです。11節では、

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

と言われていて、霊的な戦いは「小羊の血と、自分たちのあかしのことば」によって勝利するものであることが示されています。
 また、イエス・キリストは、ローマ帝国が血肉の力である武力などをもって迫害してくることに対して、主の契約の民が「小羊の血と、自分たちのあかしのことば」によって応ずることによって、彼らがご自身の民として聖別されていたことを明らかにしてくださいます。具体的には、「小羊の血」によって罪を贖っていただき、罪の自己中心性から解放していただき、御子イエス・キリストの復活にあずかって新しく生まれている者として、マタイの福音書5章44節に記されています、

しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

という戒めにしたがって、愛をもって応答することによっています。それは、イエス・キリストご自身が、ヨハネの福音書15章18節ー19節に記されていますように、

もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。

と教えられたことです。イエス・キリストはこれに先立って、12節に記されていますように、

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

と教えておられます。イエス・キリストは私たちがご自身に敵対していたときに、私たちを愛してくださり、私たちのために十字架にかかって、そのようにご自身に敵対するという罪を贖ってくださいました。そして、ご自身の復活のいのちによって新しく生まれさせてくださったことによって、私たちのうちに復活のいのちの特質である愛を生み出してくださいました。「小羊の血と、自分たちのあかしのことば」と言われているときの、「自分たちのあかしのことば」は、イエス・キリストをあかしすることばのことです。そのあかしは、このような愛に裏打ちされているはずです。それは、まず、

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

と言われているように、信仰の家族の兄弟姉妹たちの間において最も豊かに現され、それが「迫害する者のために祈る」という形で現れてきます。

 小アジアにある「七つの教会」のうちでも特に厳しい迫害にさらされていたスミルナの教会に対して語られた「大牧者」であられるイエス・キリストのみことばを記している黙示録2章8節ー11節には、

また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。
「初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。『わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる――またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。』」

と記されています。
 10節では、

見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。

と言われています。これはローマ帝国による迫害が迫ってきていることを示しています。ローマ帝国といっても、実際には、その地方を治める働きをしていた官憲たち、私たちの社会で言えば警察官が、投獄という実際の働きをしています。ここでは、

 見よ。悪魔はあなたがたをためすために

と言われていますように、悪魔がこの迫害の究極的な原因であり、ローマ帝国をも用いていることが示されています。もちろん、ローマ帝国はこのことを知りません。彼らはクリスチャンたちを自分たちにとって「危険分子」と見なして、迫害しているのですが、そのように考えることも含めて、そこに悪魔が働いているということです。このことは、13章において、より大きな視野から示されるようになります。
 ここでは、

悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている

と言われています。「あなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを」ということは、信仰の家族の兄弟姉妹たちの一部が、見せしめのように迫害を受けることによって、その兄弟姉妹たちだけでなく、すべての人が試されるということです。同じ10節に記されている、

 死に至るまで忠実でありなさい。

というみことばは、それが死に至ることがあるということを示していて、その迫害の激しさを思わせます。確かに、見せしめとしての効果があるようです。このようにして、スミルナにある教会の信徒たちは試されることになります。
 この「あなたがたをためすために」ということはは直訳では「あなたがたがためされるため」です。ここで、「ためす」(「ためされる」)と訳されていることば(ペイラゾー)には、「試す」という意味とともに「誘惑する」という意味があります。サタンの意図としては「誘惑する」ことで、イエス・キリストが、

 死に至るまで忠実でありなさい。

と戒めておられるように、イエス・キリストに対する信仰を捨てさせることがその目的でしょう。
 しかし、その一方で、

 あなたがたは十日の間苦しみを受ける。

とも言われています。このことばについてはいろいろなことが言われていますが、結論として、これは、

 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。

とあかししておられるイエス・キリストが、歴史の主として、ローマ帝国による迫害をも治めておられることを示しています。スミルナにある教会に対する語りかけにおいて、イエス・キリストはご自身のことを、

 初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方

として示しておられます。これは、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

というイエス・キリストのみことばを受けています。そのイエス・キリストの意図からしますと、これは新改訳の「ためすために」ということで、それによって、スミルナにある教会の信徒たちが確かにご自身のものであることを明らかにしてくださり、彼らがそこで、

死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。

と約束されている「いのちの冠」を受けるようにしてくださることにあります。

 ここでは、同じローマ帝国による迫害をめぐって、悪魔が意図していることと、イエス・キリストが意図しておられることが対立しています。しかし、同じレベルでぶつかっているのではありません。

 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。

とあかししておられるイエス・キリストは、歴史の主として、ローマ帝国だけでなく、それをそそのかしている悪魔さえも治めておられて、ご自身のみこころを実現してくださいます。
 このことを踏まえたうえで、ここで問題になっていることを見てみましょう。悪魔としては、スミルナにある教会の信徒たち、さらには、小アジアにある「七つの教会」の信徒たち、ひいては、小アジアにある「七つの教会」が表象的に表している、あらゆる時代の教会の信徒たちに、肉体的な死こそ最も恐るべきものであるという思いを植え付けようとします。ヘブル人への手紙2章14節ー15節には、部分的な引用ですが、イエス・キリストは、

その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださる

と記されています。悪魔は「死の力を持つ者」で「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を」支配しています。
 これに対して、イエス・キリストは、ご自身の十字架の死によって私たちの罪を贖ってくださり、私たちを私たちの罪に対するさばきとしての死と滅びから救い出してくださいました。また、「悪魔という、死の力を持つ者」の支配の下から解放してくださいました。これによって、肉体的な死はもはや滅びへの入口ではなくなりました。このヘブル人への手紙2章14節ー15節では、イエス・キリストが「悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし」と言われていますが、これは最終的に実現することです。ここでは、そのことを見据えつつも、むしろ現在の状況を記していると考えられます。「滅ぼし」と訳されていることばには「無力にする」、「役に立たなくする」という意味もあります。実際に、悪魔は神の子どもたちを誘惑して、イエス・キリストに対する信仰を捨てさせようとして働いています。そのために、人々を「一生涯死の恐怖につながれて奴隷と」しています。肉体的な死こそが最も恐ろしいものであり、その死ですべてが終わると言うことを信じ込ませていますし、神の子どもたちにも、そう信じ込ませようとしています。
 マタイの福音書10章16節ー42節には、ご自身の弟子たちが迫害にさらされるようになることを教えておられるイエス・キリストのみことばが記されています。その中の28節には、

からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

という教えが記されています。真に恐るべき方は「たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方」です。イエス・キリストはご自身の十字架の死によって、この方を恐怖をもって恐れることから、私たちを解放してくださり、この方を愛と敬いをもって畏れて礼拝する者としてくださいました。このようにして、イエス・キリストは、私たちを「死の力を持つ者」で「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を」支配している悪魔の支配から解放してくださいました。コロサイ人への手紙1章13節ー14節に、

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。

と記されているとおりです。
 今日、この社会に生きている私たちは、ローマ帝国からの迫害のような迫害にさらされることはありません。けれども、暗やみの主権者はさまざまなことを用いて、肉体的な死こそ最も恐ろしいものであるという思いを私たちに植え付けて、私たちを死の恐怖で縛ろうとします。そして、造り主である神さまと、神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストへの信仰を捨てるよう誘惑します。しかし、

わたしは・・・生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

と言われる方は、十字架の上で私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けられ「ゲヘナで滅ぼ」されることに相当する恐ろしさを味わい尽くされました。そして、栄光を受けて死者の中からよみがえられて、私たちのために永遠のいのちの源となられました。私たちは私たちを誘惑する試練の中で、この方に近づき、ますます切にこの方にすがるようにと招かれ、導かれています。


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