黙示録講解

(第148回)


説教日:2014年1月26日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章9節ー20節
説教題:栄光のキリストの顕現(49)


 黙示録1章17節後半ー18節に記されています、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

という、イエス・キリストがヨハネに語られたみことばについてのお話を続けます。
 今お話ししているのは、18節に記されています、

生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

というみことばについてです。
 最初の、「生きている者である」というみことばは、その前に記されています、「わたしは、最初であり、最後であり」というみことばとつながって、

 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。

という一つの文となっています。そして、この、

 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。

というみことばは、ギリシャ語では、強調形の「わたしは・・・である」という言い方で表されています。このイエス・キリストのみことばは、出エジプト記3章13節ー15節に記されています、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という神さまの御名を背景として語られています。出エジプト記3章13節ー15節では、この御名は、「わたしはある」に短縮され、さらに3人称化されて「ヤハウェ」となっています。
 イエス・キリストは、

 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。

と言われて、ご自身が、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名の神、すなわち、契約の神である主、ヤハウェであられることを示しておられます。
 この、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名の根本には、神さまが何ものにも依存されることなく、永遠にご自身で存在される方であることがあります。神さまは、そのような方として、創造の御業によって、この世界のすべてのものを造り出し、存在させられた方です。そして、それゆえに、すべてのものを真実に支え、導いておられる方です。
 このことを黙示録に記されていることに照らして見てみたいと思います。そのために取り上げたいのは、4章11節に記されていますみことばです。そこには、

主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。

という、天における「二十四人の長老」の讃美のことばが記されています。ここでは、

 主よ。われらの神よ。

と言われていて、「」と「われらの神」の組み合わせがあります。直訳では、

 主そして私たちの神よ。

となります。このような形での「」と「私たちの神」の組み合わせは、聖書の中にはほかに例がないようですが、旧約聖書には「私たちの神、主」ということばが(私が調べたかぎりでのことですので、すべてに当たれていないかもしれませんが)、約85回ほど出てきます。そのうち、いくつかの例外を除いて、「」は新改訳では太字の「」で表されている契約の神である主、ヤハウェです。それで、ここ黙示録4章11節において、「私たちの神」と組み合わされて出てくる「」も太字の「」、すなわち契約の神である主、ヤハウェであると考えられます。そして、この方、主、ヤハウェが、

あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのです

と讃えられています。
 また、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名は、神さまがご自身の契約に対して真実な方であり、契約において約束してくださったことを、必ず実現してくださり、完成へと至らせてくださる方であることを意味しています。
 このことも黙示録に記されていることに照らして見てみたいと思います。
 先ほど引用しました4章11節に記されています「二十四人の長老」の讃美は、それに先だって8節に記されている「四つの生き物」の讃美に呼応しています。その「四つの生き物」は、

聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方。

という讃美をささげています。ここには、

 昔いまし、今いまし、後に来られる方

という御名が出てきます。この御名から、なんとなく、この方に時間の経過があるように思われますが、実際には、新改訳の「」や「」や「後に」ということばは原文にはありません。この御名を直訳しますと、

 おられた方、そして、います方、そして、来られる方

となります。この場合の「います」と「来られる」は現在分詞で表されていて常にそうであることを表しています。このことは、この方が、常に、

 おられた方、そして、います方、そして、来られる方

であられることを意味しています。つまり、この方は時間の流れの中にあって、時間の流れとともに経過していかれる方ではなく、時間を超えた方、すなわち永遠の存在であられることを意味しています。
 けれども、この方が永遠の存在であられることだけを言い表すのであれば、

 昔いまし、今いまし、後に来られる方

というような言い方をする必要はありません。単純に「永遠の神」というような言い方ができます。その例は、創世記21章33節、イザヤ書40章28節などに見られます。また、詩篇9篇7節、90篇2節、エレミヤ書10章10節なども参照してください。ここで、わざわざ、

 昔いまし、今いまし、後に来られる方

という言い方で表されているのは、この方が永遠の主であられるということとともに、この歴史的な世界と深くかかわっておられることを示しているからです。また、この御名は、1章4節と8節に、

 今いまし、昔いまし、後に来られる方

という言い方で出てきます。特に、1章8節では、

神である主、今いまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者

と言われていて、4章8節の、

 神であられる主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方。

という「四つの生き物」の讃美のことばと深く関連しています。この1章4節と8節の、

 今いまし、昔いまし、後に来られる方、

という御名では、4章8節の、

 昔いまし、今いまし、後に来られる方。

という御名の最初の二つのことばの順序が逆転していて、「今いまし」(ホ・オーン)が「昔いまし」(ホ・エーン)の前に来ています。これによって「今いまし」(ホ・オーン、直訳「います方」)を強調しています。このこと、すなわち「今いまし」(直訳「います方」)が強調されていることは、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という神さまの御名が、そのギリシャ語訳である七十人訳では、強調形の、

 わたしは在る者(ホ・オーン)である。

となっていることを背景としていると考えられます。
 これらのことから、

 昔いまし、今いまし、後に来られる方

という御名は、契約の神である主、ヤハウェが歴史の主であられ、ご自身の契約において約束されたことを必ず成就され、完成へと至らせてくださることを示しています。


 このようなことを踏まえて、改めて4章8節ー11節に記されていることを見てみましょう。そこには、

この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。
 「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方。」
また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。
「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」

と記されています。
 先ほどお話ししましたように、「四つの生き物」と「二十四人の長老」による二つの讃美においては、契約の神である主、ヤハウェが讃えられています。そして、ここでは、そのようにして讚えられているのは「御座に着いている方」であると言われています。そして、すでにお話ししたことしか取り上げられませんが、8節に記されています、

聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方。

という讃美では、契約の神である主、ヤハウェが歴史の主であられ、ご自身の契約において約束されたことを必ず成就され、完成へと至らせてくださるということが告白されています。また、11節に記されています、

主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。

という讃美では、契約の神である主、ヤハウェが、ご自身の主権的なみこころにしたがって、創造の御業を遂行され、すべてのものを存在させられた方であり、したがって、すべてのものを真実に支え続けてくださっておられる方であることが告白されています。
 ここで注目したいのは、9節ー10節では、

また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。

と言われていることです。ここでは、「四つの生き物」と「二十四人の長老」による二つの讃美において讃えられている契約の神である主、ヤハウェについて、それぞれの節で、「御座に着いている方」、そして、「永遠に生きておられる方」と言われています。ですから、「御座に着いている方」にして「永遠に生きておられる方」とは契約の神である主、ヤハウェです。
 ギリシャ語の順序では、9節においても10節においても、最初に「御座に着いている方」が出てきます。これは、2節ー3節に、

たちまち私は御霊に感じた。すると見よ。天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。

と記されていることを受けています。それで、9節ー10節では、神さまが天の御座に着座される方であられ、究極的な主権者、王の王、主の主であられることを示しています。
 ここでは、「御座に着いている方」のことが、さらに「永遠に生きておられる方」と言われています。これは、その方が永遠の神であられることを示しています。ここで「永遠に生きておられる方」と言われているときの「永遠に」と訳されていることばは、それ自体で「永遠」を表すことば(アイオーン)の複数形をさらに重ねるという言い方(エイス・トゥース・アイオーナス・トーン・アイオーノーン、直訳「永遠の永遠にまで」)で、「永遠に」ということを最も強い形(最上級の強調形)で表しています。ヨハネの福音書6章51節で、

わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。

と言われているときの「永遠に」と訳されていることば(エイス・トン・アイオーナ)は単数形の「永遠」を表すことば(アイオーン)一つで表されています。
 この「永遠に生きておられる方」という御名は、ダニエル書4章34節と12章7節に出てきます「永遠に生きる方」という御名を背景としていると考えられています。ただし、ダニエル書でも「永遠に」ということばが、先ほどの最上級の強調形で表されているわけではありません。4章34節ー35節を見てみましょう。そこには、

その期間が終わったとき、私、ネブカデネザルは目を上げて天を見た。すると私に理性が戻って来た。それで、私はいと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえた。
 その主権は永遠の主権。
 その国は代々限りなく続く。
 地に住むものはみな、無きものとみなされる。
 彼は、天の軍勢も、地に住むものも、
 みこころのままにあしらう。
 御手を差し押さえて、
 「あなたは何をされるのか」と言う者もいない。

と記されています。これはバビロンの王ネブカデネザルが自らの権力と栄華のことで高ぶったために、神さまのさばきを受けて、へりくだらされたときのことを記しています。ネブカデネザルはそのさばきの期間が終わったときに、天を仰いで、「御座に着いている方」に当たる「いと高き方」を「永遠に生きる方」としてほめたたえています。そして、この方の主権が「永遠の主権」であり、ご自身のみこころのままをなさること、そして、

 御手を差し押さえて、
 「あなたは何をされるのか」と言う者もいない。

と言われていますように、それを押しとどめことができる者はいないということを告白しています。
 これはネブカデネザルという異邦人の王の讃美です。けれども、2章に記されていますように、彼はすでにダニエルをとおして、天の神に触れていますし、その預言のことばに触れています。また、3章に記されていますように、燃える炉の中のシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを守られた神をも信じるようになりました。そして、この4章に記されているさばきの時を通して、さらに天の神のことを悟るようになりました。このようにして、神さまがネブカデネザルを導いておられました。そのことの中で、この讃美が生み出されています。また、もしこの讃美が意味のないものであったなら、このように、聖書に記録されることはなかったことでしょう。
 いずれにしましても、黙示録4章8節ー11節に記されていることは、黙示録の読者である「アジヤにある七つの教会」の信徒たちに対しては、彼らを迫害し苦しめているローマ帝国の皇帝さえも、この「御座に着いている方」にして「永遠に生きておられる方」の主権の下にあることを示しています。「アジヤにある七つの教会」の信徒たちが、この、「御座に着いている方」にして「永遠に生きておられる方」のことをダニエル書を背景として理解したなら、いにしえの大帝国バビロンに当てはまったことは、自分たちを支配しているローマ帝国にも当てはまるということを理解したことでしょう。
 今日では、そのローマ帝国もはるか昔に「御座に着いている方」にして「永遠に生きておられる方」の御前に滅び去ってしまっていますので、そのことは、私たちには、さらに理解しやすいこととなっています。ただ問題は、私たちがそれを今日の自分たちの状況に当てはめて理解し、受け止めることができるかということです。私たちは、この世の国々がますます混迷の度を深めて、そのとどまるところを知らないかのように巨大なこの世の流れを生み出しつつ、自ら流されて行くような時代に生きています。そのような恐るべき時代の流れの中にありながら、なおも、私たちは「御座に着いている方」にして「永遠に生きておられる方」を仰いで、この方を礼拝しています。

 黙示録4章8節ー11節に記されている、

この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。
 「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方。」
また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。
「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」

というみことばに出てくる、「御座に着いている方」にして「永遠に生きておられる方」とは、父なる神さまのことです。そのことは、続く5章の6節ー7節に、

さらに私は、御座――そこには、四つの生き物がいる――と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。

と記されていて、「御座にすわる方」と「ほふられたと見える小羊」すなわちイエス・キリストが区別されていることから分かります。
 とはいえ、ここには注目すべきことがあります。7節には、

 小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。

と記されています。これは、「ほふられたと見える小羊」が1節に「七つの封印で封じられていた」と言われている「巻き物」の「七つの封印」を解くことができる方として、その「巻き物を受け取った」ということです。5節に、

すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」

と記されているとおりです。この「ユダ族から出た獅子、ダビデの根」は旧約聖書の預言のみことばを背景にしているメシヤを表す表象です。引用はいたしませんが、「ユダ族から出た獅子」は創世記49章9節ー10節に記されているみことばを背景としており、「ダビデの根」はイザヤ書11章1節と10節に記されているみことばを背景としています。この方が「勝利を得た」ということは、イエス・キリストがその十字架の死によってご自身の契約の民の罪を完全に贖って、暗やみの主権者の権威と、コリント人への手紙第一・15章26節で「最後の敵」と言われている死の力を無効にし、栄光を受けて死者の中からよみがえり、父なる神さまの右の座に着座されたことを指しています。
 黙示録では、この後、6章から、小羊が巻物の封印を解くたびに、終わりの日に至るまでの、神である主の契約に基づくご計画が実行に移され、救いとさばきの御業の歴史が展開して行くようになります。「ほふられたと見える小羊」こそが、歴史の主として終わりの日に至るまでの、神である主の契約に基づくご計画にしたがって、救いとさばきの御業を遂行される方です。
 この意味で、5節で、

 ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得た

と言われていることは、1章18節で、イエス・キリストが、

 わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている

と言われたこととつながっています。
 この、

 わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。

というイエス・キリストのみことばは、ただ単に、

 わたしは死んだが、見よ、よみがえった。

というように、過去の出来事のことを述べているのではありません。確かに、イエス・キリストは今から2千年前に、私たちご自身の契約の民のために十字架にかかって死んでくださって、私たちの罪を完全に贖ってくださいました。そして、その十字架の死に至るまでの従順に対する報いを受けて、栄光を受け、死者の中からよみがえられました。これによって、私たち主の契約の民のための贖いの御業は成し遂げられました。
 けれども、イエス・キリストは過去の人ではありません。歴史の流れとともに過去へと追いやられて、今は、人々の記憶の中にしかないという方ではありません。「ほふられたと見える小羊」であられるイエス・キリストは、父なる神さまの右の座に着座された歴史の主として終わりの日に至るまでの、神である主の契約に基づくご計画にしたがって、救いとさばきの御業を遂行しておられます。
 イエス・キリストは、

 わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。

と言われました。この、

 いつまでも生きている

と言われているときの「いつまでも」と訳されていることばは、先ほどお話ししました4章9節ー10節のそれぞれの節で「永遠に生きておられる方」と言われているときの「永遠に」と訳されていることばと同じことば(エイス・トゥース・アイオーナス・トーン・アイオーノーン、直訳「永遠の永遠にまで」)です。これは「永遠に」ということを最も強く言い表しています。
 すでに繰り返しお話ししてきましたように、黙示録では父なる神さまに当てはめられる御名が、そのままイエス・キリストに当てはめられていることがよく見られます。ヨハネはイエス・キリストが、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名の神、すなわち、契約の神である主、ヤハウェであられることを、そこかしこで示しています。もちろん、それは、ヨハネが受けたイエス・キリストご自身の啓示に基づいています。
 今日これまでお話ししてきたことは、その一つの例ですが、注目に値することがあります。それは、黙示録の中では、この1章18節において、イエス・キリストがご自身のことを、

 わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。

とあかしされたことが、「生きている者」あるいは「永遠に生きておられる」ということばが最初に当てはめられている事例であるということです。そして、この後、先ほど取り上げました4章9節ー10節において、「永遠に生きておられる」ということばが「御座に着いている方」すなわち父なる神さまに当てはめられています。ですから、黙示録の記述の流れの中では、「永遠に生きておられる」ということは最初にイエス・キリストに当てはめられているということです。それは1章の段階で父なる神さまへの言及がないからではありません。先ほど引用しました、1章4節と8節の、

 今いまし、昔いまし、後に来られる方、

という御名は父なる神さまに当てはめられていますから、1章において父なる神さまの御名への言及があります。これによって、「ほふられたと見える小羊」であられるイエス・キリストが永遠に、文字どおり「永遠の永遠にまで」生きておられる方であることが強調されています。

 そうであるとしますと、先ほど引用しました、ダニエル書4章34節ー35節に記されています、ネブカデネザルの、

 その主権は永遠の主権。
 その国は代々限りなく続く。
 地に住むものはみな、無きものとみなされる。
 彼は、天の軍勢も、地に住むものも、
 みこころのままにあしらう。
 御手を差し押さえて、
 「あなたは何をされるのか」と言う者もいない。

という讃美は「ほふられたと見える小羊」であられるイエス・キリストにも当てはまります。イエス・キリストは歴史の主であられ、その主権は「永遠の主権」であり、ご自身のみこころのままをなさるり、それを押しとどめことができる者はいません。
 先ほどは、私たちは、この世の国々がますます混迷の度を深めて、そのとどまるところを知らないかのように巨大なこの世の流れを生み出しつつ、自ら流されて行くような恐るべき時代の流れの中に生きているということをお話ししました。また、それでもなお、私たちは契約の神である主、ヤハウェを信じて、この方を礼拝しているということをお話ししました。さらに、私たちそれぞれが、この世の人生の歩みの中で、私たちも含めて、人の罪がもたらした苦しみや悩み、痛みと悲しみを味わわなければなりません。けれども、そのような中でなおも、

 わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。

とあかしされた主イエス・キリストを信じて、主を礼拝し讃えつつ、望みのうちを歩んでいます。
 それは、「ほふられたと見える小羊」であられるイエス・キリストが私たちの間に実現してくださったことです。黙示録5章9節ー10節には、「ほふられたと見える小羊」が巻物を受け取られたときに、「四つの生き物と二十四人の長老」が「新しい歌を歌って言った」ことが記されています。彼らは、

あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。

と告白して「ほふられたと見える小羊」を讃えました。この天における讃美で告白されている祝福にあずかっている私たち自身も、「ほふられたと見える小羊」の愛と恵みを讃えて、父なる神さまにご栄光を帰します。


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