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説教日:2014年3月16日 |
このことには、目的があります。その目的は、七つの教会のそれぞれに対して語られたみことばの最後に約束されています祝福に、七つの教会のすべてをあずからせてくださることです。 七つの教会のそれぞれに対して語られたみことばには、それぞれに異なった祝福が約束されています。けれども、その約束のみことばの前か後には、必ず、 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。 というみことばが記されています。注意したいのは、「御霊が諸教会に言われること」というように、それがそこで取り上げられている一つの教会だけでなく、「諸教会に」対して語られているということです。七つの教会のそれぞれに対して語られたみことばには、それがその他の6つの教会に対しても語られているという面があります。それは、それぞれの教会が他の教会の実情と課題を知って、お互いのために執り成し祈り合うためにも必要なことです。またそれは、特に、この、 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。 というみことばとともに語られている祝福の約束に当てはまることです。 ここで、それぞれの教会に約束されている祝福を見てみましょう。エペソにある教会へのみことばの中で語られているのは、2章7節に記されています、 勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。 という祝福です。スミルナにある教会へのみことばの中で語られているのは、2章11節に記されています、 勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。 という祝福です。ペルガモにある教会へのみことばの中で語られているのは、2章17節に記されています、 わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。 という祝福です。テアテラにある教会へのみことばの中で語られているのは、2章26節ー28節に記されています、 勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。また、彼に明けの明星を与えよう。 という祝福です。サルデスにある教会へのみことばの中で語られているのは、3章5節に記されています、 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。 という祝福です。フィラデルフィヤにある教会へのみことばの中で語られているのは、3章12節に記されています、 勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。 という祝福です。そして、ラオデキヤにある教会へのみことばの中で語られているのは、3章21節に記されています、 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。 という祝福です。 イエス・キリストは、七つの教会のそれぞれへの語りかけにおいて、 わたしはあなたの・・・を知っている と言って語りかけ始めておられます。そして、それぞれの教会の実情に従って、賞賛されるべきことを指摘して励ましておられますし、非難されるべきことを指摘して、悔い改めを求めておられます。それは、イエス・キリストが、ご自身のことを、 わたしは、最初であり、最後であり、 生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。 とあかししておられる方、すなわち、契約の神である主、ヤハウェであられ、歴史の主として、ご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、七つの教会を治めてくださり、これらの祝福にあずからせてくださるためのことです。しかも、いま引用しました七つの教会のそれぞれに語られたみことばにおいて約束されています七つの祝福のすべてに、七つの教会のそれぞれをあずからせてくださるのです。 イエス・キリストは、それらの祝福にあずかるのは「勝利を得る者」であると言っておられます。けれども、その勝利は血肉の力によって得られるものではありません。イエス・キリストが、十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって、七つの教会とそれに属する一人一人を治めてくださるので、勝利が得られるのです。 イエス・キリストは七つの教会のうち、スミルナにある教会とフィラデルフィヤにある教会以外の5つの教会に対して、非難されるべきことを指摘して、悔い改めを求めておられます。けれども、イエス・キリストが御霊によって、それらの教会に、自らのうちにある非難されるべきことを悟らせてくださらなければ、そして、それを悔い改めようとする意志を与えてくださらなければ、それらの教会は真に悔い改めることはできません。言い換えますと、5つの教会に対して、非難されるべきことを指摘して、悔い改めを求めておられるイエス・キリストは、御霊によって、それぞれの教会とそれに属している一人一人に、自らのうちにある非難されるべきことを悟らせてくださり、そのことを悲しみつつ悔いる心を与えてくださり、悔い改へと導いてくださるのです。コリント人への手紙第二・7章10節には、 神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。 と記されています。ここで、「悔いのない、救いに至る悔い改め」ということばは分かりにくいかも知れません。言うまでもなく、「救いに至る悔い改め」には罪を悔いることがないという意味ではありません。いろいろな考え方がありますが、結論的には、 神のみこころに添った悲しみは・・・救いに至る悔い改めを生じさせます ということがあり、そのように悔い改めたことを悔いることはないということです。なぜなら、神さまのみこころに沿って罪を悲しみ、悔い改めたことによって、救いへと導き入れられるからです。 また、イエス・キリストは賞賛されるべきことを示して、励ましておられますが、その励ましも、御霊によって初めて、真に力ある励ましとなります。 このようにして、イエス・キリストは、七つの教会のすべてを、約束されている祝福にあずかるものとしてくださるのです。 この場合の、七つの教会の「7」は完全数で、七つの教会は歴史をとおして地上に存在しているすべての時代の、すべての教会を表象的に表しています。それで、このことは、今日の私たちにも、そのまま当てはまります。 お気づきのように、いま引用しました七つの教会のそれぞれに対して与えられている祝福の約束は、すでに実現し始めているものもありますが、その最終的な完成は、終わりの日に再臨されるイエス・キリストが、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、この天地を再創造されて、最初の創造の御業において造り出されたときの状態よりも栄光あるものとされる時にもたらされるものです。その時には、私たちもイエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかり、イエス・キリストの栄光のかたちに似た者として造り変えられます。ヨハネの手紙第一・3章2節に、 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。 と記されているとおりです。 このことが実現するときに、私たちは七つの教会のそれぞれに対して約束されている祝福のすべてに完全にあずかるようになります。そして、そのことは、父なる神さまのみこころです。それが父なる神さまのみこころであることは、ヨハネの福音書6章39節ー40節に記されています、 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。 というイエス・キリストの教えに示されています。 終わりの日にイエス・キリストが私たち一人一人をよみがえらせてくださるとき、「私たちはキリストに似た者と」なります。そして、七つの教会のそれぞれに対して約束されている祝福のすべてに完全にあずかるようになります。イエス・キリストは私たちをこのような祝福にあずからせてくださるために、私たちのことを、また、私たち一人一人のことをつぶさに知ってくださっています。 エペソにある教会への語りかけにおいてイエス・キリストは、 わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている。 と言っておられます。この場合の、「行い」と「労苦」と「忍耐」は、それぞれが独立しているのではなく、新改訳の訳からも分かりますが、「あなたの行い」と「あなたの労苦と忍耐」に分けられています。ここで、イエス・キリストは基本的に、 わたしは、あなたの行い・・・を知っている。 と言っておられて、「あなたの行い」をさらに説明して「あなたの労苦と忍耐」と言っておられると考えられます。[注 この場合の「あなたの行いと」の「と」訳されている接続詞カイは「説明のカイ」となります。]つまり、イエス・キリストは、エペソにある教会の信徒たちの「行い」には大変な「労苦と忍耐」がともなっていることを知っておられるということです。 ここでイエス・キリストが、 わたしは、あなたの行い・・・を知っている。 と言っておられるときの「行い」は、私たちが普通に考えている行いと少し違っています。私たちは私たちの能力の限界のためにほかの人々の行いのほんの一部、しかも、ほとんどの場合、表面的なことしか知ることができません。さらに、その行いを評価するときには、自己中心的な尺度に従って評価しますので、さまざまな誤解が生じてきます。ほかの人のしていることを誤解するだけではなく、自分のしていることは正しいと誤解しがちでもあります。箴言21章2節に、 人は自分の道はみな正しいと思う。 しかし主は人の心の値うちをはかられる。 と記されています。また、ルカの福音書16章15節には、イエス・キリストの教えを聞いて、イエス・キリストをあざ笑っていたパリサイ人たちに対するイエス・キリストの、 あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられるものは、神の前で憎まれ、きらわれます。 という教えが記されています。私たちはこのイエス・キリストの教えを自分には関係がないとして済ますことはできません。 まことの神であられ、無限、永遠、不変の栄光の主であられるイエス・キリストには、被造物である人間にある限界や罪が生み出す自己中心的な歪みがまったくありません。ヨハネの福音書2章24節ー25節には、 しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。 と記されています。 イエス・キリストはエペソにある教会の信徒たちの「行い」の結果を見ておられます。それは、2章2節前半に、 わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている。 と言われていることに、さらに続く説明である2節後半ー3節に、 また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。 と記されていることから分かります。けれども、イエス・キリストはエペソにある教会の信徒たちの行いの結果だけを見てはおられません。彼らの「労苦と忍耐」にも目を留めて評価しておられます。イエス・キリストは私たちの内にある思いも含めて、私たちのすべてを知ってくださっています。ですから、イエス・キリストが、 わたしは、あなたの行い・・・を知っている。 と言われるとき、イエス・キリストは私たちの外に現れた「行い」だけでなく、それが行いとなって現れるようになるまでの私たちの思いや動機や目的のすべてをご存知であられます。 けれども、このことは私たちを恐れさせないでしょうか。私たちの内にはなおも罪の性質があり、私たちは思いとことばと行いにおいて罪を犯してしまう者です。私たちは主の御前に立ちえませんし、主に向かって顔を上げることもできないと感じるほかはありません。 詩篇130篇3節には、 主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、 主よ、だれが御前に立ちえましょう。 と記されています。確かに、主が私たちの「不義に目を留められるなら」私たちは主の御前に立つことができません。 けれども、続く4節には、 しかし、あなたが赦してくださるからこそ あなたは人に恐れられます。 と記されています。これは、出エジプトの時代に、主がご臨在されるシナイ山のふもとでイスラエルの民が金の子牛を造って、これを契約の神である主、ヤハウェであるとして拝んだ時に、主がモーセのとりなしを受け入れてくださって、イスラエルの民を赦してくださったことを思い起こさせます。その時、主はモーセの願いに答えてくださって、ご自身の栄光の御臨在の御許からの宣言によって、ご自身がどなたであるかをモーセにお示しになりました。出エジプト記34章5節ー6節には、 主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主の名によって宣言された。主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」 と記されています。主がこのように、 あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す 方であられるので、その恵みにあずかっている私たちは主の御前に立つことができるのです。 けれども、詩篇130篇4節には、 しかし、あなたが赦してくださるからこそ あなたは人に恐れられます。 と記されています。 主が私たちの罪を赦してくださることが、恐れをもたらすということでしょうか。そのとおりですが、これは真の恐れをもたらすということです。主を知らない人々は、決して、主を恐れません。けれども、私たちは主が備えてくださった贖いの恵みにあずかって、主がどなたであられるかを知るようになりました。主は無限、永遠、不変の栄光の神であられ、限りなく聖い方です。その御前においては、すべてのものがひれ伏してその栄光を讃えます。私たちは主がそのような神であられることを知っています。そのことは、私たちが御子イエス・キリストの十字架の死にあずかって罪を完全に贖われ、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって、栄光あるいのちによって新しく生まれ、御霊に導かれて神さまのことを親しく「アバ、父。」と呼ぶようにしていただいていても変わることはありません。ですから、私たちは今この時も、主の栄光の御臨在の御前に大胆に近づいて、聖なる恐れと愛をもって主を礼拝しています。 主は御子イエス・キリストが成し遂げてくださった完全な贖いに基づいて、私たちを受け入れてくださっています。それで、主は、私たちが御子イエス・キリストの御名によってなす「行い」、すなわち、御霊に導いていただいてなす「行い」も、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった完全な贖いに基づいて受け入れてくださいます。イエス・キリストはご自身が成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて、私たちにも、 わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている。 と言ってくださいます。コリント人への手紙第一・15章58節には、 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。 と記されています。 |
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