黙示録1章17節後半ー18節には、
わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。
という、イエス・キリストが黙示録の著者であるヨハネに語られた、みことばが記されています。これによって、イエス・キリストは、ご自身がどのような方であるかをヨハネに啓示してくださっています。
すでにお話ししたことですので、結論的なことをお話ししますが、
わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。
というみことばは、強調形の「わたしは・・・である」(エゴー・エイミ・・・)という表現の仕方で表されています。これは、イエス・キリストが出エジプト記3章13節ー15節に記されていますが、神さまがモーセに啓示してくださった、
わたしは、「わたしはある」という者である。
という神さまの御名と関連しています。
出エジプト記3章13節ー15節では、この、
わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名は、これが啓示された後、
わたしはある。
に短縮されています。そして、
わたしはある。
は1人称ですが、これがさらに3人称化されて「ヤハウェ」となっています。この「ヤハウェ」という御名は、神さまの固有名詞としての御名です。それで、旧約聖書の中には、「ヤハウェ」という御名が頻繁に出てきます。ただし、新改訳では、この「ヤハウェ」という御名は太字の「主」で表されていますので、「ヤハウェ」という形では出てきません。この御名を「主」で表すことは、七十人訳が「ヤハウェ」を「キュリオス」(「主」)と訳していることの伝統に沿っています。
これらのことから分かりますが、神さまの固有名詞としての御名である「ヤハウェ」がどのような意味であるは、神さまが最初に啓示してくださった、
わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名によって示されています。
この、
わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名の根底には、神さまが何ものにも依存されることなく、永遠にご自身で存在される方であることがあります。けれどもそれだけではありません。神さまが、ご自身がこのような方であることを表す御名を啓示してくださったということは、神さまがこのような方として、ご自身がお造りになったこの世界、特に、ご自身の民にかかわってくださる方であることを意味しています。そして、神さまがご自身がお造りになったこの世界にかかわってくださるのは、神さまの契約によっています。それで、この、
わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名は、ご自身の契約にかかわる御名であるのです。この御名は、神さまはご自身の契約に対して真実な方であり、契約において約束してくださったことを、必ず実現してくださる方であることを意味しています。それで、これが神さまの固有名詞としての御名である「ヤハウェ」が意味していることです。
実際に、出エジプトの時代には、神さまはこのご自身の御名を啓示してくださって、この御名の方として、イスラエルの父祖であるアブラハムに与えられた契約に基づいて、エジプトという、その当時の最強の帝国の奴隷となっていたイスラエルの民を、その奴隷の状態から贖い出されました。
このように、神さまがご自身の御名を啓示してくださることは、ご自身がその御名が示している方として、救いとさばきの御業を遂行されるということを意味しています。
イエス・キリストは、
わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。
と言われて、まず何よりも、ご自身が、
わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名の主、すなわち、契約の神である主、ヤハウェであられることを、ヨハネに啓示してくださっています。そして、その上で、さらに、ご自身が、「最初であり、最後である」方であること、さらには、「生きている者である」方であることを啓示しておられます。
「最初であり、最後である」方とは、イザヤ書41章4節に出てくる、主、ヤハウェの、
わたし、主こそ初めであり、
また終わりとともにある。わたしがそれだ。
というみことば、44章6節に出てくる、
わたしは初めであり、
わたしは終わりである。
というみことば、そして、48章12節に出てくる、
わたしは初めであり、また、終わりである。
というみことばを背景として語られています。
イザヤ書に出てくるこれら三つのみことばは、
わたしは、「わたしはある」という者である。
という神さまの御名、「ヤハウェ」という御名に基づいています。主、ヤハウェが、先ほどの、イザヤをとおして語られた、三つのみことばをもって、ご自身がどのような方であるかを示しておられるのです。
これら三つののみことばは、それぞれがほぼ同じことを表しています。第一に、主、ヤハウェが、この歴史的な世界の初めとともにありつつ、同時に、終わりとともにあることを示しています。つまり、主、ヤハウェは時間の流れを越えた方であり、永遠にご自身で存在される方です。第二に、主、ヤハウェが、創造の御業によって、この世界の歴史を始められた方であり、ご自身の契約に基づいて、この歴史的な世界のすべてを支え、導いておられる方であり、この世界の歴史を終わらせる方であることを示しています。この世界の歴史を終わらせるといっても、それで神さまがお造りになったこの世界がなくなってしまうわけではありません。それまでの歴史を評価し、おさばきになって、さらに新しい段階、具体的には、新しい天と新しい地として、新しい歴史的世界を造り出してくださるということです。第三に、主、ヤハウェが、この歴史的な世界の源(「初め」)であり、目的(「終わり」)であることを示しています。ですから、主、ヤハウェは、これら三つの意味において、歴史の主であられます。
*
契約の神である主、ヤハウェがイザヤをとおして、ご自身の御名にかかわる、これら三つのみことばを語られたのは、ただ単にご自身についての情報を与えるためではありません。主、ヤハウェは歴史の主として、ご自身の契約に基づいて、ご自身の民のためのに救いとさばきの御業を遂行されるということを、預言的に示しておられます。そして、これら三つのみことばが記されているイザヤ書40章以下では、やがて、自らの罪のためにさばきを受けて、バビロンの捕囚の身となるユダ王国の民が、その捕囚の状態から解放されて、約束の地に帰還し、主の神殿の再建とともに、主との交わりが回復されることが預言されています。そして、そのために、この世の国々を起こしたり倒したりされることも示されています。
実際に、主、ヤハウェがイザヤをとおして警告しておられたように、南王国ユダの民は主、ヤハウェに背いて偶像の神々に仕え、背教を重ねていきます。その結果、主のさばきを招くに至ります。主はバビロンを用いてユダをおさばきになり、前587年にエルサレムは陥落し、主の神殿は破壊され、ユダ王国は滅亡します。ユダの民のバビロンへの捕囚は、この時より前に、すでに始まっていて、エゼキエルやダニエルは捕囚となっていましたが、この時に、さらに多くの民が捕囚としてバビロンに移されました。しかし、主はイザヤ、エレミヤ、エゼキエルなどの預言者たちをとおして預言しておられたように、自らの野望にしたがって、ユダ王国を蹂躙し搾取したバビロンをおさばきになりました。このために、主はペルシャの王クロスをお用いになりました。前539年にクロスによってバビロンは陥落し、滅亡します。これに続いて、538年にバビロンからの帰還が始まります。
年代を見てみますと、イザヤが預言者として活動したのは紀元前8世紀後半、だいたい、前740年ー700年頃とされています(NBD)。これはまだアッシリヤが覇権を握っていた時代のことです。それで、前538年に始まったバビロンの捕囚からの解放は、イザヤが預言者として活動していたときから約150年ほど後に実現したことになります。このことは、契約の神である主、ヤハウェは、その、
わたしは初めであり、また、終わりである。
という御名の啓示とともに与えられた解放の約束を、主の契約の民であるユダ王国の民の世代が何世代かにわたって交代しても、変わることなく実現してくださったことを意味しています。
そのようにして実現したバビロンの捕囚からの解放は、古い契約の下での「地上的なひな型」として起こったことです。それは「地上的なひな型」として、やがて、イエス・キリストが十字架の上で流される血に基づいて確立されるようになる新しい契約の下で実現する「本体」を指し示しています。そして、その「本体」としてのまことの解放が実現するようになるまでには、なお、約5百年ほどの時の経過がありました。イエス・キリストの生涯の年代についてはいくつかの見方がありますが、イエス・キリストが十字架におかかりになって死なれたのは、紀元30年頃と考えられます。それはバビロンの捕囚からの解放が始まった前538年から約5百年ほど後のことです。
言うまでもなく、このバビロンの捕囚からの解放が「地上的なひな型」として指し示していた「本体」、すなわち、まことの解放とは、イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったことによって、私たちの罪を完全に贖ってくださり、私たちを罪の結果である死と滅びから救い出してくださったことであり、「地上的なひな型」としての地上の国々からの解放ではなく、それらが指し示していた暗やみの主権者の主権の下からの解放です。コロサイ人への手紙1章13節ー14節に、
神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。
と記されているとおりです。
黙示録1章17節後半ー18節において、ご自身のことを、
わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。
とあかししておられるイエス・キリストは、契約の神である主、ヤハウェとして、また、歴史の主として、古い契約の下での贖いの御業を遂行してこられた方です。
出エジプトの贖いの御業も、バビロンの捕囚からの解放の御業も、御子イエス・キリストが御父のみこころにしたがって遂行された御業でした。そして、出エジプトの贖いの御業とバビロンの捕囚からの解放の御業が「地上的なひな型」として指し示していた「本体」としての贖いの御業も、御子イエス・キリストが御父のみこころにしたがって十字架におかかりになり、栄光を受けて死者の中からよみがえられたことによって成し遂げてくださいました。
このようにして、イエス・キリストによって、「地上的なひな型」としての出エジプトの贖いの御業とバビロンの捕囚からの解放の御業は成就しています。一般的には、イエス・キリストは紀元前6年か5年にお生まれになり、「およそ三十歳で」メシヤとしてのお働きを始められ(ルカの福音書3章23節)ました。それから2年半か3年半ほど後に、十字架にかかって死なれたと考えられています。それは、前538年から始まったバビロンの捕囚からの解放から数えて約5百年ほど後のことであり、出エジプトの贖いの御業から数えますと、出エジプトが起こった年代には早期説(前1440年頃)と後期説[1260年頃(NBD)、1290年頃(ファイファー)など]がありますので、少なくとも、1300年ほど後のことです。契約の神である主、ヤハウェであられ、
わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。
とあかししておられるイエス・キリストは、歴史の主として、このような年代の隔たりを越えて、ご自身の契約において示された約束を実現してくださっています。私たちはこのことに、主、ヤハウェが、その御名のとおり、ご自身の契約に対して真実であられることを汲み取ることができます。
主のが真実であられることの一つの面は、時間的なことで、このように、主、ヤハウェは歴史的な世界の時の経過を越えて真実であられ、ご自身の契約において示された約束を実現してくださるということです。もう一つの面は、この後お話ししますが、程度におけることで、主、ヤハウェはその約束を最後まで、徹底的に果たしてくださり、完全に実現してくださるということです。
これらのことを踏まえて、イエス・キリストが、ご自身のことを、
わたしは・・・生きている者である。
とあかししておられることについて、もう少しお話ししたいと思います。
すでにいくつかの事例を取り上げてお話ししましたが、主が生きておられるということにも、旧約聖書の背景があります。ここでは、すでにお話ししました事例を取り上げることはしないで、神さまが生きておられるということに関して、一般的に理解されていることを取り上げます。それは、契約の神である主が生きておられるということは、偶像との対比を示すものであるということです。
まず、確認しておきたいことは、この理解はそのとおりであるということです。その上で、お話を進めていきます。
確かに、偶像は人が考え出した神ですし、人の手によって作られたものですから、生きてはいません。その意味で、契約の神である主と偶像は対比されます。けれども、私が調べたかぎりでは、すべての事例を調べられたわけではないという限界もありますが、聖書の中では、神である主が生きておられる方であるということを直接的に述べながら、偶像と対比されている個所は見つけられませんでした。
偶像について述べられているみことばとしてよく知られている詩篇115篇2節ー7節には、
なぜ、国々は言うのか。
「彼らの神は、いったいどこにいるのか」と。
私たちの神は、天におられ、
その望むところをことごとく行われる。
彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。
口があっても語れず、目があっても見えない。
耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。
手があってもさわれず、足があっても歩けない。
のどがあっても声をたてることもできない。
と記されています。
2節では、
なぜ、国々は言うのか。
「彼らの神は、いったいどこにいるのか」と。
と言われています。そのように問いかける「国々」の神々は、それぞれの神殿に安置されている偶像です。そのように偶像を神として祀っている「国々」の民にしてみれば、偶像の置かれていない主、ヤハウェの神殿には神がいないということになります。これがこの問いかけの根本にあることであると考えられます。
3節で「私たちの神」と言われているのは、引用はしていませんが、1節で「主よ」(新改訳では太字の「主」)と呼びかけられている契約の神である主、ヤハウェです。この「私たちの神」すなわち「主」ヤハウェは、
天におられ、
その望むところをことごとく行われる。
と言われています。これに対して、偶像は、
口があっても語れず、目があっても見えない。
耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。
手があってもさわれず、足があっても歩けない。
のどがあっても声をたてることもできない。
と言われています。このように、ここでは、契約の神である主、ヤハウェと偶像が対比されています。しかし、ここでは、主、ヤハウェが生きておられるということが、直接的に、ことばにしては語られていません。けれども、ここで、「主」ヤハウェは、
天におられ、
その望むところをことごとく行われる。
と言われていることは、実質的に、主、ヤハウェが生きておられることを意味しています。
このように、実質的に、「主」ヤハウェが生きておられて救いとさばきの御業を遂行される方であり、偶像と対比されるということはイザヤ書40章以下に繰り返し出てきます。そのすべてではありませんが、40章18節ー26節、44章6節ー20節、45章16節ー17節、20節ー21節、46章1節ー4節などを見てください。この中で、44章6節ー20節には、これまで取り上げてきました6節に記されている、
わたしは初めであり、
わたしは終わりである。
わたしのほかに神はない。
というみことばがありますので注目したい個所ですが、少し長すぎます。それで、これより短くて、対比が簡潔かつ明瞭に示されている、46章1節ー4節を見てみましょう。これは前半と後半の二つに区分されます。
前半の46章1節ー2節には、
ベルはひざまずき、ネボはかがむ。
彼らの偶像は獣と家畜に載せられ、
あなたがたの運ぶものは荷物となり、
疲れた獣の重荷となる。
彼らは共にかがみ、ひざまずく。
彼らは重荷を解くこともできず、
彼ら自身もとりことなって行く。
と記されています。
1節に出てくる「ベル」(ベール)はマルドゥクのことで、都市としてのバビロンの神であり、バビロニアの神々の主神です。また、「ネボ」はバビロンの南南西12キロメートルほどにあるボルシッパという都市の神で、「ベル」(マルドゥク)の息子である、ナブーのことです。「ネボ」(ナブー)は書記、知恵、天文学など、学問の神とされています。バビロンの王のひとりにネブカデネザルがいますが、この「ネブカデネザル」という名前は「ナブー」にちなんだ名前です。
先主日にもお話ししましたように、古代オリエントの社会と文化の中では、一つの国の王が戦いで勝利を収めるのは、その国の神あるいは神々によると考えられていました。その意味では、その神あるいは神々が、その国を支え、軍隊を導いていることになっています。これに対して、イザヤは、
ベルはひざまずき、ネボはかがむ。
と述べています。
「ベル」も「ネボ」それらを信じて頼みとしている人々を支え導くことができないばかりか、自ら動くこともできないというのです。そのために、
彼らの偶像は獣と家畜に載せられ、
あなたがたの運ぶものは荷物となり、
疲れた獣の重荷となる。
と言われているとおり、新年の行進のためとか、敵の攻撃による破壊から守るためとか考えられていますが、何らかの理由によって、偶像を移動するためには、家畜によって運ばなければなりません。けれども、それは主神やそれに準ずる神の偶像ですので、大きすぎて、それを運ぶために使われる家畜たちもその重さに疲れてしまいます。また、
彼らは共にかがみ、ひざまずく。
彼らは重荷を解くこともできず、
彼ら自身もとりことなって行く。
と言われていますように、そのような偶像は人を救うことはできないばかりか、自らを救うこともできません。実際に、偶像である「ベル」も「ネボ」も戦乱の中で破壊され、時の流れの中で風化して崩れ去ってしまいます。
このことを受けて、後半の3節ー4節には、
わたしに聞け、
ヤコブの家と、イスラエルの家の
すべての残りの者よ。
胎内にいる時からになわれており、
生まれる前から運ばれた者よ。
あなたがたが年をとっても、
わたしは同じようにする。
あなたがたがしらがになっても、
わたしは背負う。
わたしはそうしてきたのだ。
なお、わたしは運ぼう。
わたしは背負って、救い出そう。
という契約の神である主、ヤハウェのみことばが記されています。
まず、
わたしに聞け、
ヤコブの家と、イスラエルの家の
すべての残りの者よ。
胎内にいる時からになわれており、
生まれる前から運ばれた者よ。
と呼びかけられています。
主、ヤハウェはご自身の民が「胎内にいる時から」、すなわち、ご自身の民がまだ主にお仕えすることもできない時から、彼らをにない、背負っておられます。これは主の民の一人一人に当てはめることができますが、ここでは、主の民全体に当てはめられています。それで、これをイザヤ書40章以下がやがて起こるであろう、バビロンの捕囚からの解放を預言的に示していることに沿って言いますと、ユダ王国の民が捕囚の地バビロンにあってうめいている時に、しかも、それは自らの罪に対するさばきとして刈り取っている労苦のうめきであるのに、主、ヤハウェは彼らをにない、背負ってくださっているというのです。
そして、
あなたがたが年をとっても、
わたしは同じようにする。
あなたがたがしらがになっても、
わたしは背負う。
わたしはそうしてきたのだ。
なお、わたしは運ぼう。
わたしは背負って、救い出そう。
と言われています。ご自身の契約に対して真実である主、ヤハウェは、ご自身の民が年を取って、白髪になっても、すなわち、その力が衰えて、主にお仕えすることもおぼつかないような状態になったとしても、変わることなく、真実に、彼らを最後までにない、背負い続けてくださるというのです。ご自身の民が無力で、自分の力で立てないような状態になっても、契約の神である主、ヤハウェは、彼らを背負ってくださり、必ず、救い出してくださるというのです。そのように、主、ヤハウェの救いの御業は、徹底的なものです。
このように、ここでは、簡潔ですが鮮明に、偶像と主、ヤハウェが対比されています。これによって、確かに、直接的なことばによってではありませんが、実質的に、主、ヤハウェが生きておられる方であることが示されています。
そして、これと同じように、動くことも、物を言うこともできない偶像との対比によって、実質的に、主、ヤハウェが生きておられる方であることを示すみことばが、イザヤ書40章以下に繰り返し出てきます。このことは、これらのみことばが、最初にお話ししました、イザヤ書40章以下に出てきます、契約の神である主、ヤハウェがご自身のことを、
わたしは初めであり、また、終わりである
とあかししておられる三つのみことばと深く関連していることを思い起こさせてくれます。実際に、先ほどお話ししましたように、44章6節に記されている、
わたしは初めであり、
わたしは終わりである。
わたしのほかに神はない。
という主のみことばから始まって8節まで続く主、ヤハウェのみことばは、9節ー20節に記されている、偶像の空しさと偶像を作る者の愚かさと空しさと対比されています。
バビロニアの主神である「ベル」もその息子としてあがめられた「ネボ」も、バビロンがその権力の頂点にあったときには、それらがバビロンを支えているかのように思われていました。しかし、バビロンの衰退ともに、それらの空しさがあらわになっていきました。
このこととの対比において、私たちは、ご自身のことを、
わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。
とあかししておられる、イエス・キリストが、歴史の主として、ご自身の契約において約束してくださっている、ご自身の民の救いを必ず実現してくださる方であることを、心に刻みたいと思います。
イエス・キリストは契約の神である主、ヤハウェとして、途方もなく長い人類の歴史をとおして、変わることなく、ご自身の民のための贖いの御業を遂行してこられただけではありません。歴史をとおして常に真実に、ご自身の契約の約束を実現してくださっただけではありません。最後には、贖いの御業を徹底的なものとすると言ったらいいでしょうか、まったきものとしてくださるために、ご自身が、贖い主として来られました。そして、私たちご自身の民の罪を背負って十字架におかかりになり、私たちの罪を完全に贖ってくださいました。これによって、私たちを罪の結果である死と滅びの中から救い出してくださり、罪をとおして人を暗やみの中に閉じこめる暗やみの主権者の下から解放してくださいました。また、イエス・キリストは、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださって、私たちを永遠のいのちに生きる者としてくださり、私たちをご自身の御国へと移してくださり、今も、御霊によって、愛と自由のうちを歩むように導いてくださっています。そして、終わりの日には、再び来てくださって、私たちの救いを完成してくださいます。
このことから、イエス・キリストは、ただ、旧約聖書のみことばを背景として、ご自身のことを、
わたしは・・・生きている者である。
とあかししておられるだけではないことが分かります。イエス・キリストは、
わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。
とあかししておられるように、私たちご自身の民のために十字架にまでおかかりになって、完全な贖いを実現してくださった方という意味で、また、私たちのために栄光を受けて死者の中からよみがえってくださった方という意味で、さらに、終わりの日に私たちの救いを完成してくださる方という意味で「生きておられる」主であられます。
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