黙示録1章17節後半ー18節には、イエス・キリストが黙示録の著者であるヨハネに語られた、
わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。
というみことばが記されています。
これまで、17節後半に記されています、
わたしは、最初であり、最後であり
というみことばについてお話ししまして、今は、18節に記されています、
生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。
というみことばについてお話ししています。今日は、少し後戻りする感じになりますが、これまでお話ししたことで、お話しし残してしまったことを、お話しします。
この部分の節の区切りを見ますと、17節後半に記されています、
わたしは、最初であり、最後であり
ということばは、18節初めの「生きている者である」ということばと区別されています。すでにお話ししましたように、これにはそれとしての根拠があります。それと同時に、文法の上では、新改訳の、
わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。
という訳が示していますように、このイエス・キリストのみことばが一つの文となっています。しかも、この、
わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。
というイエス・キリストのみことばは、強調形の「わたしは・・・である」(エゴー・エイミ・・・)という言い方で表されています。この強調形の「わたしは・・・である」という言い方で表されているみことばは、出エジプト記3章13節ー15節に記されていますが、出エジプトの時代に、契約の神である主、ヤハウェがモーセに啓示してくださった、
わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名と関連しています。この、
わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名はヘブル語を訳したものですが、そのギリシャ語訳である七十人訳では、
エゴー・エイミ・ホ・オーン(「わたしは在る者である」)
というように、強調形の「わたしは・・・である」という言い方で表されています。イエス・キリストは、これと同じ強調形の「わたしは・・・である」という言い方で、ご自身のことを、
わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。
と啓示しておられるのです。これによってイエス・キリストはご自身のことを、
わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名の神であられることを示しておられます。
この、
わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名の根底には、神さまが何ものにも依存されることなく、永遠にご自身で存在される方であることがあります。そして、神さまがご自身の永遠からのみこころに基づいて、この歴史的な世界のすべてのものをお造りになり、お造りになったすべてのものをご自身の契約の中に入れてくださり、その契約に基づいて、すべてのものを歴史をとおして真実に支え、導いてくださっておられる方であることを意味しています。さらに、人類の堕落の後にも、ご自身の永遠からのみこころに基づいて、贖いの御業を遂行され、贖いの御業にかかわる契約に基づいて、ご自身の民を死と滅びの中から贖い出し、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者としてくださる方であることを意味しています。このことのうちに、
わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名は、神さまが創造の御業においても、贖いの御業においても、ご自身の契約に対して真実な方であり、契約において約束してくださっていることを必ず実現してくださる方であることが示されています。
出エジプト記3章13節ー15節では、
わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名は、
わたしはある。
に短縮されています。
わたしはある。
は1人称ですが、これがさらに3人称化されて「ヤハウェ」となっています。それで、この「ヤハウェ」という御名は、神さまが創造の御業においても、贖いの御業においても、ご自身の契約に対して真実な方であり、契約において約束してくださっていることを必ず実現してくださる方であることを意味していると考えられます。
イエス・キリストは、黙示録の著者であるヨハネに、ご自身のことを、強調形の「エゴー・エイミ・・・」という形で、
わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。
と啓示されました。これによって、何よりもまず、ご自身がこの契約の神である主、ヤハウェであられることを示しておられます。その上で、ご自身が「最初であり、最後であり、生きている者」であられることを啓示しておられます。
わたしは、最初であり、最後である。
というイエス・キリストのみことばは、イザヤ書41章4節に出てくる、主、ヤハウェの、
わたし、主こそ初めであり、
また終わりとともにある。わたしがそれだ。
というみことば、44章6節に出てくる、
わたしは初めであり、
わたしは終わりである。
というみことば、そして、48章12節に出てくる、
わたしは初めであり、また、終わりである。
というみことばを背景として語られています。
ここで、イザヤ書41章ー48章に出てくる、これら3つの、主、ヤハウェのみことばのうち、その最初に出てくる、また、そうであるので基本的な意味をもっている、41章4節の、
わたし、主こそ初めであり、
また終わりとともにある。わたしがそれだ。
というみことばに注目してみたいと思います。
これは4節の一部ですので、4節全体を引用しますと、
だれが、これを成し遂げたのか。
初めから代々の人々に呼びかけた者ではないか。
わたし、主こそ初めであり、
また終わりとともにある。わたしがそれだ。
となっています。
このみことばは、
だれが、これを成し遂げたのか。
ということばから始まっていて、その前の2節ー3節に記されています、
だれが、ひとりの者を東から起こし、
彼の行く先々で勝利を収めさせるのか。
彼の前に国々を渡し、
王たちを踏みにじらせ、
その剣で彼らをちりのようにし、
その弓でわらのように吹き払う。
彼は彼らを追い、
まだ歩いて行ったことのない道を
安全に通って行く。
というみことばを受けています。
この2節ー3節に記されているみことばには、いくつか問題がありますが、そのことはおいておいて、新改訳にしたがってお話を進めていきます。このみことばは、
だれが、ひとりの者を東から起こし、
彼の行く先々で勝利を収めさせるのか。
という問いかけから始まっています。
この「ひとりの者」が誰であるかにつきましては、いろいろな見方があります。結論的に言いますと、イザヤ書40章以下には、バビロンの捕囚となっていたユダの民が、主のあわれみを受けてその捕囚から帰還することが預言的に記されていますので、そのことにかかわる王のことだと考えられます。具体的には44章26節ー28節と、それに続く45章1節ー8節に記されています、ペルシャの王クロスのことです。
ただ、ここ41章2節ー4節では、契約の神である主、ヤハウェは、具体的な王のことを預言的に示して、私たちの注意を、その王に向けようとしておられるのではなく、私たちの注意をご自身に向けようとしておられます。そのために、ユダの民を解放してくださるために王を起こし、ご自身のみこころを実現されるために、その王をお用いになる方は誰か、という問いかけをしておられます。もちろん、それは主、ヤハウェです。これによって主は、ご自身がみこころを実現されるために、国々の王たちを起こしたり倒したりされる、歴史の主であられることを示そうとしておられます。
ここでは、その「ひとりの者」を起こされる方、すなわち主、ヤハウェは、その「ひとりの者」に「行く先々で勝利を収めさせ」、
彼の前に国々を渡し、
王たちを踏みにじらせ、
その剣で彼らをちりのようにし、
その弓でわらのように吹き払う。
彼は彼らを追い、
まだ歩いて行ったことのない道を
安全に通って行く。
と言われています。
これは、主がその「ひとりの者」をお用いになって、ユダ王国を攻撃し、その民の血を流し、その民を搾取し、蹂躙するようになる国々をおさばきになることを示しています。実際には、その中心にあるのは、ユダ王国の民を捕囚として捕らえ移すようになるバビロンです。主はバビロンだけでなく、バビロンがユダ王国を攻撃したことに乗じて、ユダ王国を攻め、これを略奪し、蹂躙するようになる周囲の国々をもおさばきになります。ただし、ここでは、まだその具体的な国々が何であるかを示そうとしているのではありません。いずれにしましても、主がご自身とご自身の民に敵対している国々をおさばきになることは、ご自身の民のために救いの御業を遂行されることを意味しています。契約の神である主、ヤハウェの贖いの御業の歴史においては、救いの御業とさばきの御業は裏表のようになっていて、切り離すことはできません。
そして、その「ひとりの者」をお用いになって、ご自身の民のために救いとさばきの御業を遂行される方は誰かという問いかけに対する答えが、今私たちが取り上げています、4節の、
だれが、これを成し遂げたのか。
初めから代々の人々に呼びかけた者ではないか。
わたし、主こそ初めであり、
また終わりとともにある。わたしがそれだ。
というみことばに示されています。
古代オリエントの社会と文化の中では、一つの帝国の王がその行く先々で勝利を収めるのは、その国の神あるいは神々によると考えられていました。これに対して、主、ヤハウェは預言者イザヤをとおして、ご自身のことを、
わたし、主こそ初めであり、
また終わりとともにある。わたしがそれだ。
とあかしして、そのように、国々の王を起こしたり倒したりするのは、それらの国の神々ではなく、ご自身であるということを示しておられます。
この、
わたしがそれだ。
という主のみことば(アニー・フー)は、直訳では、
わたしがその者だ。
です。これは一見すると、
だれが、これを成し遂げたのか。
という、主の問いかけに対して、「それは、わたしである」ということを表しているように見えます。けれども、そのことは、すでに、その前の、
初めから代々の人々に呼びかけた者ではないか。
というみことばで示されています。この、
初めから代々の人々に呼びかけた者ではないか。
というみことば自体が、この方は時間を超えた永遠の主にして歴史の主であることを示しています。そして、それに続いて、
わたし、主こそ初めであり、
また終わりとともにある。
と言われていて、契約の神である主、ヤハウェこそが歴史の主であられることがより明確に示されています。ここでは、さらにそれに続いて、
わたしがそれだ。
と言われています。そのようなわけで、このことばは、ただ単に「それは、わたしである」ということだけでなく、それを越えたことを表しています。
このことばは、七十人訳では「エゴー・エイミ」すなわち「わたしはある」と訳されています。このことからも分かりますが、この、
わたしがそれだ。
ということばは、先ほどお話ししました出エジプト記3章14節に出てきます、
わたしは、「わたしはある」という者である。
という神さまの御名に相当します。つまり、ここイザヤ書41章2節ー4節では、
わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名の主が、歴史の主であられ、ご自身の民を回復してくださるために、国々の王たちを起こしたり倒したりされる方であるということが示されています。
ですから、ここでは、
わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名の主、すなわち、ご自身の契約に約束してくださったことを必ず成し遂げてくださる方が、歴史の主として、ご自身の民を回復してくださるために、国々の王たちを起こしたり倒したりされるということを示してくださっています。その意味で、
わたしがそれだ。
と言われているのです。
このことは、さらにさかのぼって、先主日に取り上げました、申命記39節ー43節に記されていますみことばを思い起こさせます。これまでお話ししてきたことをお聞きになって、これは先主日に聞いたことだと感じられたと思います。確かに、先主日お話ししたことと同じです。けれども、先主日はそれを申命記39節ー43節に基づいてお話ししました。つまり、イザヤ書41章2節ー4節に記されている主のみことばは、申命記39節ー43節に記されているみことばとつながっているのです。
申命記39節ー43節に記されているみことばは、一般に「モーセの歌」として知られている、契約の神である主、ヤハウェがモーセをとおして預言的に語られたみことばの最後の部分です。その最後の部分のさらに一部ですが、39節ー41節には、
今、見よ。わたしこそ、それなのだ。
わたしのほかに神はいない。
わたしは殺し、また生かす。
わたしは傷つけ、またいやす。
わたしの手から救い出せる者はいない。
まことに、わたしは誓って言う。
「わたしは永遠に生きる。
わたしがきらめく剣をとぎ、
手にさばきを握るとき、
わたしは仇に復讐をし、
わたしを憎む者たちに報いよう。」
と記されています。
先主日お話ししましたように、39節で、
今、見よ。わたしこそ、それなのだ。
と言われているときの、
わたしこそ、それなのだ。
と訳されていることば(アニー・アニー・フー)は、先ほどのイザヤ書41章4節に出てきた、
わたしがそれだ。
という主のみことば(アニー・フー、直訳「わたしがその者だ」)よりさらに強調された形で、直訳では、
わたし、わたしがその者だ。
です。この、
わたしこそ、それなのだ。
と訳されていることばはヘブル語で記されていますが、そのギリシャ語訳である七十人訳では、やはり「エゴー・エイミ」つまり「わたしはある」と訳されています。このことからも分かりますが、この、
わたしこそ、それなのだ。
というみことばも、
わたしは、「わたしはある」という者である。
という、主、ヤハウェの御名に相当します。
申命記32章39節では、この、
今、見よ。わたしこそ、それなのだ。
というみことばに続いて、
わたしのほかに神はいない。
というみことばとつながっています。先ほどお話ししましたように、古代オリエントの社会と文化の中では、一つの国の王がその行く先々で勝利を収めるのは、その国の神あるいは神々によると考えられていました。ここでは、そのことを踏まえて、
わたしのほかに神はいない。
と言われています。これによって、より広く、主に比べられるものはないということが示されています。
ここでは、このことを受けて、
わたしは殺し、また生かす。
わたしは傷つけ、またいやす。
わたしの手から救い出せる者はいない。
と言われています。このみことばによって、主おひとりが、歴史の主として、ご自身の主権的なみこころにしたがって、この歴史的な世界のすべてのことを治めておられる方であるということが示されています。
けれども、これはただ単に、一般的な真理として語られているだけではありません。「モーセの歌」では、モーセの後の世代のイスラエルの民の歴史が預言的に語られています。その「モーセの歌」では、主がイスラエルの民に示してくださった一方的な愛と恵みが讃えられつつ示されています。それと同時に、それに織り込まれるように、イスラエルの民が主の愛と恵みを忘れ、主に対する不信仰を繰り返して、背教してしまうようになることが示されています。それで、主が不信のイスラエルの民をおさばきになることも示されています。しかし、「モーセの歌」の最後の部分では、それでもなお、主はあわれみをもってイスラエルの民を顧みてくださること、ご自身の民を贖い出してくださることが示されています。
わたしは殺し、また生かす。
わたしは傷つけ、またいやす。
わたしの手から救い出せる者はいない。
というみことばは、この「モーセの歌」の最後の部分に出てきますので、特に、イスラエルの民をその罪のためにおさばきになる主が、なおも、ご自身の民をあわれみをもって顧みてくださり、彼らを贖い出してくださることを示しています。
そのことが、ここでは、さらに、続く40節と41節で、
わたしは永遠に生きる。
わたしがきらめく剣をとぎ、
手にさばきを握るとき、
わたしは仇に復讐をし、
わたしを憎む者たちに報いよう。
と言われています。これは主が、自らの野心、野望に駆られて、主の契約の民を攻撃し、その血を流し、彼らを搾取し、蹂躙して、捕囚として捕らえ移すようになる国と、それに乗じて主の契約の民を搾取し、蹂躙する国々へのさばきを執行されることを示しています。実際には、これは北王国イスラエルを滅ぼしたアッシリヤと、南王国ユダを滅ぼしたバビロン、さらには、アッシリヤやバビロンにくみして主の契約の民を攻撃した周辺諸国へのさばきとして成就していきます。主がこれらの国々へのさばきを執行されることは、主がご自身の民に示されるあわれみによる救いをもたらされることを意味しています。
このように、主が最後には、ご自身の民をあわれみをもって顧みてくださるのは、先ほど取り上げました39節の初めに記されています、
わたしこそ、それなのだ。
というみことばに示されていますように、主が、
わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名の主であられることによっています。主が常に変わることがない歴史の主であられ、ご自身の契約において約束してくださったことを必ず実現してくださる方であるからです。
このように、この申命記32章39節ー43節に記されています「モーセの歌」の最後の部分と、先ほど取り上げましたイザヤ書41章2節ー4節に記されています、預言者イザヤの預言のことばはは、いくつもの点で対応しています。「モーセの歌」の最後の部分は、年代の数え方にもよりますが、これが語られた時から約7百年ほど後の預言者であるイザヤの預言につながっているのです。それは、
わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名の主が、歴史をとおして常に変わることなく、ご自身の契約に対して真実な方であり、その契約において約束されたことを必ず実現してくださる方であることによっています。そして、それとともに、神である主に対して罪を犯して御前に堕落してしまっている人の罪が、その現れ方に違いはあっても、本質的には変わることがないことによっています。[注]
[注]このことをわきまえるなら、「モーセの歌」は後の時代に実際のイスラエルの民の歴史を振り返って見た者が記したとしなくてもよいことが分かります。
契約の神である主、ヤハウェは、モーセをとおして出エジプトの贖いの御業を遂行されました。そのとき、主はご自身の御名が、
わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名であることを啓示されました。それは主が、永遠にご自身で存在しておられる方であり、すべてのものを存在させ、導き支えておられる方として、ご自身の契約に対して真実であられ、契約において約束されたことを必ず実現される方であることを示す御名でした。
この御名の主、ヤハウェは、エジプトの奴隷となっていたイスラエルの民のうめきと叫びをお聞きになって、父祖アブラハムとの契約を思い起こされ、モーセをとおして、出エジプトの贖いの御業を遂行されました。主は主の主権的で、一方的な愛と恵みによってアブラハムに与えられた契約に基づいて、奴隷の民であり、この世の尺度からは何の価値もないイスラエルの民をご自分の民として、エジプトの奴隷の状態から贖い出されました。
しかし、そのイスラエルの民は、「モーセの歌」において預言的に示されていたとおり、主の一方的な愛と恵みを受けて、出エジプトの贖いの御業にあずかったにもかかわらず、その後の歴史をとおして、主への不信仰を積み重ね、諸国の民の偶像を頼みとして、それらを拝み、それらに仕えて、主の御前に背教してしまいました。その結果、北王国イスラエルはアッシリヤによって、南王国ユダはバビロンによって滅ぼされてしまうに至ります。
けれども主は、ご自身の契約に対して真実であられ、契約において約束してくださったことを必ず実現してくださいます。そのことをさらに示してくださるために、アブラハムに与えてくださった契約、モーセを通して与えてくださった契約、さらには、ダビデに与えてくださった契約の約束を実現してくださるために、ダビデの血肉の子孫が王として治めていた南王国ユダの民を、バビロンの捕囚から解き放って、約束の地へと帰還させてくださいました。
これらすべてのことから、主、ヤハウェの契約がどのようなものであるかが汲み取れます。主、ヤハウェは、この世の尺度からすれば、まったく価値のない者を、その主権的で一方的な愛と恵みによってお選びになり、ご自身の契約の民とされました。そればかりではありません。そのような愛とあわれみにあずかり、恵みによって、主の民としていただいたにもかかわらず、主に対して罪を犯し続けてしまう者たちを、なおも、ご自身の契約に示された約束によって、その罪を贖って、ご自身の民として回復してくださるというのです。主、ヤハウェがそこまでしてくださるのは、主が、
わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名の神であられるからです。
ご自身のことを、
わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。
とあかししておられるイエス・キリストは、
わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名の神であられます。そして、「最初であり、最後である」方、歴史の主として、古い契約の下では、ご自身のみこころを実現されるために、国々を起こし、また倒し、救いとさばきの御業を遂行してこられました。しかし、それらはすべて「地上的なひな型」としての贖いの御業で、やがて来たるべき「本体」を指し示していました。
その「本体」としての贖いの御業は、
わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名の神であられるイエス・キリストご自身が、贖い主として来てくださって、実現してくださいました。イエス・キリストは十字架におかかりになって私たちご自身の民の罪を完全に贖ってくださいました。それとともに、その十字架の死によって、主とその民の最終的な敵である暗やみの主権者の主権を空しくされましたし、終わりの日には、暗やみの主権者とその軍勢をおさばきになります。ヘブル人への手紙2章14節ー15節に、
そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。
と記されているとおりです。
さらに、イエス・キリストはご自身のことを
わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。
とあかししておられるとおり、私たちご自身の民のために、栄光を受けて死者の中からよみがえられ、私たちを永遠のいのちに生きる者としてくださり、終わりの日には私たちの救いを完成してくださいます。このように、イエス・キリストは、ご自身の契約において示された約束を、すべて実現してくださっています。
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