黙示録講解

(第144回)


説教日:2013年12月29日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章9節ー20節
説教題:栄光のキリストの顕現(45)


 先主日には2013年の降誕節の礼拝をしましたので、黙示録からのお話はお休みしました。今日は黙示録からのお話に戻ります。
 今取り上げているのは1章17節後半ー18節に記されています、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

という、イエス・キリストが黙示録の著者であるヨハネに語られたみことばです。これまで、17節後半の、

 わたしは、最初であり、最後であり

というみことばについてお話ししてきました。そして、前回から、それに続いて18節に記されています、

生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

というみことばについてのお話を始めました。
 前回は、新改訳で、

 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。

と訳されているイエス・キリストのみことばに出てきます、「最初であり、最後であり」ということばと「生きている者である」ということばの関係についてお話ししました。1週空いたこともありますので、少し補足を加えながら、前回お話ししたことを振り返っておきましょう。


 このこと、すなわち「最初であり、最後であり」ということばと「生きている者である」ということばの関係には、大きく、二つのことがかかわっています。
 第一は、文法的なことです。文法的なことにも、さらに、二つのことがあります。
 一つのことは、新改訳で、

 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。

と訳されているイエス・キリストのみことばは、強調形の「わたしは・・・である」(エゴー・エイミ・・・)という言い方で表されているということです。
 もう一つのことは、この強調形の「私は・・・である」という言い方は、

 わたしは、最初であり、最後であり、

で終わらないで、

 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。

で一つの文になっているということです。それで、ここでは、「最初であり、最後であり」ということばと「生きている者である」ということばは密接につながっています。
 この強調形の「わたしは・・・である」(エゴー・エイミ・・・)という言い方で表されている、

 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。

ということばは、出エジプト記3章13節ー15節に記されています、出エジプトの時代に、神さまがモーセに啓示してくださった、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名を背景として語られています。この御名はもともとヘブル語で記されていますが、そのギリシャ語訳である七十人訳では、
 エゴー・エイミ・ホ・オーン(「わたしは在る者である」)
というように、強調形の「わたしは・・・である」(エゴー・エイミ・・・)という言い方で表されています。
 神さまの御名は神さまがどのような方であるかを表しています。神さまの御名はいくつか啓示されていますが、その中でも、この御名は最も本質的なものです。というのは、出エジプト記3章13節ー15節では、このこの、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名はこの後で「わたしはある」に短縮され、さらに、それが3人称化されて「ヤハウェ」として示されています。そして、この「ヤハウェ」という御名が固有名詞としての神さまの御名だからです。その他の御名は神さまのお働きや特質などを表わす称号としての御名です。
 この、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名は、根本的には、神さまが何ものにも依存されることなく、永遠にご自身で存在される方であることを意味しています。そして、永遠からのみこころにしたがって創造の御業を遂行され、この歴史的な世界のすべてのものをお造りになった方であること、また、ご自身がお造りになったすべてのものをご自身の契約の中に入れてくださり、その契約に基づいて、すべてのものを歴史をとおして真実に支え、導いてくださっておられる方であることを意味しています。さらに、人類の堕落の後には、やはり永遠からのみこころにしたがって、贖いの御業を遂行され、贖いの御業にかかわる契約に基づいて、ご自身の民を死と滅びの中から贖い出し、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者としてくださる方であることを意味しています。これらのことを貫いているのは、この、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名、ひいては、「ヤハウェ」という御名は、神さまがご自身の契約に対して真実な方であり、契約において約束してくださっていることを必ず実現してくださる方であることを表しています。
 黙示録1章17節後半ー18節の初めにおいて、強調形の「わたしは・・・である」(エゴー・エイミ・・・)という言い方で示されている、

 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。

というみことばは、まず何よりも、イエス・キリストが契約の神である主、ヤハウェであられ、ご自身の契約に対して真実であり、契約において約束してくださっていることを必ず実現してくださる方であられることを意味しています。その上で、この契約の神である主、ヤハウェであるイエス・キリストが、ここでは特に、ご自身のことを「最初であり、最後であり、生きている者」としてお示しになっておられます。
 以上が第一のことです。第二のことですが、聖書の節の区切りに注目しますと、

 わたしは、最初であり、最後であり、

ということばは17節の最後に出てきて、

 生きている者である。

ということばは18節の最初に出てきます。これはこの「最初であり、最後であり」ということばと「生きている者である」ということばが区別されるという理解を表しています。ただし、聖書の節の区切りは後からつけられたものですので、霊感されてはいません。これはあくまでも、節の区切りをした人の理解です。これと同じ理解は、具体的には先主日にお話ししましたが、聖書のいくつかの翻訳にも見られます。
 この「最初であり、最後であり」ということばと「生きている者である」ということばが区別されるという理解には、二つのの根拠があります。一つは、

 わたしは、最初であり、最後であり

というイエス・キリストのみことばは、イザヤ書41章4節に出てくる、契約の神である主、ヤハウェの、

 わたし、こそ初めであり、
 また終わりとともにある。わたしがそれだ。

というみことば、44章6節に出てくる、

 わたしは初めであり、
 わたしは終わりである。

というみことば、そして、48章12節に出てくる、

 わたしは初めであり、また、終わりである。

というみことばを背景として語られています。これらのみことばは、

 わたしは、最初であり、最後であり

というイエス・キリストのみことばに当たることばで完結していて、

 わたしは生きている者である

というイエス・キリストのみことばに当たることばはありません。
 もう一つの根拠は、

 わたしは、最初であり、最後であり

というイエス・キリストのみことばに当たることばは同じ黙示録の22章12節ー13節に記されている、

見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。

というイエス・キリストのみことばの中で、

 最初であり、最後である。

と訳されて出てくるということです。ここでも、

 最初であり、最後である。

というみことばがひとつのまとまりとなっています。けれども、1章18節の最初に出てくる「生きている者」に当たることばはありません。
 これら二つの根拠としてお話ししたことから、新改訳で、

 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。

と訳されているイエス・キリストのみことばの「最初であり、最後であり」ということばと「生きている者である」ということばは、意味合いという点で区別されることが分かります。
 このことと、最初にお話ししましたように、文法的には、イエス・キリストのみことばは、新改訳の、

 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。

という訳のように、これで一つの文となっているということを合わせてみますと、一つのことが見えてきます。それは、この黙示録1章17節後半ー18節において、イエス・キリストは、主が「最初であり、最後である」ということと、それとは意味合いという点で区別される、主が「生きている者」、生きておられる方であるということとを結び合わせて、ご自身がどのような方であるかを、ヨハネに啓示してくださったということです。

 主が生きておられる方であるということは、聖書の中にしばしば出てくることです。その事例をいくつか見てみましょう。
 旧約聖書を読んでいてしばしば出会うことばに、

 は生きておられる。

ということばがあります。これは誓いをするときや、それと同じように、そのことが確かなことを表すために用いられます。その典型的な例の一つが、列王記第一・1章29節ー30節に記されている、ダビデがバテ・シェバに、その子ソロモンを王位に就けることを誓ったことです。そこには、

王は誓って言った。「私のいのちをあらゆる苦難から救い出してくださったは生きておられる。私がイスラエルの神、にかけて、『必ず、あなたの子ソロモンが私の跡を継いで王となる。彼が私に代わって王座に着く』と言ってあなたに誓ったとおり、きょう、必ずそのとおりにしよう。」

と記されています。このダビデの誓いは、ダビデが自分の考えにしたがってなしたことではなく、主がダビデに示してくださったみこころに従ってなしたことです。そのことは、歴代誌第一・22章9節ー10節に記されている、主がダビデに語られたみことばから分かります。ここでダビデは、

 私のいのちをあらゆる苦難から救い出してくださったは生きておられる。

と言って、自分に対して真実を尽くしてくださった主のみこころに従ってこの誓いをしています。
 もう一つの例を見てみましょう。エリシャがアラムの王の将軍であるナアマンのツァラアトをいやしたときに、ナアマンはエリシャに贈り物を受け取ってほしいと申し出ました。そのときのことを記している列王記第二・5章16節には、

神の人[エリシャ]は言った。「私が仕えているは生きておられる。私は決して受け取りません。」

と記されています。
 エリシャがナアマンの贈り物を受け取らなかった理由については、あまり論じられていませんが、いくつかの注解書では、このような主のための働きによって自分を肥やそうとはしなかったからだとか、貪欲に駆られることはなかったからだというように考えられています。おそらく真相はもう少し別のところにあると考えられます。
 この、

 私が仕えているは生きておられる。

というエリシャのことばは、単なる誓いのためのことばではないと思われます。というのは、ここでエリシャは「私が仕えている」と言って、自分が主、ヤハウェのしもべであることを表明しているからです。このことから、エリシャは、ナアマンがいやされたことは、すべて、生きておられる主、ヤハウェがなしてくださったことであり、自分は主、ヤハウェのしもべとして用いられただけであるので、このすべてにおいて、主だけがあがめられるべきであるということを示すために、また、そのことをナアマンに伝えるために、贈り物を受け取らなかったと考えられます。
 これに対して、20節には、エリシャに仕えていたゲハジが、

なんとしたことか。私の主人は、あのアラム人ナアマンが持って来た物を受け取ろうとはしなかった。は生きておられる。私は彼のあとを追いかけて行き、必ず何かをもらって来よう。

と考えたことが記されています。この場合の、

 は生きておられる。

ということばは、エリシャが示した、

 は生きておられる。

ということの真の意味を失ってしまっています。つまり、単なる決まり文句として、今日の私たちのことばで言えば「絶対そうしよう」というようなことに当たります。ゲハジは実際にナアマンから贈り物を受け取ることによって、エリシャが表したこと、いっさいの栄光を主、ヤハウェだけに帰そうとしたことを否定してしまいました。このために、ゲハジはツァラアトに冒されることになりました。

 先ほど取り上げました、ダビデが、

 は生きておられる。

と言ったことは、人が誓いをするときのことですが、契約の神である主、ヤハウェご自身がこれと同じことばをもって、ご自身の救いとさばきの御業が確かになされることを示しておられる事例があります。
 申命記32章39節ー43節には、

 今、見よ。わたしこそ、それなのだ。
 わたしのほかに神はいない。
 わたしは殺し、また生かす。
 わたしは傷つけ、またいやす。
 わたしの手から救い出せる者はいない。
 まことに、わたしは誓って言う。
 「わたしは永遠に生きる。
 わたしがきらめく剣をとぎ、
 手にさばきを握るとき、
 わたしは仇に復讐をし、
 わたしを憎む者たちに報いよう。
 わたしの矢を血に酔わせ、
 わたしの剣に肉を食わせよう。
 刺し殺された者や捕らわれた者の血を飲ませ、
 髪を乱している敵の頭を食わせよう。」
 諸国の民よ。
 御民のために喜び歌え。
 主が、ご自分のしもべの血のかたきを討ち、
 ご自分の仇に復讐をなし、
 ご自分の民の地の贖いをされるから。

と記されています。
 これは、申命記32章1節ー43節に記されています、一般に「モーセの歌」として知られているみことばの最後の部分です。このみことばは預言としての意味をもっていて、イスラエルの民がやがて主への不信仰のために背教していくこと、それに対して主がさばきを執行されること、そして、それにもかかわらず、主がご自身の民をあわれみ、贖いをもって回復してくださることが示されています。今引用しました39節ー43節には、主がご自身の民をあわれみ、回復してくださることが示されています。
 39節で、

 今、見よ。わたしこそ、それなのだ。

と言われているときの、

 わたしこそ、それなのだ。

と訳されていることば(アニー・アニー・フー)は、直訳では、

 わたし、わたしがその者だ。

です。このことばはヘブル語で記されていますが、これのギリシャ語訳である七十人訳では、「エゴー・エイミ」つまり、

 わたしはある。

と訳されています。このことから推察されますが、この、

 わたしこそ、それなのだ。

という、契約の神である主、ヤハウェのみことばは、先ほどお話ししました出エジプト記3章14節に出てきます、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という神さまの御名に相当します。出エジプト記3章14節では、この、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名は、

 わたしはある

に短縮されています。
 ここ申命記32章39節では、

 わたしこそ、それなのだ。

というみことばは、続く、

 わたしのほかに神はいない。

というみことばとつながっていて、主に比べられるものはないことが示されています。そして、これに続く、

 わたしは傷つけ、またいやす。
 わたしの手から救い出せる者はいない。

ということばによって、主おひとりが、歴史の主として、この歴史的な世界のすべてのことを治めておられる方であるということが示されています。
 主に対する不信を募らせて、背教してしまうイスラエルの民をおさばきになるのは主、ヤハウェです。主はそのために国々の王たちを用いられます。実際に、北王国イスラエルはアッシリヤによって滅ぼされ、南王国ユダはバビロンによって滅ぼされてしまうようになります。アッシリヤの王も、バビロンの王も、自分たちの野望にしたがって国々を征服しています。けれども、契約の神である主、ヤハウェは、そのような彼らの野望をもお用いになって、北王国イスラエルと南王国ユダをおさばきになりました、
 主がアッシリヤやバビロンをお用いになったからといって、彼らが自らの野望にしたがって、多くの血を流し、国々を征服して、人々を搾取したことが正当化されることはありません。彼らは神のかたちに造られている人のおびただしい血を流し、神のかたちの栄光と尊厳性を踏みにじりました。
 創世記9章5節ー6節には、洪水後の世界の歴史の初めに、神さまがノアとその息子たちに語られた、

わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。
 人の血を流す者は、
 人によって、血を流される。
 神は人を神のかたちに
 お造りになったから。

というみことばが記されています。

 人の血を流す者は、
 人によって、血を流される。

というみことばは、個人的な復讐を許可するものではなく、社会的な権威をもつ者たちが神のかたちの栄光と尊厳性を守るべきであるという神さまのみこころを示しています。その社会的な権威をもつ者たちが、自らの野望の実現のために、おびただしい血を流しています。この、

わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。

というみことばに示されているとおりに、主は神のかたちの栄光を尊厳性を損なう者たちをおさばきになります。
 そのことが、遠いですが、根本的な、背景になって、申命記32章40節ー42節には、

 まことに、わたしは誓って言う。
 「わたしは永遠に生きる。
 わたしがきらめく剣をとぎ、
 手にさばきを握るとき、
 わたしは仇に復讐をし、
 わたしを憎む者たちに報いよう。
 わたしの矢を血に酔わせ、
 わたしの剣に肉を食わせよう。
 刺し殺された者や捕らわれた者の血を飲ませ、
 髪を乱している敵の頭を食わせよう。」

と記されています。
 実際に、主は自らの野望の実現のために北王国イスラエルを滅ぼしたアッシリヤと南王国ユダを滅ぼしたバビロン、さらには、彼らにくみして主の契約の民を襲って、蹂躙と略奪を繰り返した国々をおさばきになりました。
 もちろん、ここで、モーセは特定の国の名は上げてはいません。ごく一般的なこととして、モーセの後の時代のイスラエルの民の大きな流れとして、歴史の主であられるヤハウェが救いとさばきの御業を遂行されることを預言的に語っているだけです。
 そのようにして、主の契約の民を蹂躙した国々へのさばきが執行されることが預言された後に、43節において、

 諸国の民よ。
 御民のために喜び歌え。
 主が、ご自分のしもべの血のかたきを討ち、
 ご自分の仇に復讐をなし、
 ご自分の民の地の贖いをされるから。

と言われています。これをもって「モーセの歌」は終わっています。ここでは、主の契約の民を虜にしていた者たちがさばかれ、最終的には、主の民のための贖いが成し遂げられることが、預言的に示されています。

 このことを踏まえたうえで注目したいのは、40節に出てきます、

 まことに、わたしは誓って言う。
 「わたしは永遠に生きる。

という契約の神である主、ヤハウェのみことばです。
 ここでは、

 は生きておられる。

ということばに相当することばが、

 わたしは永遠に生きる。

というように、主ご自身のみことばとして出てきます。しかも、それは、その前で、

 まことに、わたしは誓って言う。

と言われていますように、主が誓われたこととの関連で出てきます。
 主が永遠に生きておられる方であるので、主が誓われたことは、たとえそれが人の目には、はるか彼方のこと、限りなく遠い未来のことであると見えても、主はそれを必ず実現してくださいます。ですから、この場合、

 わたしは永遠に生きる。

という主のみことばは、主が誓われたときの決まり文句ではなく、主の誓いや約束にとって大切な意味をもっています。
 これまでお話ししてきましたように、「モーセの歌」においては、

 わたしは永遠に生きる。

という主のみことばは、主が誓われたこと、主が約束されたことが必ず実現することの根拠となっています。それは、イスラエルの民の不信仰による背教という、とんでもない事態になっても、また、そのために主がイスラエルの民をおさばきになって、不信仰による背教を続けた北王国イスラエルばかりでなく、ダビデの血肉の子孫たちが治めた南王国ユダの滅亡という、人の目には絶望的な状態になっても、なお、ご自身の民のための贖いの御業は成し遂げられるということを示しています。実際に、南王国ユダの民であるユダヤ人たちはバビロンの捕囚から解放されて帰還しました。
 けれども、バビロンの捕囚からの帰還は古い契約の下でなされた「地上的なひな型」としての出来事でした。このバビロンの捕囚からの帰還が「地上的なひな型」として指し示している、まことの解放は、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

と言われる、イエス・キリストの十字架の死による罪の完全な贖いと、それに基づく死と滅びからの救い、そして、死者の中からのよみがえりによる、新しいいのちへの解放によって実現しています。
この恵みにあずかっている私たちは、

 私が仕えているは生きておられる。

と告白したエリシャのように、このすべてのことにおいて、ただ、イエス・キリストの御名があがめられ、父なる神さまの栄光がほめたたえられるべきことを、心に刻みたいと思います。


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