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説教日:2013年12月15日 |
まず、この二つのことばは区切られるものであると理解することですが、これには二つの理由があります。 一つは、17節最後の、 わたしは、最初であり、最後である というイエス・キリストのみことばについてお話ししたときに、お話ししたことですが、この、 わたしは、最初であり、最後である というみことばは、イザヤ書41章ー48章に出てくる契約の神である主、ヤハウェのみことばを背景としているということです。 具体的には、このみことばは、41章4節に出てくる、 わたし、主こそ初めであり、 また終わりとともにある。わたしがそれだ。 というみことば、また、44章6節に出てくる、 わたしは初めであり、 わたしは終わりである。 というみことば、さらに、48章12節に出てくる、 わたしは初めであり、また、終わりである。 というみことばを背景としています。 これらの契約の神である主、ヤハウェのみことばは、これとしてまとまっていて、黙示録1章17節の最後に出てくる、 わたしは、最初であり、最後である というみことばの背景になっています。けれども、これらのみことばには、18節の最初に出てくる「生きている者」に当たることばはありません。 もう一つの理由ですが、同じ黙示録の中でも、この1章17節の終わりに出てくる、 わたしは、最初であり、最後である というみことばは、22章12節ー13節に記されています、 見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。 というイエス・キリストのみことばの中で、 最初であり、最後である。 と訳されて出てきます。ここでは、 最初であり、最後である。 というみことばがひとつのまとまりとなっています。けれども、1章18節の最初に出てくる「生きている者」に当たることばはありません。[注] [注]黙示録では、1章17節終わりの、 わたしは、最初であり、最後である。 というイエス・キリストのみことばの「最初であり、最後である」ということば自体は、2章8節で、 初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。 と言われているときの「初めであり、終わりである方」と訳されていることばと同じです。ここ2章8節では、強調形の「わたしは・・・である」という言い方ではありません。これに続いて「死んで、また生きた方」と言われていますが、これは、関係代名詞によって導入されている追加の説明の文です。それで、新改訳も「初めであり、終わりである方」と「死んで、また生きた方」というように、二つの呼び方を区別して訳しています。 これらのことは、17節の終わりにある「最初であり、最後である」ということばと、18節の初めにある「生きている者である」ということばが区別されることを示しています。 しかし、これには、 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。 という新改訳のように、ひとまとまりのものとして理解した方がいいと思われる理由もあります。 前にお話ししたことがありますが、17節の最後にある わたしは、最初であり、最後である というイエス・キリストのみことばは、強調形の「わたしは・・・である」(エゴー・エイミ・・・)ということばで表されています。そしてこれは、出エジプト記3章13節ー15節に記されている記事の中で、神さまがモーセにご自身の御名を啓示してくださったことを背景として語られています。 出エジプトの時代に、神さまはモーセにご自身の御名が、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という御名であることを啓示してくださいました。この、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という訳は、ヘブル語本文の訳ですが、これのギリシャ語訳である七十人訳では、 わたしは、ある者である。(エゴー・エイミ・ホ・オーン) という、強調形の「わたしは・・・である」ということばで表されています。 そして、ここで啓示されている神さまの御名が、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という御名であることを受けて、先ほど取り上げましたイザヤ書41章4節に出てくる、 わたし、主こそ初めであり、 また終わりとともにある。わたしがそれだ。 というみことばや、44章6節に出てくる、 わたしは初めであり、 わたしは終わりである。 というみことば、さらには、48章12節に出てくる、 わたしは初めであり、また、終わりである。 というみことばにおいて、契約の神である主、ヤハウェがどのような方であられるかが啓示されています。 これらのこと、すなわち、出エジプト記3章13節ー15節に記されています神さまの御名の啓示と、それに基づいて、預言者イザヤをとおして啓示された主がどのような方であるかの啓示を背景として、黙示録1章17節の最後において、イエス・キリストは、 わたしは、最初であり、最後である、 と語られて、ご自身のことをあかししておられます。ですから、この わたしは、最初であり、最後である、 というみことばは、イエス・キリストが契約の神である主、ヤハウェであられることを示しています。 今お話ししていることとのかかわりで注目したいことは、黙示録1章17節後半ー18節に記されているイエス・キリストのみことばでは、強調形の「わたしは・・・である」という表現の仕方で表されていることばは、 わたしは、最初であり、最後である、 で終わっていないということです。それは、新改訳の、 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。 という訳のように、「生きている者」(ホ・ゾーン)まで続いています。 17節の終わりにある「最初であり、最後である」ということばと、18節の初めにある「生きている者である」ということばを明確に区別している新国際訳(NIV)は、この個所を、 わたしは、最初であり、最後である。わたしは生きている者である。 と訳しています。この訳では、「最初であり、最後である」ということばと、「生きている者である」という、二つのことばを明確に区別していますので、 わたしは、最初であり、最後である。 で文を終わらせています。同時に、それに続く「生きている者である」も強調形の「わたしは・・・である」という表現に含まれていることを示すために、強調形の「わたしは・・・である」を補って、 わたしは生きている者である。 と訳しています。この他、二つのことばを明確に区別している、欽定訳(AV)とその改訂版である新欽定訳(NAV)や、新英訳(NEB)とその改訂版でいある改定英訳(REB)などの訳も、これと同じように訳しています。 これらのことから分かることは、三つあります。一つは、17節の終わりにある「最初であり、最後である」ということばは、ひとまとまりとなっており、18節の初めにある「生きている者である」ということばと区別されるということです。もう一つのことは、17節後半から18節に記されているイエス・キリストがご自身のことをあかししておられるみことばは、強調形の「わたしは・・・である」ということばで表されており、それは、「最初であり、最後である」で終わらないで、「生きている者である」まで続いているということです。そして、三つ目のことは、ここに記されているイエス・キリストのみことばを理解するためには、これら二つのことを同じように大切なことと考える必要があるということです。 このことを受けて、この個所をどのように訳したらいいのかという問題があります。 この個所が強調形の「わたしは・・・である」ということばで表されており、それは、「最初であり、最後である」で終わらないで、「生きている者である」まで続いているということからしますと、新改訳が、 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。 と訳していますように、この全体を一つの文に訳すことになります。 けれども、これでは「最初であり、最後である」ということばがひとまとまりとなっていて、「生きている者である」ということばとは区別されるということが分からなくなってしまうという問題意識が生じたようです。それで、先ほど引用しました、新国際訳の、 わたしは、最初であり、最後である。わたしは生きている者である。 という訳が生み出されたと思われます。 両者の折衷案としては、 わたしは、最初であり、最後であり、また、生きている者である。 となるでしょうか。これをどのように訳すにしても、説明が必要になります。 この個所が強調形の「わたしは・・・である」ということばで表されているということは、イエス・キリストが、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という御名の主、すなわち、契約の神である主、ヤハウェであられることを意味しています。 出エジプト記2章23節ー24節には、 イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。 と記されています。 神さまは出エジプトの時代に、エジプトという強大な帝国の奴隷となって、苦役に服していたイスラエルの民をご覧になって、ご自身がその一方的な恵みによってイスラエルの民の父祖であるアブラハム、イサク、ヤコブに与えてくださった契約を思い出してくださいました。神さまがご自身の契約を思い出してくださるということは、それまで、その契約を忘れておられたという意味ではありません。知恵と知識において無限、永遠、不変であられる神さまが、何かをお忘れになるということはありえません。その神さまがご自身の契約を思い出してくださったということは、神さまがご自身の契約に基づいて、いよいよ、ことをなしてくださるようになったということを意味しています。言うまでもなく、この場合は、イスラエルの民をエジプトという強大な帝国の奴隷の身分から解放してくださる贖いの御業を遂行してくださることです。 そのために、神さまはモーセを立ててエジプトの王パロの許に遣わされました。そのときに、神さまはモーセの求めに応じて、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という御名を啓示してくださいました。この御名の意味の根底には、神さまが何ものにも依存されることなく、ご自身で存在される方であることがあります。そして、創造の御業によってこの歴史的な世界のすべてのものをお造りになり、歴史をとおして真実にすべてのものを支え、導いてくださっておられる方であることが示されています。 後に啓示されるようになることを読み込みますが、エレミヤ書33章20節には、契約の神である主、ヤハウェがご自身の契約のことを「昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約」と呼んでおられることが記されています。また、25節ー26節には、 主はこう仰せられる。「もしわたしが昼と夜とに契約を結ばず、天と地との諸法則をわたしが定めなかったのなら、わたしは、ヤコブの子孫と、わたしのしもべダビデの子孫とを退け、その子孫の中から、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ばないようなこともあろう。しかし、わたしは彼らの繁栄を元どおりにし、彼らをあわれむ。」 と記されています。ここには、主が創造の御業において造り出されたものと契約を結んでおられること、そして、その契約に基づいて、すべてのものを真実に支え、導いてくださっていることが示されています。神さまは、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という御名の主として、創造の御業の初めから、お造りになったすべてのものをご自身の契約のうちに入れてくださり、その契約に基づいて、すべてのものを真実に支え、導いてくださっておられます。それは今日に至るまで変わっていません。本日も、この造られた世界に新たな一日が加えられ、すべてのものが調和のうちに保たれています。 このように、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という御名の主は、創造の御業の初めから、ご自身の契約に真実な方です。その主が、人類の堕落の後には、一方的な恵みによって、アブラハム、イサク、ヤコブに契約を与えてくださり、その契約に基づいて、出エジプトの時代に、イスラエルの民をエジプトの奴隷の身分から贖い出してくださいました。このことは、古い契約の下での「地上的なひな型」としてなされた贖いの御業でした。その最終的な成就は、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という御名の主であられ、無限、永遠、不変の栄光の神であられる御子イエス・キリストが、その人としての性質において、十字架におかかりになって、私たちの罪を完全に贖ってくださり、私たちを罪の結果である死と滅びの中から贖い出してくださったことにあります。それはまた、罪と死の力に縛られている者を支配している暗やみの主権者の主権の下から私たちを解放して、ご自身の御国に導き入れてくださったことにあります。コロサイ人への手紙1章13節ー14節に、 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。 と記されているとおりです。 先ほどお話ししましたように、神さまは、ご自身が、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という御名の主であられることに基づいて、預言者イザヤをとおして、イザヤ書41章4節に出てくる、 わたし、主こそ初めであり、 また終わりとともにある。わたしがそれだ。 というみことばや、44章6節に出てくる、 わたしは初めであり、 わたしは終わりである。 というみことば、さらには、48章12節に出てくる、 わたしは初めであり、また、終わりである。 というみことばを啓示してくださいました。 これらのみことばは、契約の神である主、ヤハウェが、「初めであり」、「終わりである」方として、歴史の主であられることを意味しています。 契約の神である主、ヤハウェが「初めであり」、「終わりである」ということは、主が、同時に、「初めであり」、「終わりである」方であるということを意味しています。主は時間の流れの中にある方ではなく、時間を越えた方であられ、永遠の主であられます。これは、主が、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という御名の神であられることとつながっています。 主は創造の御業において、この歴史的な世界をお造りになって、この世界の歴史を始められた方です。そして、ご自身の契約に示されているみこころにしたがって、この世界の歴史を終わらせる方でもあられます。また、主は、この歴史的な世界の源であられるとともに、目的でもあられます。それで、主がお造りになったこの世界は、主の栄光を現すことを目的としている世界です。そして、この世界は歴史的な世界として造られていますので、歴史の進展とともに、この世界は主の栄光をより豊かに現すようになります。 さらに、主が「初めであり」、「終わりである」という言い方は、メリスムスと呼ばれる表現方法です。これによって、主はこの歴史的な世界の「初め」と「終わり」に関わっておられるだけでなく、その間のすべての時代の、すべてのもの、すべてのことに関わっておられることが示されています。主は、常に、「初めであり」、「終わりである」方として、ご自身がお造りになったこの歴史的な世界の一つ一つのものを治めてくださり、この世界に起こりくるすべてのことを支え、導いてくださって、この世界の歴史の進展とともに、ご自身の愛といつくしみ、恵みとまことに満ちた栄光を、より豊かに現してくださいます。 イザヤの預言のことばは、主がご自身の契約に背いて罪を重ねているユダ王国の指導者たちと民たちをおさばきになることを警告しつつ、それが避けられないことを伝えています。けれどもそれで終わってはいません。先ほど引用しました41章ー48章に出てくる契約の神である主、ヤハウェが「初めであり」、「終わりである」ということを啓示しているみことばは、ユダ王国の民が自分たちの犯した罪のためにバビロンの捕囚というさばきを受けることになるけれども、主、ヤハウェは、ご自身が一方的な恵みによって、アブラハム、イサク、ヤコブに与えてくださった契約に基づいて、ご自身の契約の民をバビロンという、エジプトにもまさって強大な帝国による捕囚の身分から解放してくださるということを預言しています。 それが実現するのは、主が、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という御名の神であられ、「初めであり」、「終わりである」方であり、この世界の歴史の主であられるからです。実際に、主はペルシャを興し、その王であるクロスを用いて、バビロンの捕囚となっていたユダヤ人を解放してくださいました。このことも、先ほど触れました出エジプトの贖いの御業と同じように、やがて来たるべき最終的な贖いの御業を指し示す「地上的なひな型」でした。 イザヤ書40章以下には、バビロンの捕囚にあっている民を主が解放してくださることを預言するみことばが記されています。それは出エジプトの贖いの御業を思い起こさせることばで記されています。モーセの時代の出エジプトの贖いの御業を「第一の出エジプト」であると呼ぶとしますと、バビロンの捕囚からの解放の御業は「第二の出エジプト」と呼ぶことができます。この二つが「地上的なひな型」として「最終的な出エジプト」としての、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた、主の契約の民のための贖いの御業を指し示していました。 黙示録1章17節後半に記されています、 わたしは、最初であり、最後である。 というイエス・キリストのみことばは、イエス・キリストが、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という御名の主であられ、「初めであり」、「終わりである」方であられることを意味しています。 「初めであり」、「終わりである」方であられるイエス・キリストは、実際に、出エジプトの贖いの御業とバビロンの捕囚からの解放の御業が「地上的なひな型」として指し示していた、まことの贖いの御業を遂行してくださいました。ご自身の十字架の死をもって、私たち主の契約の民を罪とその結果である死と滅びから贖い出してくださり、罪の下にある者たちを支配している暗やみの主権者の圧制から解放してくださいました。そればかりでなく、十字架の死に至るまで神さまのみこころに従い通されたことへの報いとして栄光を受けて死者の中からよみがえられたことによって、私たちご自身の民を永遠のいのちに生きるものとしてくださいました。 これらのことは、古い契約の下にあった時代には、約束として示されていたことであって、実現していなかったことです。このことを踏まえますと、黙示録1章17節後半に記されています、 わたしは、最初であり、最後である。 というイエス・キリストのみことばは、それで終わっていなくて、さらに続いており、全体としては、 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。 となっていることの意味が見えてきます。 わたしは、最初であり、最後である。 というみことばは、古い契約の下でも契約の神である主に当てはめられていて、これとして、ひとまとまりになっていました。このみことばが示すことには、それとしての完結性があるのです。しかし、黙示録1章17節後半ー18節に記されているイエス・キリストのみことばは、これで終わらないで、新たに「生きている者である」というみことばによる啓示が付け加えられており、さらに、 わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。 という、それについての説明がなされています。 日を改めてお話ししますが、「生きている」というみことばは、古い契約の下でも、主に当てはめられています。けれども、 わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。 という意味で、 わたしは・・・生きている者である。 というみことばは、ご自身の十字架の死をもって、私たち主の契約の民を罪とその結果である死と滅びから贖い出してくださり、罪の下にある者たちを支配している暗やみの主権者の圧制から解放してくださって、「最終的な出エジプト」の贖いの御業を成し遂げてくださったイエス・キリストだけに当てはまることです。 ですから、 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。 というみことばは、イエス・キリストにおいて、契約の神である主、ヤハウェの約束がすべて成就しており、イエス・キリストにおいてこそ、主が、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という御名の神であられ、「初めであり」、「終わりである」方であられることが、最も豊かに現され、このうえなく鮮明に表されているということを意味しています。 |
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