黙示録講解

(第142回)


説教日:2013年12月8日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章9節ー20節
説教題:栄光のキリストの顕現(43)


 黙示録1章17節後半ー18節には、栄光のキリストが黙示録の著者であるヨハネに語られた、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

という、みことばが記されています。
 これまで、このイエス・キリストのみことばの最初に出てくる、

 わたしは、最初であり、最後である

というみことばに関連することとして、私たち主の民も、終わりの日に、主のさばきの御座の前で、評価としてのさばきを受けるようになるというみことばの教えについて、いくつかのことをお話ししてきました。今日は、その最後のまとめをしたいと思います。
 終わりの日に、私たちが主のさばきの御座の前で、評価としてのさばきを受けるようになるということは、私たちが地上での歩みの中で犯した罪に対する刑罰の重さを定めるためのさばきを受けるということではありません。神さまはその一方的な愛によって私たちを愛してくださり、私たちの罪を贖ってくださるために、ご自身の御子イエス・キリストをお遣わしになりました。御子イエス・キリストは私たちを愛してくださって、その地上の生涯の終わりに、十字架におかかりになって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって、すべて受けてくださいました。ですから、私たちの罪に対するさばきは、すでに、御子イエス・キリストの十字架の死において執行されて終わっています。私たちはもう私たちが地上で犯した罪に対する刑罰としてのさばきを受けることはありません。
 終わりの日に再臨される栄光のキリストは、ご自身がその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、新しい天と新しい地を再創造されます。そして、私たちがその栄光のキリストの御座の前で評価としてのさばきを受けるのは、父なる神さまが栄光のキリストにあって、私たちに新しい天と新しい地を受け継がせてくださるためです。そして、このことを実現してくださるために、父なる神さまは御子イエス・キリストをとおして、私たちのための贖いの御業を成し遂げてくださいました。そして、御霊によって、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業を私たちに当てはめてくださっています。
 イエス・キリストは十字架におかかりになって、私たちご自身の民の罪を完全に贖ってくださり、私たちを罪の結果である死と滅びの中から贖い出してくださいました。それだけではありません。イエス・キリストは十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことに対する報いとして、栄光を受けて死者の中からよみがえられました。それは、私たちをご自身のよみがえりにあずからせてくださって、新しいいのちに生きるものとしてくださるためでした。
 イエス・キリストはこのことを実現してくださるために、天に上られ、父なる神さまの右の座に着座されました。そして、そこから御霊を遣わしてくださいました。そのことが実現した最初の聖霊降臨節の日の出来事を記している使徒の働き2章33節には、

ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。

という、その出来事についてのペテロのあかしのことばが記されています。
 聖霊は三位一体の神さまの第三位格であられ、ご自身が無限、永遠、不変の栄光の主です。そのお働きとしては、神さまの天地創造の御業においては、父なる神さまのみこころにしたがって、創造の御業を遂行されたのは御子です。御子が御父のみこころに従い、御霊によって、創造の御業を遂行されました。御霊は天地創造の御業の初めから、この造られた世界にご臨在され、御子がお造りになった一つ一つものの特性を生かし、それぞれの存在を支え、導いてくださっています。
 イザヤ書66章1節ー2節には、

 はこう仰せられる。
 「天はわたしの王座、地はわたしの足台。
 わたしのために、あなたがたの建てる家は、
 いったいどこにあるのか。
 わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。
 これらすべては、わたしの手が造ったもの、
 これらすべてはわたしのものだ。」

という主のみことばが記されています。これは主が、ご自身のお造りになったこの世界、今日のことばで言いますと、大宇宙に、ご臨在しておられることを意味しています。これは、主が御霊によってこの造られた世界にご臨在しておられるということです。御霊によってこの造られた世界にご臨在しておられる主は、お造りになったすべてのものの特性を、御霊によって生かし、一つ一つのものの存在を支え、導いてくださっています。
 天地創造の御業の時からずっと、そのような働きをしておられる御霊が、今から2千年前の聖霊降臨節(ペンテコステ)の日に遣わされた、注がれたということはどういうことでしょうか。それは、御霊が、それまでなしておられたお働きをやめられることなく、そのときから新たに、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになり、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業を、私たち主の民に当てはめてくださるようになったということです。
 御霊は私たちを、私たちのために十字架におかかりになって罪の贖いを成し遂げてくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえられ、父なる神さまの右の座に着座しておられるイエス・キリストと一つに結び合わせてくださっています。
 ヨハネの福音書15章5節には、

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

というイエス・キリストの教えが記されています。このように、私たちをイエス・キリストと結び合わせてくださっているのは御霊です。その御霊のお働きによって、私たちはイエス・キリストのうちにとどまり、イエス・キリストも私たちの中にとどまっておられます。イエス・キリストは御霊によって私たちを生かしてくださり、私たちをとおして実を結んでくださいます。
 このように、私たちは御霊によってイエス・キリストと一つに結び合わされていますので、ガラテヤ人への手紙2章20節に記されていますように、

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

と言うことができるのです。


 これらのことと関連しているローマ人への手紙8章9節ー11節を見てみましょう。そこには、

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

と記されています。
 ここには御霊のお働きのことが記されています。
 まず、御霊がどのように呼ばれているかを見てみましょう。
 9節前半では、

 もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、

と言われていますように、御霊は「神の御霊」と呼ばれています。そして、9節後半で、

 キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

と言われていますように、御霊はまた「キリストの御霊」とも呼ばれています。御霊は「神の御霊」としてだけでなく、「キリストの御霊」として私たちのうちに住んでくださっています。さらに、10節に、

もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。

と記されていますように、御霊が「キリストの御霊」として私たちのうちに住んでくださっていることは、「キリストが」私たちのうちにおられることであると言われています。イエス・キリストは御霊によって私たちのうちにいてくださるのです。
 私たちは御霊によって、父なる神さまの右の座に着座しておられるイエス・キリストと一つに結び合わせていただいています。その私たち一人一人のうちには、やはり御霊によって、イエス・キリストが住んでいてくださっています。
 次に、御霊のお働きについてみてみましょう。
 9節前半では、

もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。

と言われています。
 ここで、

 もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、

と言われているときの「もし・・・なら」という言い方は、実際にそうであるという意味合いを伝えています。この9節ー11節のそれぞれの節に「もし・・・なら」という言い方が出てきますが、すべてこれと同じく、実際にそうであるという意味合いを伝えています。このように、ここ9節前半で、

 もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、

と言われているのは、「神の御霊」が私たちのうちに住んでおられるということを踏まえている条件文です。しかも、この「住んでおられる」は現在時制で、常に変わることがない事実を表しています。それで、このことを生かして、少し大胆に訳しますと、9節前半は、

神の御霊があなたがたのうちに住んでおられますから、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。

となります。
 そして、9節後半では、

 キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

と言われています。この場合は、「キリストの御霊を持たない」ことが取り上げられていますので、一般的なこととして「キリストの御霊を持たない人は」と言われていて、「あなたがたは」とは言われていません。「キリストの御霊を持たない」ということは「あなたがた」には当てはめられていないのです。これは、「あなたがた」すなわちローマにある教会の信徒たち、ひいては、私たち主の民すべてが「キリストの御霊」をもっていることを踏まえているための区別です。そして、この、

 キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

というみことばからも、御霊は私たち主の民すべてのうちに住んでくださっていることが分かります。
 9節前半に戻りますが、ここでは、

もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。

と言われていて、「御霊」と「」が対比されています。このように「御霊」と対比されている「」は、人それぞれの肉体のことではなく、この世、この時代全体と、この世、この時代に属する人々を特徴づけ、根底から動かしている動因、力です。
 エペソ人への手紙2章1節ー2節には、

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

と記されています。ここで「この世の流れに従い」と訳されていることばは、直訳では「この世の時代に従い」です。この「この世の時代」は終わりの日まで続く時代のことで、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによってすでに始まっている「新しい時代」と対比される「古い時代」、あるいは、終わりの日に再臨される栄光のキリストが再創造される新しい天と新しい地に属する「来たるべき時代」と対比される「この時代」のことです。この「この世の時代」を特徴づけ、根底から動かしている動因、力が「肉」です。
 ここには「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊」が出てきますが、この「空中の権威を持つ支配者」は「肉」にある者たちを支配しています。けれども、ヨハネの手紙第一・4章4節には、

子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。

と記されており、5章18節には、

神によって生まれた者はだれも罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。

と記されています。「空中の権威を持つ支配者」は私たち神の子どもたちに対して、外から影響を与え、誘惑しますが、神の子どもたちを支配して、神さまから引き離し、滅びに至らせることはできません。
 このようにして、かつての私たちは、

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

と言われている状態にありました。そのときの私たちは「この世の時代」の歴史と文化を造っていました。それは、終わりの日に再臨される栄光のキリストの御臨在の御前に焼き尽くされてしまう歴史でありその文化です。
 しかし、ローマ人への手紙8章9節前半では、今の私たちの状態が、

もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら[神の御霊があなたがたのうちに住んでおられますから]、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。

と言われていました。
 すでに繰り返しお話ししてきましたように、この「御霊」は、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによってすでに始まっている「新しい時代」、「来たるべき時代」を特徴づけ、根底から動かしている動因、力です。「御霊」は常に変わることなく、私たち主の民のうちに住んでくださっています。そして、私たちを「新しい時代」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造るように導いてくださっています。
 「新しい時代」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造るといっても、何か特別なことをするということではありません。神さまとともに愛のうちを歩む私たちの人生の足跡がそのようになっているのです。それは、コリント人への手紙第一・10章31節に、

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。

と記されていますように、ごく日常的なことである、飲むこと、食べることから始まっています。私たちは飲むこと、食べることにおいて、神さまの愛といつくしみを汲み取ります。私たちが飲むことも、食べることも、神の子どもとして、神さまの御臨在の御前においてなすことです。
 このようにして「御霊」が私たち主の民を通して生み出してくださる「新しい時代」、「来たるべき時代」の歴史は、すでに始まっていますが、終わりの日に再臨される栄光のキリストが、ご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて再創造される新しい天と新しい地に属しており、新しい天と新しい地につながっていきます。
 このように、私たち主の民は「肉の中にではなく、御霊の中に」います。それで、ガラテヤ人への手紙5章13節ー16節では、

兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

と戒められています。ここでは、私たちが御霊に導いていただいて、愛をもって互いに仕え合うようにということが戒められています。ここだけでは分かりにくいのですが、御霊によって導いていただいて愛のうちを歩むことによって、「新しい時代」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造るようになること、そして、新しい天と新しい地を受け継ぐことにつながっていくことが示されています。そのことは、19節ー21節において「肉の行い」を数え上げた後で、

前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。

と述べていることから推察されます。
 ローマ人への手紙8章に戻りますが、10節には、

もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。

と記されています。この場合の、

 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら

ということばも、実際に、キリストが私たちのうちにおられること、父なる神さまの右の座に着座しておられる栄光のキリストが、御霊によって、私たちのうちにおられることを踏まえています。その上で、

 からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。

と言われています。この「からだ」(ト・ソーマ)は先ほどの「御霊」と対比される「」(サルクス)とは違います。私たちの「からだ」は私たちの罪のために死んでいきます。最初の日とアダムが神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしてしまってから、人は罪がもたらす死の力に捕らえられてしまっています。私たちは、栄光のキリストの再臨の日まで生きているのであれば別ですが、肉体的に死にます。けれども、栄光のキリストが御霊によって私たちのうちにおられますので、肉体的に死ぬことは、終わりの日に、自分の罪の刑罰を受けて滅びるようになることにつながっていくことではなくなっています。むしろ、ルカの福音書23章43節に記されていますように、十字架につけられたイエス・キリストは、ともに十字架につけられていてご自身を信じた犯罪人に、

まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。

と言われました。これは、イエス・キリストを信じた者が、肉体的に死ぬと直ちにそのたましいがきよめられて、栄光のキリストとともに「パラダイス」にあるようになるということを示しています。
 ローマ人への手紙8章10節の最後は、新改訳では、

 霊が、義のゆえに生きています。

と訳されています。ここで「」と訳されていることば(プネウマ)は、新改訳のように私たちの「」を意味しているのか、「御霊」を意味しているか、見方が別れています。この、

 霊が、義のゆえに生きています。

と訳されている部分は、直訳では、問題のことばは「プネウマ」ですのでそのまま用いますが、

 プネウマはいのちです。

となります。8章でこれまで記されてきたことの中では、このことば(プネウマ)は、一貫して「御霊」を表しています。特に、2節では「御霊」は「いのちの御霊」と呼ばれています。また、新改訳が「生きています」と訳していることば(ゾーエー)は「いのち」を意味している名詞です。このようにより根本的な意味で「いのち」であると言われるのは、私たちの霊ではなく、「御霊」です。つまり、罪のゆえに死んでいるからだを生かすのは、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊であるということです。
 このように、ここでは、

 御霊は義のゆえにいのちです。

と言われていますが、この「」がどのような「」かについても、意見が分かれています。一つは、私たちが信仰によって受け取った義であるという理解であり、もう一つは、信仰によって義と認められた者が御霊によって歩むことによって生み出す義であるという理解です。結論的に言いますと、これは、私たちが信仰によって受け取った義であると考えられます。私たちが義と認められ、神の子どもとされ、御霊に導かれて、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛の交わり、また、神の家族の兄弟姉妹たちとの愛の交わりのうちに生きることができる根拠は、私たちが信仰によって受け取った義だけです。決して、私たちが義と認められて救われた後になした行いによる義ではありません。というより、私たちのうちには、私たちが義と認められて救われた後にも罪の性質が残っており、私たちがなした行いには常に私たち自身の罪が影を落としています。それで、私たちは神さまの御前に義を立てることはできません。しかし、私たちが信仰によって受け取った義は、イエス・キリストがその地上の生涯において、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことによって立ててくださった義です。それゆえに完全な義です。御霊はこのイエス・キリストが立ててくださった義に基づいて、私たちのうちに住んでくださり「いのち」として働いてくださっています。
 このことは、次の11節に記されています、

もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

という教えにつながっていきます。
 新改訳には訳されていませんが、ここに記されていることは、軽い対比を表す「しかし」ということば(デ)で、10節に記されていることと対比される形になっています。それは、10節までに記されていることが現在の私たちの状態のことであるのに対して、11節に記されていることが将来における贖いの御業の完成のことを記していることによってると考えられます。
 この場合も、

もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、

と言われているときの「もし・・・なら」という言い方も、実際にそうであることを表しています。
 そして、ここでは御霊のことが「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊」と言われています。この「イエスを死者の中からよみがえらせた方」は父なる神さまのことです。この後で「キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方」と呼ばれています。これは新改訳の訳ですが、本文批評の上からは「キリストを死者の中からよみがえらせた方」の可能性の方が高いと考えられます。
 いずれにしましても、ここでは、今から2千年前に、十字架の死に至るまでご自身のみこころに従い通されたイエス・キリストに栄光をお与えになって、死者の中からよみがえらせた父なる神さまは、終わりの日に、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって、私たちのからだを栄光のからだによみがえらせてくださるということが教えられています。これは、御霊が私たちを栄光のキリストと一つに結び合わせてくださっていることによっています。そして、私たちはすでに栄光のキリストと一つに結び合わされており、イエス・キリストとともに死んで、イエス・キリストともによみがえっています。ローマ人への手紙6章3節ー5節には、

それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

と記されています。これは父なる神さまが私たちに対してなしてくださることです。父なる神さまは、すでに、御霊によって私たちに対してなしてくださっていることを、終わりの日に完全に実現してくださいます。
 それはまた、栄光のキリストご自身が、ご自身の御霊によって、私たちに対してなしてくださることでもあります。ヨハネの福音書6章37節ー40節に、

父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」

と記されているとおりです。
 ここには、「みな」、「すべての者」、「ひとりひとり」、「ひとりも失うことなく」というように、イエス・キリストが私たち「ひとりひとりを」例外なく覚えていてくださって、救いの完成へと至らせてくださることが示されています。
 終わりの日に、私たちが栄光のキリストの御座の前で評価としてのさばきを受けるのは、父なる神さまが栄光のキリストにあって、私たちに新しい天と新しい地を受け継がせてくださるためのことです。しかし、そのすべては、御子イエス・キリストが、その十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって、私たちに対してなしてくださることです。すべては父なる神さまの愛から出たことであり、御子イエス・キリストの恵みによることです。私たちはこの愛と恵みを信仰によって受け止め、その愛と恵みに包んでいただいて、御霊によって、愛のうちを歩むだけです。


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