黙示録講解

(第141回)


説教日:2013年12月1日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章9節ー20節
説教題:栄光のキリストの顕現(42)


 先主日は講壇交換がありましたので、黙示録からのお話はお休みいたしました。今日は黙示録からのお話に戻ります。
 黙示録1章17節後半ー18節には、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

という、栄光のキリストがヨハネに語られたみことばが記されています.今お話ししているのは、この最初に出てくる、

 わたしは、最初であり、最後である

というみことばと関連することです。
 この、

 わたしは、最初であり、最後である

というみことばは、イエス・キリストがこの歴史的な世界の主であられることを意味しています。イエス・キリストは創造の御業を遂行されて、この世界とその歴史を始められた方であり、この世界のすべてのことを支え、導き、治めておられる方であり、歴史を終わらせる方であることを意味しています。
 イエス・キリストが歴史の主として、この世界の歴史を終わらせると言いましても、それでこの世界が消滅してしまうということではありません。神さまはそのみことばをとおして、世の終わりには栄光のキリストが再び来られて、その時に地上に生きている者も、すでに肉体的に死んでしまっている者も含めて、すべての人をおさばきになることを啓示しておられます。その時、栄光のキリストは、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人が造り主である神さまに対して犯した罪を、すべて、神さまの義の尺度に従っておさばきになり、完全に清算されます。これによって、それまでの人類の歴史に一つの区切りがつけられますが、それでこの世界が終わってしまうのではありません。
 父なる神さまはご自身に対して罪を犯し、ご自身に敵対して歩んでいた私たちを愛してくださり、ご自身の御子イエス・キリストを私たちのための贖い主として立ててくださいました。イエス・キリストは、この父なる神さまのみこころにしたがって、今から2千年前に、十字架におかかりになって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによる刑罰を余すところなくお受けになりました。これによって、私たちの罪をすべて完全に贖ってくださいました。また、イエス・キリストは、そのように十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことに対する報いとして栄光を受けて、死者の中からよみがえられました。このことによって、私たちのために義を立ててくださり、復活のいのち、すなわち、永遠いのちを獲得してくださいました。
 終わりの日に、栄光のキリストはご自身がすでに成し遂げておられる贖いの御業に基づいて、新しい天と新しい地を創造されます。神さまが最初の創造の御業によって造り出されたこの世界は、この世界の歴史と文化を造る使命を委ねられている人の罪による堕落によって、虚無に服してしまっています。栄光のキリストはご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、この世界を再創造されます。最初の創造の御業によって造り出されたときのこの世界には、神さまの栄光の御臨在が満ちていました。新しい天と新しい地は、それよりもさらに豊かな栄光に満ちた神さまの御臨在がある世界です。新しい天と新しい地は、そのように豊かな栄光に満ちた神さまの御臨在にふさわしく再創造される世界です。そして、この栄光のキリストが再創造される新しい天と新しい地も歴史的な世界です。神さまはこの新しい天と新しい地の歴史と文化を造る使命を、栄光のキリストがその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業にあずかっている、私たち主の民に委ねてくださることを啓示してくださっています。
 このことは、最終的には、終わりの日に栄光のキリストが再び来られて、私たちを栄光ある者としてよみがえらせてくださるとともに、新しい天と新しい地を再創造されることによって、完全に実現します。けれども、この新しい天と新しい地に属する歴史はすでに始まっています。今から2千年前にイエス・キリストは十字架におかかりになって、私たちご自身の民の罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきをお受けになりました。それは、世の終わりに執行されるべき最後のさばきに当たります。また、イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことに対する報いとして栄光を受けて、死者の中からよみがえられたことも、世の終わりに起こるべき、人がより豊かな栄光によみがえることに当たります。ですから、今から2千年前に、イエス・キリストにおいて、終わりの日に起こるべきことが歴史の現実として起こっています。栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストは、新しい天と新しい地に属する栄光の主です。
 イエス・キリストは、今、天において、父なる神さまの右の座に着座して、天にあるものと地にあるもののすべてを治めておられます。そのイエス・キリストは、ご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊をお遣わしになりました。そして、この御霊によって、私たちをご自身と一つに結び合わせてくださり、私たちを造り変えてくださり、新しく生まれさせてくださって、復活のいのちによって生きる者としてくださいました。これによって、私たちはイエス・キリストのうちにある者となり、イエス・キリストにあって、新しい天と新しい地に属する者としていただいています。コリント人への手紙第二・5章17節に、

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

と記されているとおりです。
 そのようにして、御霊のお働きによって新しく生まれている私たちは、福音のみことばを悟ることができるようになり、十字架にかかって死んでくださり、栄光を受けてよみがえられたイエス・キリストを信じるようになりました。神さまはその私たちをイエス・キリストが十字架の死に至るまでご自身のみこころに従い通されたことによって立ててくださった義にあずからせてくださり、私たちを義と認めてくださいました。そして、私たちをご自身の子として迎え入れてくださいました。
 父なる神さまの右の座に着座しておられるイエス・キリストは、御霊によって、私たちを神の子どもとして支えてくださり、導いてくださり、治めてくださっています。その中心にあることは、私たちが父なる神さまの一方的な愛に包んでいただいて、神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きることであり、神の家族の兄弟姉妹たちとの愛の交わりのうちに生きることです。ローマ人への手紙8章14節ー15節に、

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

と記されているとおりです。
 このように、私たちはイエス・キリストにあって、すでに、新しい天と新しい地に属する者としていただいています。それで、私たちは地上にありながら、新しい天と新しい地に属する歴史と文化を造る使命を果たしています。それは、私たちの血肉の力によることではなく、私たちを新しく造り変え、新しく生まれさせてくださって、復活のいのちに生きる者としてくださっている栄光のキリストが、ご自身の御霊によって私たちを支えてくださり、導いてくださってなしてくださることです。



 このような神さまのご計画に従って、神さまはみことばをとおして、私たち主の民も、終わりの日に、主のさばきの御座の前で評価としてのさばきを受けるようになるということを啓示してくださっています。これは、私たち主の民が地上の歩みにおいて犯した罪の刑罰を受けるようになるためのさばきではありません。私たちに対する最終的なさばきはすでにイエス・キリストの十字架において執行されて終わっています。それで、私たちはもはや私たちがすでに犯した罪やこれから犯すであろう罪に対する刑罰としてのさばきを受けることは決してありません。私たちが終わりの日に、主のさばきの御座の前で評価としてのさばきを受けるようになるということは、私たちが御霊によって栄光のキリストと一つに結ばれて、新しい天と新しい地に属する者となっていること、そして、御霊に導いていただいて、地上にありながら、新しい天と新しい地に属する歴史と文化を造る使命を果たしていることによっています。神さまは私たち主の民が地上の生涯において新しい天と新しい地に属する歴史と文化を造る使命を果たしたことに対する評価をしてくださるのです。その目的は、私たち主の民に終わりの日に再臨される栄光のキリストが再創造される新しい天と新しい地を受け継がせてくださり、その新しい天と新しい地の歴史と文化を造る使命を委ねてくださることにあります。
 コリント人への手紙第一・3章10節ー17節には、

与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。

と記されています。
 ここに記されていることにつきましては、すでにお話ししたことがありますので、今お話ししていることと関連することだけを結論的にお話しします。ここではイエス・キリストを土台として、神さまが御霊によってご臨在しておられる「神の神殿」を建て上げることが記されています。もちろん、これは、

 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられる

と言われていますように、地上の建物としての神殿ではありません。エペソ人への手紙1章23節に、

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と記されている、「キリストのからだ」である教会のことです。
 コリント人への手紙第一・3章12節では、「神の神殿」を建て上げる際に、人によっては「金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てる」と言われています。けれども、ある人が「金、銀、宝石」で建てたのか、それとも「木、草、わら」で建てたのかはすぐには分からないというか、人の目には分からないことです。それで、ここでは、

その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。

と言われています。「その日」とは世の終わりの日のことです。そして、

 その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためす

と言われているときの「」は、栄光のキリストの御臨在に伴う「」のことであると考えられます。新しい天と新しい地には、父なる神さまと御子イエス・キリストの御臨在の栄光がこのうえなく豊かに満ちています。「金、銀、宝石」はその栄光の御臨在の御前にも残るものであり、「木、草、わら」はその栄光の御臨在の御前で焼き尽くされてしまうものです。言い換えますと、「金、銀、宝石」は新しい天と新しい地に属するものであり、「木、草、わら」は主の栄光の御臨在の御前に焼き尽くされてしまう、この世、この時代に属しているものです。そして、「金、銀、宝石」はイエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって生み出されるものであり、「木、草、わら」はその御霊に対立して働く「肉」によって生み出されるものです。この場合の「肉」は肉体のことではなく、この世、この時代を根底から動かし、この世、この時代を特徴づけているものです。
 御霊は私たちを神の子どもとして導いてくださり、私たちに父なる神さまの愛を確信させてくださり、私たちを神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者としてくださり、神の家族の兄弟姉妹たちとの愛の交わりのうちに生きる者としてくださいます。これに対して「肉」は、私たちを罪の力によって縛りつけ、私たちが罪の自己中心性に突き動かされて生きるように仕向けます。これによって、父なる神さまとの交わりは形骸化し、神の家族の兄弟姉妹たちへの愛は党派心やねたみなどによって変質してしまいます。実際、パウロがこの教えを記しているのはコリントにある教会に分派、分裂があり、いがみ合いがあったからです。17節の、

もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。

という教えは、コリントにある教会の信徒たちへの警告でした。ガラテヤ人への手紙5章13節ー16節にも、

兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

という教えと警告が記されています。

 今お話ししていることとのかかわりで大切なことは、私たち主の民が「金、銀、宝石」によって建てたもの、すなわち、御霊に導かれて、父なる神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるとともに、神の家族の兄弟姉妹たちとの愛の交わりのうちに生きることによって築かれたものは、終わりの日に再臨される栄光のキリストの御臨在の御前においても残るということです。それは新しい天と新しい地に属しているものであり、新しい天と新しい地へとつながっていくということです。言い換えますと、私たちは地上の歩みにおいて、御霊に導いていただいて、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるとともに、神の家族の兄弟姉妹たちとの愛の交わりのうちに生きることによって、新しい天と新しい地に属している歴史と文化を造る使命を果たしていくことになるのです。
 私たちをとおして、この新しい天と新しい地に属している歴史と文化を生み出してくださるのは御霊ですし、そのようにして生み出される新しい天と新しい地の歴史と文化を特徴づけているのは、御霊の実である愛です。
 この愛は御霊が私たちのうちに生み出してくださるものですが、父なる神さまから出ています。ヨハネの手紙第一・4章7節ー11節には、

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

と記されています。
 私たち主の民が終わりの日に、主のさばきの御座の前で評価としてのさばきを受けるようになるのは、私たちが御霊に導いていただいて、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛に包んでいただき、神さまとの愛にあるいのちの交わりと神の家族の兄弟姉妹たちとの愛の交わりのうちを歩むことによって造り出した新しい天と新しい地に属する歴史と文化を評価し、認めてくださるためです。それによって、私たちが地上において造り出した新しい天と新しい地に属する歴史と文化を、栄光のキリストが再創造される新しい天と新しい地へと生かしてくださるとともに、私たちに新しい天と新しい地の歴史と文化を造る使命を委ねてくださるためです。

 このことを踏まえて、先ほど取り上げましたコリント人への手紙第一・3章10節ー17節の少し後の4章5節に記されていますみことばを見てみましょう。そこには、

ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。

と記されています。
 これは先ほどお話ししました、コリントにある教会の信徒たちの間に分派、分裂があったことに対する教えの中で語られていることです。ですから、これは、先ほど引用しました3章12節ー15節に記されています、

もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。

という教えとつながっています。4章5節で、

あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。

と言われているのは「何についても」当てはまることであると言われていますが、とりわけ、だれが「金、銀、宝石」あるいは「木、草、わら」で建てているのかということに当てはまると考えられます。
 そこには、続いて、

 主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。

と記されています。ある人が「金、銀、宝石」あるいは「木、草、わら」で建てているのかということは、「やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされ」る主だけが判断できることであると言われています。「やみの中に隠れた事」と「心の中のはかりごと」は同じことを別の角度から述べたものであると考えられます。これは二つの方向で考えることができます。一つは、私たちの内側の状態です。私たちのうちにはなおも罪の性質が残っていて、私たちは罪の自己中心性によるさまざまな思いや欲望に動かされてしまっています。それが、私たちの根本的な動機を曇らせてしまっています。私たちは純粋に神さまと兄弟姉妹たちへの愛によってすべてのことをしているわけではありません。主はこのような私たちの内側の状態をすべてご存知です。もう一つは、私たちが実際になしていることです。私たちには心ひそかに抱く罪の自己中心性に動かされた具体的な思いや欲望がありますが、私たちはそれを隠して生きています。また、人に知られないで犯してしまった罪も隠して生きています。けれども、これらすべては、主の御前に明らかです。
 もちろん、これは、私たちが自分の現実をそのままさらけ出した方がいいという意味ではありません。そのようなことをすることによって、私たちは兄弟姉妹たちを深く傷つけてしまいますし、自分自身を別の意味での偽善者とする危険、「私は自分の罪深さを明らかにしているからいいのだ」というような、歪んだ自己義認の思いに陥る危険にさらしてしまいます。私たちは自分のうちにある罪の性質やそこから生まれてくる自己中心的な思いやことばや行いを主に告白して、イエス・キリストが成し遂げてくださっている罪の贖いに信頼して、御霊に導いていただいて歩むようにと、常に招かれています。
 このように、主は私たちの内側の状態も、私たちの心秘かな思いや欲望、また私たちが人知れず犯してしまった罪もすべてご存知です。そうであれば、私たちは、

 主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。

というみことばを前にして絶望する他はありません。私たちすべては「木、草、わら」で建てているとしか言えないことになります。
 けれども、これに続いて記されているのは、

 そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。

というみことばなのです。これは、すでにお話ししました、マタイの福音書25章一4節ー30節に記されています「タラントのたとえ」によるイエス・キリストの教えを思い起こさせます。主人から5タラントと2タラントを預けられたしもべが、それぞれ5タラントと2タラントを儲けたことに対して、主人はどちらのしもべにも同じように、

よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。

という称賛のことばをかけています。
 私たちは、自分が無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまに対して罪を犯して、神さまに敵対していたことを知っています。また、神さまはそのような私たちを愛してくださり、私たちを死と滅びの中から贖い出して、ご自分の民としてくださるために、御子イエス・キリストを十字架の死に引き渡されたことを知っています。その神さまの愛と、恵みの備えは変わることがありません。私たちは神の子どもとしていただいている今もなお自らのうちに罪の性質を宿しており、思いとことばと行いにおいて罪を犯してしまいます。そうではあっても、神さまはそのような私たちのためにも御子イエス・キリストによって完全な罪の贖いを備えてくださっています。そして、私たちがイエス・キリストに信頼するように招いてくださっています。そればかりでなく、そのような私たちを御霊によって導いてくださって、ご自身の愛を確信させてくださり、その愛に応答して、神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生き、神の家族の兄弟姉妹たちとの愛の交わりのうちに生きることによって、私たちを神の子どもとして成長させてくださいます。私たちは御霊によってイエス・キリストと一つに結ばれている神の子どもとして、常に、神さまの一方的な愛と、イエス・キリストの完全な贖いの恵みに包んでいただいて、新しい天と新しい地に属している者としての歩みをすることができるのです。それはただただ神さまの愛と恵みによっています。それでも、主は私たちの歩みを評価してくださり、

よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。

という称賛のことばをかけてくださるというのです。
 そうであるとしますと、私たちは何に対して忠実であるというのでしょうか。それは神さまがイエス・キリストによって示してくださっている私たちへの愛と恵みに信頼することに忠実であるということでしょう。
 テサロニケ人への手紙第一・5章23節ー24節には、

平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。

と記されています。
 私たちはこのすべてにおいて、神さまの愛と恵みとまことに満ちた栄光をほめたたえる他はありません


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