黙示録講解

(第140回)


説教日:2013年11月17日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章9節ー20節
説教題:栄光のキリストの顕現(41)


 黙示録1章17節後半ー18節には、栄光のキリストがヨハネに語られた、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

という、みことばが記されています。
 これまで、イエス・キリストが最初に語られた、

 わたしは、最初であり、最後である

というみことばと関連することとして、私たち主の民も、終わりの日に、主のさばきの御座の前で評価としてのさばきを受けるようになるということについてお話ししてきました。
 そして、このことを理解する上で問題となるみことばとして、先々主日には、マタイの福音書25章14節ー30節に記されている「タラントのたとえ」による、イエス・キリストの教えについてお話ししました。そして、先主日には、ローマ人への手紙14章7節ー13節に記されているみことばついてのお話を始めました。
 改めてローマ人への手紙14章7節ー13節を見ておきましょう。そこには、

私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。次のように書かれているからです。
 「主は言われる。わたしは生きている。
 すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、
 すべての舌は、神をほめたたえる。」
こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。

と記されています。
 先主日には、このみことばが全体として教えていることについて、コリント人への手紙第一・8章1節ー13節に記されていることを参考にしながらお話ししました。簡単に復習しながら、さらにお話を進めていきます。
 1節に、

 あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。

と記されていますように、このみことばは、「信仰の弱い人」を受け入れるべきことを教えるために記されています。そして、2節に、

何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。

と記されていますように、ここでは「信仰の弱い人」の典型的な例として、野菜以外のものを食べない人のことが取り上げられています。この人々は、偶像にささげられた肉は汚れていて、それを食べると汚されると考えて、偶像にささげられた肉を食べないようにしていたと考えられます。そして、市場には偶像にささげられた肉も、そうでない肉も売られていましたから、注意していても、何かの間違いで偶像にささげられた肉を食べてしまうかもしれないということで、野菜以外のものを食べないようにしていたと考えられます。
 これに対して、

 何でも食べてよいと信じている人もいます

と言われています。この人々は、コリント人への手紙第一・8章4節に、

私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。

と記されていますように、偶像の神は人間が考え出したものであり、人間が細工したものであって「実際にはないものである」ということを知っていると考えられます。偶像には神としての実体はなく、ただの材木か金属の塊と同じものです。それが神殿に祀られていても、その前で礼拝が行われていても、その偶像に神の実体がないことは変わりません。そのような偶像に肉がそなえられたとしても、それでその肉そのものが汚れることはありませんし、その肉を食べた人が汚されることはありません。実際、パウロはローマ人への手紙14章14節において、

主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。

と述べています。さらに、パウロはこのことに基づいて、コリント人への手紙第一・10章25節ー26節で、

市場に売っている肉は、良心の問題として調べ上げることはしないで、どれでも食べなさい。地とそれに満ちているものは、主のものだからです。

と教えています。「何でも食べてよいと信じている人」はこのような考え方に従って、野菜ばかりでなく肉も食べていたと考えられます。
 このことと、コリント人への手紙第一・8章4節ー7節に、途中を省略しますが、

私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。[・・・中略・・・]しかし、すべての人にこの知識があるのではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんで来たため偶像にささげた肉として食べ、それで彼らのそのように弱い良心が汚れるのです。

と記されていることに照らして見ますと、「信仰の弱い人」は神さまについてのみことばの教えを十分に理解して、自分自身の考え方と生き方を根本から変えるまでになっていないために、野菜以外のものを食べないようにしていることが分かります。また、それで、パウロはこの人々を「信仰の弱い人」と呼んでいると考えられます。
 これらのことを受けて3節には、

食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。

と記されています。
 「何でも食べてよいと信じている人」は、「信仰の弱い人」が「世の偶像の神は実際にはないものであること」が分かっていないために、野菜以外のものを食べないようにしていることを知っています。それで、野菜以外のものを食べないようにしている人のことを、偶像には神の実体がないということも分かっていないと言って、見下したり、侮ったりしがちになります。これが、

 食べる人は食べない人を侮ってはいけない

と言われていることの背景となっています。
 これに対して、野菜以外のものを食べないようにしている人から見ますと、偶像にささげられた肉かどうかを気にしないで肉を食べている人は偶像によって汚されることに無頓着であり、主のみこころに背いているように見えます。それで、野菜以外のものを食べないようにしている人、すなわち「信仰の弱い人」は、肉を食べている人をさばくようになりがちです。これが、

 食べない人も食べる人をさばいてはいけません。

と言われていることの背景となっています。


 先主日は、コリント人への手紙第一・8章1節ー3節に記されていることに基づいて、どちらかといいますと、「何でも食べてよいと信じている人」が野菜以外のものを食べないようにしている人を見下したり、侮ったりすることの問題の方を取り上げました。今日は、野菜以外のものを食べないようにしている人、すなわち「信仰の弱い人」が肉を食べている人をさばくことの問題の方にもう少し焦点を当ててお話しします。それはローマ人への手紙14章の前半の教えに示されていることでもありますので、その教えを取り上げていけば、おのずとその問題を取り扱うことになります。
 先ほどお話ししましたように、「信仰の弱い人」の根本的な問題は、みことばの教えを十分に理解して、自分自身の考え方と生き方を根本から変えるまでになっていないことにあります。けれども、「信仰の弱い人」は自分自身のみことばへの理解に不備があることに気づかないままに、みことばへのより深い理解に基づいて、自由に歩んでいる人のことを勝手気ままに歩んで、主のみこころに背いているとしてさばいてしまいます。これは決して珍しいことではありません。そのことは、先主日に取り上げました、律法学者やパリサイ人がイエス・キリストと弟子たちを非難したことに典型的に現れていますが、同じことはキリストのからだである教会においても見られます。ダグラス・ムーが指摘していますように、このような「信仰の弱い人」は、自分たちこそが「真の敬虔と義の基準を守っている『義なる残りの者』である」と思っていますので、この基準に達していないと思われる人をさばいてしまいます(NICNT, The Epistle to the Romans, p. 838)。これはまさに、律法学者やパリサイ人が心秘かに抱いていた思いです。パウロはこの人々を「信仰の弱い人」と呼んでいますが、この人々は自分のことを「義なる残りの者」であるというように考える傾向がありますので、なかなか自分が「信仰の弱い人」であることに気づくことができません。パウロがこの人々を「信仰の弱い人」と呼んでいるのも、このことに気づいてもらいたいからであるかもしれません。
 ここ3節でパウロは、

食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。

と述べた後、

 神がその人を受け入れてくださったからです。

と言って、その理由も示しています。これは、とても大切なことです。「何でも食べてよいと信じている人」が野菜以外のものを食べないようにしている人を侮ることも、野菜以外のものを食べないようにしている人が肉を食べている人をさばくことも、同じわなにはまってしまっています。それは、お互いに相手が何をしているかということだけを見て、相手を見下したり、さばいたりしているということです。これに対して、パウロは本当に見なくてはならないことは、

  神がその人を受け入れてくださった

ということだと言っています。相手がしていることを見なくていいということではありません。私たちは兄弟姉妹に対して心を注がなければなりません。マタイの福音書18章15節ー20節に記されているイエス・キリストの教えに示されていますように、そのままにしておけば滅びに至ってしまうような罪を犯している兄弟姉妹がいたら、その兄弟姉妹が主の御前に回復されるようにしなくてはなりません。しかし、それ以上に見つめなくてはならないことは、神さまが私たちにしてくださったことであり、してくださっていることです。
 神さまはご自身に対して罪を犯して、ご自身に背いていた私たちを受け入れてくださるために、御子イエス・キリストをも遣わしてくださいました。そして、イエス・キリストを十字架におかけになって、私たちの罪に対する聖なる御怒りによる刑罰をイエス・キリストに対して執行されました。そして、イエス・キリストに栄光をお与えになって、死者の中からよみがえらせてくださいました。さらに神さまは、御霊によって、私たちをイエス・キリストと一つに結び合わせてくださり、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかる者としてくださいました。そして、.私たちの罪をすべて赦してくださり、私たちを復活のいのちに生きる者としてくださいました。私たちはこのような父なる神さまと御子イエス・キリストの愛と恵みにあずかっている者です。神さまはこの愛と恵みによって、私たちを受け入れてくださっています。私たちは神さまと御子イエス・キリストの愛と恵みによって主の民、主のしもべとなっています。これが私たち主の民にとって最も重い事実です。
 このことを受けて、パウロは続く4節で、

あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。

と問いかけています。ここでパウロが、

 あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。

と問いかけている人は誰なのでしょうか。一見すると、1節に、

 あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。

と記されていることもあって、「何でも食べてよいと信じている人」が「信仰の弱い人」をさばいていることであるかのように思われます。けれども、詳しい議論は省いて結論的なことをいいますと、この、

 あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。

と言われている人は、自分たちこそが神さまのみこころにかなったことをしている「義なる残りの者」であると考えて、他の人をさばいている「信仰の弱い人」です。パウロは、そのようにして他人のしもべをさばくことは、自らを、そのしもべの主人の立場に置くことであるということを指摘しています。これはその当時の社会の主人としもべの関係のことを比喩として用いて、私たちの主と、主のしもべである私たちの関係のことを教えています。私たちが兄弟姉妹をさばくときには、私たちは自分を主の立場、神の立場に置いているということです。コリント人への手紙第一・4章2節ー3節においてパウロが、

事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。

と述べていますように、私たちは自分を顧みて悔い改めることはしますが、自分をさばいて、自分を主の位置に据えるようなこともしてはならないのです。
 その理由は、ただ単に自分を神の位置に据えてはならないということ、それによって、サタンと同じ罪を犯してはならないということだけではありません。ローマ人への手紙14章4節に戻りますが、そこでパウロは、

しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。

と述べています。これがもう一つの理由となっています。
 新改訳では、

 しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。

と訳されていますが、「その主人の心次第です」の「」ということばは新改訳の補足で、原文のギリシャ語にはありません。

 しもべが立つのも倒れるのも、その主人次第です。

ということは、主人がそのしもべのことをよしとして受け入れるか、受け入れないかは主人次第であるということです。
 そして、自分たちこそが神さまのみこころにかなったことをしている「義なる残りの者」であると考えている「信仰の弱い人」がさばいている人について、パウロは、

このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。

と述べています。ここでは新改訳が、

 主には、彼を立たせることができるからです。

というように、それまで「主人」と訳してきたことば(キュリオス)を「」と訳していますように、主とそのしもべのことが述べられています。そして、ここでは、現在の主とそのしもべの関係だけでなく、終わりの日において私たち主の民が栄光の主の御臨在の御前で評価としてのさばきを受けることまでも視野に入れています。主は今ご自身のしもべを立たせてくださっていますし、終わりの日にもご自身のしもべを立たせてくださいます。
 このことを私たちに当てはめましょう。私たちすべては、父なる神さまと御子イエス・キリストの一方的な愛と恵みによって主のものとしていただいています。そして、私たちが主のものであり続けることも、父なる神さまと御子イエス・キリストの一方的な愛と恵みによっていて、私たちの働きによることではありません。そうであるからこそ、私たちは「立つのです」。主は私たちを「立たせることができるからです」し、実際に、主が私たちを立たせてくださるからです。
 これまでお話ししてきたことから分かりますが、ここでパウロが繰り返し強調していることは、私たちが主の民としていただいている者として、今、主の栄光の御臨在の御前に立つことができるのも、また、終わりの日において主の栄光の御臨在の御前に立って評価としてのさばきを受けるときに、その御前で主のしもべとして認めていただくようになるのも、ただただ、父なる神さまと御子イエス・キリストの私たちに対する一方的な愛と恵みによっているということです。ここでパウロは機会があるごとに、この最も大切なこと、最も重い事実を明らかにしながら、話を進めています。

 少し飛ばしますが、7節ー9節に記されているみことばを見てみましょう。そこには、

私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。

と記されています。
 ここでは、「何でも食べてよいと信じている人」も、野菜以外のものを食べないようにしている人も、すべて、また「生きるにしても、死ぬにしても」、「主のもの」であり、「もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬ」ということを述べています。そして、9節では、

キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。

と言われています。これをぎこちなさをいとわず直訳しますと、

なぜなら、このことのために、キリストは死なれ、そして生きられたからです。死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために。

となります。これはその前に述べられている、私たちすべてが「生きるにしても、死ぬにしても」、「主のもの」であり、主のために生きているし、主のために死ぬということの理由を述べています。そして、「・・・のために」ということが強調されています。
 ここでも、これまでお話ししてきたことが繰り返し語られています。私たちすべてが「生きるにしても、死ぬにしても」、「主のもの」であることができるのも、また、主のために生きており、主のために死ぬことができるもの、イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったからであるということです。直訳の最後の、

 生きている人にとっても、その主となるために。

の「主となるために」は「主として治めるために」とも訳せます。イエス・キリストはご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりに基づいて、私たちをご自身の民としてくださいました。そして、私たちの主として、御霊によって、私たちが主のために生き、主のために死ぬことができるように導いてくださっています。すべては、父なる神さまと御子イエス・キリストの一方的な愛と恵みによることです。私たちはこの父なる神さまと御子イエス・キリストの愛と恵みにあずかっているだけです。
 このことを踏まえて、一0節ー12節に記されているみことばを見てみましょう。そこには、

それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。次のように書かれているからです。
 「主は言われる。わたしは生きている。
 すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、
 すべての舌は、神をほめたたえる。」
こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。

と記されています。
 10節には、

それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。

という問いかけが記されています。これは、直訳では、

それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、なぜ、あなたは自分の兄弟を侮るのですか。

となり、「なぜ、あなたは」ということばがいちいち繰り返されています。
 またこれは、すでに取り上げました2節に記されています、

食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。

というみことばと呼応しています。

 なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。

ということは、「信仰の弱い人」すなわち野菜以外のものを食べないようにしている人が「何でも食べてよいと信じている人」をさばくことです。そして、

 なぜ、あなたは自分の兄弟を侮るのですか。

ということは、「何でも食べてよいと信じている人」が野菜以外のものを食べないようにしている人を侮ることです。
 すでにお話ししましたように、私たちすべては、ただ、父なる神さまと御子イエス・キリストの一方的な愛と恵みによって、主のものとしていただいており、主のために生きていますし、主のために死にます。そのすべてにおいて、イエス・キリストが私たちの主として、私たちとともにいてくださり、御霊によって導いてくださっています。そのように、私たちは父なる神さまと御子イエス・キリストの一方的な愛と恵みによって、主のものとしていただいています。その私たちが、兄弟姉妹をさばいたり、侮ったりするとはどういうことでしょうか。また、兄弟姉妹たちは、みな、父なる神さまと御子イエス・キリストの一方的な愛と恵みによって、主のものとしていただいています。その兄弟姉妹たちを、さばいたり、侮ったりするとはどういうことでしょうか。
 10節ではさらに、

 私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。

と記されています。実はこれにも「なぜなら」ということば(接続詞・ガル)があって、

それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。

という問いかけの理由を示しています。
 この、

 なぜなら、私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。

というみことばについては2通りの理解が可能です。
 一つは、「私たちはみな、神のさばきの座に」立って、自分の兄弟姉妹をさばいたり、侮ったりしたことについて、申し開きをしなければならないということです。この後の12節に、10節ー12節のまとめとして、

こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。

と記されていることとのつながりは、この理解を支持しているように思われます。
 もう一つは、私たちすべてをおさばきになるのは神さまであるから、兄弟姉妹たちをさばいたり、侮ったりする者は、自分を神の位置に据えているということです。これまでお話ししてきたこと、すなわち、これに先立って記されていることとのつながりは、この理解を支持しているように思われます。
 このように、この二つの理解のどちらかを取るかを決定することは難しいのですが、1節ー12節に記されていることの全体としては、この二つの理解のどちらにも当たることが示されています。
 ただ、忘れてはならないことは、ここに記されているパウロの教えは、すでに、兄弟姉妹たちをさばいたり、侮ったりしている現実があることを踏まえているということです。その上で、パウロは私たちすべてが、ただ、父なる神さまと御子イエス・キリストの一方的な愛と恵みによって、主のものとしていただいていることを、繰り返し示しつつ、この教えを記しています。
 このことは、終わりの日に私たちが主のさばきの御座の前に立つときにもなお、私たちが、ただ、父なる神さまと御子イエス・キリストの一方的な愛と恵みによって、主のものとしていただいているという事実が、私たちを支えてくれるようになるということを意味しています。また、私たちとしては、そこでどのような申し開きがなされるとしても、最後には、「主よ。私は兄弟姉妹をさばき、侮ってしまったような者です。そのような私がなおもあなたのものであるのは、ただ、あなたの一方的な愛と恵みによっています。」というように、主の愛と恵みを感謝と讃美をもって告白して、いっさいの栄光を主に帰する他はないということを意味しています。11節に、

 すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、
 すべての舌は、神をほめたたえる。

と記されていることは、このような、主の愛と恵みに対する感謝と讃美に満ちた告白であると考えられます。


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