黙示録講解

(第139回)


説教日:2013年11月10日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章9節ー20節
説教題:栄光のキリストの顕現(40)


 黙示録1章17節後半ー18節には、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

という、栄光のキリストがヨハネに語られた、みことばが記されています。今お話ししているのは、その最初に記されています、

 わたしは、最初であり、最後である

というみことばと関連することとして、私たち主の民も、終わりの日に、主のさばきの御座の前で評価としてのさばきを受けるようになるということについてです。
 先主日は、このことを理解する上で問題となるみことばの一つとして、マタイの福音書25章14節ー30節に記されています、一般に「タラントのたとえ」と呼ばれているイエス・キリストの教えについて、そのすべてというわけではありませんが、お話ししました。
 今日は、すでに簡単に取り上げたことがありますローマ人への手紙14章7節ー13節に記されていますみことばついてお話しします。ただし、今日はその前置きのようなお話になります。ローマ人への手紙14章7節ー13節には、

私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。次のように書かれているからです。
 「主は言われる。わたしは生きている。
 すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、
 すべての舌は、神をほめたたえる。」
こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。

と記されています。
 まず、このことが記されるようになった状況を見ておきますと、その発端は食べ物に関することです。そのことが1節ー3節には、

あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。

と記されています。ただし、これは食べ物のことが典型的なことであるということで、ここでパウロが教えていることは他のことにも適用できます。そのことは、1節に、

あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません

というように、一般的な原則が記されていることと、5節に、

ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。

と記されていて、食べ物以外のことが取り上げられていることから分かります。とはいえ、「日」のことが取り上げられているのは、5節と6節だけで、それ以外では、特に、先ほど引用しました7節ー13節に続く14節からこの章の終わりの23節まで、食べ物のことが取り上げられていることから、食べ物のことが典型的な問題となっていることが分かります。
 ここで取り上げられていることは、1節に、

 あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。

と記されていますように「信仰の弱い人」を受け入れることです。
 「信仰の弱い人」と言いますと、疑いをもちながら信じている人、確信がない人であるかのように思われるかもしれませんが、そういう人のことではありません。ここで言われている「信仰の弱い人」も確信をもっています。そのことは次のことから分かります。
 2節には、

何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。

と記されています。
 ここ2節で「弱い人」と言われている人は、1節で「信仰の弱い人」と言われている人です。[注]その人は「野菜よりほかには食べ」ない人です。もちろん、これは菜食主義者がみな「信仰の弱い人」だという意味ではありません。この場合の「信仰の弱い人」は、「野菜よりほかには食べ」ないことが神さまのみこころであると信じている人です。

[注]この「信仰の弱い人」(現在分詞に冠詞をつけて実体化しています)は「単数形」で表されていますが、集合名詞的に、このような人々をひとまとめにしていると考えられます。

 このことを踏まえて、続く3節を見てみましょう。そこには、

食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。

と記されています。ここでは、

 食べない人も食べる人をさばいてはいけません。

と言われています。この「食べない人」とは。2節で、

 弱い人は野菜よりほかには食べません。

と言われている人で、「信仰の弱い人」のことです。そして「食べる人」とは、2節で「何でも食べてよいと信じている人」と言われている人です。この、

 食べない人も食べる人をさばいてはいけません。

というみことばは、この場合の「信仰の弱い人」には「何でも食べてよいと信じて」、実際に、何でも食べている人をさばいてしまう傾向があることを示しています。その理由はすぐに分かります。「信仰の弱い人」は野菜以外のものを食べることは神さまのみこころに背くことであると信じているからです。つまり、この「信仰の弱い人」は野菜以外のものを食べることは神さまのみこころに背くことであると信じているので、「野菜よりほかには食べ」ない人です。それで、野菜以外のものを食べている人を見ると、その人が神さまのみこころに背いていると考えて、さばいてしまいます。
 このように、この場合の「信仰の弱い人」は野菜以外のものを食べることは神さまのみこころに背くことであると堅く信じていますので「野菜よりほかには食べません」し、野菜以外のものを食べている人を、神さまのみこころに背いているとしてさばくのです。ですから、ここで言われている「信仰の弱い人」は、その人なりの確信をもっています。


 それでは、その人はどうして「信仰の弱い人」と呼ばれているのでしょうか。
 1節前半では、

 あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。

と言われていましたが、後半では、

 その意見をさばいてはいけません。

と言われています。このことから分かりますが、問題は「信仰の弱い人」の信仰に関わる物事の理解の仕方にあります。すでにお話ししましたように、この場合の「信仰の弱い人」は、何でも食べてよいと信じることができないで、野菜しか食べてはいけないと信じている人のことです。けれども、ここでは、この「信仰の弱い人」が、どうしてそのような考え方をしているかということは述べられてはいません。それで、このことについては推測する他はありません。
 ヒントになるのは、コリント人への手紙第一・8章4節ー7節に記されていることです。そこには、

そういうわけで、偶像にささげた肉を食べることについてですが、私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。しかし、すべての人にこの知識があるのではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんで来たため偶像にささげた肉として食べ、それで彼らのそのように弱い良心が汚れるのです。

と記されています。
 ここに記されていることから分かりますが、コリントにある教会には、「偶像にささげた肉」は汚れていると考えて、そのような肉は食べないようにしている人々がいました。けれども、その人々は必ずしも野菜だけを食べるようにしていたとは限りません。というのは、10章25節に、

 市場に売っている肉は、良心の問題として調べ上げることはしないで、どれでも食べなさい。

と記されているからです。このことから判断しますと、市場で売られている肉の出所を調べることは可能であったようです。実際に、「偶像にささげた肉」とは、その当時の文化にあって、主を信じていない人々にとっては、ある特定の「神」あるいは「神々」にささげられた肉でしたから、特別な肉であると考えられていました。また、市場から買ってきた肉をそのような「神」あるいは「神々」に供えてから食べるということもあったようです。そうであれば、わざわざそのような肉を買おうとする人々もいたと考えられます。このようなことから、それが「偶像にささげた肉」であるかどうかは調べやすかったと考えられます。そうであるとしますと、コリントにある教会で「偶像にささげた肉」は汚れていると考えて、そのような肉は食べないようにしている人々が「偶像にささげた肉」を避けることは可能であって、その人々は必ずしも、野菜以外のものを食べなかったわけではなかったと考えられます。その意味で、この問題に関しては、コリントにある教会の信徒たちと、ローマにある教会信徒たちの間には違いがあったと考えられます。
 けれども、ローマにあった教会で、「偶像にささげた肉」は汚れていると考えて、そのような肉は食べないようにしている人々が、安全を期して肉を食べないで野菜だけを食べるようにしていた可能性があります。その論理は次のようなものです。「偶像にささげた肉」を食べて汚されてはならないけれども、どれが「偶像にささげた肉」かどうかは、正確には分からない。売っている人に聞いても、売りたいために、うそをつくかもしれない。それで、いちばん安全なのは、そもそも肉を食べないことだというような論理です。そのような論理から、その人々は「偶像にささげた肉」を食べて汚されないようにするために、野菜以外のものを食べないという「信仰生活の指針」を設けていたということです。もちろん、それが文書に記されているとは限りません。そのような考え方が浸透していけば、それが不文律のような力をもってきます。やがてあたかもその指針が神さまのみこころであるかのように受け止められていきます。そうすると、この指針を守っていない人々のことを神さまのみこころに従っていない人としてさばくようになります。
 実は、それは福音書に記されています律法学者やパリサイ人の根本問題と本質的に同じです。パリサイ人は昔から言い伝えられてきた律法学者たちの教えを厳格に守っていました。しかし、その教えは主の律法の戒めそのものというより、主の戒めを守るための具体的な指針です。それは具体的な指針ですので、がんばれば守ることができます。実際には、その指針を守っているだけなのに、自分たちは主の戒めを守っていると錯覚するようになり、その指針を守っていない人たちをさばくようになります。
 マルコの福音書7章5節には、

パリサイ人と律法学者たちは、イエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか。」

と記されています。パリサイ人と律法学者たちは、イエス・キリストの弟子たちが「昔の人たちの言い伝えに従って歩まない」と言ってイエス・キリストを非難しています。この場合の「昔の人たちの言い伝え」は、汚れた食べ物を食べて汚されないようにするためにということで定められた指針です。それがいつの間にか権威をもってしまい、その指針を守っているパリサイ人と律法学者が、それを守っていないイエス・キリストの弟子たちをさばくことになってしまっています。これと同じように、自分たちが設けた指針や考え方に従っていない人々を神さまのみこころに背いているとしてさばいてしまうことは、パリサイ人や律法学者たちだけのことではなく、今日の教会の中でもいくらでも見られます。それで、そのようなことが、ローマにある教会においても起こっていた可能性があります。
 ただ、これにはもう一つ問題があります。それは、ローマ人への手紙に戻りますが、14章21節には、

肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、そのほか兄弟のつまずきになることをしないのは良いことなのです。

と記されてます。このことから、この場合の「信仰の弱い人」にとっては肉を食べることだけではなく「ぶどう酒」を飲むことも問題であったのではないかという疑問が出てきます。けれども、「ぶどう酒」は日常の飲用だけでなく、偶像にかかわる儀式に用いられていたものでもありますので、ここでそのことが取り上げられている可能性があります。
 これらのこと、すなわち、「信仰の弱い人」が野菜以外のものを食べないのは、偶像にささげられたもの、あるいは異教の儀式に用いられたものによって身を汚してはならないと考えてのことであるということは可能性でしかありません。けれども、この可能性が高いと考える理由があります。それは、野菜以外のものを食べないということがその「信仰の弱い人」の信仰生活を左右していますし、同じように主の一方的な恵みによって主の民としていただいている、信仰の家族の兄弟姉妹たちをさばくことの原因となっているということです。つまり、「信仰の弱い人」にとっては、野菜以外のものは食べないということが、その人の信仰にとって、それほど大切なことになっているということです。そのようなことは、たとえば、菜食主義の方が健康に良いというような考え方からは生じてきません。菜食主義の人々は、たまには肉を食べてもいいと考えるか、厳格な人でも、菜食主義の方がいいと確信していても、菜食主義者でない人を神さまのみこころに背いているとしてさばくことまではしないでしょう。

 これらのことから、この人々が野菜以外のものを食べないのは、偶像にささげられたもの、あるいは異教の儀式に用いられたものによって身を汚してはならないと考えてのことであると考えられます。そうであるとしますと、この人々が「信仰の弱い人」と呼ばれている理由は、先ほど引用しました、コリント人への手紙第一・8章4節ー7節に記されていることから分かります。そこには、

そういうわけで、偶像にささげた肉を食べることについてですが、私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。しかし、すべての人にこの知識があるのではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんで来たため偶像にささげた肉として食べ、それで彼らのそのように弱い良心が汚れるのです。

と記されていました。
 パウロは、

 世の偶像の神は実際にはないものである

という事実を述べています。偶像の神は人が考え出したもので、実際に存在しているわけではありません。そこに神の像があったとしても、それは実質的には、木材や金属の塊と同じです。その前に肉を置いたとしても肉自体が汚れるわけではありません。けれども、パウロは、

 しかし、すべての人にこの知識があるのではありません。

と言ってから、そのことを説明して、

ある人たちは、今まで偶像になじんで来たため偶像にささげた肉として食べ、それで彼らのそのように弱い良心が汚れるのです。

と述べています。つまり、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって、罪を贖われ、復活のいのちによって新しく生まれ、この世界のすべてのものをお造りになった唯一まことの神さまを信じるようになった人でも、それまでなじんできた偶像についての理解を変えることができないでいるという現実があったのです。そのために、実際には、人が細工したものに過ぎない偶像にささげられた肉が、偶像によって汚されていると考えてしまいます。その人がその偶像にささげられた肉を食べると、その人の「弱い良心が汚れるのです」。
 このような人のことが、ローマ人への手紙14章1節では「信仰の弱い人」と呼ばれています。その人の問題は、みことばによる神さまについての教えが生きた知識となって、その人の考え方や生き方を根本から変えるほどに身についていないことにあります。このことは私たちにも起こることです。その原因は、父なる神さまと御子イエス・キリストを信じるようになる前からなじんでいた考え方、あるいは私たちの住んでいる社会に一般的な考え方が、みことばの教えに対する私たちの理解を歪めてしまうことにあります。みことばの教えによって、私たちの古い考え方が根本的に改められるのではなく、私たちの中にすでに根付いてしまっている古い考え方が、みことばの教えが私たちのうちに根付くことを妨げてしまうのです。
 また、そのことは、偶像についての考え方だけのことではありません。私たちが父なる神さまと御子イエス・キリストを信じた後にも、それ以前になじんでいた考え方がそのまま私たちのうちに残っていて、私たちの信仰のあり方を縛ってしまっているということがいくらでもあります。今お話ししています、私たち主の民が終わりの日に主の御座の前で評価としてもさばきを受けるということを、業績主義的、成果主義的な発想で受け止めてしまって、いたずらな恐怖感に縛られてしまうのもその一つです。

 先ほどは、偶像にささげた肉の問題を取り上げているコリント人への手紙第一・8章4節ー7節を引用しました。パウロはそれに続く8節で、

しかし、私たちを神に近づけるのは食物ではありません。食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。

と述べています。みことばの教えに従って神さまのことを理解している人は、偶像の神は実際にはないことを知っています。その人はまた、「私たちを神に近づけるのは食物では」ないことも知っています。その人は、

 食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。

ということを知っていますので、何を食べるか食べないかということについて、その人の良心は自由です。つまり、何を食べても、また、食べなくても、その人の良心は汚されることはありません。
 このことを踏まえた上で、パウロは、さらに、9節ー12節で、

 ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように、気をつけなさい。知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、それによって力を得て、その人の良心は弱いのに、偶像の神にささげた肉を食べるようなことにならないでしょうか。その弱い人は、あなたの知識によって、滅びることになるのです。キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです。あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を踏みにじるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためです。

と戒めています。このパウロの戒めから、私たちがお互いの良心の自由を守ることがどんなに大切であるかが分かります。
 ローマ人への手紙14章でも、14節ー15節に、

主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。

と記されています。ここには「良心」ということばは出てきませんが、「食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら」と言われていることは、実質的に、その兄弟が良心を痛めていることに当たります。
 先ほどお話ししましたように、この二つの個所におけるパウロの教えから私たちは、お互いの良心の自由を守ることの大切さを理解します。また、そのためには、自分の自由な良心を愛によって導くことが大切であることを理解します。
 先ほど、私たちの良心を自由にするのは、みことばの教えを正しく理解することによっているということをお話ししました。このことを踏まえて、コリント人への手紙第一・8章1節ー3節を見てみましょう。そこには、

次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。

と記されています。ここでは、「偶像にささげた肉について」のパウロの教えの根本にあることが示されています。
 1節では、

 しかし、知識は人を高ぶらせ・・・ます。

と言われています。私たちの良心を自由にするはずの神さまについての知識が私たちを「高ぶらせ」る危険があることが示されています。これと実質的に同じことが、ローマ人への手紙14章3節では、

 食べる人は食べない人を侮ってはいけない

と言われています。神さまについてのみことばの教えを悟り、偶像の空しさを知るようになった人は、偶像にささげられた肉であっても良心のとがめを感じることなく食べることができます。けれども、そのような人が、まだ偶像の空しさを真の意味で悟って自分のものとしていないために、偶像にささげられた肉を食べてはいけないと考えている人を見下し、侮るようになる危険があるのです。

 これについて、コリント人への手紙第一・8章1節では、

 知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。

と言われています。これは愛と知識が対立するという意味ではなく、真の知識は愛によって生かされるという意味です。それで、私たちの良心は兄弟姉妹への愛に導かれていて初めて、真の意味で自由であることができます。
 それだけではありません。コリント人への手紙第一・8章3節では、

 しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。

と言われています。真の意味で神さまを知るようになった人は、神さまから知られているはずです。なぜなら、神さまを知ることは、神さまを生きた方として知ることであり、それは神さまとの愛にある交わりの中で神さまを知ることだからです。もちろん、私たちが神さまを愛にある交わりの中で知ることができるようになったのは、まず神さまが私たちを愛して、私たちのために御子イエス・キリストをなだめの供え物として遣わしてくださったことによっています。ヨハネの手紙第一・4章9節ー10節に、

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

と記されているとおりです。この神さまの愛に包まれて、神さまを知ることこそが、私たちの良心を完全に自由にしてくれます。


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