黙示録講解

(第138回)


説教日:2013年11月3日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章9節ー20節
説教題:栄光のキリストの顕現(39)


 黙示録1章17節後半ー18節には、栄光のキリストが黙示録の著者であるヨハネに語られた、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

というみことばが記されています。今お話ししているのは、

 わたしは、最初であり、最後である

というみことばと関連することとして、私たち主の民も、終わりの日に、主のさばきの御座の前で評価としてのさばきを受けるようになるということについてです。これまで、このことが、神さまのみことばが全体として教えている、神さまの創造の御業と贖いの御業を貫いている神さまのみこころと深くかかわっているということをお話ししてきました。今日は、すでにお話ししたことを踏まえた上で、問題となるみことばを取り上げたいと思います。
 それは先主日に触れました、マタイの福音書25章14節ー30節です。そこには、

天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。 同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。 さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。「ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。」その主人は彼に言った。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」二タラントの者も来て言った。「ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。」その主人は彼に言った。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。「ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。」ところが、主人は彼に答えて言った。「悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。」だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。

と記されています。
 これは一般に「タラントのたとえ」と呼ばれている、イエス・キリストのたとえによる教えです。これは、24章1節ー25章46節に記されています、イエス・キリストのオリーブ山での教えの中に出てくるものです。そして、このオリーブ山での教えは終わりの日についての教えです。それで、この「タラントのたとえ」に出てくる、主人がしもべたちと「清算をした」ことは、終わりの日において、主のさばきの御座の前においてなされることに当たります。
 まず、このたとえによる教えを理解するために必要な、いくつかのことをお話しします。
 ここに「タラント」ということばが出てきます。このことばは今日私たちがいろいろな才能を表すために普通に用いている「タレント」ということばの源となっています。けれども、その当時は、このことばはそのような意味をもってはいませんでした。
 タラントは貨幣の単位ではなく、金、銀、銅などの金属の重さの単位で、約30キログラムに当たります。それで1タラントの価値は、それが金であるか銀であるか銅であるかによって変わります。これを貨幣の価値に換算する場合には、通常、銀のことで、1タラントは、新改訳15節の欄外注にありますように、6000デナリに当たります。1デナリは労働者の1日分の賃金に当たりますから、1タラントは6000日分の賃金に当たります。1年に300日働くとしますと、20年分の賃金ということになります。調べてみますと、日本では、厚生労働省による国民生活基礎調査による全世帯の平均所得額の推移の最初に載っている1985年度の平均所得額は493万3千円で、ここから上がって行き、1996年から下がって行って、最後に載っている2009年度ですと549万6千円であるとのことです。仮にこれらの年度全体の平均より少し低い5百万円としますと、20年分は1億円です。時代と社会の状況が異なりますので、これをこのまま、その当時の社会の人々の実感であると受け止めることはできませんが、1タラントはかなりの金額です。ですから、最後に出てくるしもべは、わずか1タラントしか預けられなかったということではありません。
 このことに関連して注目したいのは、主人が最初の二人のしもべたちに、

 あなたは、わずかな物に忠実だった

と言ったということです。最初のしもべは5タラント、次のしもべは2タラント預けれらレました。これは私たちからすると大変な金額です。けれども、この主人にとっては「わずかな物」でした。このことは、この主人が途方もなく豊かな富をもっていることを示しています。もちろん、これはこの主人が、あらゆる点において無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられる神さまを象徴的に表していることによっています。その意味では、この主人は、同じく天の御国のたとえを記している18章23節ー35節に出てくる、そのしもべの1万タラントという膨大な負債を、ただ、しもべを「かわいそうに思って」ということだけで、すべて免除してあげた王の豊かさを思わせます。
 この「わずかな物」と、その後に出てくる「たくさんの物」の区別につきましては後ほど触れます。今はこのことと関連することをお話しします。
 たとえによる教えを理解する上で大切なことは、そのたとえが言おうとしている主旨をつかむことで、その細部にまでこだわって、あれこれ解釈してはいけないのですが、あえて、一つの想像をしてみたいと思います。そのような豊かさに満ちている主人にしてみれば、ここでしもべたちに預けた8タラント全部であっても「わずかな物」であったことでしょう。そうであれば、しもべたちが増やした7タラントも「わずかな物」であったことでしょう。そうであるとしますと、主人が本当に求めていたのは、儲けそのものではなかったのではないかという気がします。
 実際、主人が儲けそのものを求めていたのではないことを示すものがいくつかあります。最初の二人のしもべの儲けは、5タラントと2タラントですから、その差は2倍半です。私たちからすると大変な違いです。けれども、主人は5タラント儲けたしもべに対しても、2タラント儲けたしもべに対しても、

よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。

と言って、まったく同じことばをかけています。しかも、主人は、その儲けがいくらであったかということは、一言も口にしていません。また、主人は最後に、

 主人の喜びをともに喜んでくれ。

と言っています。これは直訳すれば、

 あなたの主人の喜びの中に入りなさい。

ということで、新改訳のようになります。ただ、ここで主人はしもべのそれぞれに、自分のことを「あなたがたの主人」ではなく「あなたの主人」と言っていることに注目したいと思います。ここには、主人としもべの個人的で親しい関係があることがかいま見られます。主人にとって、自分がそのしもべの主人であること、逆に言えば、そのしもべが自分のしもべであることが大切なことであることを感じさせます。それで、この主人の最終的な目的は、しもべたちがいくら稼いで、自分がいくら儲けたかということではなく、自分の喜びをしもべと分かち合うことにあったことが分かります。私たちは自分の喜びをともに分かち合う人がいることが、どれほどの祝福であるかを知っています。そこでは、そのような人がいること自体が喜びとなります。このような関係は愛の上に成り立っている関係です。このことに関しましては、後ほど、もう少しお話しします。
 このこととの関連で、さらに注目したいことがあります。
 14節ー15節には、

天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。

と記されています。
 ここで、このしもべたちは主人の財産を預けられています。このことは、私たちは今この世で主のしもべとして、すべて主から委ねられたものをもって、主から委ねられた使命、歴史と文化を造る使命を果たしているということを示しています。私たちが無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられる主のしもべとして迎え入れていただいて、先ほどお話ししましたように、それぞれが主から大切なしもべとして心をかけていただいているのも、また、主からタラントを委ねられているのも、そして、そのことをとおして、さらなる実を結ぶようになるのも、すべて主が、その一方的な愛と恵みによって私たちに与えてくださっていることです。しかも、このすべてのことの最終的な目的は、先ほどお話ししましたように、主がご自身の喜びに私たちをあずからせてくださることです。
 さらにここでは、主人が、

おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。

と言われています。
 これは主人がそれぞれのしもべのことをよく知っていて、それぞれにふさわしいタラントを委ねたことを意味しています。このことは、先ほどお話ししましたように、主人がしもべのそれぞれに心を注いでいることの現れであって、決して、えこひいきをしているわけではありません。さらに、ここでは、主人はしもべに何をどのようにすべきかの指示を出していません。もし主人がしもべたちに預けたものの使い方について具体的な指示を出していたなら、最後のしもべは預かったものを土の中に隠すことはしなかったことでしょう。ですから、しもべたちは自分の考えに従って、自分のよしとすることをすることができたと考えられます。そのことは、主人がそれぞれのしもべをよく知っていて信頼していることの現れです。これらのことから、神の国においては、すなわち、主のしもべであるなら、皆が一律に同じことを同じようにしなければならないということではないことが分かります。これはまた、人と比べて、誇ったり、逆に、ねたんだり、ひがんだりするようなことではないことを意味しています。コリント人への手紙第一・12章4節ー7節には、

さて、賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。

と記されています。ここには御霊の賜物のことが記されていますが、御霊の賜物は「みなの益となるために」与えられていると言われています。それは自分が人の上に立つためのものではなく、信仰の家族の兄弟姉妹たちを愛し、その徳を高めるために主から委ねられているというのです。さらに、この後に御霊の賜物についていろいろなことが記されていき、最後の31節には、

 あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。

と記されています。私たちが「よりすぐれた賜物を熱心に求め」るのは、それによって兄弟姉妹たちの徳を高めるためです。それで、パウロは、これに続いて、

 また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。

と言って、13章1節ー3節で、

たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

と記しています。どのような賜物も主への愛と兄弟姉妹たちへの愛をもって用いるのでなければ、主の御前においては空しいものであるのです。
 先ほど取り上げました主人の評価のことばは、

よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。

というものでした。主人はそれぞれのしもべのことをよく知っていて、それぞれにふさわしいタラントを預けました。主人が評価しているのは、それぞれが委ねられたことに忠実であったことであって、その評価は、5タラント儲けたしもべに対しても、2タラント儲けたしもべに対してもまったく同じでした。いつくしみ深い主人のしもべとして主人の愛を受け止め、主人を愛して委ねられた使命を果たすことそれが忠実なしもべの姿です。主人の愛を受け止め、主人から委ねられたタラントを、主人への愛をもって生かして用いることなしに、主人に忠実であることはできません。主人が一人一人のしもべに心を注いでいるのであれば、しもべはその愛を受け止めることなしに、主人に忠実であることはできないのです。また、そうでなければ、しもべは、決して、主人の喜びをともに分かち合うようにはなりません。

          *
 このことを踏まえた上で、もう一人のしもべのことを見てみましょう。24節ー27節には、

ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。「ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。」ところが、主人は彼に答えて言った。「悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。」

と記されています。
 このしもべは、主人のことを「ご主人さま」と呼んでいますが、主人のことをまったく分かってはいません。このしもべは、

あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。

と言っています。これがこのしもべが理解している主人の姿です。原文のギリシャ語では、彼はまず、まったくの直訳ですが、

 私はあなたを、あなたがひどい方であるということを知っていました。

と言っています。この「ひどい」と訳されたことば(スクレーロス)は「厳しい」とか「過酷な」ということも表します。
 彼はこのことをさらに説明して、主人が

 蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集める

と言っています。「蒔かない所から刈り取る」ということはよく分かります。これは種を蒔いて収穫することにかかわっています。その後の、「散らさない所から集める」ということについては、これは「蒔かない所から刈り取る」と同じことを言い換えて、強調しているものだという見方や、これは収穫後の脱穀のことを言っていて、種まきから脱穀までのすべての過程を表しているという見方などに別れています。けれども、これが種まきと収穫にかかわるという点では一致しています。このしもべが言っていることは、主人は自分で種を蒔くことをしないで収穫している、あるいは、自分で種を蒔くことも、その後の世話をすることも、刈り入れをすることもしないで、その苦労はみな自分たちしもべにやらせて、最後には、収穫したものを自分のものとしてしまうということです。主人が目的としていることは儲けることであり、自分たちしもべはそのためにこき使われ、過酷な取り立てにあうというのです。それで、もし自分が儲けを出し損なったらどうなるか、恐ろしくて何もできなかったと弁明しています。
 同じ主人についてのこのしもべの理解は、最初の二人のしもべと主人のやり取りから私たちが汲み取ることができる主人の姿となんと違っていることでしょうか。このしもべは、主人がしもべたち一人一人に心を注いでいることに、まったく気づいていません。
 私たちはこのしもべが、主人について、とんでもない見方をしていると感じます。けれども、ちょっと待っていただきたいのです。私たちは、私たち主の民も終わりの日に主のさばきの御座の前に立って、評価としてのさばきを受けるようになるというみことばの教えを、このしもべのような思いをもって受け止めてこなかったかどうか、振り返ってみる必要があります。あるいは、教会の指導者たちが、自分が指導する人々にこのしもべが抱いてしまっているような恐怖感を与えて、人々を奉仕へと動員しようとしてしまうことはなかったかどうか、振り返ってみる必要があります。
 このしもべの弁明のことばを聞いた主人は、

悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。

と言いました。この場合、主人は、しもべが言った、

 あなたがひどい方であるということを知っていました。

ということばには触れていません。それで、しもべの言っていることを認めているわけではないと考えられます。主人が言っているのは、もし「私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというの」であれば、他にできることがあったではないかということです。そして、具体的なこととして「銀行に預けておくべきだった」と言っています。
 ここに銀行が出てきますが、その当時は、私たちが考えているような銀行はまだありませんでした。銀行(に当たるもの)に預けるということは、金貸しや両替人にお金を預けることで、それにはかなりのリスクがともなっていました。それで、その当時は、むしろ、人知れず土の中にうめておいた方が安全であるという考えもあったようです。実際、マタイの福音書13章44節には、

天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。

というイエス・キリストの教えが記されています。人知れず宝物を土の中に埋めておくことがよく知られていたからこそ、そのことがたとえに用いられたわけです。
 このことに照らしてみますと、主人が問題としていることは、このしもべの考え方あるいは動機であって、実際の利益が出なかったことではないと考えられます。結果として、損失を生み出すことになったとしても、主人のためにということで銀行に預けることができたはずではないかということです。それが主人のことを考えてなされたことであるということがいちばん大事なことであるということでしょう。このしもべがそのように考えられなかった理由は、主人に対する理解がまったく間違っていたことにあります。主人は利益優先で、とにかく儲けが第一だというひどい方だから、失敗したら大変な目にあうという恐怖感が彼を縛ってしまっていたのです。
 このことはとても深刻なことです。というのは、このたとえの最後の30節には、

役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。

と記されているからです。これは、このしもべが主の民ではないことが明らかになったことを意味しています。
 ここでイエス・キリストはこのしもべのことを「役に立たぬしもべ」と呼んでおられます。このことから私たちは、やはり、そのしもべが役に立つか、立たないかが問題なのだと考えてしまうかもしれません。けれども、これについては考えなければならないことがあります。ここに出てくる「役に立たぬ」ということば(アクレイオス)は、新約聖書の中では、ここのほかもう一箇所、ルカの福音書17章10節に出てきます。9節ー10節には、

しもべが言いつけられたことをしたからといって、[主人が]そのしもべに感謝するでしょうか。あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、「私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです」と言いなさい。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 もし私たちが主の役に立つか、立たないかという基準で測られるとしたら、私たちすべては「役に立たぬしもべ」です。私たちの中にはなおも罪の性質が宿っており、私たちは実際に思いとことばと行いにおいて罪を犯します。けれども神さまはそのような私たちを愛してくださり、御子イエス・キリストを贖い主として立ててくださいました。イエス・キリストはそのような私たちのために十字架にかかって死んでくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださいました。そして、神さまはイエス・キリストが私たちのために成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて、私たちを義と認めてくださり、ご自身の民としてくださり、子として受け入れてくださっています。私たちはなおも「役に立たぬしもべ」ですが、このような神さまの愛を信じていますし、御子イエス・キリストの恵みを信じています。そして、イエス・キリストが父なる神さまの右の座から遣わしてくださった御霊によって力づけていただき、神さまと兄弟姉妹たちへの愛のうちを歩むように導いていただいています。このすべては、神さまがその一方的な愛と恵みによって私たちのために、また、私たちに対してなしてくださったことですし、なしてくださっていることです。
 この1タラントを預けられたしもべの問題は、主人によってたとえられている神さまの、このような愛と恵みを知ろうとしなかったし、それにあずかってもいなかったことにあります。彼は神は自分たちをこき使って、儲けだけを自分のものとするひどい方だと考えて生きていたので、その生涯においてあかしされていたのは、神はそのようなひどい方であるということです。そして、その歩みがこのしもべは、まったく主を知らなかったこと、主のしもべとなったことがないことを表しています。


 最後に、もういちど主人が最初の二人のしもべに語った、

よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。

ということばを見てみましょう。先ほどお話ししましたように、このすべてにおいて、主人が最終的に目的としていたことは、主人の喜びをしもべと分かち合ってくださることでした。この主人のことばは、

あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。

ということばの後に語られています。主人が自分の喜びをしもべたちと分かち合うことは、それぞれのしもべに「たくさんの物を任せ」ることがあってはじめて現実のものとなります。このたとえによるイエス・キリストの教えが、終わりの日の評価としてのさばきのことを取り上げていることから分かりますが、主人がしもべに「たくさんの物を任せ」るようになることは、最終的には、しもべたちが新しい天と新しい地における歴史と文化を造る使命を委ねられるときに実現することを意味しています。
 そうしますと、「わずかな物」とは、私たち主の民が地上の歩みにおいて委ねられている歴史と文化を造る使命について言われていることであり、「たくさんの物」とは、私たち主の民が新しい天と新しい地において委ねられるようになる歴史と文化を造る使命について言われていることであることが分かります。このことを考えますと、その「わずかな物」も、タラントという大変な金額を単位としていたことの意味が見えてきます。私たちが地上において委ねられている歴史と文化を造る使命は、それとしての重い意味と価値をもっています。ただ、それはやがて終わりの日に私たちが受け継ぐ新しい天と新しい地の歴史と文化を造る使命に比べると「わずかな物」と言われるということです。
 そして、主が私たち主の民に天と新しい地を受け継がせてくださり、私たちがその歴史と文化を造る使命を果たすようになることにおいて、主の喜びはまっとうされ、私たち主の民は主の喜びの中に入るようになります。


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