黙示録講解

(第137回)


説教日:2013年10月27日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章9節ー20節
説教題:栄光のキリストの顕現(38)


 先主日には秋の伝道集会をいたしましたので、黙示録からのお話はお休みしました。今日は再び黙示録1章9節ー20節に記されています、栄光のキリストの顕現についての記事からのお話に戻ります。今お話ししているのは、17節後半ー18節に記されています、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

という、イエス・キリストがヨハネに語られたみことばの最初に出てくる、

 わたしは、最初であり、最後である

というみことばと関連することです。これまで、このみことばと関連することとして、私たち主の契約の民も、終わりの日に、主のさばきの御座の前で評価としてのさばきを受けるようになるということについて、その基本的なことをお話ししました。
 一週空いてしまいましたので、改めて、そのいくつかのことを確認しておきたいと思います。
 私たちは、今から2千年前に神の御子イエス・キリストがまことの人の性質を取って来てくださり、十字架におかかりになって、私たちに代わって私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきをすべて受けてくださったことを、福音のみことばに従って信じています。それで、私たちの罪に対するさばきは、すでに御子イエス・キリストの十字架の死において終わっています。私たちはもはや自分が犯した罪に対する刑罰としてのさばきを受けることはありません。またそれで、私たちが終わりの日に、主のさばきの御座の前で評価としてのさばきを受けるようになるということは、私たちが犯した罪に対する刑罰としてのさばきのことではありません。
 それでは、どうして「主のさばきの御座の前で評価としてのさばきを受けるようになる」というように「さばきの御座」とか「さばきを受ける」ということばを用いるのかということになります。それは、みことばの教えがそのようなことばを用いているからです。たとえば、ローマ人への手紙14章10節には、

それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。

と記されていますし、コリント人への手紙第二・5章10節には、

なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。

と記されています。また、コリント人への手紙第一・4章4節で、パウロは、

 私をさばく方は主です。

と述べています。
 また、あえて「さばきの御座」とか「さばきを受ける」ということばを用いてお話しすることによって、みことばの教えにこのようなことばが出てくるけれども、それは私たちが抱きがちなイメージとは違ったことを教えているということを知っていただきたいからです。
 もう一つ大切なことは、私たちが終わりの日に、主のさばきの御座の前で評価としてのさばきを受けるようになるということが神さまの創造の御業から出ているということです。すでに詳しくお話ししたことですのでみことばを引用することは省きますが、神さまはこの世界を歴史的な世界としてお造りになりました。そして、エレミヤ書33章20節と25節にありますように、お造りになったすべてのものをご自身との契約、すなわち「創造の契約」に入れてくださり、歴史をとおして、お造りになった一つ一つのものを、それぞれの特質を生かしつつ、真実に支えてくださっています。
 また、神さまは人を神のかたちにお造りになり、ご自身がお造りになって、真実に支えておられる歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。さらに、「創造の契約」の祝福の一つとして、人が委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて神さまのみこころに従い通したなら、最初に造られた時の神のかたちとしての栄光にまさる栄光を与えてくださることを約束してくださいました。それによって、人がさらに豊かな栄光に満ちたものとして、神さまの栄光の御臨在の御許に近づき、神さまとのより深く豊かな愛にある交わりに生きるようにしてくださるためでした。この、神さまとのより深く豊かな愛にある交わりが、永遠のいのちの本質です。
 これらのことはすべて、神さまの一方的な愛から出ている恵みによることです。
 創世記1章1節ー2章3節に記されています神さまの創造の御業の記事や、イザヤ書66章1節とそれを引用する新約聖書のみことばは、この世界は造り主である神さまがご臨在される世界であることを示しています。とりわけ、神のかたちに造られている人が住むようにと造られたこの「地」は、特別な意味で、契約の神である主、ヤハウェがご臨在される所として聖別されています。神のかたちに造られている人は、この「地」にご臨在される主との愛にあるいのちの交わりに生きる者でした。その時の神さまの御臨在の栄光は、最初に造られた時のこの世界にふさわしい栄光でした。
 これに対して、神のかたちに造られている人が神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて神さまのみこころに従い通したなら受けていたであろう、より豊かな栄光は、人が神さまとのより深く豊かな愛にある交わりに生きるようになるためのものです。そのことを実現してくださるために、神さまは最初に造られた状態のこの世界と、この「地」にご臨在されたときの栄光にまさる栄光のうちにご臨在してくださるようになるはずでした。さらに、そのために、この世界とこの「地」も、神さまのより豊かな栄光に満ちた御臨在がある所にふさわしい状態に造り変えられるはずでした。そして、より豊かな栄光を受けるようになる人が、神さまのより豊かな栄光に満ちた御臨在がある世界の歴史と文化を造る使命を造るようになるはずでした。そのようにして造り変えられる、神さまのより豊かな栄光に満ちた御臨在がある世界に当たるのは、黙示録21章ー22章に記されています「新しい天と新しい地」です。


 これが創造の御業とともに示された神さまのみこころです。けれども、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、このことは実現しなくなってしまいました。人は神さまとのより深く豊かな愛にある交わりに生きるようになるどころか、自らの罪に対する神さまの聖なる御怒りによる刑罰を受けて滅びてしまうものとなってしまいました。
 これに対して、神さまはご自身の御子を贖い主として立ててくださり、今から2千年前に、遣わしてくださいました。それは、私たちを自らの罪に対する神さまの聖なる御怒りによる刑罰を受けて滅びてしまうことから救い出してくださるためですが、それで終わるものではありません。このお話を始めたときから、皆さんの耳に胼胝ができるほど繰り返してしまいましたが、新約聖書のいくつかの個所で、イエス・キリストは、神さまが創造の御業において神のかたちに造られている人に委ねられた歴史と文化を造る使命を成就しておられることを明確に教えています。それは、イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことに対する報いとして栄光を受けて死者の中からよみがえられ、天において父なる神さまの右の座に着座されたことによって現実になりました。
 イエス・キリストが死者の中からよみがえられたときの栄光は、先ほどお話ししました、神のかたちに造られている人が神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて神さまのみこころに従い通したなら受けていたであろう、より豊かな栄光です。それは、イエス・キリストがご自身のためではなく、私たちイエス・キリストの民のために獲得してくださった栄光です。エペソ人への手紙2章4節ー6節に、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と記されているとおり、神さまは、私たちをイエス・キリストにあって、イエス・キリストとともに死者の中からよみがえらせてくださり、イエス・キリストとともに天に座する者としてくださいました。これは、私たちがイエス・キリストにあって、神さまのより豊かな栄光に満ちた御臨在がある世界の歴史、すなわち、新しい天と新しい地の歴史と文化を造る使命を果たす者としていただいていることを意味しています。
 これらすべてのことは父なる神さまが御子イエス・キリストによって、私たちのために、また、私たちに対してなしてくださったことですし、なしてくださっていることです。それを私たちの現実と照らし合わせてみますと、次のようになります。
 私たちは生まれながらに自らのうちに罪の性質を宿している者、そして、実際に、思いとことばと行いにおいて罪を犯してしまう者、それゆえに、神さまの聖なる御怒りを受けるべき者として生まれ、そのような者として生きてきました。けれども、御子イエス・キリストが十字架にかかって私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきをすべて受けてくださったので、もはや私たちは自分の罪に対するさばきを受けることはありません。あたかも、私たちが自分の罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきをすべて受けてしまったかのようになっているのです。
 また、私たちはイエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことによって確立してくださった義にあずかって義と認められています。私たちは自らのうちに罪の本性を宿し、実際に罪を犯す者ですが、イエス・キリストにあって、あたかも、完全に父なる神さまのみこころに従い通した者であるかのように、義と認められています。
 さらに私たちは、イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことに対する報いとして獲得してくださった復活の栄光にあずかって、人が最初に神のかたちに造られた時の栄光よりさらに豊かな栄光にあるいのち、すなわち、永遠のいのちをもつ者としていただいています。私たちはイエス・キリストにあって、あたかも、完全に父なる神さまのみこころに従い通した者であるかのように、永遠のいのちを与えていただいて、人が最初に神のかたちに造られた時の栄光よりさらに豊かな栄光にあって神さまとの深く親しい交わりのうちに生きています。
 そればかりでなく、私たちは自らのうちに罪の本性を宿し、実際に罪を犯す者ですが、イエス・キリストにあって、あたかも、最初の創造の御業において神のかたちに造られている人に委ねられた歴史と文化を造る使命をすべて完全に果たしてしまって、そのことに対する報いを受けたかのように、神さまのより豊かな栄光に満ちた御臨在がある世界の歴史と文化、すなわち、新しい天と新しい地の歴史と文化を造る使命を果たす者としていただいているのです。

 これらのことから、私たちが終わりの日に、主のさばきの御座の前で評価としてのさばきを受けるようになるということは、最初にお話ししましたように、私たちが地上において犯した罪に対する刑罰としてのさばきを受けるということではありません。また、私たちが地上において、神さまが創造の御業において神のかたちに造られている人にお委ねになった歴史と文化を造る使命をどのように果たしたかの評価をなさるためのさばきでもありません。
 私たちはイエス・キリストにあって、あくまでも、イエス・キリストにあって、すでに、その歴史と文化を造る使命を完全に果たしてしまっているかのように見なされて、それに対する報いとしての復活の栄光を与えられている者、そして、新しい天と新しい地の歴史と文化を造る使命を果たす者とされています。
 新しい天と新しい地は終わりの日に再臨される栄光のキリストが、ご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて遂行される再創造の御業によって実現します。それで、それは将来のこと、終わりの日に起こることです。けれども、イエス・キリストの十字架の死は、終わりの日に執行される最後のさばきに当たるもので、終わりの日に起こるべきことです。また、イエス・キリストが栄光をお受けになって死者の中からよみがえられたことも、終わりの日に起こるべきことです。
 このように、イエス・キリストにおいては、終わりの日に起こるべきことが起こっています。そして、私たちは、このイエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって、すでに栄光を受けてよみがえられ、天に上って父なる神さまの右の座に着座しておられるイエス・キリストと一つに結び合わされています。私たちはイエス・キリストにあって、そして、イエス・キリストとともに死んで、イエス・キリストとともによみがえっています。そして、イエス・キリストとともに天において座する者となっています。このようにして、私たちはイエス・キリストにあって、終わりの日に起こるべきことにあずかっています。イエス・キリストにあって、すでに、新しい天と新しい地に属する者としていただいています。それで、ピリピ人への手紙3章20節にありますように、私たちの国籍は天にあります。ただし、それが完全な形で実現するのは終わりの日においてです。けれども私たちは、新しい天と新しい地に属している者として、この地上の歩みを続けています。
 このようにして、私たちはイエス・キリストにあって、またイエス・キリストとともに、新しい天と新しい地に属する歴史と文化を造る使命を果たすように召されていますし、実際に、その使命を果たしています。私たちがイエス・キリストにあって、新しい天と新しい地に属する歴史と文化を造ることができるのは、イエス・キリストが御霊によって、私たちを導いてくださるからです。そして、御霊が私たちをイエス・キリストの復活のいのちによって生かしてくださるからです。私たちが御霊によって歩むことによって造る歴史は「新しい時代」あるいは「来たるべき時代」と呼ばれます。ここでは代表的に「新しい時代」と呼ぶことにしますが、この新しい時代を生み出す原動力は御霊ですし、新しい時代を特徴づけているのも御霊です。これに対して、この世を動かし、この世を特徴づけているのは御霊と対比される「肉」です。
 御霊は私たちをイエス・キリストと一つに結び合わせてくださって、私たちをイエス・キリストの復活のいのちによって生かしてくださっています。そして、私たち自身をイエス・キリストの栄光のかたちに造り変えてくださっています。コリント人への手紙第二・、3章18節に、

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

と記されているとおりです。それは機械的、自動的に起こることではなく、私たちが御霊によって導かれて、父なる神さまと御子イエス・キリストを愛し、信仰の家族の兄弟姉妹たちを愛することをとおして実現します。それは、私たちが御霊に導かれて愛のうちを歩むときに、御霊が私たちのうちに、ガラテヤ人への手紙5章22節ー23節で、

 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。

と言われている、御霊の実としての人格的な特性を生み出し、さらに豊かに育ててくださることによっています。
 このようにして、私たちが御霊に導いていただいて愛のうちを歩むことによって、新しい時代の歴史と文化が造られていきます。そして、ただ、私たちが御霊に導いていただいて愛のうちを歩むことによって造る新しい時代の歴史と文化だけが、終わりの日に栄光のキリストが再創造される新しい天と新しい地に属しています。私たちが肉の働きに従って造り出したものは、この世に属するものとして、栄光のキリストの御臨在の御前において焼き尽くされてしまいます。
 このことを踏まえますと、最初に引用しました、ローマ人への手紙14章10節に、

それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。

と記されていることの意味の一つが見えてきます。御霊に導いていただいて、信仰の家族の兄弟姉妹たちを愛することによって、新しい天と新しい地に属する歴史と文化、新しい時代の歴史と文化を造るように召されている私たちが、信仰の家族の兄弟あるいは姉妹をさばくことは、まさにこれに反することであるからです。それは、御霊に導かれてすることではなく、肉の働きが生み出すことです。ガラテヤ人への手紙5章24節ー26節でパウロは、まず、

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

と勧めた後、続けて、

互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。

と戒めています。
 私たちが終わりの日に、主のさばきの御座の前で評価としてのさばきを受けるようになるというときの評価は、私たちが御霊に導いていただいて愛のうちを歩むことによって、新しい時代の歴史と文化を造ることに関わる評価です。その評価の目的は、私たちを新しい天と新しい地の歴史と文化を造る使命を果たす者としてくださるためですし、私たちが地上において、御霊に導いていただいて愛のうちを歩むことによって造った新しい時代の歴史と文化を生かして、新しい天と新しい地につなげてくださるためです。

 このこととの関わりで、さらに注意しておきたいことがあります。それは、これまで繰り返し述べてきましたように、この場合の主の評価の基準は、私たちがなじんでいるこの世における成果主義、業績主義に基づく基準ではありません。マタイの福音書24章14節ー30節に記されています「タラントのたとえ」によるイエス・キリストの教えでは、主人が忠実なしもべに対して、

よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。

と言っていますので、成果主義、業績主義に基づく評価がなされているように思われるかもしれません。けれども、それは私たちが成果主義、業績主義に基づく評価になじんでいるために抱いてしまう誤解によるものです。
 このイエス・キリストの教えにつきましては、日を改めてお話ししたいと思います。ここでは、私たちが終わりの日に、主のさばきの御座の前で評価としてのさばきを受けるようになるというときの評価の基準が成果主義、業績主義的なものでないということの根本的な理由をお話ししたいと思います。それは、先ほどお話ししましたとおり、私たちが生まれながらに自らのうちに罪の性質を宿している者であり、実際に、思いとことばと行いにおいて罪を犯してしまう者であるということによっています。このことは、かつて十字架につけられて殺され、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストを信じるようになる前の私たちの現実であっただけでなく、イエス・キリストを信じて罪を贖われた後の私たちの現実でもあります。ヨハネの手紙第一・1章8節ー10節に、

もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

と記されているとおりです。
 これが私たちの現実です。そうであれば、私たちがなすことは、思いにおいても、ことばにおいても、行いにおいても、常に私たち自身のうちにある罪の本性によって汚染されています。それは人の目には見えませんが、絶対的に聖なる主の御前には明白なものです。そうしますと、主がそのような私たちを、私たちがなじんでいるこの世の成果主義、業績主義の基準によって評価されるとしたら、私たちには評価されるようなものは何一つないということになります。絶対的に聖なる主が成果主義、業績主義の基準によって評価されるとしたら、私たちには、主から「よくやった」と言っていただくことができるようなものは何もないのです。
 私たちはただ神さまの恵みによって、イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことによって立ててくださった義にあずかって、絶対的に聖なる神さまの御前に義と認めていただいています。ただ神さまの恵みによって、イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえられたことにあずかって、栄光ある者として新しく生まれ、復活のいのちに生きる者としていただいています。そして、ただ神さまの恵みによって、御霊に満たしていただき、御霊によって導いていただいて、父なる神さまと御子イエス・キリストを愛し、信仰の家族の兄弟姉妹たちを愛する愛のうちを歩むことができるようにしていただいています。私たちはそれを自分たちの業績として誇ることはできません。
 ですから、私たちが御霊によって導いていただいて、新しい時代の歴史と文化を造っているとしたら、それによってあかしされるのは、私たちに対する父なる神さまの一方的な愛の深さであり、御子イエス・キリストの恵みの豊かさです。私たちをとおして父なる神さまの愛の深さと御子イエス・キリストの恵みの豊かさがあかしされるとことは、まことにさいわいなことです。けれども、私たちはそれを自分の業績として誇ることはできません。
 そうであるとしますと、私たちに対する神さまの評価の基準は、私たちをとおして、どのように、私たちに対する父なる神さまの一方的な愛の深さと、御子イエス・キリストの恵みの豊かさがあかしされたかということです。それは、父なる神さまの右の座に着座しておられるイエス・キリストが、御霊によって、私たちをとおしてなしてくださることです。また、それは人の目に見えるものがすべてではありませんので、決して私たちがなじんでいるこの世の成果主義、業績主義によっては測れないものです。
 マルコの福音書12章41節ー44節には、人々が神殿の献金箱にお金を投げ入れているときのことが記されています。41節では「多くの金持ちが大金を投げ入れていた」と言われています。当然、人々の目はそれに引きつけられていたことでしょう。続く42節では、「そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。」と言われています。レプタは新改訳欄外注にありますように、「最小単位の銅貨」です。誰の目にも留まらないというか、目に留まったとすれば、まったく無視されるか、さげすまれるようなことでしょう。しかし、これをご覧になったイエス・キリストは、弟子たちに、この「貧しいやもめ」は「どの人よりもたくさん投げ入れ」たと教えられました。イエス・キリストは、それが彼女がその時に持っていたすべてであったということを見て取っておられたのです。そして、このように、弟子たちを教えられたイエス・キリストは、弟子たちに、また、私たちに、このように人の目に隠れている豊かさを見極める目を持つことを求めておられます。
 私たちの信仰の家族の中には、いろいろな病を負っておられる方々がおられます。その中には、地上においては回復しないのではないかと思われる病もあります。また、この世にあるがために負わなければならない厳しい試練や難しい問題に直面しておられる方々もおられます。そのような状態にありながらも、なおも、ご自身に対する父なる神さまの一方的な愛の深さと、御子イエス・キリストの恵みの豊かさに触れて、ご自身が父なる神さまの子どもとされていることを喜びをもって信じて、歩んでおられる方々がおられます。その方々の歩みが、主の御前にどんなに豊かなあかしの光を放っているのか、人の目には見えにくいものです。また、ご本人がそのことを誇ることはありませんから、ご本人の目にも見えないことでしょう。しかし、レプタ二つを投げ入れた「貧しいやもめ」は「どの人よりもたくさん投げ入れ」たとご覧になったイエス・キリストはしっかりとご覧になって、評価しておられるはずです。


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