黙示録講解

(第136回)


説教日:2013年10月13日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章9節ー20節
説教題:栄光のキリストの顕現(37)


 今日も、ヨハネの黙示録1章17節後半ー18節に記されています、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

という、イエス・キリストがヨハネに語られたみことばの最初に出てくる、

 わたしは、最初であり、最後である

というみことばと関連するお話を続けます。
 今お話ししていることは、私たち主の契約の民も世の終わりに、主のさばきの御座の前で評価としてのさばきを受けるようになるということです。これまで、これがどのようなことであるかについて、その基本的なことをお話ししました。今日はそれをもう少し補足するお話をします。いつものように、まず、その要点をまとめておきます。
 大切なことは、このことが、神さまが創造の御業によってこの世界をお造りになったときのみこころと深くつながっているということです。神さまは創造の御業によってこの世界を歴史的な世界にお造りになりました。最初に造り出された世界の状態は創世記1章31節に、

 神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。

と記されていますように、神さまが「非常に良かった」と評価された状態にありました。この世界は造り主である神さまの栄光を豊かに映し出す世界として造られました。そのように造られた世界が歴史的な世界であるということは、この世界が歴史の進展とともに神さまの栄光をさらに豊かに映し出すようになるということを意味しています。
 引用はしませんが、エレミヤ書33章20節と25節に記されていることから分かりますように、神さまはご自身の主権的なみこころによって、ご自身がお造りになったすべてのものと契約を結んでくださいました。この契約を「創造の契約」と呼びます。そして、この契約に基づいて、お造りになったすべてのものを、今日に至るまで真実に支え、それぞれのものの特性を生かしつつ、導き続けてきてくださっています。
 このように、「創造の契約」は、神さまがお造りになったすべてのものと結ばれていますが、その中心に、神さまがご自身のかたちにお造りになった人との契約があります。人は神のかたちとしての栄光と尊厳性を与えられています。そして、神さまは「創造の契約」に基づいて、神のかたちに造られている人が住んでいるこの地に、特別な意味でご臨在されて、人をご自身との愛にある交わりのうちに生きるようにしてくださいました。この、造り主である神さまとの愛にある交わりが、神のかたちに造られている人のいのちの本質であり、「創造の契約」の基本的な祝福の中心です。
 神さまは、また、これも「創造の契約」の祝福としてですが、神のかたちに造られている人に、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。また、この歴史と文化を造る使命によって、ご自身がお造りになったすべてのものを人と一つに結び合わされました。
 さらに神さまは、神のかたちに造られている人がご自身のみこころに従って歴史と文化を造る使命を果たしたなら、それに対する報いとして、人に最初に神のかたちに造られた時の栄光にまさる栄光をお与えになる約束を与えてくださいました。それによって人を、最初に神のかたちに造られた時の状態より、さらに神さまの御臨在の御許に近づき、より深く親しい愛の交わりに生きる者としてくださるためでした。これも「創造の契約」による人への祝福でした。そして、このようにして神のかたちに造られている人に与えられる、より豊かな栄光にある、神さまとのより深く親しい愛の交わりが、永遠のいのちの本質です。
 神さまは、人が歴史と文化を造る使命をどのように果たしたかの評価をされます。それは歴史と文化を造る使命に関わる評価ですので、最終的には、歴史の終わりになされます。そしてそれは、人がご自身のみこころにしたがって歴史と文化を造る使命を果たしたことに対する報いとして、人により豊かな栄光をお与えになり、人がご自身の御臨在の御前にさらに近づき、ご自身とのより深く豊かな愛による交わりに生きるようにしてくださるためのことです。
 私たち主の契約の民が終わりの日に、主のさばきの御座の前で評価としてのさばきを受けるようになるのは、これに当たることです。神さまは私たちを、人が最初に神のかたちに造られた時の栄光にまさる栄光にあって神さまの御臨在の御許に近づき、より深く親しい愛の交わりに生きる者としてくださるために、評価としてのさばきをなさるのです。
 ただし、このことが実現する道筋は変わってしまっています。言うまでもなく、その実現する道筋が変わってしまったのは、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによっています。
 神さまは神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人がご自身に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった直後に、「最初の福音」を与えてくださいました。そして、実際に、今から2千年前に、ご自身の御子イエス・キリストを私たちの贖い主としてお遣わしになりました。
 御子イエス・キリストはまことの神であられ、無限、永遠、不変の栄光の主であられますが、人の性質を取って来てくださいました。その意味で、まことの人となられました。それは、創造の御業において神のかたちに造られた状態の人、罪を犯して堕落する前の本来の状態にある人となられたということを意味しています。また、それは「創造の契約」の下にある人となられたということを意味しています。
 イエス・キリストは、私たちの罪を贖ってくださり、私たちを私たちの罪の結果である死と滅びから救い出してくださるという父なる神さまのみこころに従われて、十字架におかかりになり、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けてくださいました。そのようにして私たちの罪を完全に贖ってくださり、私たちを罪の結果である死と滅びから救い出してくださいました。
 さらに、イエス・キリストは十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことに対する報いとして、「創造の契約」の祝福の約束に基づいて、栄光を受けて死者の中からよみがえられました。人が最初に神のかたちに造られた時の栄光にまさる栄光をお受けになったということです。私たち主の契約の民は、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストと一つに結ばれています。私たちはイエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことによって獲得された栄光にあずかって、新しく生まれています。そして、人が最初に神のかたちに造られた時の栄光にまさる栄光にあずかって、神さまの栄光の御臨在の御許にさらに近づき、神さまとのさらに深く豊かな愛の交わりに生きる者としていただいています。それは、ローマ人への手紙8章15節に、

 私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

と言われているほどの親しさによる神さまとの愛による交わりです。私たちはすでに永遠のいのちを与えられているのです。

          *
 福音のみことばは、さらに、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりには、もっと広い意味があること、そして、私たち主の契約の民がそれにあずかっていることを示しています。そのことは、すでに取り上げたいくつかの教えに示されていますが、今日は、コロサイ人への手紙1章18節ー20節に記されていることを取り上げます。そこには、

また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、 その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

と記されています。
 今お話ししていることと関係のあることだけしか取り上げられませんが、先に、19節ー20節に記されています、

なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、 その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

というみことばの方を見てみましょう。
 19節で、

神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ

と言われているときの「満ち満ちた神の本質」と訳されていることば(パン・ト・プレーローマ)は意訳で、「本質」ということばはありません。結論的にいいますと、これは、少し前に、エペソ人への手紙1章23節についてお話ししたことがあります。旧約聖書の背景から理解されることです。引用はしませんが、出エジプト記40章33節後半ー35節には、主の栄光の御臨在が幕屋に満ちたことが記されています。また、列王記第一・8章10節ー11節には、主の栄光の御臨在がソロモンが建てた主の神殿に満ちたことが記されています。さらに、エゼキエル書43章1節ー5節には、エゼキエルに示された終わりの日に回復される主の神殿の幻において、主の栄光の御臨在が主の神殿に満ちていたことが記されています。コロサイ人への手紙1章19節で、

 神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ

と言われていることは、古い契約下での「地上的なひな型」としての主の神殿、地上の建物である主の神殿に主の栄光の御臨在が満ちたことが指し示していたことが、イエス・キリストにおいて成就しているということです。
 ヨハネの福音書1章14節には、

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

と記されています。ここで「住まわれた」と訳されていることば(スケーノオー)は幕屋に宿ることを意味しています。ここでは、人となって来てくださった永遠のことばであられるイエス・キリストが古い契約下での「地上的なひな型」である幕屋の本体であることが示されています。また、2章19節節ー22節には

イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。

と記されています。ここでは、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストの復活のからだこそが、古い契約下での「地上的なひな型」としての主の神殿が指し示していた本体であることが示されています。コロサイ人への手紙1章19節で、

 神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ

と言われていることは、そのイエス・キリストに神さまの栄光の御臨在が満ちているということです。それで、イエス・キリストは、ヨハネの福音書14章9節に記されていますように、

 わたしを見た者は、父を見たのです。

と言われましたし、続く10節に記されていますように、

わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。

と言われたのです。
 コロサイ人への手紙1章では、続く20節で、

その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

と言われています。
 ここでは、「御子によって万物を・・・和解させてくださった」の「御子によって」(直訳「彼によって」、「この方によって」)が最初に出てきて強調されています。
 「御子のために和解させてくださった」の「御子のために」と訳されていることば(直訳「彼のために」、「彼へと」)については意見が分かれています。「御子のために」は新改訳第3版の訳ですが、第2版では「ご自分と」となっていて、父なる神さまとの和解であるとしています。それぞれに言い分があります。父なる神さまとの和解のことだと考える最大の根拠は、新約聖書のほかの個所では、神さまとの和解というと一貫して父なる神さまとの和解となっているということです。これに対して、これは「御子のために」、すなわち御子のための和解であると主張する根拠は、コロサイ人への手紙1章16節で万物が「御子にあって」、「御子によって」、「御子のために」造られたと言われていることと符合しているということです。新改訳第3版は「御子のために」と訳していますが、おそらく、今お話ししたこととともに、新約聖書のほかの個所では、神さまとの和解というと一貫して父なる神さまとの和解となっているけれども、ここでは「御子と」和解させてくださったということではなく、「御子のために」和解させてくださったということであると理解してのことと思います。ちなみに、私の手元には比較的新しい注解書とギリシャ語の釈義をしているものが、5冊ほどありますが、この問題に触れていないものもありますが、意見は分かれています。
 難しい判断ですが、私はこれは「御子との」和解のことではないかと考えています。その意味では、新改訳第3版の「御子のために」とも違っています。そのように考える理由は二つほどあるのですが、詳しくお話しする(時間的な)余裕しかありません。
 一つのことですが、確かに、新約聖書のほかの個所では、神さまとの和解というと一貫して父なる神さまとの和解となっています。けれども、それは神さまご自身の民との和解の場合です。ここコロサイ人への手紙1章20節では、より広く「万物」が和解させていただいていると言われています。しかも、この「万物」には人格的な被造物は含まれていません。その意味で、その他の個所で言われていることと異なっています。
 もう一つのことは、すでに繰り返しお話ししていることですが、イエス・キリストが創造の御業において神のかたちに造られている人に委ねられている歴史と文化を造る使命を成就しておられることとかかわっています。
 いずれにしましても、このようにして御子あるいは父なる神さまと和解させていただいた「万物」には人格的な被造物は含まれていません。すでにローマ人への手紙8章19節ー22節において「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れら」ると言われているときの「被造物」に人格的な被造物は含まれていないということをお話ししましたが、そのことは、このコロサイ人への手紙1章20節に記されていることにそのまま当てはまります。
 私たち主の契約の民が含まれていないことは、続く21節ー22節から分かります。それは「あなたがたも」で始まっていて、その中で、

 あなたがたをご自分と和解させてくださいました。

と記されていますように、私たちが父なる神さまと和解させていただいていることが、別なこととして示されています。
 また、この「万物」には、御使いたちもサタンや悪霊たちも、さらには、十字架につけられた御子イエス・キリストを信じない人々も含まれていません。というのは、御使いたちは罪を犯していませんから、神さまと和解する必要がありません。また、サタンや悪霊たちと十字架につけられた御子イエス・キリストを信じない人々は、神さまとも御子イエス・キリストとも和解することはありません。
 このように、ここでいわれている「万物」、その後で「地にあるものも天にあるものも」と言われている「万物」とは、すべての人格的ではない被造物のことです。それで、この「万物」は罪を犯すことがありませんし、倫理的な責任もありません。そうしますと、どうして「万物」が和解させていただく必要があるのでしょうか。
 これは、先ほど触れましたローマ人への手紙8章19節ー22節に、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

と記されていることによっていると考えられます、すでにいろいろな機会にお話ししていますので、結論的なことだけをお話しします。ここに出てくる「被造物全体」も、先ほどのコロサイ人への手紙1章の場合と同じく、人格的ではない被造物です。ここでは、この「被造物全体」が「虚無に服し」ていると言われています。そして、「虚無に服した」「被造物全体」が「切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいる」と言われています。それは、「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられ」るからであると言われています。
 これは、創造の御業において神さまが神のかたちに造られている人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったことによって、「被造物全体」が、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人と一つに結ばれていることによっています。それで、人が神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったときに、人が罪ののろいを受けただけでなく、人との一体にあって「被造物全体」がのろいを受けて「虚無に服し」てしまったのです。このことは、逆に、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人の中から、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって、罪を贖っていただき、義と認めていただき、神の子どもとしていただいた者たちが出現するなら、「被造物全体」は、その神の子どもたちとの一体にあって「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられ」るようになるということを意味しています。
 このことが、コロサイ人への手紙1章20節では「万物」が御子と和解させていただいたと言われていることに当たります。
 それでは、どうして、コロサイ人への手紙1章20節では倫理的な責任がない「万物」が「和解させて」いただいたと言われているのでしょうか。それは、「虚無に服し」ている「万物」と造り主である神さまとの関係にある種の破れがあるからであると考えられます。創世記3章17節ー19節には、罪を犯した最初の人アダムに対する神さまのさばきの宣言が記されています。17節には、

 あなたが、妻の声に聞き従い、
 食べてはならないと
 わたしが命じておいた木から食べたので、
 土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。

と記されていて、人との一体において、「土地」がのろわれてしまったことが記されています。そして18節には、

 土地は、あなたのために、
 いばらとあざみを生えさせ、
 あなたは、野の草を食べなければならない。

と記されています。創造の御業を終えた神さまが、お造りになったすべてのものをご覧になったとき、

 見よ。それは非常に良かった。

と記されています。このときの状態では、土地は豊かな実りをもたらす植物を生えさせるもので、「いばらとあざみを生えさせ」て人の労苦を増すことはありませんでした。その意味で、「いばらとあざみを生えさせ」る土地は、神さまが土地をお造りになったときの本来の状態、真に神さまのみこころにかなった状態にはありません。
 このことは土地だけでなく、「虚無に服し」ている「万物」に当てはまります。その意味で、「虚無に服し」ている「万物」と造り主である神さまとの関係にある種の破れがあるのです。コロサイ人への手紙1章20節で、「万物」が「御子によって和解させて」いただいているということは、「万物」が真に神さまのみこころにかなった状態に回復されること意味しています。
 それは、最初に創造された時の状態に回復されること以上のことです。というのは、ローマ人への手紙8章21節に、

被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

と記されているからです。これは、被造物が最初に造られた時の状態、すなわち、創造の御業において神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた時の人と一つに結ばれている状態に回復されるということではありません。御子イエス・キリストの十字架の死によって罪を完全に贖っていただき、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストの栄光にあずかって、最初に神のかたちに造られた時よりさらに豊かな栄光を与えていただいている私たち神の子どもたちと一つに結ばれている状態に回復されるということです。それは、被造物も最初に造られた時よりもより豊かに神さまの栄光を映し出すようになるということを意味しています。このことは、最終的には新しい天と新しい地において完全に実現します。そして今、被造物たちはともにうめきながら、その完全な実現を待っています。
 コロサイ人への手紙1章19節ー20節には、

なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

と記されていました。
 これは「なぜなら」ということばから始まっていて、その前の部分に記されていることの理由を示しています。そして、その前の18節後半には、

御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。

と記されています。
 ここでまず注目したいのは「死者の中から最初に生まれた方」ということばです。これは直訳では「死者たちの中からの長子」です。旧約聖書では「長子」ということばがただ時間的に最初に生まれたということだけでなく、特別な意味での権威と優位性を意味しています。イエス・キリストは、ご自身が時間的に「死者の中から最初に生まれた方」であるだけでなく、ご自身の民をご自身のよみがえりの栄光にあずからせてくださって、よみがえらせてくださる方です。
 このこととのつながりで見ますと、その前の、

 御子は初めである

ということは、栄光を受けて死者の中からよみがえられた御子イエス・キリストが、ご自身のよみがえりから始まる「新しい時代」すなわち、終わりの日に再臨される栄光のキリストが、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて再創造される新しい天と新しい地に属する「新しい時代」を始められた主であられ、「新しい時代」を治めておられる主であられることを意味しています。
 さらに、これらのこととの関わりで、

 こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。

と言われていることを見ますと、これは、イエス・キリストが、「その十字架の血によって平和をつくり」、「万物」をご自身と「和解させてくださった」方であられることに基づいていることが分かります。先ほどお話ししましたように、イエス・キリストは「万物」を「神の子どもたちの栄光の自由の中に入れ」てくださる方です。つまり、新しい天と新しい地に属する「新しい時代」を始め、それを治めておられる主であるだけでなく、新しい天と新しい地を再創造され、その歴史を治める主であられます。
 このことから、

 こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。

というみことばは、イエス・キリストが創造の御業とともに神のかたちに造られている人に委ねられている歴史と文化を造る使命を完全に果たされたということの先にあることを示していることが分かります。つまり、イエス・キリストはヘブル人への手紙2章5節ー10節に示されている、神さまが「後の世を」私たち主の契約の民にお委ねになったということを実現しておられるということです。言い換えますと、イエス・キリストは、ご自身が栄光を受けて死者の中からよみがえられたことによって始められた「新しい時代」の歴史の主であられるだけでなく、新しい天と新しい地の歴史の主であられる、ということです。
 コロサイ人への手紙1章18節は、

 また、御子はそのからだである教会のかしらです。

というみことばで始まっています。そして、これに続く18節後半ー20節で、この「教会のかしら」である「御子」のことが、これまでお話ししてきましたように説明されています。
 「教会のかしら」である「御子」は、ご自身の「十字架の血によって平和をつくり」、万物を最初に造られた時の状態よりさらに豊かに神さまの栄光を映し出すものとして回復してくださった方です。イエス・キリストは、創造の御業において神のかたちに造られている人に委ねられた歴史と文化を造る使命を完全に果たされただけではありません。ご自身が栄光を受けて死者の中からよみがえられたことによって始められた「新しい時代」の主であられます。さらに、終わりの日に完全な形で実現する新しい天と新しい地の歴史の主であられます。
 教会は、この栄光のキリストのからだです。それで、栄光のキリストのからだである教会は、すでに、「新しい時代」の歴史と文化を造る使命を果たすものとなっていますし、終わりの日に完全な形で実現する新しい天と新しい地の歴史と文化を造る使命を果たすようになるのです。


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