黙示録講解

(第135回)


説教日:2013年10月6日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章9節ー20節
説教題:栄光のキリストの顕現(36)


 ヨハネの黙示録1章17節後半ー18節には、イエス・キリストが黙示録の著者であるヨハネに語られた、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

というみことばが記されています。その最初に出てくるのは、

 わたしは、最初であり、最後である

というみことばです。
 今お話ししているのは、このみことばと関連することで、私たち主の契約の民も世の終わりに、主のさばきの御座の前で評価としてのさばきを受けることになるということです。
 これまで、お話ししたことをまとめておきます。すでにお話ししたことについては、みことばの引用をしないで、結論的なことだけをお話しします。
 このことは、神さまが創造の御業においてこの世界を歴史的な世界としてお造りになったこと、また、人をご自身との契約関係にあって、ご自身との愛の交わりのうちに生きる者として、愛を本質的な特性とする神のかたちにお造りになったこと、そして、神のかたちに造られている人にこの歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことから出ています。
 このようにして造り主である神さまが創造の御業とともに与えてくださった契約を「創造の契約」と呼びます。神さまはこの契約に基づいて、ご自身がお造りになったこの世界にご臨在され、今日に至るまで、お造りになったすべてのものの特質を生かしてくださり、すべてのものをを真実に保ってくださっています。
 神さまは、ご自身がお造りになったこの世界、この広大な宇宙にご臨在しておられますが、さらに、特別な意味で、この地にご臨在しておられます。それは、神のかたちに造られている人を、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生かしてくださるためです。
 神のかたちに造られている人は、神さまを愛し、造り主として礼拝することにおいて、いっさいの栄光を神さまに帰すことを中心として、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を果たすよう召されています。これらすべてのことは、神さまが一方的な愛と恵みによって与えてくださった「創造の契約」の祝福です。
 そればかりでなく、神さまは神のかたちに造られている人がこの歴史と文化を造る使命を、神さまのみこころにしたがって果たしたなら、そのことに対する報いとして、最初に神のかたちに造られた時の栄光にまさる栄光にあるいのち、すなわち、永遠のいのちを与えてくださるという約束を与えてくださいました。それは、人を最初に神のかたちに造られた状態において享受していた、神さまとの愛にある交わりより、さらに栄光に満ちていて、さらに深く親しい交わりのうちに生きるようにしてくださるためのことでした。
 人がそのようにより豊かな栄光に満ちた状態になったからといって、人が歴史的な存在でなくなってしまうわけではありません。さらに豊かな栄光を与えられる人は、さらに豊かな栄光にあって神さまとの愛の交わりを深め、神さまを造り主として礼拝することを中心として、さらに豊かに神さまの栄光を現す歴史と文化を造る使命を果たすようになるのです。
 このために神さまは、人が委ねられた歴史と文化を造る使命をどのように果たしたかについての評価をされます。それは歴史と文化を造る使命に関わる評価ですので、歴史の中のさまざまな機会にもなされますが、最終的には、歴史の終わりになされます。それによって、神さまは、人が最初に造られた状態において享受していた、神さまとの愛にある交わりよりさらに栄光に満ちた交わりのうちに生きるようにしてくださるのです。
 実際には、人は造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。それによって、人はその罪に対するさばきとして、のろいを受け、神さまの栄光の御臨在の御前から退けられ、神さまとの愛にあるいのちの交わりを失ってしまいました。そして、人は造り主である神さまを神として礼拝することはなくなり、自らの罪の自己中心性に縛られて、罪が生み出す自己中心的な欲望、野望を満たそうとする歴史と文化を造り出すようになってしまいました。そのために、人を最初に造られた状態より、さらに栄光に満ちた者にしてくださるためになされるはずの評価が、罪を犯して堕落してしまったことと、造り主である神さまを神としない歴史と文化を造り出してしまったことに対するさばきとなってしまいました。
 罪を犯して堕落してしまった人が神さまの栄光の御臨在の御前から退けられたことには、もし人が罪あるままで聖なる神さまの御臨在の御前に立ち続けるなら、神さまの聖さを冒す者として滅ぼされてしまいますので、人をその御臨在の御許から退けられたという面もあります。これも神さまの恵みとあわれみによることですが、これだけでは、人の悲惨さとみじめさは解決しません。人は造り主である神さまを神として礼拝することなく、自らの罪を現す歴史と文化を造り続けることになりますし、終わりの日には、そのすべてに対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けることになります。
 これに対して神さまは、人がご自身に対して罪を犯して堕落した直後に、創世記3章15節に記されています「最初の福音」を与えてくださり、後の時代に来たるべき贖い主を約束してくださいました。「最初の福音」では、この贖い主は「女の子孫」の共同体のかしらとして来てくださることが示されています。このことに、やがて来てくださる贖い主をかしらとする「救済の契約」が想定されています。そして、ご自身がご計画された時が満ちたとき、神さまはご自身の御子を贖い主としてお遣わしになりました。
 イエス・キリストは、その地上の生涯を通して、完全に父なる神さまのみこころに従い通されました。そして、最後に、十字架におかかりになって、私たちご自身の民の罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わってすべて受けてくださいました。それによって、私たちの罪を完全に贖ってくださいました。それで、私たちの罪に対する最終的なさばきは、御子イエス・キリストの十字架においてすでに執行されて終わっています。そればかりではありません。イエス・キリストは十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことに対する報いとして、人が最初に神のかたちに造られた時の栄光より、さらに豊かな栄光をお受けになって、死者の中からよみがえられました。
 これは、先ほどお話ししました、「創造の契約」において示された祝福の約束に基づくことです。イエス・キリストは創造の御業とともに神のかたちに造られている人に委ねられた歴史と文化を造る使命を成就され、「創造の契約」に約束されている祝福にあずかって、人が最初に神のかたちに造られた時の栄光より、さらに豊かな栄光をお受けになったのです。


 今から2千年前に、イエス・キリストが十字架におかかりになって、私たちご自身の民の罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰をお受けになったことは、終わりの日になされるさばきの執行でした。また、イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことに対する報いとして、栄光を受けて死者の中からよみがえられたことも、終わりの日に実現する「創造の契約」の祝福が実現したことでした。ですから、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、終わりの日に起こることが、すでにこの歴史の現実になっています。
 このように、イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえられたことによって、終わりの日に完全に実現するようになる新しい天と新しい地に属することが、すでに、歴史の中で実現しています。この新しい天と新しい地も歴史的な世界です。その新しい天と新しい地に属する歴史が、イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえられたことによって、すでに始まっています。そのすでに始まっている新しい天と新しい地に属する歴史の時代を「新しい時代」、「来たるべき時代」と呼びます。これと対比して、この世が造り出す歴史の時代を「この時代」と呼びます。
 ヘブル人への手紙2章5節ー10節に記されているように、新しい天と新しい地の歴史と文化を造る使命は、イエス・キリストの死とよみがえりにあずかって、イエス・キリストとともに死んで、イエス・キリストとともによみがえっている神の子どもたちに委ねられています。このことは終わりの日に完全な形で実現します。それと同時に、エペソ人への手紙2章4節ー6節に記されていますように、私たちは、すでに、イエス・キリストにあって、イエス・キリストとともに栄光あるものによみがえって、イエス・キリストとともに天に座する者としていただいています。これによって、私たちは新しい天と新しい地に属する歴史と文化、新しい天と新しい地の本質をもつ歴史と文化を造る使命、すなわち、「新しい時代」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たす者としていただいています。
 イエス・キリストは私たちご自身の民のために、ご自身が十字架において流された血によって、「救済の契約」の新しい契約を確立されました。私たちは御子イエス・キリストをかしらとする新しい契約の共同体に属しています。この新しい契約の共同体がキリストのからだである教会です。これは新しい天と新しい地に属する共同体です。私たちはこのキリストのからだである教会に属している者として、イエス・キリストが私たちのために成し遂げてくださったすべてのこと、すべての祝福にあずかっています。
 私たちはイエス・キリストの十字架の死による罪の完全な贖いにあずかって、罪を完全に贖っていただいています。また、イエス・キリストが「創造の契約」に約束されている祝福により、栄光を受けて死者の中からのよみがえられたことにもあずかって、復活のいのちによって新しく生まれています。そして、イエス・キリストを信じる信仰によって神さまの御前に義と認めていただいており、子としての身分をいただいています。このことに基づいて、私たちは父なる神さまに向かって親しく「アバ、父」と呼びかけるほどの近さと親しさで父なる神さまとの愛の交わりに生きています。そして、これによって私たちは、すでに私たちご自身の契約の民の間の現実となっている、「新しい時代」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たすようになっています。
 これらのことが新しい契約の祝福です。すべてイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりに基づいています。そして、今から2千年前の聖霊降臨節(ペンテコステ)の日に、イエス・キリストが父なる神さまの右の座から遣わしてくださった聖霊は、御子の御霊として、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりに基づいてお働きになります。この御霊のお働きによって、新しい契約の祝福は私たちの間で実現しています。
 御霊は私たちを父なる神さまの右の座に着座しておられる栄光のキリストと一つに結び合わせてくださり、私たちをイエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれさせてくださり、子としてくださり、父なる神さまとのより豊かな栄光にある愛の交わりに生かしてくださっています。ローマ人への手紙8章14節に記されていますように「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」し、15節に記されていますように、「私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます」。
 このように御霊に導いていただいて、父なる神さまを礼拝することを中心として、神さまとのより豊かな栄光にある愛の交わり、また、同じく神の子どもとしていただいている兄弟姉妹との愛にある交わりに生きることが永遠のいのちの本質です。私たちはこの愛に生きることによって、「新しい時代」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たしていきます。私たちはイエス・キリストの御霊に導いていただくことによって、また、御霊に導いていただく時にだけ、「新しい時代」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たすことができます。なぜなら、「新しい時代」、「来たるべき時代」を特徴づけ、「新しい時代」、「来たるべき時代」を生み出すのは、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊だからです。そして、これと対比される「この世」とその歴史である「この時代」を特徴づけ、それを生み出しているのは、御霊に対比される「肉」です。
 ガラテヤ人への手紙5章13節ー17節には、

兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。 律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。

と記されています。
 私たちはすでにイエス・キリストの十字架の死にあずかって罪を贖っていただいています。また、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって新しく生まれています。また、イエス・キリストを信じる信仰によって義と認めていただいており、神の子どもとしていただいて、父なる神さまと信仰の家族の兄弟姉妹立ちとの愛の交わりに生きています。このことを実現してくださっているのは御霊です。けれども、私たちのうちにはなおも罪の性質が残っており、私たちは思いとことばと行いにおいて罪を犯します。そのために、私たちは肉に従って歩むことがあります。このガラテヤ人への手紙5章13節ー17節には、そのような私たちに対する勧めと警告が記されています。もし私たちが御霊によってではなく、肉によって歩むなら、その時には、御霊は悲しまれます。エペソ人への手紙4章30節には、

神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。

と記されています。また、テサロニケ人への手紙第一・5章19節には、

 御霊を消してはなりません。

と記されています。

 ここに記されていることを見ますと、御霊がとても弱い片であるかのように見えます。しかしそれは、御霊が私たち神の子どもたちの良心の自由を無視して、私たちを無理やり動かされることがないからです。私たちが御霊にお委ねし、導いていただけば、御霊は血肉の力とは本質的に違う、恵みの御力を働かせてくださって、私たちを神さまと兄弟姉妹たちへの愛に歩ませてくださり、内側から造り変えてくださいます。

 このことを踏まえて、コリント人への手紙第一・3章10節ー17節に記されているみことばを見てみましょう。そこには、

与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。

と記されています。
 ここには、イエス・キリストの血による新しい契約の共同体、すなわち、キリストのからだである教会が建て上げられることに関わる教えが記されています。それは、この3章において取り上げられていることが、3節ー4節に、

あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。ある人が、「私はパウロにつく」と言えば、別の人は、「私はアポロに」と言う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。

と記されていますように、コリントにある教会の信徒たちの間に、肉の働きに動かされての、ねたみや争いによる分裂状態があったからです。このような事情により、ここでは新しい契約の共同体としてのキリストのからだである教会が建て上げられることが取り上げられていますが、ここに記されていることは、より広く、私たち神の子どもたちが「新しい時代」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たすことに当てはまります。というのは、キリストのからだである教会を建て上げることは、「新しい時代」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たすことの中心にあることであるからです。

 今ここでは、ここに記されていることで「新しい時代」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造ることと関わっていることだけをお話しします。
 10節ー11節で、パウロは、

 与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。

と述べてから、

 その土台とはイエス・キリストです。

と言っています。ここでは、パウロが伝えた福音のみことばによってあかしされているイエス・キリスト、十字架につけられてご自身の民の罪を贖い、栄光を受けてよみがえられて、ご自身の民を復活のいのちによって生きる者としてくださっているイエス・キリストが土台であると言われています。また、ここでは、誰かが間違った福音を伝えて混乱を招き、偽物の土台が据えられているというようなことは問題になってはいません。ですから、土台には問題がありません。
 そして、パウロは、

ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。

と述べています。すでに据えられている土台には問題がないけれども、その上にどのように建てられるかが問題であることを明らかにしています。「」ということばは原文のギリシャ語にはない新改訳の補足です。ここでは、新しい契約の共同体としてのキリストのからだである教会が建て上げられるということです。このキリストのからだである教会は、16節ー17節で、神の御霊がご臨在しておられる神の神殿であると言われています。

 しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。

ということばは、新しい契約の共同体としてのキリストのからだである教会に属するすべての人に当てはまることで、牧師や長老、執事たち教会の役員だけに当てはまることではありません。そのことは、16節で、

 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられる

と言われていることからも分かります。私たちそれぞれが「神の御霊」がご臨在しておられる「神の神殿」を構成しているのです。
 その上で、パウロは12節ー13節で、

もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。

と述べています。パウロが注意しなければならないと教えているのは、「金、銀、宝石」で建てるのか、あるいは、「木、草、わら」で建てるのかということで、その素材の質のことです。ここでは、大きなものを建てたか、小さなものしか建てられなかったかというような、サイズのことは問題になってはいません。
 この場合に、ある人が「金、銀、宝石」で建てたのか、あるいは「木、草、わら」で建てたのかは、

 その日がそれを明らかにするのです。

と記されていますように、最終的には、終わりの日に明らかになると言われています。終わりの日になされるさばきにおいて明らかにされるということです。
 これは、また、人の目から見えることが、そのまま主がご覧になっておられることではないことを意味しています。人がすばらしいと言っても、主の目にはそのように見えていないということが、いくらでもあります。とりわけ、これまで繰り返しお話ししてきましたように、かつて私たちがなじんでいて、今も私たちのうちに残っている業績主義、成果主義の発想による評価が、主の御前には通用しないことがあります。通用しない「ことがある」というより、それは「基本的に」通用しないと言っても、言いすぎではないでしょう。確かに、聖書の中には、業績主義、成果主義の発想による評価ではないかと思われる教えがあります。これにつきましては、改めてお話ししたいと思います。
 パウロは、その終わりの日に起こることについて、

 その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためす

と述べています。ここには「」が出てきますが、物理的な火ではありません。テサロニケ人への手紙第二・1章7節に、

そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現れるときに起こります。

と記されていますように、栄光のキリストが再臨されるとき、それに伴う「」です。その意味で、栄光のキリストの顕現(クリストファニー)に伴う「」です。「金、銀、宝石」で建てられた建物はその「」で焼き尽くされることはありませんが、「木、草、わら」で建てられたものは焼き尽くされてしまいます。「木、草、わら」で建てられたものは栄光のキリストの御臨在に耐えることができないものであることが明らかとなります。そして、「金、銀、宝石」で建てられたものは栄光のキリストがご臨在される新しい天と新しい地に属するものであることが明らかとなり、新しい天と新しい地へとつながっていきます。
 このように、これは、終わりの日においてなされる評価としてのさばきにかかわることです。けれどもこれは、人を救いか滅びかに分ける最後のさばきではありません。というのは、15節に、

もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。

と記されていますように、焼き尽くされるのは「木、草、わら」で建てられたものであって、それを建てた人ではないからです。その人が福音のみことばにあかしされているイエス・キリストを、福音のみことばに従って信じているなら、その人は決して、主の聖なる御怒りによるさばきによってさばかれることはありません。
 また、このことは、人の目に見える形においては一つの教会、同じ教会であっても、それぞれの人が「金、銀、宝石」で建てたり、「木、草、わら」で建てたりすることがあるということも示しています。それは、また、この教えでは、その教会がイエス・キリストという土台の上に建てられているという意味ではまことの教会でありながら、その上に「木、草、わら」というまがい物をもって建てられることがあるということにも表れています。
 それでは、「金、銀、宝石」と「木、草、わら」の違いは何によっているのでしょうか。人の目から見てよいと見えるものかどうかではありません。この二つの違いは先ほどお話ししました「新しい時代」、「来たるべき時代」を特徴づけ、それを生み出してくださる「御霊」とそれに対立する「肉」の違いに対応しています。
 私たちが御霊によって導いていただいて造る「新しい時代」、「来たるべき時代」の歴史と文化は、新しい天と新しい地に属するものとして、新しい天と新しい地へとつながっていきます。終わりの日に再臨される栄光のキリストは、それを生かしてくださって、新しい天と新しい地を再創造してくださいます。けれども、私たちが肉に動かされて建て上げたものは、「この世」「この時代」に属するものとして、栄光のキリストの御臨在の御前で焼き尽くされてしまいます。
 私たちは御霊に導いていただいて、神である主を愛して礼拝し、兄弟姉妹たちへの愛に生きることを中心として、「新しい時代」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たすように召されています。そして、実際に、「新しい時代」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たしています。それで、聖書には、このことにかかわる勧めや警告がさまざまな形で記されているのです。


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