黙示録講解

(第134回)


説教日:2013年9月29日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章9節ー20節
説教題:栄光のキリストの顕現(35)


 ヨハネの黙示録1章17節後半ー18節には、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

という、イエス・キリストがヨハネに語られたみことばが記されています。今お話ししていることは、その最初に出てくる、

 わたしは、最初であり、最後である

というみことばについてです。
 これまで、このみことばとの関連において、私たち主の契約の民も世の終わりにおいて、主のさばきの御座の前で評価としてのさばきを受けることになるということをお話ししてきました。このことは、すでに取り上げましたローマ人への手紙14章10節ー12節、コリント人への手紙第一・4章5節、コリント人への手紙第二・5章10節、ヘブル人への手紙4章13節に記されているみことば、さらには、特に、終わりの日についてのイエス・キリストのいくつかの教えで明確に教えられています。
 このことは福音に合わないのではないかと感じられるからでしょうか、福音派の教会でも、ほとんど語られていないのではないかと思われます。また、その逆に、教会の指導的な立場にある人々が、これらの教えを用いて信徒の方々を脅して、自分たちの指示に従うように迫るようなことがあるかも知れません。また、個人的にも、これらの教えにある種の恐怖を感じられる方がおられるかも知れません。けれども、このようなことは、この教えの主旨にまったく反しています。むしろこの教えは、私たち、すでに主の一方的な恵みのゆえにイエス・キリストを信じる信仰を与えられ、その信仰によって義と認めていただき、神の子どもとしていただいている者にとってのさらなる恵みを示すものです。
 それなのにこのような誤解あるいは曲解が生じてしまうのは、私たちの中にひそかに残っている業績主義、成果主義の発想に基づいて、この教えを理解してしまうからです。この教えを正しく理解するためには、聖書が全体として教えていることを理解しなければなりません。それで、きょうは、繰り返しをいとわず、これまでお話ししてきたことに補足を加えながら、全体的なことを整理してお話ししたいと思います。


 神さまは天地創造の御業においてこの世界を歴史的な世界としてお造りになりました。具体的には、御子イエス・キリストが父なる神さまのみこころに従って、この歴史的な世界をお造りになりました。この世界が歴史的な世界であるということは、この世界の歴史の進展とともに、神さまの栄光がさらに豊かに現されるようになるということを意味しています。
 神さまは人を、愛を本質的な特性とする神のかたちにお造りになり、ご自身との契約関係のうちにあるものとしてくださいました。この契約を「創造の契約」と呼びます。神さまはこの契約に基づいて人をご自身の民とされ、その間にご臨在してくださり、人が神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛にある交わりに生きることができるようにしてくださいました。神さまは、また、人にこの歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。神のかたちに造られている人は、神である主を愛して、神として礼拝し、隣人を自分のように愛することを中心として、神さまの愛といつくしみと恵み、義と聖さと真実さに満ちた栄光を、より豊かに現すように召されています。これらはすべて「創造の契約」の基本的な祝福として、神のかたちに造られている人に与えられていることです。
 神さまは、ただ、神のかたちに造られている人に歴史と文化を造る使命を委ねてくださっただけではありません。人が歴史と文化を造る使命を果たすなら、それに対する報いとして、人に最初に造られた時の神のかたちの栄光よりさらに豊かな栄光にあるいのち、永遠のいのちを与えてくださることを約束してくださいました。これも「創造の契約」の祝福による約束です。[注]

[注]一般に、この契約を善悪の知識の木についての戒めをめぐる「わざの契約」であるとする考え方では、永遠のいのちの約束だけがこの契約の祝福であると考えられています。
 しかし、この契約の祝福には、より基本的な祝福として、先ほどお話ししましたように、神である主が神のかたちに造られている人の間にご臨在してくださって、人がご自身との愛の交わりに生きることができるようにしてくださっていること、また、歴史と文化を造る使命を委ねていただいていること、そのようにして、神さまの栄光をより豊かに表すように召されていることがあります。人は、初めから、この契約のうちにある者として造られ、これらすべての祝福にあずかっています。
 これらの祝福は善悪の知識の木についての戒めが与えられる前に、すでに与えられていました。それで、この契約を善悪の知識の木についての戒めをめぐる「わざの契約」とする考え方では、これらの祝福をこの契約の祝福とすることができないことになります。

 このようにして、神のかたちに造られている人に歴史と文化を造る使命をお委ねになった神さまは、人が歴史と文化を造る使命をどのように果たしたかの評価をなさいます。それは歴史と文化を造る使命をめぐる評価ですので、その評価は最終的には歴史の終わりになされます。そして、これは人が歴史と文化を造る使命を果たしたことに対する報いとして、より豊かな栄光を与えてくださるための評価です。
 けれども、人は契約の神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。これによって、人の本性は腐敗し、人は自らの罪の自己中心に縛られてしまっています。人は造り主である神さまを神として礼拝することなく、偶像を作り出して、ごれを神とするようになりました。偶像礼拝は、実質的には、罪の自己中心性が生み出す欲望を満たすための手段となっています。そのために、人は歴史と文化を造り出しますが、それは、歴史と文化を造る使命を委ねてくださった神さまのみこころからは、まったくかけ離れたものとなってしまっています。
 このことによって、人は「創造の契約」に違反した者として、先ほど挙げました「創造の契約」の基本的な祝福を失い、死の力に服しました。また、本来は終わりの日になされる、歴史と文化を造る使命を果たしたことに対する評価が、造り主である神さまを神とすることなく、自らの罪の自己中心性を特質とする欲望を満たそうとする歴史と文化を造り出したことに対するさばきの執行という意味をもつようになりました。
 これに対して神である主は、人類の堕落の直後に、もう一つの契約である「救済の契約」を与えてくださり、この契約のかしらとして来られる贖い主を約束してくださいました。さらに、その後の歴史の中で、さまざまな「地上的なひな型」としての贖いの御業や制度やそれを説明するみことばをとおして、来たるべき贖い主とその贖い主が遂行される贖いの御業のことを預言的にあかししてくださいました。そして、今から2千年前に、ご自身の御子イエス・キリストを贖い主としてお遣わしになりました。
 イエス・キリストは地上の生涯をとおして、父なる神さまのみこころに従い通され、最後には、父なる神さまのみこころに従って、十字架におかかりになり、私たちご自身の契約の民の罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わってすべて受けてくださり、私たちの罪をすべて完全に贖ってくださいました。私たちはイエス・キリストの血による新しい契約の民としていただいています。[注]

[注]新しい契約というのは「救済の契約」の中での区別です。「地上的なひな型」である動物の血による古い契約に対して、本体であるイエス・キリストの血による新しい契約ということです。「創造の契約」を古い契約として、それと対比しているのではありません。

 さらに、イエス・キリストは十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことによって、私たちご自身の契約の民のために義を確立してくださいました。また、「創造の契約」の祝福の約束に基づき、その十字架の死に至るまでの従順に対する報いとして、栄光をお受けになり、死者の中からよみがえりになりました。そして、天に上られ、父なる神さまの右の座に着座されました。
 私たちはイエス・キリストがご自身の血によって立ててくださった新しい契約の祝福にあずかっています。具体的には、新しい契約の祝福は法的なことと、実質的なことに分けて考えることができます。
 まず法的なことですが、私たちはイエス・キリストの十字架の死にあずかって罪を完全に贖っていただき、すべての罪を赦していただいています。また、イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことによって確立してくださった義にあずかって、神さまの御前に義と認められていますし、父なる神さまの養子として迎え入れていただいています。これらはすべて法的なことで、すでに、完全に私たちのものとなっている祝福です。
 これらの法的な祝福とともに、私たち主の契約の民は私たちの実質を変えてくださる祝福にもあずかっています。私たちは、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって、イエス・キリストと一つに結び合わされています。これは、栄光を受けて死者の中からよみがえられ、父なる神さまの右の座に着座しておられるイエス・キリストと一つに結び合わされているということです。その私たちはイエス・キリストのよみがえりにあずかり、枝がぶどうの木のいのちによって生きるように、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれ、そのいのちによって生きています。そして、コリント人への手紙第二・3章18節に、

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

と記されていますように、イエス・キリストの栄光のみかたちに造り変えていただいています。
 このように、私たちはすでに「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行き」つつあります。このことを神学的には「聖化」と呼びます。「聖化」ということばは「聖くされることによって聖くなる」ことを意味していますが、より具体的には、御霊のお働きによって、イエス・キリストの栄光のみかたちに造り変えられるということです。
 これは私たちの地上の生涯では完成しないで、終わりの日に再臨される栄光のキリストが新しい天と新しい地を再創造されることの中心にあることとして、私たちのからだを栄光あるものとしてよみがえらせてくださることによって完成します。ヨハネの手紙第一・3章2節に、

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

と記されているとおりです。
 ここで言われている、終わりの日に、

 私たちはキリストに似た者となる

ということは、先ほどの「聖化」の完成です。これを神学的には「栄光化」とか、より短く「栄化」と言います。これによって、永遠の聖定における神さまのみこころを示しているローマ人への手紙8章29節ー30節に、

なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

と記されていることが完全に実現します。
 今お話ししていることとの関わりで特に注目しておきたいことがあります。それは、このヨハネの手紙第一・3章2節で、終わりの日に、私たちがあらゆる点で「キリストに似た者となる」と言われていること、すなわち、私たちの栄光化は、何もない所で起こるのではないということです。私たちがあらゆる点で「キリストに似た者となる」のは、先ほどのコリント人への手紙第二・3章18節に記されていましたように、私たちがすでに御霊によって、

 栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行く

状態にあることの完成として起こるということです。
 私たちがあらゆる点で「キリストに似た者となる」ための「御霊なる主」のお働きはすでに始まっています。今、父なる神さまの右の座に着座されているイエス・キリストは、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって、私たちご自身の契約の民それぞれを「栄光から栄光へと」ご自身の栄光のみかたちに造り変えてくださっています。また、それとともに、ご自身のみからだなる教会をご自身の栄光のみからだとして養い育ててくださっています。これが、先主日のお話の最後にお話ししました、「『すでに』そして『いまだ』」ということの、「すでに」ということです。
 そのイエス・キリストが、終わりの日に再臨されて、新しい天と新しい地を再創造される御業の中心にあることとして、私たちをあらゆる点でご自身の栄光のみかたちに造り変えてくださり、よみがえらせてくださるとともに、ご自身のみからだなる教会をご自身の栄光のみからだとしてまったく整えてくださるのです。これは終わりの日に起こることですので、今はまだ実現していません。これが「『すでに』そして『いまだ』」ということの、「いまだ」ということです。

 私たちがすでに受けている新しい契約の祝福は、これで終わりではありません。先主日に取り上げましたエペソ人への手紙2章4節ー6節に、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と記されていますように、私たちはイエス・キリストにあって、また、イエス・キリストとともに天に座する者としていただいています。これも、イエス・キリストの血による新しい契約の祝福です。
 これは、すでにお話ししましたように、1章20節ー23節に、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と記されていることを受けています。2章6節で、神さまが私たちを、

キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と言われているときの「天の所に」ということば(エン・トイス・エプウーラニオイス)は、1章20節で、神さまが、

キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせた

と言われているときの「天上において」と同じことばです。ですから、2章6節では、私たちはイエス・キリストにあって、また、イエス・キリストとともに「天上において」座する者としていただいているということが示されています。そして、1章20節ー23節では、まず21節で、父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストが、

 すべての支配、権威、権力、主権

と言われている暗やみの主権者たちをご自身の主権の下に置いておられて、詩篇110篇1節に、

 は、私の主に仰せられる。
 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、
 わたしの右の座に着いていよ。」

と記されていますみことばを成就しておられることが示されています。そして、これに続いて22節前半で、

 神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせた

と言われていて、イエス・キリストが詩篇8篇5節ー6節に、

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されているみことばを成就しておられることが示されています。この詩篇8篇5節ー6節には、神さまが創造の御業において神のかたちにお造りになった人に、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことが記されています。ですから、エペソ人への手紙1章22節前半では、神さまが創造の御業において神のかたちにお造りになった人にお委ねになった歴史と文化を造る使命をイエス・キリストが成就しておられることが示されています。
 そして、22節後半では、神さまが、

 いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。

と言われていていて、歴史と文化を造る使命を成就しておられるイエス・キリストが教会に与えられていることが示されています。このことを受けて、23節では、

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と記されています。教会は、父なる神さまの右の座に着座されて、歴史と文化を造る使命を成就しておられるイエス・キリストのからだであり、イエス・キリストの栄光の御臨在に満たされていると言われています。
 このことを受けて、2章6節では、私たちはイエス・キリストにあって、また、イエス・キリストとともに「天上において」座する者としていただいていると言われています。このことは、私たちがイエス・キリストにあって、また、イエス・キリストとともに「天上において」座する者として、歴史と文化を造る使命を果たす者とされていることを意味しています。

 このことに関しまして、一つの重要な疑問が湧いてきます。それは、イエス・キリストが歴史と文化を造る使命を成就しておられるのであれば、もう歴史と文化を造る使命は終了してしまっているのではないかという疑問です。[注]

[注]このような疑問は、イエス・キリストの十字架の死によって、古い契約の下での動物のいけにえが成就しているというとき、もはや動物のいけにえがささげられることはなくなったということを、これに当てはめているために生じている疑問です。
 しかし、動物のいけにえは古い契約の下での「地上的なひな型」であり、やがて来たるべき「本体」であるイエス・キリストの十字架の死を指し示すものです。それで、「本体」であるイエス・キリストの十字架の死が実現したときに、「地上的なひな型」である動物のいけにえは廃止されました。けれども、歴史と文化を造る使命は旧約聖書の下での「地上的なひな型」のように何かを指し示すものではありません。それ自体が創造の御業における神さまのみこころです。
 さらに、イエス・キリストの十字架の死は、それによって、ご自身の民の罪をすべて完全に贖うものです。それで、それ以外のいけにえは必要ありませんし、それ以外のいけにえをささげてはならないのです。その意味で、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いは一回限りのものです。けれども歴史と文化を造る使命はそのような一回限りのものではなく、歴史が続くかぎり継続するものです。
 これらのことから、イエス・キリストの十字架の死によって、古い契約の下での動物のいけにえが成就しているので、もはや動物のいけにえをささげることは終了しているということを、イエス・キリストが創造の御業とともに与えられた歴史と文化を造る使命を成就しておられるということに当てはめて、それによって歴史と文化を造る使命が終了していると考えることはできません。

 この疑問については、二つのことを考える必要があります。
 一つは、すでにお話ししましたように、イエス・キリストが詩篇8篇5節ー6節に記されている歴史と文化を造る使命を成就しておられることは、コリント人への手紙第一・15章24節ー27節、エペソ人への手紙1章20節ー23節、そして、ヘブル人への手紙2章5節ー10節に記されています。
 このうち、先ほど触れましたエペソ人への手紙1章20節ー23節に記されていることは、「『すでに』そして『いまだ』」ということの「すでに」という面を示しています。そして、コリント人への手紙第一・15章24節ー27節に記されていることは、コリント人への手紙第一・15章が終わりの日の復活のこととの関連で記されていることからも分かりますように、「『すでに』そして『いまだ』」ということの「いまだ」という面を記しています。
 「すでに」という面から記されているエペソ人への手紙1章20節ー23節に示されていますように、イエス・キリストは十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されて、「創造の契約」に約束されていた、栄光を受けて死者の中からよみがえられ、天に上られ、父なる神さまの右の座に着座されて、この歴史的な世界に起こり来るすべてのことを治めておられます。その意味で、イエス・キリストは歴史と文化を造る使命を成就しておられます。また、同じエペソ人への手紙2章6節に記されていますように、イエス・キリストの血による新しい契約の民である私たちも、イエス・キリストにあって、また、イエス・キリストとともによみがえって、天上に座する者としていただいています。これによって、私たちもイエス・キリストにあって、また、イエス・キリストとともに歴史と文化を造る使命を果たすようにされています。これらは、イエス・キリストにあって、「すでに」私たちの現実になっていることです。
 もう一つのことは、先々主日にお話ししましたヘブル人への手紙2章5節ー10節に記されていることから分かりますが、神さまは終わりの日に再臨される栄光のキリストが、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて再創造される新しい天と新しい地の歴史と文化を造る使命を御使いたちにではなく、イエス・キリストの血による新しい契約の民であり、神の子どもとされている私たちに委ねられました。
 このことの背景には創造の御業とともに与えられた「創造の契約」において示されている神さまのみこころがあります。それは、神のかたちに造られている人が神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて完全に神さまのみこころに従い通したなら、そのことへの報いとして、最初に神のかたちに造られた時の栄光よりも、さらに豊かな栄光を与えられるようになるということです。けれども、それによって歴史と文化を造る使命が終了してしまうということではありません。むしろ、人はそのより豊かな栄光において契約の神である主との愛の交わりを享受し、そのより豊かな栄光において主を神として礼拝することを中心として、さらに豊かな栄光に満ちた世界の歴史と文化を造る使命を果たすようになることを意味しています。その意味で、創造の御業とともに与えられた歴史と文化を造る使命が終了してしまうのではなく、、さらに豊かな栄光に満ちた世界の歴史と文化を造る使命として更新されるようになるということです。これが、創造の御業とともに与えられた「創造の契約」において示された、神さまの初めからのみこころです。神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人が神さまに対して罪を犯して、御前に堕落することがなかったら、この神さまの初めからのみこころが実現していたはずです。
 この「さらに豊かな栄光に満ちた世界」に当たるものが、終わりの日に再臨される栄光のキリストが、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて再創造される新しい天と新しい地です。
 ヘブル人への手紙2章5節ー10節に記されていることは、この「さらに豊かな栄光に満ちた世界」、すなわち、新しい天と新しい地の歴史と文化を造る使命を、人は堕落してしまったから御使いたちにということではなく、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかっている私たち主の契約の民に委ねられていることを示しています。
 これら二つのことから、イエス・キリストが地上の生涯において、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通され、愛と恵みといつくしみ、義と聖さと真実さに満ちた神さまの栄光をこの上なく豊かに現されて、創造の御業とともに与えられた歴史と文化を造る使命を成就されたことによって、歴史と文化を造る使命が終了してしまうのではないことが分かります。むしろ、歴史と文化を造る使命はより豊かな栄光に満ちた世界、すなわち、新しい天と新しい地の歴史と文化を造る使命として更新されているのです。
 私たちは「すでに」歴史と文化を造る使命を成就しておられるイエス・キリストにあって、また、イエス・キリストとともによみがえって、天に座する者としていただいて、この新しい天と新しい地につながっていく、新しい時代の歴史と文化を造る使命を造る歩みをするように召されています。そして、終わりの日には、このような歩みに対する評価としてのさばきがなされます。それは、基本的に、私たちをより豊かな栄光に満ちた世界、すなわち、新しい天と新しい地の歴史と文化を造る使命に生きる者としてくださるためのものです。


【メッセージ】のリストに戻る

「黙示録講解」
(第133回)へ戻る

「黙示録講解」
(第135回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church