黙示録講解

(第133回)


説教日:2013年9月22日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章9節ー20節
説教題:栄光のキリストの顕現(34)


 ヨハネの黙示録1章17節後半ー18節には、イエス・キリストが黙示録の著者であるヨハネに語られた、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

というみことばが記されています。いまお話ししているのは、その最初の、

 わたしは、最初であり、最後である

というみことばについてです。
 すでにお話ししたことの復習ですが、このみことばは、イエス・キリストが契約の神である主、ヤハウェであられることに基づいています。そして、イザヤ書41章ー48章に何回か記されている、契約の神である主、ヤハウェが、ご自身のことを、「初めであり」、「終わりである」とあかししておられることを背景としています。
 このことに照らしてみますと、イエス・キリストが言われた、

 わたしは、最初であり、最後である

というみことばは、第一に、イエス・キリストが、同時に「最初であり、最後である」ということで、イエス・キリストが時間を超えた永遠の神であることを意味しています。第二に、そのような方として、イエス・キリストが、父なる神さまのみこころに従って、創造の御業を遂行され、この歴史的な世界を始められた方であり、父なる神さまのみこころに従って、この歴史的な世界を終わらせる方であること、さらには、イエス・キリストがこの歴史的な世界の源であり、目的であられることを意味しています。そして、第三に、

 わたしは、最初であり、最後である

というみことばはメリスムスという表現方法で表されていて、イエス・キリストがこの歴史的な世界の「最初」と「最後」に関わっておられるだけでなく、その間のすべての時代、その間に起こりくるすべてのことを支え、導き、治めておられる方であることを意味しています。イエス・キリストはこのような方として、この歴史的な世界の歴史の主であられます。


 これまで、このこととの関連において、私たち主の契約の民も世の終わりにおいて、主のさばきの御座の前で評価としてのさばきを受けることになるということをお話ししてきました。それをまとめますと、次のようになります。
 神さまは天地創造の御業においてこの世界を歴史的な世界としてお造りになりました。この世界が歴史的な世界であるということは、歴史の進展とともに、神さまの栄光がさらに豊かに現されるようになるということを意味しています。
 神さまは人を、愛を本質的な特性とする神のかたちにお造りになり、人をご自身との契約関係のうちにあるものとされました。これが「創造の契約」です。神さまはこの契約に基づいて人をご自身の民とされ、その間にご臨在してくださり、人が神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛にある交わりに生きることができるようにしてくださいました。そして、人にこの歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。神のかたちに造られている人は、契約の神である主、ヤハウェを愛して、神として礼拝し、隣人を自分のように愛することを中心として、神さまの愛といつくしみと恵み、義と聖さと真実さに満ちた栄光を、より豊かに現すように召されています。これが歴史と文化を造る使命を果たすことの中心にあることです。これらは「創造の契約」の祝福として、神のかたちに造られている人に与えられていることです。
 神さまは、ただ、神のかたちに造られている人にこのような歴史と文化を造る使命を委ねてくださっただけではありません。「創造の契約」のさらなる祝福として、歴史と文化を造る使命を果たすことに対する報いとして、人に最初に造られた時の神のかたちの栄光よりさらに豊かな栄光を与えてくださることを約束してくださいました。そして、この約束を実現してくださるために、人が歴史と文化を造る使命をどのように果たしたかの評価をなさいます。その評価は歴史の終わりになされます。
 実際には、神のかたちに造られている人は、契約の神である主、ヤハウェに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。これによって、人の本性は腐敗し、神のかたちの本質的な特性である愛さえも、自己中心的に歪められてしまっています。人は造り主である神さまを神として礼拝することはなくなりました。その代わりに、自らの間尺に合わせて「神」を作り出して、ごれを神として頼り、仕えるようになりました。そのために、人は歴史と文化を造り出しますが、それは、歴史と文化を造る使命を委ねてくださった神さまのみこころからはかけ離れたものとなってしまっています。
 このことによって、本来は、終わりの日になされる、歴史と文化を造る使命を果たしたことに対する評価が、造り主である神さまを神とすることなく、自らの罪の欲望を追求し、罪の自己中心性を満たそうとする歴史と文化を造り出したことに対するさばきの執行という意味をもつようになりました。
 しかし、人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった直後に、神である主は贖い主を約束してくださいました。そして、今から2千年前に、ご自身の御子を贖い主としてお遣わしになりました。イエス・キリストは地上の生涯をとおして、父なる神さまのみこころに従い通され、最後には、父なる神さまのみこころに従って、十字架におかかりになり、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに変わってすべて受けてくださいました。これによって、私たちの罪をすべて完全に贖ってくださいました。それで、私たちの罪に対する刑罰としてのさばきは、イエス・キリストの十字架において、すべて終わっています。
 イエス・キリストは、さらに、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことに対する報いとして、栄光をお受けになり、死者の中からよみがえりになりました。そして、天に上られ、父なる神さまの右の座に着座されました。新約聖書は三つの個所(コリント人への手紙第一・15章24節ー27節、エペソ人への手紙1章20節ー23節、ヘブル人への手紙2章5節ー10節)で、このことは、イエス・キリストが創造の御業において神のかたちに造られている人に神さまが委ねてくださった歴史と文化を造る使命を成就されたことであると明確に教えています。
 先主日最後に取り上げましたヘブル人への手紙2章5節ー10節に記されていますように、神さまはイエス・キリストの十字架の死にあずかって罪を贖っていただき、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって新しく生まれている私たち主の契約の民は、「後の時代」すなわち終わりの日に完全な形で実現する新しい天と新しい地の歴史と文化を造る使命を委ねられています。そして、この「後の時代」の歴史と文化を造ることは、すでに、私たち主の契約の民の間で始まっています。
 それで、すでに取り上げましたローマ人への手紙14章10節ー12節、コリント人への手紙第一・4章5節、コリント人への手紙第二・5章10節、ヘブル人への手紙4章13節や、その他、終わりの日についてのイエス・キリストのいくつかの教えなどでは、私たち主の契約の民も、主のさばきの御座の前に立つようになり、主から委ねられている歴史と文化を造る使命についての評価としてのさばきを受けるようになると教えられています。
 先主日にもお話ししましたが、このことは、私たちを恐れさせるために啓示されているのではありません。また、私たちは成果主義的、業績主義的な発想をもって主の評価の基準を考えがちですが、そのような発想からすると、まったく思いもよらない評価がなされることになります。そのことに関しましては、後ほど、日を改めてお話しします。

 これらのことを踏まえて、きょうも、私たち主の契約の民がすでにこの地上の歩みにおいて、「後の世」の歴史と文化を造る使命を果たすことがどのようなことであるかについて、もう少し基礎的なことを話します。
 先主日は、イエス・キリストが歴史と文化を造る使命を成就しておられることを教えている新約聖書の三つの個所のうちのヘブル人への手紙2章5節ー10節に基づいて、私たち主の契約の民は「後の時代」の歴史と文化を造る使命を造るようになることをお話ししました。このことは、もう一つの個所であるエペソ人への手紙1章20節ー23節に記されている教えから、その別の面を汲み取ることができます。この個所につきましてはすでにお話ししていますので、いまお話ししていることと関連がある22節ー23節を見てみましょう。そこには、

また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と記されています。
 22節前半で、

 神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、

と言われていることは、創造の御業において神さまが人をご自身のかたちにお造りになり、人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったことを記している詩篇8篇5節ー6節に、

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されているときの、最後の、

 万物を彼の足の下に置かれました。

というみことばを受けています。[注]このように、ここではイエス・キリストが歴史と文化を造る使命を成就しておられることが示されています。

[注]詩篇8篇6節では「あなたは」と2人称で記されていますが、エペソ人への手紙1章22節では文脈に合わせて「神は」と3人称に変えています。また、前にお話ししましたとおり、
 神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、
と訳されているときの「キリストの足の下に」は、文字通りには「彼の足の下に」です。この他にも、キリストの足の下に「置かれました」と「従わせ(ました)」が違っているのは、エペソ人への手紙1章22節のほうが旧約聖書のギリシャ語訳である7十人訳に従っているからです。

 これを受けて、22節後半では、

いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。

と言われています。[注]ここで「いっさいのものの上に立つかしらであるキリスト」は、歴史と文化を造る使命を成就しておられるイエス・キリストのことです。ここでは、神さまはこの歴史と文化を造る使命を成就しておられるイエス・キリストを教会にお与えになったと言われています。先ほどお話ししましたように、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことに対する報いとして、栄光をお受けになり、死者の中からよみがえりになり、天に上られ、父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストが、教会に与えられているということです。

[注]この場合も、22節前半と同じく「キリスト」は直訳で「」で、これは23節で、
 教会はキリストのからだであり
と言われているときの「キリスト」にも当てはまります。おそらく、新改訳がこの22節ー23節に出てくる「」を「キリスト」と訳しているのは、この、
 教会はキリストのからだであり
というみことばを「教会は彼のからだ」と訳してはしっくりこなくなることによっているのではないかと思われます。けれども、これをすべて直訳の「」と訳すと、イエス・キリストが歴史と文化を造る使命を成就しておられるかたであることが、より分かりやすくなるかも知れません。

 そして、23節では、

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と言われています。ここでは、教会が、そのようにして歴史と文化を造る使命を成就しておられる栄光のキリストのからだであると言われています。そして、そのイエス・キリストのことが「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」と言われています。22節後半ではイエス・キリストのことが「いっさいのものの上に立つかしら」であると言われています。つまり、イエス・キリストは歴史と文化を造る使命を成就して、万物をその足の下に従わせておられる方です。この世の権力は、自分が支配している者たちを搾取して、自分が富む者となります。もちろんこの世の富で富むということです。けれども、「いっさいのものの上に立つかしら」として歴史と文化を造る使命を成就しておられるイエス・キリストは、この世の権力者とは逆に、「いっさいのものをいっさいのものによって満た」しておられます。「いっさいのものによって満たす」ということは分かりにくいかもしれません。これは、イエス・キリストが何かご自身とは別のものをもって「いっさいのものを」満たすということではなく、イエス・キリストが「いっさいのものを」あらゆる点において、また、あらゆる面で満たしてくださっているということです。
 ここでは、この「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」であられるイエス・キリストが、教会に満ちておられると言われています。これは、旧約聖書に示されている主の栄光の御臨在が主の神殿に満ちておられたことを背景として、その成就を示していると考えられます。そのことを、旧約聖書に記されている、幕屋、エルサレム神殿、預言者エゼキエルに示された終わりの日に回復される主の神殿の幻から見てみましょう。
 契約の神である主、ヤハウェがシナイ山の上でモーセに示してくださったとおりに幕屋が造られ、完成したときのことを記している出エジプト記40章33節後半ー35節には、

こうして、モーセはその仕事を終えた。そのとき、雲は会見の天幕をおおい、の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、の栄光が幕屋に満ちていたからである。

と記されています。これは御霊による主の栄光の御臨在を表示する「シェキナの雲」が幕屋を覆い、主の栄光が幕屋を満たしたことを示しています。
 同じことは、ダビデの子であるソロモンが主の神殿を建てた時にも見られます。その時のことを記している列王記第一・8章10節ー11節には、

祭司たちが聖所から出て来たとき、雲がの宮に満ちた。祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。の栄光がの宮に満ちたからである。

と記されています。
 主の栄光が主の神殿に満ちたということは、主の栄光の御臨在が主の神殿に閉じこめられてしまうという意味で、納まってしまったということではありません。同じ8章27節には、

それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。

というソロモンの祈りが記されています。また、このこととの関連では、イザヤ書6章に記されているイザヤが見た主の栄光の御臨在の幻が思い出されます。1節ー4節には、

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。
 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の
 その栄光は全地に満つ。」
その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。

と記されています。セラフィムたちは、主の栄光は「全地に満つ」と告白しています。また、エレミヤ書23章24節には、

 天にも地にも、わたしは満ちているではないか。
  ――の御告げ――

と記されています。
 主の栄光が主の神殿に満ちたことについては、さらに、エゼキエルが見た、終わりの日における主の神殿の回復の幻を記している、エゼキエル書43章1節ー5節に、

彼は私を東向きの門に連れて行った。すると、イスラエルの神の栄光が東のほうから現れた。その音は大水のとどろきのようであって、地はその栄光で輝いた。私が見た幻の様子は、私がかつてこの町を滅ぼすために来たときに見た幻のようであり、またその幻は、かつて私がケバル川のほとりで見た幻のようでもあった。それで、私はひれ伏した。の栄光が東向きの門を通って宮に入って来た。霊は私を引き上げ、私を内庭に連れて行った。なんと、の栄光は神殿に満ちていた。

と記されています。
 これはエゼキエルの時代に、主の栄光がエルサレム神殿から去ってしまっていたことを受けています。引用はいたしませんが、エゼキエル書8章に記されていまように、エゼキエルの時代には、主の神殿において、さまざまな偶像がまつられ、礼拝されていました。そのために、10章18節ー19節に記されていますように、主の栄光が主の神殿の東の門の入口まで移動し、11章22節ー23節に記されていますように、主の栄光は主の神殿から去って、エルサレムの東の山の上に留まりました。このようにして、エルサレム神殿は主の神殿としての本質を失ってしまいました。そして、バビロン軍によってエルサレムが陥落したときに、エルサレム神殿も破壊されました。43章1節ー5節に記されているエゼキエルが見た幻では、終わりの日に主の神殿が主の栄光の御臨在によって満たされる神殿として回復されることが示されています。
 これらすべては「地上的なひな型」として、やがて来たるべき本体を指し示しています。そして、エペソ人への手紙1章20節ー23節に、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と記されていること、特に、23節に、

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と記されていることは、このことの成就を示しています。
 栄光のキリストがご自身のからだである教会に、御霊によってご臨在してくださり、教会を満たしてくださっていますが、その栄光のキリストは、教会の中に閉じこめられているのではなく、父なる神さまの右の座に着座されて「いっさいのものを」あらゆる点で、またあらゆる面で満たしておられます。これに相当することは、古い契約の「地上的なひな型」であった主の神殿にご臨在しておられた主の栄光が全地に満ちていたことなどに示されていました。

 エペソ人への手紙では、さらに、このことと関連して、2章4節ー6節に、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と記されています。
 新約聖書では、終わりの日に起こるべきことが、「すでに」イエス・キリストにあって、私たち主の契約の民の間で実現しているということと、「いまだ」その完全な実現には至っていないということが教えられています。これが「『すでに』そして『いまだ』」という「合い言葉」で表されています。
 今から2千年前に御子イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださって、私たちご自身の契約の民の罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わってすべて受けてくださいました。それで、そこで起こったことは、終わりに日に執行されることになっている、人の罪に対する最終的なさばきです。ですから、イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったことによって、終わりの日に執行される最後のさばきが「すでに」(2千年前に)この歴史の現実になっています。
 そして、イエス・キリストが十字架の死に至るまで、父なる神さまのみこころに従い通され、その報いとして栄光を受けて、死者の中からよみがえられたというときの、イエス・キリストがお受けになった栄光は、終わりの日に完全に実現する新しい天と新しい地に属する栄光です。というより、新しい天と新しい地は栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストの栄光の御臨在にふさわしく整えられ、栄光化された世界で、その中心に、栄光のキリストの御臨在があります。いずれにしましても、イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえられたことによって、やはり、終わりの日に起こるべきことが「すでに」(2千年前に)歴史の現実になっています。
 この新しい天と新しい地において完全に実現するようになる世界を「新しい世」あるいは「来たるべき世」と呼び、その時代を「新しい時代」あるいは「来たるべき時代」と呼びます。少し煩わしいので、これからは「来たるべき世」、来たるべき時代」の組み合わせを用いてお話しします。そして、これらを、「この世」あるいは「この時代」と対比させています。「この世」、「この時代」を特徴づけ、動かしているものを新約聖書、特にパウロは「肉」(サルクス)と呼んでいます。これはからだ、肉体(ソーマ)のことではありません。これに対して、「来たるべき世」、「来たるべき時代」を特徴づけ、動かしているのは、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる「御霊」です。
 このように、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、終わりの日に起こることが、今から2千年前に歴史の現実になっています。そして、イエス・キリストは新しい天と新しい地に属する方として、父なる神さまの右の座に着ざれ、御霊によって、ご自身のからだである教会にご臨在されて、これを満たしておられます。また、「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」として、歴史と文化を造る使命を果たしておられます。これによって、イエス・キリストがお造りになる歴史と文化は、御霊による「来たるべき世」、「来たるべき時代」の歴史と文化です。
 先ほど引用しましたエペソ人への手紙2章4節ー6節に記されていることは、私たちがこのイエス・キリストとともに栄光を受けてよみがえっており、イエス・キリストとともに天に座するものとなっていることを示しています。それによって、私たちは「来たるべき世」、「来たるべき時代」に属するものとなっています。そして、イエス・キリストにあって、そして、御霊に導かれ、力づけられて、「来たるべき世」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たしていくようになっているのです。
 ただし、それは、私たちが御霊に導かれて歩むときにだけ実現することです。私たちはこの世にある間、しばしば、「肉」に動かされて歩んでしまいます。その場合は、「この世」、「この時代」に属する歴史と文化を造る使命を造ることになってしまいます。
 御霊は私たちをイエス・キリストと一つに結び合わせてくださって、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずからせてくださいます。それによって、私たちはイエス・キリストとともに死んで、イエス・キリストとともによみがえった者としていただきます。それで、御霊は、私たちを栄光のキリストのかたちに似た者となるように養い育て、導いてくださいます。コリント人への手紙第二・3章18節に、

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

と記されているとおりです。御霊はまず私たち自身の存在を「来たるべき世」、「来たるべき時代」に属する者の実質を生み出し、養い育ててくださるのです。
 そのために、御霊が用いてくださるのが、主のみことばです。御霊は主のみことばを悟らせてくださって、私たちを導いてくださり、養い育ててくださいます。ペテロの手紙第一・1章22節ー2章2節には、

あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。
 「人はみな草のようで、
 その栄えは、みな草の花のようだ。
 草はしおれ、
 花は散る。
 しかし、主のことばは、
 とこしえに変わることがない。」
とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。

と記されています。
 このように、「来たるべき世」、「来たるべき時代」を特徴づけ、動かしている御霊が私たちに働いてくださっていることの現れは、ガラテヤ人への手紙5章22節ー23節に、

御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

と記されています御霊の実です。そして、その御霊の実は単数形で表されている一つの実であり、それにこれら九つの人格的な特性があります。それで、御霊の実は人格であり、栄光のキリストのかたちに似た者のことです。その本質的な特性は、御霊の実として最初に挙げられている愛です。私たちはイエス・キリストにあって「来たるべき世」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たすように召されていますが、その「来たるべき時代」の歴史と文化を特徴づけているのは、御霊が私たちのうちに生み出してくださる契約の神である主への愛と、主の契約の民への愛です。


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