黙示録講解

(第132回)


説教日:2013年9月15日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章9節ー20節
説教題:栄光のキリストの顕現(33)


 きょうも、ヨハネの黙示録1章17節後半ー18節に記されています、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

という、イエス・キリストがヨハネに語られたみことばについてお話しします。
 先週と先々週は、このイエス・キリストのみことばは、イザヤ書41章ー48章に記されている、契約の神である主、ヤハウェが、ご自身のことを、「初めであり」、「終わりである」とあかししておられるみことばを背景としており、イエス・キリストが、「初めであり」、「終わりである」契約の神である主、ヤハウェであられることを意味しているということをお話ししました。
 契約の神である主、ヤハウェが「初めであり」、「終わりである」ことは、少なくとも三つのことを意味しています。
 一つのことは、神である主が創造の御業において、この歴史的な世界をお造りになって、この世界の歴史を始められた方であるとともに、ご自身のみこころにしたがって、この世界の歴史を終わらせる方であるということを意味しています。神である主は、この世界の歴史の源であられるとともに、目的でもあられます。それで、神である主がお造りになったこの世界は、造り主である主の栄光を現す世界です。そして、この世界が歴史的な世界として造られているということは、歴史の進展とともに、この世界が神である主の栄光をより豊かに現すようになるということを意味しています。
 二つ目のこととして、神である主が「初めであり」、「終わりである」という言い方は、メリスムスと呼ばれる表現方法です。これによって、神である主はこの歴史的な世界の「初め」と「終わり」に関わってくださっているだけでなく、その間のすべての時代の、すべての物事に関わってくださっていることを意味しています。その意味で、神である主はこの世界の歴史の主であられます。神である主はこの世界に起こるすべてのことを治めておられます。そして、そのすべてをとおして、ご自身の栄光を現され、歴史の進展とともに、ご自身のご栄光をより豊かに現されます。
 三つ目のことですが、契約の神である主、ヤハウェが「初めであり」、「終わりである」ということは、神である主は、同時に、「初めであり」、「終わりである」方であるということを意味しています。神である主が時間の流れの中にある方ではなく、時間を越えた方、永遠の主であられます。神である主は、常に、「初めであり」、「終わりである」方として、ご自身がお造りになったこの世界の一つ一つのものと、この世界の歴史に起こりくるすべてのことと関わってくださり、すべての物事を治めてくださって、ご自身の愛といつくしみ、恵みとまことに満ちた栄光を現してくださり、この世界の歴史の進展とともに、その栄光をより豊かに現してくださいます。
 神である主は、預言者イザヤをとおして、ご自身が歴史の主であられ、イザヤをとおして啓示し、約束してくださっている、贖いの御業を必ず実現してくださる方であられることを示してくださっています。このことは、黙示録1章17節後半ー18節において、イエス・キリストが、ご自身のことを、

 わたしは、最初であり、最後である

とあかししてくださり、さらに、

生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

とあかししてくださっていることにも当てはまります。このあかしのみことばによって、イエス・キリストはご自身が歴史の主であられ、黙示録において啓示してくださり、約束してくださっていることを必ず実現してくださる方であることを示しておられます。
 このように、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

というイエス・キリストのみことばの最初のことばである、

 わたしは、最初であり、最後である

というみことばは、イエス・キリストが創造の御業によって、この歴史的な世界を始められた方であり、父なる神さまのみこころにしたがって、この世界の歴史を終わらせる方であられるとともに、この歴史的な世界の源であられ、目的であられること、さらには、この世界の歴史のすべてを治めておられる歴史の主であられることを意味しています。
 先週と先々週は、このことと関連して、一つのことをお話ししました。それは、神である主はこの世界の歴史の主として、この世界に起こるすべてのことを治めておられ、そのすべてをとおして、ご自身の栄光を現され、歴史の進展とともに、ご自身のご栄光をより豊かに現されますが、そのことを実現するために、この歴史的な世界をお造りになった時に、人を神のかたちにお造りになり、この世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったということです。神さまの本質的な特性が愛であるように、神のかたちの本質的な特性は愛です。人は契約の神である主を愛して、神として礼拝することと、主の民として互いに愛し合うことを中心として、歴史と文化を造る使命を果たすことによって、神である主の愛といつくしみに満ちた栄光をより豊かに現すように召されているのです。
 それで、神である主は、神のかたちに造られている人にお委ねになった歴史と文化を造る使命をめぐっての評価をされます。そして、それがこの歴史的な世界の歴史を造る使命ですので、その評価は、最終的には、歴史の終わり、すなわち、終わりの日になされます。
 それは本来、その歴史と文化を造る使命を果たしたことに対する報いを与えてくださるための「評価」でした。しかし実際には、人は神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしてしまいました。そのために、本来は、神である主を愛して、神として礼拝することと、主の契約の民がお互いを愛することを中心として、歴史と文化を造るはずなのに、神である主を神として礼拝することなく、かえって、罪の自己中心性に縛られて、自分の欲望を神として、歴史と文化を造るようになってしまいました。そのために、本来は、歴史と文化を造る使命を果たしたことに対する報いを与えてくださるための評価が、ご自身に背いた罪と、その罪によって神である主を神としない歴史と文化を造り出している罪に対するさばきになってしまっているのです。
 先主日と先々主日には、このことに関連して、私たち主の契約の民も主のさばきの御座の前に立って、歴史と文化を造る使命をめぐって、評価としてのさばきを受けるということをお話ししました。
 私たち主の契約の民も主のさばきの御座の前に立って、評価としてのさばきを受けることは、先主日と先々主日に取り上げてお話ししました、ローマ人への手紙14章7節ー13節、コリント人への手紙第一・3節ー5節、コリント人への手紙第二・5章8節ー10節、ヘブル人への手紙4章13節などにおいて明確に示されています。また、終わりの日に関するイエス・キリストのたとえによるいくつかの教えなど、この他の個所でも明確に示されていますし、このことを踏まえていろいろな教えも記されています。
 この教えについては、かなり誤解されています。終わりの日に私たち主の民が主のさばきの御座の前に立って評価としてのさばきを受けることが語られることはあまりありません。そのことが語れることがあっても、その評価の基準については、私たちの中にこの世の「業績主義」、「成果主義」の発想が残っているために、かなり歪められて理解されることがあります。そのために、地上における私たち主の契約の民の歩みが、神の子どもたちの自由とはかけ離れたものとなってしまうこともあります。
 また、私たちイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかっている主の契約の民が歴史と文化を造る使命を果たすように召されているということは、ほとんど取り上げられることがありません。それで、私たち主の契約の民が歴史と文化を造る使命を果たすことがどのようなことであるか、また、終わりの日に、私たちが主のさばきの御座の前に立って、歴史と文化を造る使命をめぐる主の評価としてのさばきを受けることになるということについても、ほとんど語られることがありません。
 そのようなことがありますので、黙示録のお話からは、少し脇道にそれてしまっていますが、いくつかのことをお話ししたいと思っているわけです。
 先主日には、まず、わきまえておかなければならないことをお話ししました。
 それは、私たち主の契約の民の罪に対するさばきは、すでに、御子イエス・キリストの十字架において終わっていて、私たちの罪は、私たちがすでに犯してしまっている罪も、またこれから犯すであろう罪も、すべて、完全に贖われているということです。それで、私たちはもはや私たちの罪に対する刑罰としてのさばきを受けることはないということです。
 このことを明確にしないままに、先ほど挙げましたみことばの教えを読みますと、私たち主の契約の民も、私たちが御子イエス・キリストを信じて罪を贖っていただいた後に犯した罪に対する刑罰としてのさばきを受けるのではないか、というような受け止め方をしかねません。そのような受け止め方をすることは、福音のみことばをゆがめることですし、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを不完全なものとすることです。


 きょうは、このことを踏まえた上で、さらに、もう一つのことをお話ししたいと思います。それは、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって、罪を完全に贖っていただき、復活のいのちによって新しく生まれている私たち主の契約の民にとって、歴史と文化を造る使命はどのようなものとなっているかということです。とはいえ、きょうはその「下準備」のようなお話をいたします。
 このことを理解するためには、神さまが創造の御業とともに神のかたちに造られている人に与えてくださった「創造の契約」の祝福を理解しなければなりません。「創造の契約」の祝福のことは、先主日にお話ししたことですので、復習しつつ、さらに補足したいと思います。
 神である主は、創造の御業において、人を神のかたちにお造りになって、歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。そして、神である主は、人が歴史と文化を造る使命を果たすことに対しての報いとして、人に最初に神のかたちに造られた時の栄光にまさる栄光をお与えになり、ご自身とのさらに深く豊かな交わりに生きる者としてくださること、すなわち永遠のいのちを約束してくださいました。これが創造の御業とともに与えられた「創造の契約」の、神のかたちに造られている人に対する祝福です。「創造の契約」の祝福は神のかたちに造られている人に対する祝福だけでなく、神のかたちに造られている人と一つに結ばれている被造物に対する祝福も含む広いものです。その中心に、神のかたちに造られている人に対する祝福があります。
 神のかたちに造られている人に、このような「創造の契約」の祝福が約束されていることは、みことばの教えを全体的に見て分かることです。同じく、みことばの教えを全体的に見て分かることは、御使いたちも神である主のみこころにしたがって、主に仕えていますが、御使いたちはそのことに対する報いとして、より豊かな栄光に満ちたものとされるということは示されていません。このことは、本来、主を神として礼拝し、主のみこころにしたがって主に仕えることは、被造物にとっては当然のことで、そのことに対する報いを受けることは、被造物の権利ではないということを意味しています。
 このこととの関わりで、よく引用されるルカの福音書17章7節ー10節には、

ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、「さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい」としもべに言うでしょうか。かえって、「私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい」と言わないでしょうか。しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、「私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです」と言いなさい。

という、イエス・キリストの教えが記されています。
 少し注釈をしますと、ここで、

 私たちは役に立たないしもべです。

と言われているときの「役に立たない」と訳されていることば(アクレイオス)は、ここでは「なすべきことをしただけです」ということばとのつながりから、「取るに足りない」とか「称賛に値しない」というような意味でしょう。
 もう一つ考えておきたいことがあります。先週引用しました、ローマ人への手紙14章12節には、

こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。

と記されていました。それでは、私たちは神さまの御前で、

私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです

と言うことができるでしょうか。これは、そのように謙遜になれるかという意味ではありません。このイエス・キリストの教えは、いろいろな奉仕をしても、そのことを誇らないで、謙遜になりなさいというようなことを教えているわけではありません。ここには、それ以前の問題があります。私自身のことを申しますと、私は、自分の罪の自己中心性のために、主への愛には大きな欠けがありますし、兄弟姉妹たちへの愛にも罪の自己中心性が色濃く影を落としています。そのことだけでも、私は神である主に忠実な者ではありません。とても、

 なすべきことをしただけです

とは言えない者で、「なすべきこともしていない者です」と言うほかはありません。
 でも、

私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです

ということは、イエス・キリストがそのように言いなさいと教えられたことではないでしょうか。けれども、そのイエス・キリストの教えでは、それに先立って、

 自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、

という条件がついています。私はとても、その条件に合致しません。主から言いつけられたことをすべてしてしまった、とはとても言えません。このような自分の現実をわきまえますと、ここでは、しもべが主人の言いつけを守り行ったとしても、それは決して、報いを受ける権利を生み出すものではないということが教えられていると考えるほかはありません。
 いずれにしましても、被造物である人間が、造り主である神さまを礼拝し、そのみこころに従うことは当然のことであり、それはまさに、なずべきことをなすことです。そのことで報いを受けることは人間の権利ではありません。
 とはいえ、先ほどの御使いの場合や、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人が、かりに、「創造の契約」に示されているような報いを与えられないとしても、何の報いもないわけではありません。というのは、人や御使いたちが神である主のしもべとして、主の愛といつくしみを受け。自らも主を愛して、そのみこころにしたがって歩むことによって、神である主の愛といつくしみをますます豊かに汲み取ることができるようになりますし、それぞれの人格が磨かれて、より成長していくことは自然のことです。神である主がこの世界を歴史的な世界としてお造りになったということは、人格的な存在にとっては、そのような成長や成熟があるということを意味しています。
 「創造の契約」における、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人への祝福は、人がこのように、自然と人格的に成長し、成熟していくということ以上のことです。歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて、主のみこころに従い通したことに対する報いとして、より豊かな栄光、一段と豊かな栄光に満ちたいのちである永遠のいのちにある神である主との愛の交わりの祝福を約束してくださいました。
 それがどのようなことであるかについては、すでにその典型的な事例があります。それはイエス・キリストの復活です。
 ピリピ人への手紙2章6節ー11節には、

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

と記されています。イエス・キリストは無限、永遠、不変の栄光の神であられますが、今から2千年前に、まことの人としての性質を取って来てくださいました。それは、いまお話ししていることとの関わりで言いますと、「創造の契約」のうちにある人として来てくださったということです。そして、父なる神さまのみこころに、

 実に十字架の死にまでも従われました。

そして、そのことに対する報いとして、栄光を受けて死者の中からよみがえられました。これが「創造の契約」に約束された祝福として与えられた栄光ですので、イエス・キリストを契約のかしらとしていただく、私たち主の契約の民も、これにあずかることができるのです。
 ここには、いまお話ししていることとの関わりで、大切なことが、少なくとも、二つあります。
 一つは、イエス・キリストが、

 実に十字架の死にまでも従われました。

と言われていることは、父なる神さまへの愛と、私たちご自身の民への愛から出ているということです。このような仮定をすることを主に許していただくほかはないのですが、かりに、それが父なる神さまへの愛と、私たちご自身の民への愛によってはいなかったとしたら、それは、根本的なところで、父なる神さまのみこころに従ってはいないことになります。神さまのご自身の民に対するみこころを示す律法は、マタイの福音書22章37節ー39節に記されているとおり、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という第一の戒めと、

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ

という第二の戒めに集約されます。
 もう一つのことは、イエス・キリストの十字架の死によって、父なる神さまがどのような方であるかが、この上なく明確に啓示されているということです。言い換えますと、私たちご自身のしもべのために十字架にかかって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖さと議に基づくさばきをお受けになった、イエス・キリストをとおして、父なる神さまの愛といつくしみと恵み、さらには、義と聖さと真実さは、この上なく豊かに、また深く啓示されているということです。これまで、繰り返しお話ししてきましたが、神のかたちに造られている人に委ねられている歴史と文化を造る使命の目的は、造り主である神さまの愛と恵みとまことに満ちた栄光をより豊かに現すようになることにあります。そして、そのこと、造り主である神さまの愛と恵みとまことに満ちた栄光をより豊かに現すことは、イエス・キリストの十字架の死において最も豊かに、また明確に、現されています。
 イエス・キリストが歴史と文化を造る使命を成就しておられるということには、このような面があります。

 すでに、コリント人への手紙第一・15章24節ー28節とエペソ人への手紙1章20節ー23節、さらには、ヘブル人への手紙2章5節ー10節において、イエス・キリストが歴史と文化を造る使命を成就しておられるということが明確に示され、教えられていることをお話ししました。そのことには、イエス・キリストの十字架の死においてこそ、父なる神さまの愛といつくしみと恵み、さらには、義と聖さと真実さは、この上なく豊かに、また深く啓示されていることが関わっています。
 いまお話ししていることとの関連で改めて注目したいのは、ヘブル人への手紙2章2節ー10節に記されていることです。そこに記されていることについては、すでにお話ししましたが、繰り返しをいとわず、お話ししたいと思います。
 まず注目したいのは5節で、そこには、

神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。

と記されています。この「後の世」とは、黙示録21章ー22章に記されています、終わりの日に再臨される栄光のキリストが、ご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて再創造される、新しい天と新しい地のことです。その新しい天と新しい地も歴史的な世界ですが、ここでは、神さまはその歴史と文化を造る使命を御使いにはお委ねにならなかったと言われています。
 このことを受けて、6節ー8節前半には、

むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。
 「人間が何者だというので、
 これをみこころに留められるのでしょう。
 人の子が何者だというので、
 これを顧みられるのでしょう。
 あなたは、彼を、
 御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、
 彼に栄光と誉れの冠を与え、
 万物をその足の下に従わせられました。」

と記されています。ここでは、神さまが創造の御業において神のかたちにお造りになった人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったことを記している詩篇8篇4節ー6節(七十人訳)を引用しています。その上で、8節後半ー10節では、

万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。

と言われています。ここで、

イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。

と言われていることは、イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことに対する報いとして、栄光を受けて死者の中からよみがえられたことを指しています。そして、それが、イエス・キリストが詩篇8篇5節を成就しておられ、ひいては、6節に記されています、神のかたちに造られている人に委ねられている歴史と文化を造る使命を成就しておられることを示しています。また、そのイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりが、

 神が多くの子たちを栄光に導く

ためのことであったことが示されています。そして、それが5節で、

神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。

と言われていることへの答えとなっています。
 このように、イエス・キリストは十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通され、神のかたちに造られている人に委ねられている歴史と文化を造る使命を成就され、「創造の契約」に約束されている栄光をお受けになって、死者の中からよみがえられました。また、イエス・キリストはご自身の契約の民である私たちをご自身の復活の栄光にあずからせてくださり、それによって私たちを「後の世」すなわち新しい天と新しい地の歴史と文化を造る使命を果たす者としてくださっています。
 このことは、すでに、原理的に、私たちの間で実現しています。エペソ人への手紙2章4節ー6節には、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と記されています。私たちはすでに、イエス・キリストにあって、また、イエス・キリストとともに栄光を受けてよみがえって、天においてに座する者とされています。これは、神さまが、1章20節節において、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせられた

と言われていることに、私たちをあずからせてくださったということを意味しています。言うまでもなく、私たちは父なる神さまの右の座に着座しているのではありません。しかし、ここ1章20節で「天上において」と訳されていることばと、2章20節で、

キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と言われているときの「天の所に」は同じことば(エン・トイス・エプウーラニオイス)です。
 そして、このイエス・キリストにある事実に基づいて、コロサイ人への手紙3章1節ー3節では、

こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。

と戒められています。
 私たちはいま地上にありますが、イエス・キリストにあって、また、イエス・キリストとともに天に座をもつ者として、天に属する歴史と文化を造る使命を果たすように召されています。それは、私たちの地上の歩みとかけ離れたことではありません。具体的なことにつきましては改めてお話しします。


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