黙示録講解

(第131回)


説教日:2013年9月8日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章9節ー20節
説教題:栄光のキリストの顕現(32)


 ヨハネの黙示録1章9節ー20節には、イエス・キリストがご自身の栄光の御姿を、黙示録の著者であるヨハネに現してくださったことが記されています。いまお話ししているのは、17節後半ー18節に記されています、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

という、イエス・キリストがヨハネに語られたことばについてです。
 このことばは、強調形の「わたしは・・・である。」(エゴー・エイミ・・・)という言い方で語られています。このことばの根底には、出エジプトの時代に、神さまがモーセに啓示してくださった

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名があります。出エジプト記3章14節ー15節では、この、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名が、

 わたしはある

に短縮され、さらに3人称化されて「ヤハウェ」として示されています。
 それで、「ヤハウェ」という御名の意味は、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名において示されています。そして、この、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名は「ある」ということにかかわっていて、「」、ヤハウェは永遠にご自身で存在しておられる方であること、この世界のあらゆるものを創造されて存在するものとされた方であること、そして、天地創造の御業以来の歴史をとおして、お造りになったすべてのものを真実に支えておられる方である、ということを意味していると考えられます。
 これまでお話ししてきましたように、黙示録1章17節に記されています、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

というイエス・キリストのみことばは、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名に基づいているだけでなく、イエス・キリストが、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名の神、契約の神である主、ヤハウェであられることを意味しています。
 先主日には、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

というイエス・キリストのみことばの、最初の、

 わたしは、最初であり、最後である

ということばについてお話ししました。
 このことばは、同じく、神さまが、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名の方であられることに基づいている、イザヤ書41章ー48章に記されている、契約の神である主、ヤハウェが、ご自身のことを、「初めであり」、「終わりである」とあかししておられるみことばを背景としていると考えられます。先主日には、41章4節、44章6節ー7節、48章12節ー13節に記されているみことばを引用して、全体として考えられることをお話ししました。
 先主日にお話ししましたように、契約の神である主、ヤハウェが「初めであり」、「終わりである」ことは、少なくとも三つのことを意味しています。ここで、そのことを補足しつつ、振り返っておきましょう。
 契約の神である主、ヤハウェが「初めであり」、「終わりである」ことは、まず、神である主が創造の御業において、この歴史的な世界をお造りになって、この世界の歴史を始められた方であるとともに、この世界の歴史を終わらせる方であるということを意味しています。神である主は、この世界の歴史の源であられるとともに、目的でもあられます。
 この世界が歴史的な世界であるということは、この世界には意味があり、目的があるということです。そして、その目的はこの世界をお造りになった神さまの栄光を現すことにあります。さらに、それが歴史的な世界の目的であるということは、歴史の進展とともに、神さまの栄光がより豊かに現されるようになることを目的としているということです。
 神である主はこの歴史的な世界をお造りになって、この世界の歴史を始められた時に、人を愛を本質的な特性とする神のかたちにお造りになり、神のかたちに造られた人に、この世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。愛を本質的な特性とする神のかたちに造られている人は契約の神である主を愛して、神として礼拝することと、主の民を愛することを中心として、歴史と文化を造る使命を果たすことによって、神である主の愛といつくしみに満ちた栄光をより豊かに現すように召されているのです。
 先主日にお話ししましたように、神である主は、創造の御業において神のかたちに造られた人に歴史と文化を造る使命をお委ねになりましたので、その歴史と文化を造る使命をめぐっての評価をされます。神である主のみこころは、人が主を愛して、神として礼拝することと、主の民を愛することを中心として、歴史と文化を造る使命を果たすことによって、神である主の愛といつくしみに満ちた栄光をより豊かに現すようになることです。
 注意したいことは、神である主は、神のかたちに造られている人が歴史と文化を造る使命を果たすことを当然のことで、何の報いも必要はないとされなかったということです。神である主は、人が歴史と文化を造る使命を果たすことに対しての報いとして、人に最初に神のかたちに造られた時の栄光にまさる栄光をお与えになり、ご自身とのさらに深く豊かな交わりに生きる者としてくださること、すなわち永遠のいのちを約束してくださいました。これが創造の御業とともに与えられた「創造の契約」の、神のかたちに造られている人に対する祝福です。
 ですから、神である主は神のかたちに造られている人に委ねてくださった歴史と文化を造る使命をめぐっての評価をされます。それは本来は、その歴史と文化を造る使命を果たしたことに対する報いを与えてくださるための評価でした。けれども、実際には、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人は、契約の神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしてしまいました。そのことによって、本来は、歴史と文化を造る使命を果たしたことに対する報いを与えてくださるための評価が、ご自身に背いた罪と、その罪によって神である主を神としない歴史と文化を造り出している罪に対するさばきになってしまっているのです。
 このことから、歴史の終わりに神である主が、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人の罪をおさばきになること、すなわち罪への刑罰としてのさばきと、歴史と文化を造る使命を果たしたことに対する報いを与えてくださることへの評価としてのさばきに違いがあることを心に留めておいていただきたいと思います。
 先主日には、このことに関連して、私たち主の契約の民も主のさばきの御座の前に立って、歴史と文化を造る使命をめぐって、評価としてのさばきを受けるということをお話ししました。そのことで皆さんを混乱させてしまったかも知れませんが、そのことにつきましては、すべてのことではありませんが、後ほどお話しします。
 以上が第一の点の要約です。
 次に、契約の神である主、ヤハウェが「初めであり」、「終わりである」ということは、メリスムスと呼ばれる表現方法で表されています。メリスムスという表現方法は、この場合は、「初め」と「終わり」という両端にあることを組み合わせて、その間にあるすべてを表しているということです。メリスムスという表現方法としてよく知られているのは、創世記1章1節の、

 初めに、神が天と地を創造した。

というみことばです。これは、私たちが見ている空と地上のことではなく、神さまが創造の御業によって造り出されたすべてのもの、しかも、「天と地」というように秩序立てられており、意味をもっている世界のすべてのものを意味しています。
 そのようなわけで、神である主が「初めであり」、「終わりである」ということは、神である主が、ただ、この世界の「初め」と「終わり」に関わってくださっているだけでなく、その間のすべての時間、すべての時代に関わっていることを意味しています。主、ヤハウェは創造の御業によって、この歴史的な世界の歴史を始められた方であり、ご自身がお定めになった時に、それを終わらせる方です。当然、その間のすべての歴史の出来事を治めておられ、導いておられます。その意味で、神である主はこの世界の歴史の主であられます。
 神である主はこの世界の歴史の主として、この世界に起こるすべてのことを治めておられます。そして、そのすべてをとおして、ご自身の栄光を現され、さらに、歴史の進展とともに、ご自身のご栄光をより豊かに表されます。先主日にお話ししましたように、神である主は、そのために、暗やみの主権者であるサタンとその軍勢の働きや、人の罪や人の罪が生み出すさまざまな悪、また神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人の罪による堕落によってもたらされたこの被造物世界の「虚無」さえも、お用いになられます。これも繰り返しになりますが、それらのものが、主によって用いられたからといって、それらのものが主のみこころにかなっているわけではありません。
 最後に、もう一つ大切なことですが、契約の神である主、ヤハウェが「初めであり」、「終わりである」ということは、神である主が時間の流れの中にある方ではなく、時間を越えた方、永遠の主であるということを意味しています。神である主は、同時に、「初めであり」、「終わりである」方なのです。神である主は「初めであり」、「終わりである」方として、この歴史的な世界を創造され、神のかたちに造られている人にこの歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。また、「初めであり」、「終わりである」方として、終わりの日には、神のかたちに造られている人にお委ねになった歴史と文化を造る使命をめぐってすべての人をおさばきになることによって、この歴史的な世界の歴史に区切りをつけられます。このように神である主は、常に、「初めであり」、「終わりである」方として、ご自身がお造りになったこの世界の一つ一つのものと、この世界の歴史に起こりくるすべてのものと関わってくださり、すべての物事を治めてくださって、ご自身のご栄光を現してくださいます。
 繰り返しになりますが、契約の神である主、ヤハウェが「初めであり」、「終わりである」ということが意味している、これら三つのことの根底には、神である主が、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名の方であるということがあります。そして、これら三つのことは、黙示録1章17節に記されています、

 わたしは、最初であり、最後である

というイエス・キリストのあかしのみことばに当てはまります。


 これらのことを踏まえて、先ほど触れました、私たち主の契約の民も主のさばきの御座の前に立って、歴史と文化を造る使命をめぐって、評価としてのさばきを受けるということについてお話ししたいと思います。ただし、きょうは、私たち主の民も主のさばきの御座の前で評価としてのさばきを受けることになるということについて、最初にお話ししたいことしか取り扱えません。
 その前に、改めて確認しておきたいことがあります。それは、福音のみことばにあかしされている、十字架にかかって私たちの罪を贖ってくださり、私たちを永遠のいのちに生かしてくださるために、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストを信じている私たちは、決して、私たちの罪に対する刑罰を受けることはないということです。イエス・キリストは私たちがご自身を信じて救われる前の罪を贖ってくださっただけではありません。私たちがご自身の民となった後に、私たちが犯してしまった罪、さらには、これから犯すであろう罪をも、すべて、完全に贖ってくださっています。私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきは、すでに、御子イエス・キリストの十字架において執行されて終わっています。
 ですから、このことに基づいて、ヨハネの手紙第一・1章9節には、

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

と約束されています。
 このことを踏まえた上で、私たち主の民も、主のさばきの御座の前に立って、歴史と文化を造る使命をめぐって、評価としてのさばきを受けるということについてお話しします。このことを教えている新約聖書の教えとして、先主日は、コリント人への手紙第二・5章10節とヘブル人への手紙4章13節に記されているみことばを引用しました。改めて、それを見てみましょう。コリント人への手紙第二・5章10節を、8節から引用しますと、そこには、

私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。

と記されています。
 ここで、「私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて」と言われているときの「私たちはみな」ということばはが、だれを指しているかについては、イエス・キリストを信じている人も信じていない人も含めたすべての人か、イエス・キリストを信じている人すべてかで意見が分かれているようです。けれども、その前の8節ー9節に記されていることとのつながりから、イエス・キリストを信じている人すべてであると考えられます。
 また、ヘブル人への手紙4章13節には、

造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。

と記されています。
 これとともに、先主日はその個所だけお伝えしました、ローマ人への手紙14章10節ー13節も見てみましょう。少し前の、7節から引用しますと、そこには、

私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。次のように書かれているからです。
 「主は言われる。わたしは生きている。
 すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、
 すべての舌は、神をほめたたえる。」
こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。

と記されています。
 このみことばには、私たちの考え方に歪みがあるために誤解しやすい点があります。それは大切なことなのですが、それにつきましては、日を改めてお話しさせていただきます。きょうは、いまお話ししていることと関連することに限ってお話しします。
 ここでは、兄弟姉妹に対するさばきのことが取り上げられていて、それとの関係で、私たちが主のさばきの御座に立つようになることが教えられています。これはとても大切なことです。どうして兄弟姉妹をさばくことが重大な問題であるかと言いますと、先ほどお話ししましたように、愛を本質的な特性とする神のかたちに造られている人は契約の神である主を愛して、神として礼拝することと、主の民を愛することを中心として、歴史と文化を造る使命を果たすことによって、神である主の愛といつくしみに満ちた栄光をより豊かに現すように召されているからです。兄弟姉妹をさばくことはこのような歴史と文化を造る使命に反することです。
 さらに、兄弟姉妹をさばくことはサタンにくみすることでもあるからです。同じローマ人への手紙8章33節ー34節には、

神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

と記されています。兄弟姉妹を訴え、罪に定めようとしているのはサタンです。黙示録12章10節では、サタンのことが「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」と言われています。私たちは兄弟姉妹をさばくことによってサタンにくみし、兄弟姉妹のためにとりなし祈ることにおいて、イエス・キリストの大祭司としてのお働きに従い、イエス・キリストと一つになることになります。
 先主日は触れませんでしたが、さらに、コリント人への手紙第一・4章3節ー5節には、

しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。

と記されています。この教えも、私たちが自分自身をも含めてお互いをさばくことについての教えです。
 5節に記されています、

主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。

というみことばは、先ほど引用しましたヘブル人への手紙4章13節の、

造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。

というみことばを思い起こさせます。もちろん、どちらかが他方に影響を与えたという意味ではなく、どちらも同じ神さまがどのような方であられるかについての理解の上に立っているということです。この二つの個所に述べられていること自体は、すべての人に当てはまることですが、この二つの個所では、私たちイエス・キリストを信じている者たちに当てはめられています。
 主はすべての人の心の思いばかりでなく、本人さえも気づいていないことさえも、すべてご存知であられます。そして、すべてのことをおさばきになります。そして、そのさばきは厳正であり、正しいさばきです。そのことは、私たちにも当てはまります。このことをどのように受け止めたらいいのでしょうか。
 この点に関して、私たちは主を恐れなければなりません。けれども、決して、私たちの罪に対する刑罰を恐れてはなりません。先ほどお話ししましたように、私たちの罪に対する刑罰は、すでに、イエス・キリストの十字架において執行されて終わっています。私たちは御子イエス・キリストの十字架の死によって罪を贖っていただき、主を生きた方として知るようになりました。それで私たちは、主が神であられ、無限、永遠、不変の栄光の主であられ、私たちの造り主であられることを認めて、主を恐れます。さらに、私たちをご自身の民としてくださるために、御子をもお遣わしになられ、御子の十字架において私たちの罪に対する聖なる御怒りによるさばきを執行されたことに、主の無限の聖さと義を認めるとともに、無限の愛と恵みを認めて、主を恐れます。このような主への恐れは、主への礼拝となって現れてきます。先ほど引用しましたローマ人への手紙14章10節で、

 私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。

と述べたパウロは、それに続いて(11節において)、イザヤ書45章23節の七十人訳から、

 主は言われる。わたしは生きている。
 すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、
 すべての舌は、神をほめたたえる。

というみことばを引用しています。これは、主を礼拝し讚えることを述べています。

 私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。

と言われていますが、それは、私たちが主を神として礼拝し讚えることへとつながっていきます。
 私たちは兄弟姉妹をさばくことに対して、

 私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。

と警告されています。その私たちはすでにいろいろな形で兄弟姉妹をさばいてしまってきたのではないでしょうか。それでは、私たちは主のさばきの御座の前に立ってさばきを受けることを恐れつつ過ごすほかはないのでしょうか。そのようなことはありません。むしろそのようなことは、主のみこころではありませんし、この教えの主旨でもありません。私たちは、このことに関して、先ほど引用しましたヨハネの手紙第一・1章9節に記されている、

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

という約束を与えられています。自分の罪を悔い改めて、主に告白するなら、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いに基づいて、その罪をすべて完全に赦していただけます。忘れてはならないことは、この赦しは天の法廷におけること、主のさばきの御座の前における赦しで、最終的なものであるということです。それで、このことを、さらに、さばきの御座の前で問われることはありません。
 そればかりでなく、

 すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

という約束のとおり、主は私たちはきよめてくださいます。それによって、私たちは兄弟姉妹のために執り成す者に変えられていきます。
 けれども、主がこのように赦してくださるからということで、兄弟姉妹をさばくことを止めないとしたら、それは主の愛と恵みを踏みにじることです。そのことに対する申し開きは、主のさばきの御座の前でしなければなりません。その場合でも、私たちが頼みとするのは、御子イエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、私たちのために成し遂げてくださった贖いの御業だけです。
 これにはもう一つのことが関わっています。
 先ほど引用しましたヘブル人への手紙4章13節には、

造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。

と記されていました。けれども、このみことばはこれで終わってはいません。これに続いて、14節ー16節には、

さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

と記されています。
 私たちは私たちの隠れていることも、すべてご存知であられる神さまに対して弁明をしなければなりません。その中には、自分が自覚できていない罪もあることでしょう。そのような場合には、ヨハネの手紙第一・1章9節に記されている約束にしたがって、罪を悔い改めて告白することもできません。とはいえ、私たちが自覚している罪を悔い改めて告白していくなら、神さまはその罪を赦してくださるだけでなく「すべての悪から私たちをきよめてくださいます」。問題はそれだけではありません。私たちの目には完璧のように見えても、私たち自身のうちにはなおも罪の性質が残っていて、罪の自己中心性が私たちの思いとことばと行いに影を落としています。神さまへの奉仕であっても、心の中に自分はこのような奉仕をしているという自己主張が潜んでいることがあります。神さまはそれをご存知です。それで、主の御前にそのままよしとされることはありません。すべて、御子イエス・キリストの贖いの恵みによってきよめていただいて、受け入れていただくほかありません。そのような、私たちのために、「もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられ」ます。御子イエス・キリストは、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名の方として、私たちのすべてをご存知であられて、私たちの弱さに同情してくださり、ご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、私たちのために執り成してくださっています。それで、

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

と勧められています。これも、先ほどのローマ人への手紙14章11節でパウロがイザヤ書から引用しています、

 主は言われる。わたしは生きている。
 すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、
 すべての舌は、神をほめたたえる。

というみことばが示しているように、契約の神である主を愛し、恐れ敬い、愛と恵みに満ちた栄光をほめたたえつつ主を礼拝することにつながっています。


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