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説教日:2013年9月8日 |
これらのことを踏まえて、先ほど触れました、私たち主の契約の民も主のさばきの御座の前に立って、歴史と文化を造る使命をめぐって、評価としてのさばきを受けるということについてお話ししたいと思います。ただし、きょうは、私たち主の民も主のさばきの御座の前で評価としてのさばきを受けることになるということについて、最初にお話ししたいことしか取り扱えません。 その前に、改めて確認しておきたいことがあります。それは、福音のみことばにあかしされている、十字架にかかって私たちの罪を贖ってくださり、私たちを永遠のいのちに生かしてくださるために、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストを信じている私たちは、決して、私たちの罪に対する刑罰を受けることはないということです。イエス・キリストは私たちがご自身を信じて救われる前の罪を贖ってくださっただけではありません。私たちがご自身の民となった後に、私たちが犯してしまった罪、さらには、これから犯すであろう罪をも、すべて、完全に贖ってくださっています。私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきは、すでに、御子イエス・キリストの十字架において執行されて終わっています。 ですから、このことに基づいて、ヨハネの手紙第一・1章9節には、 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 と約束されています。 このことを踏まえた上で、私たち主の民も、主のさばきの御座の前に立って、歴史と文化を造る使命をめぐって、評価としてのさばきを受けるということについてお話しします。このことを教えている新約聖書の教えとして、先主日は、コリント人への手紙第二・5章10節とヘブル人への手紙4章13節に記されているみことばを引用しました。改めて、それを見てみましょう。コリント人への手紙第二・5章10節を、8節から引用しますと、そこには、 私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。 と記されています。 ここで、「私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて」と言われているときの「私たちはみな」ということばはが、だれを指しているかについては、イエス・キリストを信じている人も信じていない人も含めたすべての人か、イエス・キリストを信じている人すべてかで意見が分かれているようです。けれども、その前の8節ー9節に記されていることとのつながりから、イエス・キリストを信じている人すべてであると考えられます。 また、ヘブル人への手紙4章13節には、 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。 と記されています。 これとともに、先主日はその個所だけお伝えしました、ローマ人への手紙14章10節ー13節も見てみましょう。少し前の、7節から引用しますと、そこには、 私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。次のように書かれているからです。 「主は言われる。わたしは生きている。 すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、 すべての舌は、神をほめたたえる。」 こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。 と記されています。 このみことばには、私たちの考え方に歪みがあるために誤解しやすい点があります。それは大切なことなのですが、それにつきましては、日を改めてお話しさせていただきます。きょうは、いまお話ししていることと関連することに限ってお話しします。 ここでは、兄弟姉妹に対するさばきのことが取り上げられていて、それとの関係で、私たちが主のさばきの御座に立つようになることが教えられています。これはとても大切なことです。どうして兄弟姉妹をさばくことが重大な問題であるかと言いますと、先ほどお話ししましたように、愛を本質的な特性とする神のかたちに造られている人は契約の神である主を愛して、神として礼拝することと、主の民を愛することを中心として、歴史と文化を造る使命を果たすことによって、神である主の愛といつくしみに満ちた栄光をより豊かに現すように召されているからです。兄弟姉妹をさばくことはこのような歴史と文化を造る使命に反することです。 さらに、兄弟姉妹をさばくことはサタンにくみすることでもあるからです。同じローマ人への手紙8章33節ー34節には、 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。 と記されています。兄弟姉妹を訴え、罪に定めようとしているのはサタンです。黙示録12章10節では、サタンのことが「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」と言われています。私たちは兄弟姉妹をさばくことによってサタンにくみし、兄弟姉妹のためにとりなし祈ることにおいて、イエス・キリストの大祭司としてのお働きに従い、イエス・キリストと一つになることになります。 先主日は触れませんでしたが、さらに、コリント人への手紙第一・4章3節ー5節には、 しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。 と記されています。この教えも、私たちが自分自身をも含めてお互いをさばくことについての教えです。 5節に記されています、 主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。 というみことばは、先ほど引用しましたヘブル人への手紙4章13節の、 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。 というみことばを思い起こさせます。もちろん、どちらかが他方に影響を与えたという意味ではなく、どちらも同じ神さまがどのような方であられるかについての理解の上に立っているということです。この二つの個所に述べられていること自体は、すべての人に当てはまることですが、この二つの個所では、私たちイエス・キリストを信じている者たちに当てはめられています。 主はすべての人の心の思いばかりでなく、本人さえも気づいていないことさえも、すべてご存知であられます。そして、すべてのことをおさばきになります。そして、そのさばきは厳正であり、正しいさばきです。そのことは、私たちにも当てはまります。このことをどのように受け止めたらいいのでしょうか。 この点に関して、私たちは主を恐れなければなりません。けれども、決して、私たちの罪に対する刑罰を恐れてはなりません。先ほどお話ししましたように、私たちの罪に対する刑罰は、すでに、イエス・キリストの十字架において執行されて終わっています。私たちは御子イエス・キリストの十字架の死によって罪を贖っていただき、主を生きた方として知るようになりました。それで私たちは、主が神であられ、無限、永遠、不変の栄光の主であられ、私たちの造り主であられることを認めて、主を恐れます。さらに、私たちをご自身の民としてくださるために、御子をもお遣わしになられ、御子の十字架において私たちの罪に対する聖なる御怒りによるさばきを執行されたことに、主の無限の聖さと義を認めるとともに、無限の愛と恵みを認めて、主を恐れます。このような主への恐れは、主への礼拝となって現れてきます。先ほど引用しましたローマ人への手紙14章10節で、 私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。 と述べたパウロは、それに続いて(11節において)、イザヤ書45章23節の七十人訳から、 主は言われる。わたしは生きている。 すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、 すべての舌は、神をほめたたえる。 というみことばを引用しています。これは、主を礼拝し讚えることを述べています。 私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。 と言われていますが、それは、私たちが主を神として礼拝し讚えることへとつながっていきます。 私たちは兄弟姉妹をさばくことに対して、 私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。 と警告されています。その私たちはすでにいろいろな形で兄弟姉妹をさばいてしまってきたのではないでしょうか。それでは、私たちは主のさばきの御座の前に立ってさばきを受けることを恐れつつ過ごすほかはないのでしょうか。そのようなことはありません。むしろそのようなことは、主のみこころではありませんし、この教えの主旨でもありません。私たちは、このことに関して、先ほど引用しましたヨハネの手紙第一・1章9節に記されている、 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 という約束を与えられています。自分の罪を悔い改めて、主に告白するなら、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いに基づいて、その罪をすべて完全に赦していただけます。忘れてはならないことは、この赦しは天の法廷におけること、主のさばきの御座の前における赦しで、最終的なものであるということです。それで、このことを、さらに、さばきの御座の前で問われることはありません。 そればかりでなく、 すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 という約束のとおり、主は私たちはきよめてくださいます。それによって、私たちは兄弟姉妹のために執り成す者に変えられていきます。 けれども、主がこのように赦してくださるからということで、兄弟姉妹をさばくことを止めないとしたら、それは主の愛と恵みを踏みにじることです。そのことに対する申し開きは、主のさばきの御座の前でしなければなりません。その場合でも、私たちが頼みとするのは、御子イエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、私たちのために成し遂げてくださった贖いの御業だけです。 これにはもう一つのことが関わっています。 先ほど引用しましたヘブル人への手紙4章13節には、 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。 と記されていました。けれども、このみことばはこれで終わってはいません。これに続いて、14節ー16節には、 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。 と記されています。 私たちは私たちの隠れていることも、すべてご存知であられる神さまに対して弁明をしなければなりません。その中には、自分が自覚できていない罪もあることでしょう。そのような場合には、ヨハネの手紙第一・1章9節に記されている約束にしたがって、罪を悔い改めて告白することもできません。とはいえ、私たちが自覚している罪を悔い改めて告白していくなら、神さまはその罪を赦してくださるだけでなく「すべての悪から私たちをきよめてくださいます」。問題はそれだけではありません。私たちの目には完璧のように見えても、私たち自身のうちにはなおも罪の性質が残っていて、罪の自己中心性が私たちの思いとことばと行いに影を落としています。神さまへの奉仕であっても、心の中に自分はこのような奉仕をしているという自己主張が潜んでいることがあります。神さまはそれをご存知です。それで、主の御前にそのままよしとされることはありません。すべて、御子イエス・キリストの贖いの恵みによってきよめていただいて、受け入れていただくほかありません。そのような、私たちのために、「もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられ」ます。御子イエス・キリストは、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という御名の方として、私たちのすべてをご存知であられて、私たちの弱さに同情してくださり、ご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、私たちのために執り成してくださっています。それで、 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。 と勧められています。これも、先ほどのローマ人への手紙14章11節でパウロがイザヤ書から引用しています、 主は言われる。わたしは生きている。 すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、 すべての舌は、神をほめたたえる。 というみことばが示しているように、契約の神である主を愛し、恐れ敬い、愛と恵みに満ちた栄光をほめたたえつつ主を礼拝することにつながっています。 |
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