黙示録講解

(第130回)


説教日:2013年9月1日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章9節ー20節
説教題:栄光のキリストの顕現(31)


 いろいろな事情により、ヨハネの黙示録からのお話は2週間お休みしました。きょうは、再び黙示録からのお話に戻ります。いまお話ししているのは、1章9節ー20節に記されています、イエス・キリストがご自身の栄光の御姿を、黙示録の著者であるヨハネに現してくださったことです。これまで4回にわたって、17節後半ー18節に記されています、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

という、イエス・キリストがヨハネに語られたことばについてお話ししてきました。
 このことばは、強調形の「わたしは・・・である。」(エゴー・エイミ・・・)という言い方で語られていて、このことばの根底に、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という、出エジプトの時代に、神さまがモーセに啓示してくださった御名があります。神さまがこの御名をモーセに啓示してくださったことを記している出エジプト記3章14節ー15節では、この、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名が、

 わたしはある

に短縮され、さらに3人称化されて「ヤハウェ」として示されています。新改訳では、この「ヤハウェ」が太文字の「」と訳されています。
 これまでお話ししてきましたように、この、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名は「ある」ということにかかわっていて、「」、ヤハウェは何ものにも依存されないで、永遠にご自身で存在しておられる方であること、そして、この世界のあらゆるものを創造されて存在するものとされた方であること、天地創造の御業以来の歴史をとおして、お造りになったすべてのものを真実に支えておられる方であるということを意味していると考えられます。
 そして、前々回取り上げてお話ししました、エレミヤ書33章19節ー26節に記されています主のみことばから分かりますように、神さまと神さまがお造りになったものとの関係は契約関係です。それで、神さまが天地創造の御業以来の歴史をとおして、お造りになったすべてのものを真実に支えておられるのは、神さまの契約によっています。その意味で、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名は、神さまがご自身の契約に対して真実な方であるということをも意味することになります。
 私たちは契約と言いますと、取引における契約を思い出しますので、神さまと神さまがお造りになったものとの関係が契約関係であると言いますと、神さまがご自身がお造りになったものと取引をしておられるかのように感じてしまうかも知れません。それは、神さまの契約に対する誤解です。
 神さまは被造物から何かを得ようとして契約を結んでくださったのではありません。存在においても、属性においても無限、永遠、不変であられ、あらゆる点において完全に充足しておられる神さまには、何の不足も欠けもありません。その意味で、人間であれ御使いであれ、どのような被造物も、神さまに何かを付け加えるということはできません。むしろ、神さまがこの造られた世界のすべてのものを存在させ、一つ一つの存在を支え、特質を生かしてくださり、すべての必要を満たしてくださっています。神さまは常に真実にこのようにしてくださっています。神さまは、このように、ご自身がお造りになったこの世界のすべてのものを、真実に支え、それぞれの特質を生かしてくださり、すべての必要を満たしてくださることを、ご自身の契約によって約束し、保証してくださっています。これが神さまの契約です。
 これは、神さまが創造の御業とともに、お造りになったものと結んでくださった契約のことです。一般には「わざの契約」と呼ばれていますが、私たちは「創造の契約」と呼んでいます、この「創造の契約」には、さらに、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人に対する特別な約束がありました。それは、人が神さまから委ねられている歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて、完全に神さまのみこころに従い通すなら、神さまはそのことに対する報いとして、人に永遠のいのち、すなわち、神のかたちに造られたときの状態より、さらに豊かな栄光にあって、神さまとの愛の交わりに生きるいのちを与えてくださるということです。これが「創造の契約」の祝福です。
 しかし実際には、神のかたちに造られている人は神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。けれども神さまは、その直後に、もう一つの契約を与えてくださいました。その契約によって、贖い主を約束してくださるとともに、ご自身の契約の民を、罪の結果である死と滅びの中から贖い出し、最初に神のかたちに造られた時の状態より、さらに豊かな栄光にあって、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者としてくださることを約束し保証してくださいました。これは、一般に「恵みの契約」と呼ばれる契約ですが、私たちは「救済の契約」と呼んでいます。
 神さまはこの契約に基づいて、ご自身の御子をもお遣わしになりました。御子イエス・キリストは、十字架おかかりになって私たち主の契約の民の罪を完全に贖ってくださり、私たちを罪の結果である死と滅びの中から贖い出してくださいました。そればかりではありません。十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されて、「創造の契約」の祝福である永遠のいのち、より豊かな栄光にあって神さまとの愛の交わりに生きるいのちを獲得してくださいました。このことに基づいて、私たちをご自身の復活の栄光にあずからせてくださり、永遠のいのち、より豊かな栄光にあって、神さまとの愛にある交わりに生きる者としてくださいました。
 いろいろな機会にお話ししていますように、聖書に出てくる契約は、聖書が記された古代オリエントの文化圏における契約の考え方に沿っています。その基本的なものは、私たちの社会における取引関係における契約とは違って、双方の合意によって結ばれるものではありません。それは主権者の契約で、主権者がその主権の下にある者たちを自分との契約関係に入れてしまうのです。神さまの契約もそのような契約です。それで神さまはそれを「わたしの契約」と呼んでおられます。またそれで、この契約は「主の契約」とか「神の契約」と呼ばれています。[注]

[注]「わたしの契約」については、創世記9章9節、15節、17章2節、4節、7節、21節、出エジプト記6章5節、19章5節、列王記第一・11章11節、詩篇89篇28節、34節、イザヤ書59章21節、エレミヤ書31章32節、エゼキエル書16章60節など、「主の契約」については、申命記29章12節、ヨシュア記7章15節、23章16節、列王記第二・17章15節、歴代誌第一・16章15節、詩篇103篇18節、エレミヤ書22章9節など、「神の契約」については、レビ記2章13節、歴代誌第二・34章32節、詩篇78篇10節、37節などを見てください。

 神さまは、ご自身の主権的で一方的な愛と恵みによって、人をご自身との契約のうちにあるものとして、ご自身のかたちにお造りになられました。神のかたちに造られている人は造られた時から、神さまとの契約関係のうちにありました。また、神さまはその主権的で一方的な愛と恵みによって、私たちを「救済の契約」にあずからせてくださっています。
 このように、神さまがご自身の契約を真実にお守りくださり、契約に約束されている祝福を実現してくださるのは、また、完全に実現してくださることができるのは、神さまが、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名の方であるからです。


 黙示録1章17節後半ー18節に記されています、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

という、イエス・キリストのことばは、この、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名に基づいていて、イエス・キリストが、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名の方であられることを示しています。このことを踏まえて、このイエス・キリストのことばをさらに見ていきましょう。
 最初のことばは、

 わたしは、最初であり、最後である

というものです。
 これは、同じ1章8節に、

神である主、今いまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」

と記されているときの、

 わたしはアルファであり、オメガである。

ということばと実質的に同じことを意味しています。そのことは、二つのことから分かります。一つは、この、

 わたしはアルファであり、オメガである。

ということばも、強調形の「わたしは・・・である。」(エゴー・エイミ・・・)という言い方で語られていて、神さまが、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名の方であることに基づいているということです。もう一つは、「アルファ」はギリシャ語のアルファベットの最初の文字で「初め」を意味しており、「オメガ」は最後の文字で「終わり」を意味しているということです。
 注目すべきことですが、8節で、

神である主、今いまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」

と言われているのは、父なる神さまのことです。ここで、父なる神さまがご自身のことを、

 わたしはアルファであり、オメガである。

とあかしされているのと実質的に同じ、

 わたしは、最初であり、最後である

ということばをもって、17節では、イエス・キリストがご自身のことをあかししておられます。
 このことは、黙示録の最初の部分で見られることですが、これと同じことは、黙示録の最後の部分でも見られます。
 21章1節ー4節には、

また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

と記されています。
 これは終わりの日に再臨される栄光のキリストが、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて再創造される、新しい天と新しい地のことを記しています。いまお話ししていることとの関わりで注目したいのは、これに続く5節ー7節に記されていることです。そこには、

すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。

と記されています。ここで語っておられる「御座に着いておられる方」は父なる神さまです。そして、父なる神さまはご自身のことを、

 わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。

とあかししておられます。これは、1章8節において、父なる神さまがご自身のことを、

 わたしはアルファであり、オメガである。

とあかしされたことばに、

 最初であり、最後である。

ということばをさらに重ねたものです。この場合の、

 最初であり、最後である。

ということば(ヘー・アルケー・カイ・ト・テロス)は、1章17節でイエス・キリストが、ご自身のことを、

 わたしは、最初であり、最後である

とあかしされていることば(ホ・プロートス・カイ・ホ・エスカトス)と違っていますが、実質的に同じことを意味しています。あえて言いますと、この父なる神さまがご自身のことをあかししておられる、

 最初であり、最後である。

ということば(ヘー・アルケー・カイ・ト・テロス)は、造られたすべてのものの「源であり目的である」という意味合いをもっています。
 また、黙示録の最後の章である22章12節ー13節には、

見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。

と記されています。
 これは、

見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。

と言われていることから分かりますが、イエス・キリストのみことばです。ここで、イエス・キリストはご自身のことを、

わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。

とあかししておられます。このうちの、

わたしはアルファであり、オメガである。

ということばは、1章8節と21章6節で、父なる神さまがご自身のことをあかししておられることばです。そして、

 最初であり、最後である。

ということば(ホ・プロートス・カイ・ホ・エスカトス)は、1章17節でイエス・キリストが、ご自身のことを、

 わたしは、最初であり、最後である

とあかししておられることばです。この、イエス・キリストのあかしのみことばには、さらに、

 初めであり、終わりである。

ということば(ヘー・アルケー・カイ・ト・テロス)が重ねられています。これは、21章6節で、父なる神さまがご自身のことをあかししておられることばで、そこでは、

 最初であり、最後である。

と訳されています。
 このように、黙示録の最初の部分と最後の部分において、イエス・キリストは、父なる神さまがご自身のことをあかししておられることばを用いて、ご自身のことをあかししておられます。このことからも、黙示録は、イエス・キリストこそが、父なる神さまと等しい神であられ、契約の神である主、ヤハウェであられることを明らかにしていることが分かります。

 1章17節に記されています、

 わたしは、最初であり、最後である

という、イエス・キリストのあかしのみことばは、イザヤ書41章ー48章に記されています、契約の神である主、ヤハウェのみことばを背景としています。
 イザヤ書41章4節には、

 だれが、これを成し遂げたのか。
 初めから代々の人々に呼びかけた者ではないか。
 わたし、こそ初めであり、
 また終わりとともにある。わたしがそれだ。

と記されています。
 また、44章6節ー7節には、

 イスラエルの王である、これを贖う方、
 万軍のはこう仰せられる。
 「わたしは初めであり、
 わたしは終わりである。
 わたしのほかに神はない。
 わたしが永遠の民を起こしたときから、
 だれが、わたしのように宣言して、
 これを告げることができたか。
 これをわたしの前で並べたててみよ。
 彼らに未来の事、来たるべき事を
 告げさせてみよ。

と記されています。
 さらに、48章12節ー13節には、

 わたしに聞け。ヤコブよ。
 わたしが呼び出したイスラエルよ。
 わたしがそれだ。
 わたしは初めであり、また、終わりである。
 まことに、わたしの手が地の基を定め、
 わたしの右の手が天を引き延ばした。
 わたしがそれらに呼びかけると、
 それらはこぞって立ち上がる。

と記されています。
 これらの引用から分かりますが、ここで語っておられる方は、新改訳で太字の「」で表されている、契約の神である主、ヤハウェです。この契約の神である主、ヤハウェが、ご自身は「初めであり」、「終わりである」とあかししておられます。
 契約の神である主、ヤハウェが「初めであり」、「終わりである」ということには、いくつかの面があります。
 第一に、それは、主が創造の御業において、この歴史的な世界をお造りになり、この世界の歴史を始められた方であられるとともに、この世界の歴史を終わらせる方であられるということを意味しています。
 すでに繰り返しお話ししてきましたように、神さまはこの世界を歴史的な世界としてお造りになりました。歴史的であるということは、ただ単に、変化し、移り変わっていくということではありません。造り主である神さまは目的をもってこの世界をお造りになりました。この世界が歴史的であるということは、時の流れとともに、神さまがこの世界をお造りになった目的が実現していき、やがて、完全な実現、完成に至るということを意味しています。その目的を突き詰めていきますと、神さまの愛と恵みといつくしみに満ちた栄光が、最初の創造の御業において造られたこの世界の状態においてより、さらに豊かに現されるようになることです。
 けれども、その目的は放っておいても自動的に実現するのではありません。神さまは創造の御業において、人を神のかたちにお造りになり、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。神のかたちに造られている人は造り主である神さまを神として礼拝することを中心として、神さまの愛と恵みといつくしみに満ちた栄光を、さらに豊かに現す歴史と文化を造るように召され、使命を与えられています。
 当然、神さまは神のかたちに造られている人にお委ねになった歴史と文化を造る使命について、人を評価されるという意味において、おさばきになります。しかも、これは歴史と文化を造る使命ですから、そのさばきは歴史の終わりになされます。すべての人は、この神さまが神のかたちに造られている人にお委ねになった歴史と文化を造る使命をめぐってさばきを受けることになります。みことばが教えている世の終わりに再臨される栄光のキリストが執行されるさばきは、歴史と文化を造る使命をめぐるさばきです。
 このことに関して、お話ししなければならないことはいくつもあります。たとえば、イエス・キリストの十字架の死にあずかって罪を贖われている私たちは、もはやさばきを受けないのではないかという、正当な問いかけがあります。それはそのとおりです。私たちは私たちの罪に対する刑罰としてのさばきを受けて、滅びることは、決してありません。けれども、私たち主の契約の民も、歴史と文化を造る使命をめぐる評価としてのさばきを受けることになります。コリント人への手紙第二・5章10節には、

なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。

と記されています。さらに、ヘブル人への手紙4章13節には、

造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。

と記されています。その他、ローマ人への手紙14章10節ー13節にも、同じことが記されています。これがどのようなことなのか、また、私たち主の契約の民が歴史と文化を造る使命を果たすとはどのようなことなのかについては、日を改めてお話しいたします。
 このようにして、契約の神である主、ヤハウェは「初めであり」、「終わりである」方として、この歴史的な世界の歴史を始められた方であり、終わらせる方ですが、世の終わりでこの歴史的な世界世界がなくなってしまうわけではありません。世の終わりにおいては、最終的なさばきが執行されて、それまでの歴史に区切りがつけられますが、御子イエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、新しい天と新しい地を再創造されます。そして、前回お話ししましたヘブル人への手紙2章5節ー10節に記されていましたように、私たち主の契約の民は「後の世」すなわち新しい天と新しい地の歴史と文化を造る使命を果たしていくことになります。これが、いまの私たちの地上の歩みとどのように関わっているかにつきましても、改めてお話しいたします。
 契約の神である主、ヤハウェが「初めであり」、「終わりである」方であられることは、第二に、この「初めであり」、「終わりである」ということばが、メリスムスと呼ばれる表現方法であることと関わっています。日本語でも、「老いも若きも」と言えば「みんな」を意味しています。「老いた者」と「若き者」の間にあるすべての人を含んでいるのです。そのように、「最初であり、最後である」ということは、ただ最初と最後に関わっているだけでなく、その間のすべての時間、すべての時代に関わっていることを意味しています。主、ヤハウェはこの歴史的な世界を始められた方であり、終わらせる方です。当然、その間のすべての歴史の出来事を治めておられ、導いておられます。その意味で、主、ヤハウェはこの世界の歴史の主であられ、この世界に起こるすべてのことを治めておられます。
 それは、ご自身のみこころと関係なく存在しているものに外から働きかけて治めておられるということではありません。主はすべてのものをお造りになり、存在させておられる方です。お造りになったそれぞれのものの特質を生かして、支えてくださり、導いてくださっています。それは、神のかたちに造られている人の罪によってもたらされたさまざまな悪や虚無にまで及びます。主は人の罪の仕業をも用いて、ご自身のみこころを実現されていかれます。もちろん、そうであるからといって、その人の罪や悪がよしとされることはありません。主はすべての罪をおさばきになられます。いま、礼拝における聖書朗読で預言者たちのみことばが朗読されています。そのみことばから分かりますように、主、ヤハウェはバビロンの王の征服欲をもお用いになって、ユダ王国へのさばきを執行されました。同時に、バビロンを初めとして、自らの罪の欲望にしたがってユダ王国を襲い、殺戮を繰り返し、搾取した国々をおさばきになられました。
 第三に、契約の神である主、ヤハウェが「初めであり」、「終わりである」方であられるということは、主、ヤハウェが時間の流れの中にある方ではなく、時間を超えた方であるということを意味しています。そのゆえに、主はやがて起こることを前もってお知らせになることがおできになります。
 イザヤ書41章ー48章においては、契約の神である主、ヤハウェが「初めであり」、「終わりである」方であられることは、特に、主がご自身の契約に基づいて遂行される贖いの御業が、この世界の歴史の中で必ず実現することを意味しています。それは、先ほどお話ししましたように、神さまが、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名の方であるからです。そして、主の契約の民は、この「初めであり」、「終わりである」主、ヤハウェを信頼するように招かれているのです。
 このイザヤ書41章ー48章にあかしされている契約の神である主、ヤハウェのみことばを背景として、イエス・キリストは、ご自身のことを、

 わたしは、最初であり、最後である

とあかししておられます。ローマ帝国からの厳しい迫害にさらされていた初代教会の聖徒たちたちを初め、私たち主の契約の民は、「最初であり、最後である」方、歴史の主として、すべてのことを治めておられるイエス・キリストに信頼するように招かれています。


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