黙示録講解

(第129回)


説教日:2013年8月11日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章9節ー20節
説教題:栄光のキリストの顕現(30)


 黙示録1章9節ー20節には、イエス・キリストがヨハネに、ご自身の栄光の御姿を現してくださったことが記されています。
 いまお話ししているのは、17節後半ー18節に記されています、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

という、イエス・キリストがヨハネに語られたことばについてです。
 これまで、このことばは、強調形の「わたしは・・・である。」(エゴー・エイミ・・・)という言い方で語られていて、このことばの根底に、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という、出エジプトの時代に、神さまがモーセに啓示してくださった御名があるということをお話ししました。神さまがこの御名をモーセに啓示してくださったことを記している出エジプト記3章14節ー15節では、この、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名が、

 わたしはある

に短縮され、さらに3人称化されて「ヤハウェ」として示されています。新改訳では、この「ヤハウェ」が太文字の「」と訳されています。
 きょうは、これまでお話ししてきたことを踏まえて、さらにもう一つのことをお話ししたいと思います。


 イエス・キリストがヨハネに語られた、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

ということばが強調形の「わたしは・・・である。」(エゴー・エイミ・・・)という言い方で語られているということは、少なくとも二つのことを意味しています。
 一つは、最も根本的なことですが、イエス・キリストこそは、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名で呼ばれる方、すなわち、契約の神である主、ヤハウェであられるということです。このことは、この、イエス・キリストのことばが強調形の「わたしは・・・である。」(エゴー・エイミ・・・)という言い方で語られているということだけでなく、このイエス・キリストのことば全体からも汲み取ることができます。具体的なことは後ほど、日を改めてお話しします。
 もちろん、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名は父なる神さまに当てはめられます。これは黙示録に見られる、父なる神さまに当てはめられることが、そのまま、イエス・キリストにも当てはめられている事例の一つです。
 もう一つのことですが、すでに(7月21日に)、ヨハネの福音書に7回出てくる強調形の「わたしは・・・です。」(エゴー・エイミ・・・)という言い方による、イエス・キリストの、ご自身についての教えのことをお話ししました。それら七つの教えは、イエス・キリストが、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名をもつ方、すなわち、契約の神である主、ヤハウェであられることが、私たち主の契約の民にとってどのような意味をもっているかを明らかにしてくださる教えでした。ヨハネの福音書では、そのような教えが七つ積み重ねられているわけです。
 そのことはまた、この、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

というイエス・キリストのことばにも当てはまります。このイエス・キリストのことばは、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名をもつ方、契約の神である主、ヤハウェであられるイエス・キリストが、ヨハネが置かれている歴史的な状況にどのように関わってくださっているかを示しています。
 この時、ヨハネは「アジヤにある七つの教会」の牧会者でした。けれども、「アジヤにある七つの教会」はローマ帝国という強大な帝国からの迫害にさらされており、牧会者のヨハネはパトモスという島に流刑になっていました。そればかりでなく、「アジヤにある七つの教会」には、そのような外から迫ってきている問題だけでなく、自らのうちにキリストのからだである教会を根底から破壊してしまう異端的な教えを持ち込んでいる者たちがいる群れも、いくつかありました。
 イエス・キリストは、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名をもつ方として、そのような「アジヤにある七つの教会」の一つ一つの群れにかかわってくださっています。そのことは、特に、2章ー3章に記されています「アジヤにある七つの教会」の一つ一つの群れに対するイエス・キリストのことばに表れています。
 またこの場合も、「アジヤにある七つの教会」は、この初代教会のすべての群れだけでなく、世の終わりに至るまでの歴史をとおして地上に存在しているキリストのからだである教会のすべての群れを表象的に表しているということが当てはまります。

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名をもつ方、契約の神である主、ヤハウェであられるイエス・キリストは、ご自身のことを、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

とあかししておられる方として、世の終わりに至るまでの歴史をとおして地上に存在しているキリストのからだである教会のすべての群れの一つ一つにかかわってくださるのです。

 このこととのかかわりで大切なことは、神さまは天地創造の御業の6日にわたる御業によって、この世界を歴史的な世界として創造されたということと、人を神のかたちにお造りになって、人にご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったということです。
 何よりもまず、神さまの創造の御業自体が歴史的な御業でした。神さまはまず、創世記1章2節に、

地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

と記されている状態の地を造り出されました。また、

 神の霊が水の上を動いていた。

と言われていますように、神さまは御霊によって、そこにご臨在され、この地をご自身がご臨在される場所として聖別してくださっています。そして、3節に、

 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。

と記されていますように、御臨在の御許から発せられる、

 光があれ。

というみことばによって、地に光があるようにされました。これ以後、同じように、ご自身の御臨在の御許から発せられる一連のみことばによって、この地を、イザヤ書45章18節のみことばにしたがって言いますと、「人の住みか」に形造っていかれました。
 この地が光に照らされた明るく暖かな世界であり、創造の御業の第2日に形成された大気圏によって澄み渡った世界であり、適度に乾き、雨によって適度に潤されている世界であること、さらに、実に多様な植物が繁茂し、同じく多様な生き物たちが生息するいのちにあふれた世界であるのは、この地が造り主である神さまがご臨在される所として聖別されていること、そして実際に、神さまがご臨在しておられることの現れです。神さまはご自身がご臨在されるこの地、それゆえにいのちの豊かさにあふれているこの地を「人の住みか」としてくださいました。
 さらに神さまは、創造の御業の第6日に人をご自身のかたちにお造りになられて、人にご自身がお造りになったこの歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。26節ー28節に、

神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されているとおりです。
 神さまの本質的な特性は愛です。人はその神さまのみかたちに造られています。それで、人は造り主である神さまとの愛の交わりに生きるものとして造られています。その神さまとの愛の交わりの中心に、造り主である神さまを神として礼拝することがあります。神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人は、造り主である神さまを愛し、神として礼拝することを中心として、神さまがお造りになったこの歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を委ねられています。
 先ほどお話ししましたように、神さまが「人の住みか」に形造られたこの地には、造り主である神さまの御臨在の現れであり、御臨在を表示する、明るさと暖かさ、聖さを感じさせる大気の清澄さ、多様な植物の繁茂と、多様な生き物たちの生息がある、いのちの豊かさに満ちた世界です。この地に属するものでこのことを知り、造り主である神さまを知っているもの、そして、神さまを愛して、礼拝をささげるのは神のかたちに造られている人だけです。人は神さまがお造りになったこの地に満ちあふれている神さまの御臨在の現れを見出し、さらにそれを生かして、さらに豊かないのちにあふれたものとしていく使命を果たしつつ、そのすべてをとおして現れている神さまの愛といつくしみに満ちた栄光を汲み取り、いっさいの栄光を神さまに帰して、神さまを讃え、感謝し、礼拝するのです。私たちはいまここで、そのような意味をもっている礼拝をささげています。
 そればかりではなく、神のかたちに造られた人に委ねられている歴史と文化を造る使命には、この地だけではなく、造られたすべてのものにかかわる意味があります。そのことは、詩篇8篇5節ー6節に、

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されていることに示されています。ここでは、

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。

というみことばに示されていますように、人が神のかたちに造られていることと、

 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

というみことばに示されていますように、人に歴史と文化を造る使命が委ねられていることが示されています。その歴史と文化を造る使命については、

 万物を彼の足の下に置かれました。

と言われていて、それが「万物」、造られたすべてのものに及んでいることが示されています。
 神のかたちに造られている人はこの造られたすべてのもの、すなわち、広大な宇宙をとおして現されている神さまの知恵と力に満ちた栄光を汲み取り、いっさいの栄光を神さまに帰して、神さまを讃え、感謝し、礼拝するのです。
 これが、神さまが人をお造りになった目的です。それで、このことが私たち神のかたちに造られている人に対する神さまのみこころの中心です。また、このことを離れては、私たちに対する神さまのみこころを正しく理解することはできません。
 よく、私たちに対する神さまのみこころの中心は、私たちが救われることであると言われます。それは、その救いの意味を福音のみことばが示しているとおりに受け止めているなら、間違ってはいません。けれども、そのように言われるときに、しばしば救いの意味が、かなり人間中心的あるいは自己中心的に歪められて受け止められてしまっています。
 このこととのかかわりで大切なことは、私たち神のかたちに造られている人は、救われるために造られたのではないということです。もし、人が神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまうことがなかったなら、救いは必要ありませんでした。ですから、人は救われるために造られたのではありません。また、言うまでもなく、神さまは人を何の目的もなくお造りになったのではありませんし、何の目的もなく、神のかたちにお造りになったのではありません。。
 人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまうことがなかったとしたら、神のかたちに造られている人は、造り主である神さまを愛し、神として礼拝することを中心として、神さまがお造りになったこの歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を果たしていっていたはずです。それによって、この世界は神さまの栄光をさらに豊かに現すようになっていたことでしょう。
 そうしますと、神さまは、一般に「わざの契約」と呼ばれており、私たちが「創造の契約」と呼んでいます最初の契約に基づいて、そのことに対する報いとして、人に最初に神のかたちとして造られたときよりさらに豊かな栄光あるいのち、すなわち、永遠のいのちをお与えになったはずです。そればかりでなく、「創造の契約」の枠の中で、歴史と文化を造る使命において人と一つに結ばれている被造物を、最初に造られた時の状態よりさらに豊かな栄光あるものとしてくださっていたはずです。そして、神さまはより豊かな栄光において、この世界にご臨在されるようになり、人はその神さまのより豊かな栄光にある御臨在の御前に立って、神さまを愛し、神さまを礼拝することを中心として、そのより豊かな栄光に満ちている世界の歴史と文化を造る使命を造るようになっていったはずです。
 これらのことは、みことばに基づいていることで、これまでにも、いろいろな機会にお話ししてきたことです。

 神さまが私たちご自身の民のために救いを備えてくださったのは、神のかたちに造られている人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったからです。そして、神さまはそのためにご自分の御子を贖い主として遣わしてくださいました。これには目的があります。神さまはご自身の御子イエス・キリストの十字架の死によって、私たちの罪を贖ってくださり、私たちをイエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれさせてくださいました。これによって、私たちご自身の民を、再び、造り主である神さまを愛し、神として礼拝することを中心として、神さまがお造りになったこの歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を果たすようにしてくださいました。
 そればかりではありません。新約聖書は三つの個所で、明確に、十字架の死によって私たちご自身の民の罪を贖ってくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったイエス・キリストが、歴史と文化を造る使命を成就しておられることを示しています。(私は、すでにこの三つの個所ことを、礼拝の説教において、まとめてお話ししているとばかり思っていましたが、それは、よそに招かれていったときのことであったようです。)
 新約聖書に出てくる順にそれを見てみましょう。
 最初に出てくるのはコリント人への手紙第一・15章27節です。
 注意したいのは、それに先立って、20節ー23節に、

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。

と記されていますように、イエス・キリストにあって、私たち主の契約の民が栄光を受けて死者の中からよみがえることが記されているということです。私たちが自分たち中心的にイエス・キリストの救いを理解してしまいますと、ここで救いが完成するということになってしまいます。けれども、イエス・キリストの救いの御業、贖いの御業はそれで終わってはいません。
 続く24節ー25節には、

それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。

と記されています。これは、メシヤ詩篇として知られている詩篇110篇1節の、

 は、私の主に仰せられる。
 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、
 わたしの右の座に着いていよ。」

というみことばがイエス・キリストにおいて成就していることを示しています。そして、これは神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人を誘惑して、神である主に対して罪を犯すように誘った暗闇の主権者であるサタンとその軍勢に対するさばきの執行を意味しています。
 この暗闇の主権者であるサタンとその軍勢に対するさばきは、神さまが人を神のかたちにお造りになって、歴史と文化を造る使命をお委ねになったこととかかわっています。すでにお話ししましたように、神さまはこの世界を歴史的な世界としてお造りになり、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を、神のかたちに造られている人にお委ねになりました。サタンとしては、そのような使命を委ねられた人を造り主である神さまに対して罪を犯させ、もはや、神さまのみこころにしたがって歴史と文化を造る使命を果たすことがないようにしてしまえば、神さまが創造の御業において示されたみこころは実現しないことになります。サタンはまさにそのような理由によって人を誘惑したのです。このことを理解しますと、終わりの日におけるサタンとその軍勢へのさばきが、歴史と文化を造る使命と深くかかわっていることが分かります。
 これに続いて26節ー27節には、

最後の敵である死も滅ぼされます。「彼は万物をその足の下に従わせた」からです。ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。

と記されています。27節で、

 「彼は万物をその足の下に従わせた」からです。

と言われているときの、

 彼は万物をその足の下に従わせた

というみことばは、詩篇8篇6節からの引用です。これは、創造の御業において神さまが人を神のかたちにお造りになって歴史と文化を造る使命をお委ねしてくださったことが、御子イエス・キリストにおいて成就していることを意味しています。大切なことは、最終的には、神さまが創造の御業において始められたことが、御子イエス・キリストの贖いの御業を通して回復され、さらに完成することです。これが神さまのみこころを中心として理解した、イエス・キリストによる救いの御業の意味です。

 これと同じことは、次に詩篇8篇6節の、

 彼は万物をその足の下に従わせた

というみことばを取り上げているエペソ人への手紙1章20節ー23節にも見られます。
 20節ー21節には、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

と記されています。ここには、イエス・キリストが神さまの「右の座」に着座されたことと、「すべての支配、権威、権力、主権の上に」置かれたことが記されています。この場合の、「支配、権威、権力、主権」は、神さまの「右の座」とのかかわりで、詩篇110篇1節に出てくる、メシヤ(キリスト)の敵である暗やみの主権者たちであると考えられます。ここでは暗やみの主権者たちがイエス・キリストの主権の下に服していることが示されており、それゆえに、さばきを受けるようになることが暗示されています。
 そして、これに続いて、22節には、

また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。

と記されています。ここで、

 神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、

と記されているときの「キリストの足の下に従わせ」は、コリント人への手紙第一・15章27節で

 彼は万物をその[直訳「彼の」]足の下に従わせた

と訳されているのとまったく同じことばで表されています。新改訳は「彼の」(直訳)を「キリストの」と訳していますので、分かりにくくなっていますが、これは詩篇8篇6節からの引用です。ここでも、神さまが創造の御業において人を神のかたちにお造りになって、歴史と文化を造る使命を委ねられたことが、イエス・キリストにおいて成就していることが示されています。そして、このこととのかかわりでキリストのからだである教会の存在が意味をもっていることが、22節後半ー23節に、

いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と記されています。この場合の「いっさいのものの上に立つかしらであるキリスト」とは、歴史と文化を造る使命を成就しておられるイエス・キリストのことです。それで、

 教会はキリストのからだであり

と言われているのは、教会が歴史と文化を造る使命を成就しておられるイエス・キリストのからだであるということを意味しています。また、「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」とは栄光のキリストのことです。ここでは、歴史と文化を造る使命を成就しておられる栄光のキリストが、ご自身のからだである教会に満ちておられ、教会を満たしておられるということが明らかにされています。
 このように、神さまが創造の御業において神のかたちに造られている人に委ねられた歴史と文化を造る使命を離れて、キリストのからだとしての教会の存在の意味と目的を理解することはできません。

 最後の個所は、ヘブル人への手紙2章5節ー10節です。ここでは、同じことが別の面から示されています。ここには、

神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。
 「人間が何者だというので、
 これをみこころに留められるのでしょう。
 人の子が何者だというので、
 これを顧みられるのでしょう。
 あなたは、彼を、
 御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、
 彼に栄光と誉れの冠を与え、
 万物をその足の下に従わせられました。」
万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。

と記されています。
 ここでは、5節に、

 神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです

と記されていますように、「後の世」のことが取り上げられています。この「後の世」とは、終わりの日に栄光のキリストが、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて再創造される新しい天と新しい地のことです。ここでは、その「後の世」は御使いたちに委ねられていないと言われています。そして、詩篇8篇4節ー6節(七十人訳)が引用されています。これによって、「後の世」の歴史と文化を造る使命は、最初の創造の御業によって造り出されたこの世界の歴史と文化を造る使命を委ねられている人に委ねられていることが示されています。つまり、ここでは、神さまが創造の御業を通して示されたみこころが、新しい創造の御業においても受け継がれ、完成することが示されているのです。
 また、8節後半では、

 それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。

という今の現実が示されています。それと同時に、9節において、

ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。

と言われています。ここで、

 御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエス

と言われているときの、

 御使いよりも、しばらくの間、低くされた

ということばは、7節に引用されている、

 あなたは、彼を、
 御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、

という詩篇8篇5節のみことばを受けています。つまり、人としての性質を取って来てくださったイエス・キリストのことです。そして、

イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。

と言われていますように、イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されて、やはり7節に引用されている詩篇8篇5節に出てくる「栄光と誉れの冠」を受けておられることが示されています。[この点につきましては、ピリピ人への手紙2章6節ー11節を参照してください。]これによって、すでに、イエス・キリストにおいては、最初の創造の御業において、神のかたちに造られている人に委ねられている歴史と文化を造る使命が成就している(この点は、コリント人への手紙第一・15章27節やエペソ人への手紙1章22節に示されていました)だけでなく、イエス・キリストは「後の世」の「栄光と誉れの冠」を受けておられることが示されています。
 そして、これに続いて、9節後半ー10節には、

その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。

と記されています。ここで、

 神が多くの子たちを栄光に導くのに、

と言われているときの「栄光」は、イエス・キリストが「死の苦しみのゆえに」獲得された「栄光と誉れの冠」にあずかることによる「栄光」です。
 このようにして、ここでは、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いと、死者の中からのよみがえりによる救いの御業が、私たち主の民を「後の世」の歴史と文化を造る者としての栄光にあずからせてくださるためであることが示されています。
 そして、実は、この「後の世」の歴史と文化を造ることは、先ほど取り上げましたエペソ人への手紙1章22節ー23節に記されていますように、すでに、栄光のキリストのみからだなる教会において始まっていることなのです。具体的なことは改めてお話ししますが、このことが、イエス・キリストがヨハネに語られた、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

ということばを理解するために必要なことです。


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