黙示録講解

(第128回)


説教日:2013年8月4日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章9節ー20節
説教題:栄光のキリストの顕現(29)


 黙示録1章9節ー20節には、イエス・キリストがヨハネに、ご自身の栄光の御姿を現してくださったことが記されています。
 17節ー18節には、イエス・キリストの栄光の御姿の顕現に接したヨハネのことが、

それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

と記されています。
 いまお話ししているのは、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

という、イエス・キリストのことばについてです。
 これまで、このことばは、強調形の「わたしは・・・である。」(エゴー・エイミ・・・)という言い方で語られていることと、このことばの根底に、出エジプトの時代に、神さまがモーセに啓示してくださった、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という神さまの御名があるということをお話ししました。神さまがご自身の御名をモーセに啓示してくださったことを記している出エジプト記3章14節ー15節では、この、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名が「わたしはある」に短縮され、さらに3人称化されて「ヤハウェ」として示されています。
 この、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名は「ある」ということにかかわっていて、神さまは何ものにも依存されないで、永遠にご自身で存在しておられ、この世界のあらゆるものを創造されて存在するものとされ、その一つ一つを真実に支えておられる方であられるということを意味していると考えられます。
 また、ここで、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名は、神さまが、啓示してくださった御名であることにも注目する必要があります。このことは、人間が、自分たちのイメージにしたがって造り上げた偶像に名をつけていることと対比されます。その名は人がつけた名です。偶像の神は人によって造られ、人によって支えられ、人に依存しています。また、偶像の神は人間が自分たちのイメージにしたがって造り上げ、人間がその名を与えたものですので、生きてはいません。これに対して、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名を啓示された神さまは、繰り返しになりますが、何ものにも依存されないで、永遠にご自身で存在しておられる方です。神さまは生きておられます。先週取り上げました黙示録4章9節と10節では「永遠に生きておられる方」と告白されています。
 神さまは何ものにも依存されないで、永遠にご自身で存在しておられる方です。けれども、この世界から隔絶しておられるのではありません。「永遠に生きておられる方」であられる神さまは、ご自身の永遠からのみこころに基づいて、この世界のあらゆるものを創造されて存在するものとされ、その一つ一つを真実に支え、永遠からのみこころにしたがって導いておられる方です。やはり先週引用しました黙示録4章11節には、

主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。

と記されていました。


 きょうは、このこととのかかわりで、二つのことをお話ししたいと思います。
 一つは、「永遠に生きておられる方」であられる神さまが、私たち人間を含めて、永遠からのみこころに基づいて、この世界のすべてのものをお造りになったので、この世界のすべてのものは存在すべきものであり、神さまの御手の作品としての意味があるということです。この世界のすべてのものは、神さまのみこころからして、存在すべきものであるので造られました。特に、私たち人間は愛を本質的な特性とする神さまのみかたちに造られたものとしての意味と価値をもっています。
 もし、この世界がこのようにして、神さまによって造られたのではなかったとしたら、この世界とその中のすべてのものは、偶然たまたま存在するようになったということになります。あってもなくてもよかったのだけれども、あるようになったものであるということになります。人間も含めてこの世界のすべてのものを最終的に律しているのは、「偶然たまたま」という原理であるということになります。そうしますと、もはや最終的に自分たちを律しているものは、実質的にはないことになります。
 そのような感覚と言ったらいいでしょうか、直感と言ったらいいでしょうか、そのようなものを背景として、いろいろな考え方や生き方が生まれてきています。その根本にあるのは、自分たちの外には意味や価値の基盤あるいは基準はなく、すべての意味や価値を決めるのは自分たちであるという原理です。ある実存主義的な立場に立つ人々は、自分たちがすべてが無意味に帰してしまうような世界の中に置かれていることを認めながら、それでも意味や価値を生み出してくという生き方をあえて引き受けていくのが真の主体的な生き方であると考えています。このような人々のように、自覚的に考えていないとしても、造り主である神さまを神としていない人々は、実質的に、自分たちの外には意味や価値の基盤あるいは基準はなく、すべての意味や価値を決めるのは自分たちであるという原理にしたがって生きています。
 これは、ことばの上からは、人間の自由を最大限に認める、よいものであるように感じられます。けれども、現実には、その奥にもっと深刻な問題があります。それは人の罪の自己中心性です。本来、愛を本質的な特性とする神のかたちに造られている人間にとっての自由は、自らの本質的な特性である愛を生み出すことにあります。しかし、神のかたちに造られている人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、罪による本性の腐敗がもたらす自己中心性によって縛られてしまっている状態になりました。罪の自己中心性に縛られてしまっている状態の人は、自分たちが罪の奴隷になっていることを知りません。そして、そのような状態にある人が、すべての意味や価値を決めるのは自分たちであると主張することになってしまうのです。
 実際には、神さまの一般恩恵に基づく御霊のお働きによって、そのような罪の自己中心性がむき出しの形で表現されることがないように、人の心が啓発され、考え方に光が与えられてきました。
 たとえば、一般恩恵による御霊のお働きより、もう少し積極的な特殊恩恵に基づく御霊のお働きが生み出した時代精神のことですが、もともと資本主義は、マックス・ヴェーバーが指摘していますように、プロテスタンティズム、特に、ピューリタニズムの倫理思想に基づいて生まれてきました。そこでの目的は利益の追求ではなく。神さまの栄光を現すことでした。具体的には、自分たちの事業によって人々に奉仕することでした。その事業が利益を生み出しても、自分が自らの欲望にしたがって、ぜいたくな暮らしをするのではなく、自らはつつましい生活をしつつ、さらに人々に仕えるために、その利益を投資していきました。このようにして投資が拡大し、資本が蓄積して、資本主義経済が発展していきました。とはいえ、その人々は資本主義体制を維持すること自体を目的としていたわけではありません。あくまでも愛をもって仕えることによって、神さまの栄光を現そうとしました。その時代には、このような倫理思想に基づく価値観と目的意識に沿った、神さまの御前における自由な生き方がありました。大金持ちたちは古代から、いつの時代にも存在していましたが、このような倫理思想に基づく価値観と目的意識にしたがって、その富を用いたところに、その時代の特徴があったのです。
 けれども、そのような倫理思想が失われて、神さまの御前における自由な生き方が失われてしまいますと、制度としての資本主義だけが残ります。その結果、制度としての資本主義は利益追求の手段となってしまいます。マルクスによってこのような資本主義経済が生み出すであろう弊害が指摘されるようになったことに関連して、共産主義革命とその挫折など、いろいろな経緯があって現在に至っています。現在では、文明の利器を活用して、人々の欲望を刺激して、ものをもつことが人としての価値を高めるかのような考え方というか、感じ方へと人々を導き、消費の拡大が図られています。人はすべての意味や価値を自分たちが決めているはずですが、消費を促進しようとする人々の巧妙な操作によって、欲望の追求に駆り立てられてしまう不自由さの中に転落してしまうという状態に陥ってしまいます。
 制度としても、「新自由主義」と呼ばれる考え方によるものですが、富める者たちが自由という名目の下に、自分たちを規制するものを否定して、市場原理のグローバル化を推し進めてきました。少し前まで「欲望資本主義」と呼ばれていたものが「強欲資本主義」と呼ばれるようになりました。その結果、一部の富める者たちが世界の富を独占し、多くの人々が貧困の中へと転落していくことが日常のことのように進行している時代となってきました。そのことの弊害が、さまざまな形で噴出してきています。
 私は2001年9月11日にアメリカで起こった同時多発テロの時に、このようなことへの危機感を覚えました。[このことは玉川上水キリスト教会のホームページの「長老教会について」の項に掲載されています「神のかたちの尊厳性を」という所感に表明されています。]その時に、このような事態が、黙示録13章に記されている「海から上ってきた獣」の出現につながっていくのではないかというような思いがしました。あれから十数年後の今は、よりその思いを強くしています。
 このようなことに対する私たちの答えは、やはり、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いと死者の中からのよみがえりにあずかって、神のかたちの栄光と尊厳性を回復していただいている神の子どもとしての自由の中で、愛のうちを歩むことしかありません。先週も引用しましたガラテヤ人への手紙5章13節ー14節には、

兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。

と記されています。これは、創造の御業において人を、愛を本質的な特質とする神のかたちにお造りになった神さまのみこころに沿った生き方です。人は造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、自分たちを神のかたちにお造りくださった神さまのこのみこころを踏みにじってしまいました。しかし、その神さまのほうから、さらなる愛と恵みが示されました。神さまが、ご自身の御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、私たちの神のかたちとしての栄光と尊厳性を回復してくださるとともに、愛に生きる自由を回復してくださっているのです。

 二つのことをお話ししたいと言いましたが、もう一つのことは、神さまが「永遠に生きておられる方」であられるから、また、神さまの「みこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから」、神さまが私たちの主であられるということです。
 そのようなことは当たり前のことだと言われることでしょう。けれども、本当にそうなっているのでしょうか。少し立ち止まって考えてみたいと思います。
 先ほどの、人が自分たちのイメージにしたがって造り上げた偶像のことを考えてみましょう。イザヤ書44章9節ー20節には、いろいろなもので偶像を造る者たちのことが記されています。その中の13節ー19節には、木で偶像を造る者たちのことが、

木で細工する者は、測りなわで測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の美しい姿に仕上げて、神殿に安置する。彼は杉の木を切り、あるいはうばめがしや樫の木を選んで、林の木の中で自分のために育てる。また、月桂樹を植えると、大雨が育てる。それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、「ああ、暖まった。熱くなった」と言う。その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って「私を救ってください。あなたは私の神だから」と言う。彼らは知りもせず、悟りもしない。彼らの目は固くふさがって見ることもできず、彼らの心もふさがって悟ることもできない。彼らは考えてもみず、知識も英知もないので、「私は、その半分を火に燃やし、その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。その残りで忌みきらうべき物を造り、木の切れ端の前にひれ伏すのだろうか」とさえ言わない。

と記されています。人は一部を薪として用いる木材の一部で偶像を造り、それにひれ伏して拝むし、それに祈ると言われています。その愚かさは明白のように見えますが、その人たちは、自らの罪の暗やみのために、それに気づくことができないと言われています。
 いまお話ししていることとのかかわりで注意したいことは、偶像を造る人々も、その偶像を神とし、主としてひれ伏していますし、祈っているということです。けれども偶像は生きてはいませんから、その答えはありません。それでも、偶像を造る人は偶像に頼ることをやめません。偶像を造った人と偶像は、偶像を造った人の生み出している世界の中でかかわっています。その人が偶像を造り出し、神としてまつり、ほこりを払ったり、お供え物をしたりしてお世話をします。そして、自分の願いを言って祈ります。すべてが、その人の独り芝居のように、その人が造り出した世界の中で回っています。その意味で、その世界は閉じられています。それをいちばん奥で動かしているのは、その人の欲望です。その実現のために、すべてのことが行われています。つまり、この世界はその人の罪の自己中心性によって造り出された世界で、その人がその中心に座っているのです。ですから、その人は偶像の前にひれ伏し、偶像に祈るのですが、本当の主人公、実質的な主はその人です。偶像はその人の欲望を実現するための手段です。この点は、個人であっても、社会であっても、規模の違いであって、本質は変わってはいません。
 ここにはもう一つのことがかかわっています。偶像を造りこれを神としている人にとって、偶像も自分が造ったものです。造り主である神さまをみとめることはありません。それで、その人にとっては、この世界を最終的に律しているのは、先ほどの「偶然たまたま」という原理です。そこでは、すべては「運」次第というような理解が生じてきます。その人が偶像を拝むのは、偶像との交わりのためではありません。偶像がその「運」を好転させてくれることを願ってのことです。それで、その祈りは呪術の呪文のようなものになります。それで、そのことば数の多さや熱烈さが頼みとなります。マタイの福音書6章6節ー7節には、

また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。

というイエス・キリストの教えが記されています。私たちが祈る前に、私たちに必要なものを知ってくださっている神さまに信頼して、静かに、また、確信をもって祈るという姿勢とは違っています。

 けれども、「永遠に生きておられる方」であられ、その「みこころゆえに、万物は存在し、また創造された」神さまを神とし、主とすることはこれとはまったく違います。この神さまとの交わりの世界は私たちが造り出す閉じられた世界ではありません。主が教えてくださった、主の祈りにおいて、私たちは、

 天にいます私たちの父よ。

と神さまに祈ります。神さまは天にご臨在しておられるのです。私たちの方が、天のまことの聖所で仕えておられる御子イエス・キリストの大祭司としてのお働きにあずかり、御霊によって、父なる神さまの御臨在の御前に出るのです。ヘブル人への手紙9章24節には、

キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。

と記されています。また、10章19節ー22節には、

こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。

と記されています。
 もちろん、私たちは地上にいます。今も、私たちは地上において神さまを礼拝し、祈っています。しかし、私たちは、イエス・キリストにあって、すでに、天に座をもつ者としていただいています。エペソ人への手紙2章4節ー6節には、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と記されています。ここで、

キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と言われていることは、私たちが御霊によってイエス・キリストと一つに結び合わされていることによって、イエス・キリストとともによみがえり、イエス・キリストとともに「天の所にすわらせて」いただいているということです。また、「キリスト・イエスにおいて」(エン・クリストー・イエースー)は、私たちによりなじみがあることばで訳せば「キリスト・イエスにあって」です。
 これとともに、もう一つの面があります。それは、ヨハネの福音書14章23節に、

だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。

と記されています、イエス・キリストの教えです。これは、御霊によってイエス・キリストと一つに結ばれている人のうちには、御父と御子の御霊による御臨在があることを示しています。このことは、さらに、この前の19節ー20節に、

いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。

と記されていることを受けています。これは、イエス・キリストが十字架におかかりになって私たちの罪を贖ってくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったことによって、御霊によってイエス・キリストと一つに結ばれている私たちも、イエス・キリストとともに生きるようになることを示しています。
 このようにして、私たちは地にありながら、御霊によってイエス・キリストと一つに結ばれているために、すでに、天にあるまことの聖所における礼拝に連なる礼拝をささげており、そこにご臨在しておられる神さまの御前に、イエス・キリストにあって、近づいて、礼拝することができるのです。このことは、すでに私たちの現実となっていますが、終わりの日に再臨されるイエス・キリストが、私たちのからだを栄光のからだによみがえらせてくださるときに完全に実現します。
 ここでの主人公、主は、父なる神さまと御子イエス・キリストです。私たちは父なる神さまが御子イエス・キリストにあって成し遂げてくださった御業にあずかり、御霊によって、御子イエス・キリストと一つに結ばれていることによって、天のまことの聖所にご臨在される父なる神さまを礼拝し、父なる神さまに祈ることができるのです。
 これは、偶像を造る人が、その人の罪の自己中心性が生み出す閉じられた世界の中で偶像を安置し、その前でひれ伏し、呪術的な呪文のような祈りをすることとはまったく違います。

 けれども、果たして、私たちは本当にこの現実の中に生きているでしょうか。ヨブ記の1章ー2章において、契約の神である主、ヤハウェの御前において、サタンは自分のことを、

 地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。

と言いました。サタンは、地上の人間の現実をつぶさに見てきたと言うのです。その上で、

ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。

と言って、ヨブのことを告発しました。
 これは、人間はだれても、神がくれるものを当てにして、神を恐れ敬っているのであって、神が神であられるからということで恐れ敬っているのではないという、観察に基づく確信があって、ヨブもその例外ではないと告発しています。これまでお話ししてきました言い方で言いますと、人は自分の自己中心的な欲望によって造り出した自分の世界の中で偶像を造り、それを拝んでいるのであって、それは神を利用して自分の欲望を果たそうとするだけのことだということです。
 しかも、それは、ヨブのように、造り主にして、契約の神である主、ヤハウェを信じていると告白している者であってもそうだというのが、サタンの主旨です。自分が自己中心的な欲望によって造り出した自分の世界の中に、造り主にして、契約の神である主、ヤハウェをも取り込んでしまうということです。そのようにして、造り主にして、契約の神である主、ヤハウェを「偶像化」してしまうのです。
 そのようなことは、イエス・キリストを主として告白して、神さまを礼拝しているはずの人にも起こりえることです。自分の罪の自己中心性に気づくことがないままに、自分流にみことばを読み、自分流に理解して、イエス・キリストを信じていると思っているのに、その実は、偶像礼拝者と同じように、神さまを自分の欲望や願望の実現のために利用しているだけであるということがありえるのです。このことは、個人的に起こるだけではなく、教会が「拡大された自己」となっている場合には、教会としても起こることです。先ほどお話ししましたように、偶像礼拝は個人的なものでも社会的なものでも、同じ構造を持っています。
 それは遠いどこかの話ではなく、私自身が心いたく感じている問題です。私は、神さまの一方的な恵みと愛によって、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって、神の子どもとしていただいています。そのことは確かなことであると信じています。けれども、「私はイエス・キリストを主として信じているはずなのに、その実は、イエス・キリストを踏み台にして、自分を高めようとしているのではないだろうか。」という自分自身の内側からの問いかけは止むことはありません。
 もう半世紀ほど前のことですが、このような問題に気づかされて、どうしたらいいだろうかと悩んでいたときに、ある宗教改革者が同じ問題で悩んでいたということを聞きました。ただ私はそのことを直接的に文献に当たって調べることができませんので、確かなことは分かりません。その時に私が考えていたことは、「自分のような罪深い者は地獄においてさばきを受けた方がいいのではないか。けれども、福音のみことばは、このように罪深い者を救ってくださったことによって、神さまの恵みに満ちた栄光はもっと豊かに現されていると教えている。そうであるから、私は自分が救われて神さまのものとなっていることを信じて、喜んでいる。」というようなことでした。それに対して、ある宗教改革者がそれと同じようなことを告白していると言うことを聞きまして、励ましを受けました。
 今なお地上にある私たちの内には罪の性質がなおも残っています。そのために、神さまを礼拝し、祈っているのに、実質的には、神さまを自分に従わせようとしてしまうことがあります。それは偶像を造っている人と同じように、自分の罪の自己中心性が造り出している自分の世界の中に、神さまをも取り込んで、動かそうとすることです。けれども、神さまは生きておられます。天の御座に着いておられる方は、私たちの罪が造り出す自己中心的に閉じられた世界の壁を打ち破ってくださって、私たちの目を開かれた世界、天の御座に座しておられる父なる神さまと御子イエス・キリストに向けさせてくださいます。その時に、神さまが用いてくださるのは、恵みの手段としてのみことばです。神さまが御霊によってみことばを悟らせてくださって、まず、私たちがイエス・キリストとともに十字架につけられて、古い自分に死んでいることを思い起こさせてくださいます。そして、私たちの罪の自己中心性が生み出すさまざまな願望をはるかに越えたみこころ、エペソ人への手紙1章7節ー10節に記されている、

この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。

というみことばにしたがって言いますと、「みこころの奥義」を悟らせてくださいます。私たちはその万物の回復と完成に関わる「みこころの奥義」のすばらしさを悟らせていただきながら、神さまを信頼して、静かに、けれども確信をもって、

 みこころが天で行われるように地でも行われますように。

と祈るように導かれます。


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