黙示録講解

(第127回)


説教日:2013年7月28日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章9節ー20節
説教題:栄光のキリストの顕現(28)


 黙示録1章9節ー20節には、イエス・キリストが黙示録の著者であるヨハネに、ご自身の栄光の御姿を現してくださったことが記されています。
 イエス・キリストの栄光の御姿の顕現に接したヨハネのことが、17節ー18節に、

それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

と記されています。
 いまお話ししているのは、イエス・キリストがヨハネに語りかけられた、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

というみことばについてです。先主日には、このイエス・キリストのみことばが、強調形の「わたしは・・・である。」(エゴー・エイミ・・・)という言い方であるということから、このみことばの根底には、出エジプトの時代に、モーセに啓示された、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という神さまの御名があることをお話ししました。この御名が啓示されたことを記している出エジプト記3章14節ー15節では、この、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名が「わたしはある」に短縮され、さらに3人称化されて「」(ヤハウェ)として示されています。この、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名は「ある」ということにかかわっていて、「」(ヤハウェ)は何ものにも依存されないでご自身で存在しておられ、あらゆるものを創造されて存在するものとされ、これを真実に支えておられる方であられるということを意味していると考えられます。
 先週も触れましたが、このような理解には、ヘブル的ではなく、ギリシャ的であるという批判があることでしょう。それは、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名を存在論的に理解することに対する批判です。きょうはこの点についてお話しし、さらに関連することをお話ししたいと思います。
 いまお話ししましたような「」(ヤハウェ)の御名についての(存在論的な)理解に根拠がないわけではありません。たとえば、天における礼拝を記している黙示録4章6節ー11節を見てみましょう。そこには、

御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。第一の生き物は、獅子のようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶ鷲のようであった。この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方。」また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」

と記されています。
 ここに記されていることは、イエス・キリストがヨハネに語りかけられた、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

というみことばともかかわっていますが、きょうはそれに触れることはできません。
 ここでは、4つの生き物が御座に着いておられる方に向かって、

聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方。

と讃美しています。この讃美の前半の、

 聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者

ということばは、イザヤが見た幻による栄光の主の顕現の啓示のことを記しているイザヤ書6章1節ー4節において、セラフィムについて、

彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。
 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の
 その栄光は全地に満つ。」

と記されていることを受けています。
 黙示録4章8節で4つの生き物が叫び続けている「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。」と訳されていることば(ギリシャ語のハギオス、ハギオス、ハギオス)と、イザヤ書6章3節でセラフィムが叫び続けている「聖なる、聖なる、聖なる」と訳されていることば(ヘブル語のカードーシュ、カードーシュ、カードーシュ)は、ギリシャ語とヘブル語の違いだけで、同じことを表しています。また、日本語では分かりにくいかも知れませんが、イザヤ書6章3節の「万軍の」に当たることばが、黙示録4章8節では「神であられる主、万物の支配者」となっています。[注] イザヤ書6章3節の「万軍の」は新改訳で太字で訳されていることから分かりますように、主、ヤハウェのことです。それで、黙示録4章8節の「神であられる主」の「」も、主、ヤハウェのことです。同じことは、黙示録4章11節において「主よ。われらの神よ。」と呼ばれているときの「」にも当てはまります。この「」も、主、ヤハウェのことです。

[注]「神であられる主、万物の支配者」を「万軍の」に合わせて訳せば、「万物の支配者であられる神であられる主」となります。そして、この「神であられる主」は創世記2章4節ー3章の終わり(24節)に出てきます。「神である」に当たります。

 この、天における礼拝の讃美では、8節において、契約の神である主、ヤハウェが「万物を創造し」た方であられ、「万物の支配者」(パントクラトール)であられることが告白されています。またこれと同じように、11節では、契約の神である主、ヤハウェについて、

あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造された

と告白されています。
 そして、この天における礼拝においては、契約の神である主、ヤハウェご自身について、8節で、

 昔いまし、今いまし、後に来られる方。

と告白されており、9節と10節では、

 永遠に生きておられる方

と言われています。これは、契約の神である主、ヤハウェが永遠に存在される生きた方であられることを示すものです。主、ヤハウェが永遠に存在される生きた方であられるのであれば、主、ヤハウェは何ものにも依存されることなくご自身で存在しておられる方です。
 このように、天における礼拝においては、契約の神である主ご自身が永遠に存在される生きた方であられること、それゆえに、何ものにも依存されることなくご自身で存在しておられる方であられることと、契約の神である主、ヤハウェがあらゆるものを創造されて存在するものとされ、これを真実に治め、支えておられる方であられることが告白されています。


 さらに、もう一つの問題があります。それは、神さまが万物を創造されたことと、お造りになったすべてのものを真実に支えておられることとの関係で契約の神である主、ヤハウェの御名が用いられることに違和感を覚える方がおられるかも知れないということです。それは、契約の神である主、ヤハウェの御名は贖いの御業との関係で用いられるものであるという理解からくる違和感です。
 確かに、先週お話ししましたように、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名は、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という呼び名とともに啓示されています。それは贖いの御業にかかわる契約の神である主の呼び名です。けれども、それはこの御名がモーセに示されたのが、神さまがイスラエルの民をエジプトの奴隷の身分から贖い出してくださるためにモーセを遣わしてくださるときのことであったからです。
 このこととの関連で注目したいのはエレミヤ書33章です。その19節ー22節には、

エレミヤに次のようなのことばがあった。「はこう仰せられる。もし、あなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約とを破ることができ、昼と夜とが定まった時に来ないようにすることができるなら、わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、彼には、その王座に着く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たちとのわたしの契約も破られよう。天の万象が数えきれず、海の砂が量れないように、わたしは、わたしのしもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビ人とをふやす。」

と記されていますし、25節ー26節にも、

はこう仰せられる。「もしわたしが昼と夜とに契約を結ばず、天と地との諸法則をわたしが定めなかったのなら、わたしは、ヤコブの子孫と、わたしのしもべダビデの子孫とを退け、その子孫の中から、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ばないようなこともあろう。しかし、わたしは彼らの繁栄を元どおりにし、彼らをあわれむ。」

と記されています。
 ここでエレミヤに語りかけておられるのは、契約の神である主、ヤハウェです。主、ヤハウェは昼と夜という、ご自身がお造りになったものの中の人格的な存在ではないものとも契約を結んでくださったことを示しておられます。また「天と地との諸法則」と言われていることから、主、ヤハウェの契約はそのほかのさまざまな被造物におよんでいることが分かります。これは主、ヤハウェが天体の運行を真実な御手ををもって支えてくださり、地球に昼と夜が来るということを、一方的に契約によって約束し保証してくださっていることを意味しています。主、ヤハウェがそのようにこの世界のすべてのものを、ご自身の契約に基づいて、真実に支えてくださっているので、この世界は今日に至るまで調和のうちに保たれてきています。人はそのようにして主、ヤハウェによって保たれているこの世界の秩序と調和を観察して、「天と地との諸法則」として捉えています。
 そのような契約がいつ結ばれたのかと言いますと、創世記1章3節ー5節に、

神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。

と記されていますが、神さまが創造の御業において光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられて、それぞれに意味と役割をお与えになるとともに、それをご自身の主権の下に置いてくださったときからであると考えられます。名前をつけるということは、その名前をつけた側が名前をつけられたものの上に主権があることを示すことです。
 このように、主、ヤハウェは、創造の御業においてご自身がお造りになったものと契約を結んでくださって、真実にその一つ一つのものを支えてくださっています。このような、主、ヤハウェがお造りになったすべてのものを真実に支え、導いてくださっている御業を「摂理の御業」と呼びます。それは主、ヤハウェが創造の御業において造られたすべてのものと結んでくださった契約に基づく御業です。ですから、契約の神である主、ヤハウェの御名を創造の御業と摂理の御業とのかかわりで用いることには聖書的な根拠があります。
 このように、神である主が創造の御業において造り出されたものと契約を結んでくださったというとき、その契約を私たちは「創造の契約」と呼んでいます。「創造の契約」の中心には神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人との契約がありますが、それは、歴史と文化を造る使命において神のかたちに造られている人に委ねられたものをも包み込む、宇宙論的な広がりをもっている契約であると考えられます。詩篇8篇5節ー6節に、

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されています。ここで言われている「万物」が、神のかたちに造られている人との一体において、神である主の契約にあずかって、天地創造の御業以来、今日に至るまで、真実に支えていただいており、導いていただいていると考えられます。

 それと同時に、これにはもう一つの面があります。それは、このような、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人との一体性のために、神のかたちに造られている人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったときに、被造物にも契約違反ののろいが及んでしまったということです。このことは、最初の人が罪を犯してしまった直後に、神である主が人に語られたさばきの宣言を記している創世記3章17節に、

 あなたが、妻の声に聞き従い、
 食べてはならないと
 わたしが命じておいた木から食べたので、
 土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。

と記されていることに表されています。ここでは、人の罪ののろいが「土地」に及んでいることが示されています。それが「土地」だけでなく、全被造物にまで及んでいることを、ローマ人への手紙8章19節ー23節に記されているみことばから汲み取ることができます。そこには、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

と記されています。
 いまお話ししていることとのかかわりで、ここに記されていることを理解する鍵は、21節の、

被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

という教えです。この教えは、創造の御業において神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人と一つに結び合わされている被造物は、神のかたちに造られている人の罪によってもたらされたのろいを受けて「虚無に服した」ということを踏まえています。そうであるからこそ、その被造物たちは、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業にあずかって神の子どもとされた者たちとの一体性によって、

滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

ということになるのです。
 このような望みがあるので、19節では、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。

と言われていますし、22節では、

私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

と言われています。
 この場合の「被造物」あるいは「被造物全体」には、例外があります。御使いたちはこれに含まれません。というのは、御使いたちは罪を犯していませんので、虚無に服していないからです。また、サタンや悪霊たちもこれに含まれていません。というのは、サタンや悪霊たちは「神の子どもたちの現れを待ち望んで」いないどころか、「神の子どもたちの現れを」阻止しようとして働いていますし、「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられ」ることもないからです。また、主の契約の民ではない人々も含まれていません。その人々は造り主である神さまを神として認めることはありませんし、「神の子どもたちの現れを待ち望んで」もいません。さらに、私たち「神の子どもたち」もこれに含まれません。というのは、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。

というみことばでは「被造物」と「神の子どもたち」が区別されていますし、22節で、

私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

と言われているのに続いて、23節で、

そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

と言われていて、私たち「神の子どもたち」が「被造物全体」と区別されているからです。このようなわけで、このローマ人への手紙8章19節ー23節に出てくる「被造物」は、人格的ではない被造物であるということになります。
 そうしますと、そのような人格的ではない被造物のことが、19節で、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。

と言われており、23節で、

私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

と言われているのはどうしてでしょうか。
 ちなみに、19節では、「切に待ち望むこと」を意味するアポカラドキアということば(名詞)が接続詞の後に出てきます。このことばは、頭(カラ)を、前に突き出して(アポ)、見ること(ドキア)という部分から成り立っていて、私たちのことばで言えば「首を長くして待つ」というような意味合いを伝えています。ここではこのことばが初めに来ることによって強調されています。そればかりでなく、これが主語になっているわけですが、最後に、「待ち望む」(アペクデコマイ)という動詞が出てきまして、被造物が待ち望んでいることがさらに強調されています。直訳調に訳せば、

被造物の切実な待ち望みが、神の子どもたちの現れを待ち望んでいる

となります。この「待ち望んでいる」は現在時制で、常になされていることを示しています。
 ここで、人格的ではない被造物が、

 切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいる

と言われているのは、言うまでもなく、被造物が人になぞらえられ、擬人化されているからです。このような擬人化ができるのは、被造物自体にその知識があるからではありません。それが、契約の神である主、ヤハウェの創造の御業と贖いの御業にかかわるみこころ・ご計画において定められていることであるからです。
 繰り返しになりますが、神である主は創造の御業において、人を神のかたちにお造りになって、これに、ご自身がお造りになったこの世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。しかし、神のかたちに造られている人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったときに、人と一つに結び合わされている被造物ものろいを受けて虚無に服してしまいました。契約の神である主、ヤハウェは、そのような人の罪がもたらしたのろいの下にあるご自身の契約の民のために、御子イエス・キリストを贖い主として立ててくださり、その十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、ご自身の契約の民を死と滅びをもたらすのろいの中から贖い出してくださいました。またそればかりでなく、イエス・キリストの復活の栄光にもあずからせてくださって、復活のいのち、栄光あるいのちによって新しく生まれさせてくださいました。そして、ご自身の子として迎え入れてくださっています。
 これらはすでに成し遂げられていることです。私たちもすでに、神の子どもとしての身分を与えられています。ローマ人への手紙8章14節ー15節に、

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

と記されているとおりです。
 創造の御業と贖いの御業にかかわるみこころに基づいて、これらのことを成し遂げ実現してくださっている契約の神である主、ヤハウェは、必ず、そのみこころのすべてを実現してくださいます。それは、私たち主の契約の民にとっては、23節で、

そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

と言われていることです。終わりの日に再臨されるイエス・キリストが、ご自身がすでに成し遂げられている贖いの御業に基づいて、私たちを栄光のからだによみがえらせてくださることです。19節で、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。

と言われているのは、被造物も、そのことが実現することを首を長くして待ち望んでいるということです。それが実現するということは、21節で、

被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

と言われていることが実現することです。具体的には、それは、黙示録21章1節に、

また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

と記されていることが実現することです。

 ローマ人への手紙8章19節ー23節に出てくる被造物は、最終的には、この新しい天と新しい地に造り変えられることを待ち望んでいるはずです。けれども、ローマ人への手紙8章19節では、その被造物が「切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいる」と言われています。このように言われていることには理由があります。これによって、契約の神である主、ヤハウェの創造の御業と贖いの御業にかかわるみこころの中で、私たち神の子どもとされている主の契約の民が担っている使命の重大さが示されています。それは、私たち、すでに契約の神である主、ヤハウェの一方的な愛と恵みによって神の子どもとされている者たちが、創造の御業と贖いの御業にかかわる主のみこころを理解して、その完全な実現を信じて、祈り求めつつ、それにふさわしい考え方と生き方をすることをとおして、主の創造の御業と贖いの御業にかかわるみこころの実現に参与するように召されているということです。もちろん、すべてを成し遂げてくださるのは契約の神である主、ヤハウェです。私たちはそれにあずかっているだけです。そうであっても、私たちは契約の神である主、ヤハウェが啓示してくださったみこころを理解し、その実現を祈り求めることができます。
 「それにふさわしい考え方と生き方」と言っても、分かりにくいかも知れません。けれどもヒントがあります。21節では、

被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

と言われています。ここに「神の子どもたちの栄光の自由」が出てきます。人格的ではない被造物が「神の子どもたちの栄光の自由」にあずかるとはどのようなことかという問題がありますが、結論的には、「滅びの束縛から解放され」て、先ほど触れました、新しい天と新しい地の栄光にあずかるということです。これに対しまして、私たち「神の子どもたちの栄光の自由」とは、ここでは、23節の「私たちのからだの贖われること」ということばに示されていますように、からだのよみがえりによる栄光化を意味していますが、それは御子イエス・キリストの栄光の御姿に似た者となることです。それで、その自由の中心は神のかたちの本質的な特性である愛を生み出す人格的な自由にあります。私たちが主の創造の御業と贖いの御業にかかわるみこころの実現に参与するためには、まず、神の子どもとしていただいている私たちが、御霊に導いていただいて、その自由のうちを歩まなければなりません。ガラテヤ人への手紙5章1節には、

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。

と記されています。また、13節ー14節にも、

兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。

と記されています。終わりの日にイエス・キリストが再臨されて、私たちをご自身の復活にあずからせてくださって、私たちのからだをよみがえらせてくださるとき、私たちはすでに私たちの間に生み出されている(はずの)神の子どもとしての自由とその自由にある愛を完成していただくのです。そして、被造物もそのような神の子どもたちとの一体において、「滅びの束縛から解放され」るだけでなく、栄光あるものに造り変えられます。それが黙示録21章1節に記されています新しい天と新しい地にほかなりません。
 きょうはお話しすることができませんでしたが、イエス・キリストがヨハネに語りかけられた、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

というみことばは、イエス・キリストがこれらのことを実現し完成へと至らせてくださる方であられることを示しています。


【メッセージ】のリストに戻る

「黙示録講解」
(第126回)へ戻る

「黙示録講解」
(第128回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church