黙示録講解

(第126回)


説教日:2013年7月21日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章9節ー20節
説教題:栄光のキリストの顕現(27)


 黙示録1章9節ー20節には、イエス・キリストがヨハネに、ご自身の栄光の御姿を現してくださったことが記されています。
 17節ー18節には、イエス・キリストの栄光の御姿の顕現に接したヨハネのことが、

それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

と記されています。
 これまで、

それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。

と記されていることについてお話ししてきました。きょうから、これに続いてイエス・キリストがヨハネに語りかけられた、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

というみことばについてお話しします。
 このイエス・キリストのみことばは、強調形の「わたしは・・・である。」ということば(エゴー・エイミ)で始まっています。このことは、ここに記されていますイエス・キリストのみことばを理解するうえで大切なことです。それできょうは、このことについてお話しします。
 このような強調形の「わたしは・・・である。」という言い方は、ヨハネの福音書に7回出てくる強調形の「わたしは・・・です。」(エゴー・エイミ・・・)という言い方による、イエス・キリストの、ご自身についての教えを思い起こさせます。
 それらをヨハネの福音書に出てくる順に見てみましょう。
 最初の教えは、6章35節に、

わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

と記されています。この、

 わたしがいのちのパンです。

という教えが、強調形の「わたしは ・・・・ です」という言い方で表されています。この教えでは、イエス・キリストが、

 わたしがいのちのパンです。

という方であられることが、ご自身の契約の民である私たちにとってどのような意味をもっているかが、これに続いてイエス・キリストが語られた、

わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

という教えによって示されています。
 このことは、これ以外の6つの、強調形の「わたしは ・・・・ です」という言い方で表されているイエス・キリストの教えすべてにも当てはまります。イエス・キリストは、ご自身が強調形の「わたしは ・・・・ です」という言い方で表される方であられることが、ご自身の契約の民である私たちにとってどのような意味をもっているかを明らかにしてくださるために、これら7つの教えを語られたのです。
 このことを念頭に置いて、これに続く、イエス・キリストの教えを順を追って見てみましょう。
 2番目の教えは、8章12節に、

わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。

と記されています。
 3番目の教えは、10章7節に、

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。

と記されています。ここでは、イエス・キリストが「羊の門」であられることが、ご自身の契約の民である私たちにとってどのような意味をもっているかは示されていません。そのことは2節後の9節で、同じく強調形の「わたしは ・・・・ です」という言い方で、

わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。

と言われていることによって示されています
 4番目の教えは、10章11節に、

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

と記されています。また、14節にも、

わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。

と記されています。
 ここでは、イエス・キリストが「良い牧者」であられることが、主の契約の民である私たちにとっていくつかの意味をもっていることが示されています。これと同じことは、最後の7番目の教えにも見られます。
 5番目の教えは、11章25節ー26節に、

わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。

と記されています。
 6番目の教えは、14章6節ー7節に、

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。

と記されています。
 そして、7番目の教えは、15章1節ー2節に、

わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。

と記されています。これと同じことが、5節には、

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

と記されています。


 これら7つ強調形の「わたしは ・・・・ です」という言い方で表されているイエス・キリストの教えの根底には、契約の神である主がモーセに啓示してくださったご自身の御名があります。このことは、黙示録1章17節ー18節に記されていますイエス・キリストがヨハネに語りかけてくださった、「わたしは ・・・・ です」という言い方で表されている、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

というみことばにも当てはまります。
 契約の神である主がご自身の御名をモーセに啓示してくださったことを記している、出エジプト記3章1節ー6節には、

モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。するとの使いが彼に、現れた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります」と答えた。神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。

と記されています。
 ここで、主は、モーセに、

わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。

と言われて、ご自身のことをお示しになりました。
 これは、ここに記されていることが起こる前の事情を記している2章23節ー25節に、

それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。

と記されていることを受けています。
 ここでは、エジプトにおいて奴隷の苦役に服していたイスラエルの民のうめきと嘆きを神さまがお聞きになって、

 アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。

ということが記されています。これに先立って1章8節において、

 さて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。

と記されていて、エジプトで王朝の交代があったことが示されています。この王朝の交代によって、ヨセフの時代に始まったイスラエルの民への保護政策は廃止され、イスラエルの民は奴隷とされて苦役に服することとなりました。2章23節に記されています、

 それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。

というみことばは、イスラエルの民を奴隷として苦役に服させる政策が、その政策を始めた王が死んだ後にも継続して行われたことを意味していると考えられます。

 この時、神さまが思い起こしてくださった「アブラハム、イサク、ヤコブとの契約」は、神さまが、ご自身の一方的な恵みによってアブラハムを召し、アブラハムと結んでくださった契約です。
 創世記15章1節ー5節には、契約の神である主がアブラハムに、アブラハムの身から出る子がアブラハムの相続人となることと、アブラハムの子孫が数えきれない空の星のように多くなることを約束してくださったことが記されています。そして、6節には、

 彼はを信じた。主はそれを彼の義と認められた。

と記されています。これが、新約聖書において、繰り返し取り上げられている、アブラハムが信仰によって義と認められたということです。
 その後、主がアブラハムに語りかけてくださったみことばが、13節ー16節に、

あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。

と記されています。出エジプトの出来事は、この時に主がアブラハムに語られたみことばにしたがって、主がなしてくださった御業です。
 この時、主がアブラハムに現れてくださったのが、アブラハムが何歳の時のことであるかは分かりません。ただ、この後、しばらくして、サラに仕えていた女奴隷であるハガルによって、アブラハムの子イシュマエルが生まれました。アブラハムから子どもが生まれるという約束を信じたアブラハムとサラは、その約束を自分たちで実現しようとしたのです。そのようにしてイシュマエルが生まれたのは、アブラハムが86歳の時のこと(16章16節)でしたから、少なくともそれよりも1年以上前のことです。
 それから13年以上たって、アブラハムが99歳になった時に、主がアブラハムと契約を結んでくださったことが、創世記17章に記されています。その契約は、7節ー8節に、

わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。

と記されています。
 ここでは、主がアブラハムとアブラハムの子孫と契約を結んでくださり、主がアブラハムとアブラハムの子孫の神となってくださることと、カナンの地をアブラハムとアブラハムの子孫に与えてくださることが約束されています。
 そして、9節ー14節においては、神である主が契約のしるしとして割礼を与えてくださったことが記されています。
 これに続いて、15節ー22節には、この1年後、すなわち、アブラハム百歳、サラ90歳の時に、サラから男の子が生まれることを約束してくださいました。イシュマエルのことではないかと考えたアブラハムに対して、主が語られたみことばが19節に、

いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。

と記されています。
 その契約のとおりに、主は、アブラハムの神となってくださっただけでなく、イサクの神となってくださり、ヤコブの神となってくださいました。さらに、このモーセの時代には、アブラハムの子孫であるイスラエルの民に、ご自身を現わしてくださいました。そして、イスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から、贖い出してくださいました。
 このことの中に、人間の歴史の流れの中で、主の民がどのような事情にあっても、また、どのように時代が変わっても、契約の神である主の真実さは変わらないということ、それゆえに、主は必ずその約束を果たされるということが示されています。
 これにはもう一つのことがかかわっています。(後ほどさらにもう一つのことを取り上げますので、これですべてというわけではありません。)
 今お話ししましたように、主はアブラハム百歳、サラ90歳の時に、イサクを与えてくださいました。アブラハムはこの主を信じて、義と認められたのです。ローマ人への手紙4章19節ー22節には、

アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。

と記されています。
 これは、アブラハムが99歳、サラが89歳の時に、主がその1年後には2人の間に相続人としての子どもが生まれるという約束を与えてくださったので、そのことを信じたということを示しています。これまでお話ししてきましたことから分かりますが、その13年以上前に、主の約束を信じたアブラハムの信仰は、ハガルによってイシュマエルを生むことに現れているような欠けを秘めているものでした。しかし、そのようなことをも通して教えてくださった主の恵みの御手の導きの下に成長していって、最終的には、ここに記されているような信仰に至った生きた信仰であったのです。
 私たちはアブラハムの信仰は特別な信仰であると考えたくなります。しかし、ローマ人への手紙では、私たちの信仰も、その現れた形は違いますが、質的にはそれと同じ信仰であると言われています。続く23節ー25節には、

しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

と記されています。
 それが契約の神である主、ヤハウェの約束であるからということで、自分が百歳で、妻が90歳であっても、自分たちに子どもが生まれるということを信じたアブラハムの信仰は途方もないものであると言われることでしょう。しかし、福音のみことばに啓示されているのだからということで、無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子イエス・キリストが、私たち罪人のために人としての性質を取って来てくださり、私たちに代わって十字架にかかって死んでくださり、私たちを栄光あるいのちに生きる者としてくださるために、死者の中からよみがえってくださったということを、何の割引もなく信じている信仰は、それに劣らず、あるいはそれ以上に、途方もないものであるのです。もちろん、それは私たちの資質の良さによることではなく、私たちの主であられるイエス・キリストご自身が御霊によって私たちのうちに生み出してくださっている信仰です。
 私たちはその信仰によって、契約の神である主がすでに成し遂げてくださったことを信じているだけではありません。御子イエス・キリストが十字架におかかりになって私たちの罪を贖ってくださったこと、私たちを栄光あるいのちに行かしてくださるために、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったことを信じているだけではありません。主は、ご自身が福音のみことばにおいて約束してくださっていることを必ず成し遂げてくださると信じています。それは、黙示録に記されているように、地上に存在しているがために、さまざまな問題に直面しているキリストのからだである教会を主イエス・キリストが、ご自身の花嫁として整え、ご自身の栄光の御臨在の御前に立たせてくださるということです。私たちは、イエス・キリストがこのことを必ず実現してくださると信じているのです。結論を先取りして言いますが、今私たちが取り上げています、イエス・キリストがヨハネに語りかけられた、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

というみことば、イエス・キリストがこのような主であられることを意味しています。

 神さまがご自身の御名をモーセに啓示してくださったことを記している出エジプト記3章13節ー15節には、

 モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは、『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」

 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。
 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。
 これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。

と記されています。
 ここには、神さまがご自身の御名を啓示してくださったことが記されています。その御名は、14節で、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

と言われています。この、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

ということば全体が神さまの御名です。そして、その後に記されています、

 わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた

という神さまのみことばでは、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名が「わたしはある」に短縮されています。そして、この「わたしはある」が、15節で3人称化されて「」すなわち「ヤハウェ」という固有名詞として示されています。新改訳では、このヤハウェという固有名詞は、太字の「」として訳されています。

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という神さまの御名についてはさまざまな見方がありますが、今お話ししたことから、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

ということばと、その短縮された形である「わたしはある」ということばは同じ意味であること、さらには、それが3人称化された形である「」(ヤハウェ)も、同じことを表していると考えられます。
 この、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名は、「ある」ということにかかわっていて、「」(ヤハウェ)は何ものにも依存されないでご自身で存在しておられ、あらゆるものを創造されて存在するものとされ、これを真実に支えておられる方であられるということを意味していると考えられます。(このような理解がヘブル的ではなく、ギリシャ的であると言われることも承知していますが、その上であえて、このように考えています。)この御名は旧約聖書のギリシャ語訳である70人訳では、

 わたしは「在る者」である。(エゴー・エイミ・ホ・オーン)

と訳されていて、このような理解を示しています。また、聖書の中でこの「」(ヤハウェ)という御名が最初に出てくるのは創世記2章4節以下ですが、そこでは、「神である」という御名で呼ばれています。これは、「」(ヤハウェ)は、1章に記されている天地創造の御業を遂行された神であられるということを意味しています。
 このことを踏まえたうえで注目したいのですが、出エジプト記3章15節では、この「」(ヤハウェ)という御名は、

あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、[ヤハウェ]

として示されています。原文のヘブル語では「」(ヤハウェ)が先に出てきて、それに、

あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神

という説明が続いています。
 先ほど、主がモーセに、

わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。

と言われてご自身のことを示されたことと関連して2つのことをお話ししましたが、ここには、さらに、もう一つ大切なことがあります。それは、「出エジプトの時代に」主はモーセを通してイスラエルの民に、

あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神

と言われて、ご自身のことをお示しになったということです。この「出エジプトの時代」には、父祖アブラハム、イサク、ヤコブはすでに世を去っています。けれども、主はなおも、ご自身のことを、

あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神

と言われました。モーセの時代になっても、また、それから3千数百年後の今日においても、主は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であられます。アブラハム、イサク、ヤコブは、とこしえに変わることなく主の契約の民であり続けます。また、私たち主の契約の民は、とこしえに変わることなく主の契約の民であり続けます。それは、主がとこしえにご自身の契約に真実であられ、私たち主の契約の民に対して真実であられるからです。人間の歴史の流れの中で、どのように時代が変わっても、またそれによって、主の契約の民が置かれた事情がどのようになっても、たとえ、主の契約の民が地上を去ることがあっても、「」(ヤハウェ)の真実さは変わることがなく、必ずその約束を果たされます。
 このようなことから分かりますように、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名は、神さまがとこしえに変わることない方であられ、人の歴史を通して、常に、ご自身の契約に対して真実であられる方であられることを示していると考えられます。そして、その主の真実は、ご自身の民が地上にある時だけでなく、その人がこの世を去った後にも、変わることなくその人に対して示されるということを意味しています。[注]

[注]もちろん、これは、
 わたしは、「わたしはある」という者である。
という契約の神である主の御名を、贖いの御業とのかかわりにおいて見たものです。この契約の神である主の御名は、ご自身が無限、永遠、不変の神であられ、すべてのものを創造の御業において造り出され、お造りになったすべてのものを真実にお支えになっておられるという、創造の御業と摂理の御業とのかかわりでも考えなければなりません。

 先ほどお話ししましたように、この、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名は、70人訳では、

 わたしは「ある者」である。(エゴー・エイミ・ホ・オーン)

と訳されています。これは、ヨハネの福音書において7回出てくる「わたしは・・・です。」(エゴー・エイミ ・・・・ )という形の表現です。また、この、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名の短縮された形である「わたしはある」ということばをギリシャ語で表わしますと、「エゴー・エイミ」になります。ですから、ヨハネの福音書では、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という契約の神である主、ヤハウェの御名に基づいて、強調形の「わたしは・・・です」(エゴー・エイミ ・・・・ )ということばによる、イエス・キリストのご自身についての7つの教えが記されています。
 これは、何よりも、イエス・キリストこそが、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名によって表わされる、真実な契約の主であられることを示しています。そして、イエス・キリストがそのような方であられるので、それら7つの強調形の「わたしは・・・です」ということばによる教えに約束されている祝福を、私たちがどのような状況にあっても、必ず、実現してくださるということを意味しています。
 同じことは、黙示録1章17節ー18節に記されています、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

という、強調形の「わたしは・・・である」ということばによるイエス・キリストのみことばにも当てはまります。イエス・キリストがこのみことばに示されているような方であられるので、私たちご自身の民のために、黙示録に記されている救いとさばきの御業を成し遂げてくださるということです。このイエス・キリストのみことばについては、改めてお話しします。


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