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説教日:2013年7月14日 |
このことを受けて、イエス・キリストがヨハネになしてくださったことが、17節後半ー18節に、 しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。 と記されています。 イエス・キリストが右の御手をヨハネの上に置いてくださったことには、二つの意味があると考えられます。その一つにつきましては、すでにお話ししていますので、簡単にまとめておきましょう。 ここで単にイエス・キリストの御手と言われないで、右の御手と言われていることは、二つのことと関連しています。一つは、右手は利き手であるということです。聖書の中では、主の右の御手がご自身の契約の民のために救いとさばきの御業を遂行される力強い御手であることが繰り返し示されています。もう一つは、イエス・キリストの栄光の御姿の顕現を記している17節に、 右手に七つの星を持ち と記されていることです。この「七つの星」につきましては、20節に「七つの星は七つの教会の御使いたち」のことであると記されています。 「七つの教会の御使いたち」は文字通りの御使いたちで、それぞれが「アジヤにある七つの教会」の一つ一つの群れと深くかかわっています。「アジヤにある七つの教会」群れは、それぞれ事情が異なっていますが、ローマ帝国からの厳しい迫害に苦しむ群れ、異端的な教えを持ち込んできてキリストのからだである教会の本質を腐敗させてしまう者たちの働きに惑わされている群れ、さらには、この世の富、物質的な繁栄に惑わされてしまっている群れがありました。これらの問題は「アジヤにある七つの教会」が今なお地上に存在していることによって生じてきています。このことと関連して「七つの教会の御使いたち」は「アジヤにある七つの教会」が地上にあって、これらの問題を持っているけれども、天に属するものであることを象徴的に表していると考えられます。 栄光のキリストはそのように力強い働きをする右の御手をもって、今なお地上に存在しているためにさまざまな試練にさらされている「アジヤにある七つの教会」を、ご自身がおられる天に属しているものとして、守り、支え、導いてくださっています。そして、ご自身がその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、必ず、「アジヤにある七つの教会」をご自身のみからだである教会として整えてくださり、完全にきよめてくださり、ご自身の花嫁として御前に立たせてくださいます。その右の御手は、このことを実現してくださるために必要なすべてのことを成し遂げてくださる力強い御手です。 夫に対する戒めを記しているエペソ人への手紙5章25節ー27節には、 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。 と記されています。また、黙示録21章1節ー4節には、 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 と記されています。ここではキリストのからだである教会が「聖なる都、新しいエルサレム」として示されています。[注] [注]この「聖なる都、新しいエルサレム」には。18章ー19章に記されている「大淫婦」(19章2節)である「大バビロン」(18章2節)と対比される、場所としての意味があるという主張もあります。詳しく論じる余裕がありませんが、この二つの見方は、どちらかを取らなければならないというように矛盾するものではありませんが、私は、基本的には、主の契約の民の共同体としての教会のことであり、これに場所的な意味があるとしても二次的なものではないかと考えています。 * * * イエス・キリストがその右の御手をヨハネの上に置いてくださったことのもう一つの意味として考えられていることは、主イエス・キリストがヨハネに使命を与えてくださったということです。また、主が使命を与えてくださるときには、当然、それにふさわしい権威と賜物も与えてくださっています。そのように、神である主から使命を与えられた人に手を置くことを「按手」と言いますが、それは聖書の中に見られることです。その例をいくつか見てみましょう。 使徒の働き6章1節ー6節には、最初の教会における配給が円滑に行われるために「信仰と聖霊とに満ちた人」が7人選ばれたことが記されています。5節後半ー6節には、 彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び、この人たちを使徒たちの前に立たせた。そこで使徒たちは祈って、手を彼らの上に置いた。 と記されています。また、13章2節ー3節には、 彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい」と言われた。そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。 と記されています。さらに、テモテへの手紙第一・4章14節には、パウロが弟子であるテモテに語った、 長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません。 ということばが記されています。同じ手紙の5章22節には、この按手に関する戒めのとして、 だれにでも軽々しく按手をしてはいけません。 と記されています。 このこととの関連で、イエス・キリストの栄光の御姿の顕現に接して「その足もとに倒れて死者のようになった」ヨハネの上に、イエス・キリストがご自身の右の御手を置いてくださったことにも、ヨハネに使命を与え、その使命を果たすのに必要な権威と賜物を与えてくださったという意味があると考えられています。 けれども、すべての学者たちがこのことを認めているわけではありません。とはいえ、イエス・キリストがヨハネの上に右の御手を置いてくださったことが、イエス・キリストがヨハネに使命を与えてくださったことを意味するということを認めていない学者たちも、そのことを否定する論述をしているわけではなく、単純に、そのことに触れていないだけです。つまり、それらの学者たちは、イエス・キリストがヨハネの上に右の御手を置いてくださったことは、ヨハネを励まし、力づけ、立ち上がらせてくださることを意味していると論じているだけで、イエス・キリストがヨハネに使命を与えてくださったことを意味してはいないと論じているわけではありません。いわば、これは沈黙による否定――もしそのような意味があれば記したはずだけれども、記していないということです。 このこととの関連で注意しておきたいことは、先ほど主から委ねられた使命を受けた人に手を置いて任命し、遣わしたことを記しているみことばを引用しました。それらのみことばでは、手を置いたと記されているだけで、わざわざ、右手を置いたとは言われていないということです。その点では、これは按手とは違うのではないかという気がします。 また、按手の場合には、使徒たちや長老たちなど、キリストのからだである教会においてすでに権威を委ねられている人々によってなされています。これに対して、このヨハネの場合は、栄光のキリストご自身によってなされています。その意味でも、これは按手とは違うのではないかという気がします。 けれども、使徒たちや長老たちなど、キリストのからだである教会においてすでに権威を委ねられている人々によってなされる按手は、教会のかしらであられるイエス・キリストの御名によってなされるものです。それで、これは、イエス・キリストご自身がその御手を置いてくださることと矛盾することではありません。 また、この時、イエス・キリストがヨハネに右の御手を置いてくださったことは、ヨハネ使命を与えてくださったことを意味しているとした場合でも、それに先立って、イエス・キリストの栄光の御姿の顕現に接して「その足もとに倒れて死者のようになった」ヨハネを励まし、力づけ、支えるという意味もあります。それで、このことには按手に相当することを越えた意味があることになります。 このようなわけで、イエス・キリストがその右の御手をヨハネの上に置いてくださったことは、按手において、キリストのからだである教会いおいて権威を委ねられた人々が按手を受ける人の上に手を置くことと矛盾するわけではありません。それで、これら二つの違いから、イエス・キリストがその右の御手をヨハネの上に置いてくださったことに、イエス・キリストがヨハネに使命を授けてくださったことにかかわる意味がないとすることはできません。 もう一つお話ししておきたいことですが、聖書の中には、特に右手を置くことに意味があることを示している個所があります。それは、年老いたヤコブが息子のヨセフの二人の子マナセとエフライムを祝福したことを記している創世記48章13節ー19節です。マナセが長子でありエフライムはその弟です。このことを踏まえて13節ー14節を見てみますと、そこには、 それからヨセフはふたりを、エフライムは自分の右手に取ってイスラエルの左手に向かわせ、マナセは自分の左手に取ってイスラエルの右手に向かわせて、彼に近寄らせた。すると、イスラエルは、右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。マナセが長子であるのに、彼は手を交差して置いたのである。 と記されています。これに対するヨセフの反応とヤコブの答えが17節ー19節に、 ヨセフは父が右手をエフライムの頭の上に置いたのを見て、それはまちがっていると思い、父の手をつかんで、それをエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。ヨセフは父に言った。「父上。そうではありません。こちらが長子なのですから、あなたの右の手を、こちらの頭に置いてください。」しかし、父は拒んで言った。「わかっている。わが子よ。私にはわかっている。彼もまた一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々を満たすほど多くなるであろう。」 と記されています。この記事からいろいろなことが考えられますが、今お話ししていることと関連しては、右の手を置いて祝福することは、より豊かな祝福と特権にあずからせることを意味しているということです。 これらのことを踏まえたうえで、改めて黙示録1章17節ー18節に記されていることを見てみましょう。そこには、 それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。 と記されています。 もしこれが、少し直訳調に訳しますが、 それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は「恐れるな。」と言いながら、その右手を私の上に置いた。 ということで終わっていたとしたら、イエス・キリストがヨハネを励まし、力づけ、立ち上がらせてくださることを意味しているだけであったでしょう。それと同じようなことが、一般に「変貌の山」と呼ばれている山の上で、イエス・キリストの御姿が栄光ある御姿として示されたことを記しているマタイの福音書17章5節ー8節に、 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない」と言われた。それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。 と記されています。ここでは、神さまの御臨在があることを表示する「雲の中から」父なる神さまがお語りになったことが記されています。これは父なる神さまの栄光の顕現(セオファニー)です。それで、 弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。 と記されています。その弟子たち、ペテロとヤコブとヨハネに、イエス・キリストが御手を触れてくださって、励まし、力づけ、立たせてくださいました。注意しておきたいことですが、この場合は「御手を」ということばはなく、ただ「触れて」と言われているだけですが、それは御手を触れてくださったことを意味しています。 けれども、黙示録1章17節ー18節では、それで終わってはいません。イエス・キリストはさらに、 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。 と語りかけられました。 また、イエス・キリストの語りかけはこれで終わってはいません。さらに、19節には、 そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。 と記されています。「そこで」と訳されていることば(接続詞・ウーン)は、基本的に、その前に述べられていることを受けて「それゆえ」とか「それで」と訳されるものです。ですから、17節後半ー18節に記されている、 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。 というイエス・キリストのみことばは、ヨハネが「見た事、今ある事、この後に起こる事」を書き記すようにという、イエス・キリストの命令につながっています。 ここで問題となるのは、イエス・キリストは、いつ、その右の御手をヨハネから離されたのかということです。そのことは明確に示されてはいません。ただ、ここに記されていることから判断しますと、イエス・キリストは、少なくとも、17節後半ー20節に記されていることばを語りかけられた間は、その御手をヨハネに置いていてくださっていた可能性が高いと思われます。 これに対して、先ほど引用しましたマタイの福音書17章7節に基づく反論がなされるかもしれません。そこには、 すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない」と言われた。 と記されていました。イエス・キリストが弟子たちに手を触れられたことは、これで終わっています。それで、これと同じように、イエス・キリストはヨハネに「恐れるな。」と言われてから、その御手を離されたのではないかと論じられる可能性があります。 けれども、これは、いわばもろ刃の剣で、マタイの福音書17章7節に基づいて、それとは逆に論じることもできます。もしイエス・キリストがヨハネにその右の御手を置いてくださったことが、ヨハネから恐れを取り除かれるためだけのことであれば、マタイの福音書17章7節に記されているように、イエス・キリストがその御手を触れてくださったと記されたであろうということです。けれども、黙示録1章17節では、イエス・キリストがその「御手を」というのではなく、わざわざ「右手を」と言われています。また、その右の御手でヨハネに触れてくださったのではなく、ヨハネの「上に置いてくださった」と言われています。そして、先ほど引用しましたように、ある人の上に手を置くことには、その人に使命を与えることにかかわる意味もあります。このことは、黙示録1章17節に記されていることには、マタイの福音書17章7節に記されていることとは違った意味合いがあることを示唆しています。 このことと関連して、もう一つ大切なことがあります。それは、イエス・キリストの栄光の御姿の顕現が、10節ー11節に、 私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」 と記されていますように、ヨハネに、これからイエス・キリストが黙示の形でお示しになることを書き記すようにという命令のことばを語りかけてくださることから始まっているということです。そして、12節に、 そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。 と記されていますように、ヨハネにこれからイエス・キリストが黙示の形でお示しになることを書き記すようにという命令のことばを語りかけてくださイエス・キリストの栄光の御姿が示されました。 このことが、19節に記されています、 そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。 という、イエス・キリストの語りかけのことばにおいて、もういちど示されていることになります。ですから、イエス・キリストがご自身の栄光の御姿をヨハネに現されたことの目的は、ヨハネに、これからイエス・キリストが黙示の形でお示しになることを書き記すという使命を与えることにあったことが分かります。私たちは、このことから、黙示録に記されていることがキリストのからだである教会にとって、とても大切なことであることを、改めて感じさせられます。 これらのことから、イエス・キリストがヨハネの上に右の御手を置いてくださったのは、それによって、ヨハネから恐れを取り除き、ヨハネを励まし、力づけ、立たせてくださっただけでなく、さらに、それによってヨハネに黙示録を書き記す使命を与えてくださるためでもあったと考えられます。 初めにお話ししましたように、イエス・キリストの右の御手は私たち主の契約の民のために救いとさばきの御業を遂行される力強い御手です。そして、イエス・キリストはその右の御手に「七つの星」をもっておられました。これによって、イエス・キリストがその右の御手をもって、今なお地上に存在しているためにさまざまな試練にさらされている「アジヤにある七つの教会」を、ご自身がおられる天に属しているものとして、守り、支え、導いてくださっていることが示されています。イエス・キリストは、必ず、ご自身がその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、右の御手を働かせてくださり、「アジヤにある七つの教会」をご自身のみからだである教会として整えてくださり、完全にきよめてくださり、ご自身の花嫁として御前に立たせてくださるようになります。 繰り返しお話ししていますように、「アジヤにある七つの教会」は、その時代だけでなく、世の終わりに至るまで、地上に存在しているキリストのからだである教会を象徴的に表しています。それで、私たちの群れも、このイエス・キリストの右の御手によって支えられています。 イエス・キリストはそのような意味をもっている右の御手をヨハネの上に置いてくださって、イエス・キリストが黙示によって啓示してくださることを記すようにお命じになられました。実際、ヨハネが黙示録に記していることは、イエス・キリストが地上にあってさまざまな試練と問題に直面しているキリストのからだである教会のために、右の御手を働かせてくださっており、必ず、私たちご自身の契約の民の救いを完成してくださるということです。私たちは黙示録をとおして、自分たちがこれにあずかっていることを理解します。 ローマ人への手紙8章28節ー30節には、 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。 と記されています。 ここに記されていることについては、すでにお話ししました。これは私たちそれぞれに当てはまることですが、それ以上に、 それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。 というみことばに示されていますように、イエス・キリストの血による新しい契約の共同体であり、キリストのからだである教会に当てはまることです。 イエス・キリストは、自身がその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、私たちが地上にあるために味わわなければならない試練や問題をも用いてくださって、ご自身のみからだである教会をきよめてくださり、終わりの日には、聖く傷のないご自身の花嫁として御前に立たせてくださいます。 |
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