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説教日:2013年7月7日 |
このことには、終わりの日に完全に実現する、私たち主の契約の民の救いの完成とのかかわりで考えられる「『すでに』そして『いまだ』」ということがかかわっています。それで、また遠回りになってしまいますが、きょうは、この「『すでに』そして『いまだ』」ということについて、お話ししたいと思います。それによって、今、私たちがどのような恵みにあずかっているかを確かめたいと思います。 私たちの救いには、すでに完全に実現していることと、いまだ完全には実現していないことの二つの面があります。いまだ完全には実現していないことは、終わりの日に再臨されるイエス・キリストによって、完全に実現されることです。そのどちらも、イエス・キリストが今から2千年前に、私たちご自身の民のために十字架にかかって死んでくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいています。それで、私たちの救いの基盤は、すでに、今から2千年前に、イエス・キリストが据えてくださっています。 すでに完全に実現していることを順を追ってあげていきますが、これは必ずしも時間的な順序ではなく、時間的には同時であっても論理的な順序があるものがあります。 まず最初にくるのは、私たちが御霊のお働きによって、イエス・キリストと一つに結び合わされたことです。この場合のイエス・キリストは、今から2千年前に、私たちご自身の民のために十字架にかかって死んでくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださり、今、天において父なる神さまの右の座に着座しておられるイエス・キリストです。イエス・キリストは、今この時も、私たちご自身の民の救いのために、御霊によってお働きになっておられます。この後取り上げることは、すべて、このイエス・キリストが、父なる神さまのみこころに従い、御霊によって、私たちに対してなしてくださったこと、また、なしてくださることです。あるいは、これは、父なる神さまがイエス・キリストをとおし、御霊によって、私たちに対してなしてくださったこと、また、なしてくださることです。このお働きにおいて、父なる神さまと御子イエス・キリストは一つです。 このように、御霊によって、イエス・キリストと一つに結び合わされた私たちは、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかっています。イエス・キリストとともに古い自分に死んで、イエス・キリストとともに新しい自分によみがえっています。これが、聖書が教えている、御霊によって新しく生まれるということです。ヨハネの福音書3章3節には、 まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。 というイエス・キリストの教えが記されています。 これは、世間で言われる「生まれ変わる」ということとは違います。世間で言われる「生まれ変わる」ということの中心は、人が心を入れ替えることです。確かに、私たちが御霊によって新しく生まれると、私たちの心は変化しますが、それがすべてではありません。もっと大切なことは、御霊が私たちをイエス・キリストの復活にあずからせてくださって、新しく生まれさせてくださったということです。私たちが新しく生まれたことは、御霊による、イエス・キリストの御業です。言うまでもなく、私たちが御霊によって新しく生まれているということは、過去の事実ですので、この後もずっと変わることがありません。 そのようにして、私たちが御霊によって新しく生まれた結果、私たちは福音のみことばを理解することができるようになり、福音のみことばにあかしされている、十字架にかかって死んでくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったイエス・キリストを信じ、主として受け入れるようになりました。これも、御霊による、イエス・キリストのお働きによることです。私たちの信仰も、神さまが私たちに与えてくださった賜物です。 このこととのかかわりで注意しておきたいことがあります。私たちは御霊によって福音のみことばを理解し、福音のみことばにあかしされているイエス・キリストの十字架の死の意味を理解して初めて、自分が神さまに対して罪を犯しており、その罪が神さまの聖なる御怒りによるさばきに価することを理解できるようになりました。それは、私たちが、自分の罪のために、どうしても、無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いが必要であったということを悟るようになるからです。 私たちの罪は、すべて、私たちの造り主にして、無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまに対する罪です。なぜなら、神さまが、私たちをご自身との愛の交わりに生きる者として、神のかたちにお造りになられたからです。神のかたちに造られた人のなすことはすべて、造り主である神さまとのかかわりにおいてなされることです。それで、ヘブル人への手紙4章12節ー13節には、 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。 と記されています。 けれども、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人は、造り主である神さまを神としてはいませんから、自分が造り主である神さまに対して罪を犯していることを認めることはありません。せいぜい、自分は悪い人間であるとか、自分にも罪があると言うだけで、決して、造り主である神さまに対して罪を犯したとは思っていません。もちろん、自分が無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまの聖なる御怒りによるさばきに価するとは思ってもいません。このような状態で、自分は悪い人間であるとか、自分にも罪があると言っているとしても、それはみことばが教えている真の意味での罪の自覚ではありません。 私たちが人のものを壊してしまったというときでも、壊したものが、スーパーで買ってきた茶わんである場合と、陶芸家が丹精を込めて作り上げた芸術作品である場合とでは、それを償うための代価はまったく違います。私たちの罪は、すべて、私たちの造り主にして、無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまに対する罪です。それで、私たちの罪は無限の深さというか、無限の重さをもっています。また、それで、私たちの罪を完全に償うためには、無限の償いがなされなければなりません。そのようなわけで、ご自身が無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子イエス・キリストが十字架にかかって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けてくださらなければならなかったのです。 どんなに高くすぐれた御使いであっても、被造物であり、有限なものであることには変わりがありません。有限なものをいくら積み上げても、無限にはなりません。もしイエス・キリストが単なる人であれば、あるいは御使いのひとりであれば、いくらイエス・キリストに罪がなかったとしても、その十字架の死によっては、私たちの一つの罪も贖うことはできなかったでしょう。ご自身無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子イエス・キリストが、私たちと同じ人の性質をお取りになって来てくださって、私たちが受けなければならない私たちの罪へのさばきを、私たちに代わって受けてくださったことによって、私たちの罪はすべて、また、完全に贖われました。 私たちは御霊のお働きによって新しく生まれたことによって、福音のみことばにあかしされている御子イエス・キリストの十字架の死の意味を悟りました。もちろん、十字架につけられたイエス・キリストを贖い主として、最初に信じたときに、このような論理が分かったわけではありません。けれども、無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子イエス・キリストの十字架の死は、単なるお話ではありません。私たちの想像を絶する重さと深さをもった、歴史の現実です。大地震の揺れがその地震波の伝わる広い範囲の地を激しく揺らすように、御子イエス・キリストの十字架の死の現実は、それから2千年後に、御霊のお働きによって、福音のみことばのあかしを悟った私たちの心を根底から揺さぶったのです。私たち有限なものには、その現実の底知れない深みのすべてを悟ることができるわけではありませんが、私たちは確かに、十字架につけられたイエス・キリストに引きつけられ、自分の罪が贖われるためには、どうしても、御子イエス・キリストの十字架の死が必要であったことを感じ取りました。 このようにして、御霊のお働きによって、十字架につけられたイエス・キリストを父なる神さまが備えてくださった贖い主として受け入れたときに、私たちは、自分の罪が造り主である神さまに対する罪であり、それがいかに深く恐るべきものであるかを悟るようになりました。それが、私たちが自分の罪を造り主である神さまに対する罪として悔い改めた時であり、同時に、私たちが御子イエス・キリストを信じた信仰によって、義と認められた時です。 私たちが、御霊のお働きによって、福音のみことばにあかしされている、十字架につけられたイエス・キリストを父なる神さまが備えてくださった贖い主として信じて、受け入れたときに、神さまが私たちを義と認めてくださいました。もちろん、私たちが義と認められたことの根拠は、今から2千年前に、御子イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって死んでくださって、私たちの罪をすべて、完全に贖ってくださったことと栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったことにあります。ローマ人への手紙3章20節ー24節には、 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 と記されています。 神さまが私たちを義と認めてくださったことには、いくつかのことがかかわっています。 第一に、神さまが私たちを義と認めてくださったということは、天の御座において――そこは天の法廷ですが、そこにおいて、神さまご自身が、私たちが義であることを宣言してくださったということです。そして、神さまはひとたび、私たちが義であることを宣言されたなら、それを決して取り消されることはありません。その意味で、これはすでに決定的になされていることです。 第二に、神さまは、私たちが信じた贖い主である御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを私たちに当てはめてくださったということです。先ほど引用しましたローマ人への手紙3章24節には、 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 と記されており、私たちが義と認められることは、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いに基づいていることが示されています。 第三に、神さまは、さらに、御子イエス・キリストが十字架の死までご自身のみこころに従い通されたことによって立ててくださった義を、私たちに当てはめてくださったということです。ローマ人への手紙5章18節ー19節には、 こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。 と記されています。 ひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされた と言われているときの「ひとりの人」とは、最初の人アダムです。そして、 ひとりの従順によって多くの人が義人とされる と言われているときの「ひとりの人」とは、御子イエス・キリストです。イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されて立ててくださった義が、私たちの義であると認められたということです。本当に、驚くべきことですが、このことから、私たちが義と認められていることの確かさを信じることができます。私は自分の義を頼みとすることはできません。そもそも、自らのうちに罪を宿し、罪を犯してしまう私には神さまの御前に義を立てることはできません。また、一時的によい状態にあると思えても、次の瞬間には罪の重荷に打ちひしがれるほかはないからです。ただ、イエス・キリストの完全な義だけが、私たちの拠り所です。 第四に、義であるということは、神さまとの関係が本来の関係になっているということです。ローマ人への手紙5章1節には、 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。 と記されています。 神さまがすでに完全に実現してくださっていることが、もう一つあります。それは、私たちを御子イエス・キリストにあって、ご自身の子としてくださったことです。エペソ人への手紙1章5節には、 神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。 と記されていて、私たちが父なる神さまの子とされることは父なる神さまの永遠からのみこころによることであることが示されています。この場合の「子にしよう」と訳されているときの「子にする」ということば(ヒュイオセシア)は「養子とすること」や「養子としての身分」を意味しています。その当時のギリシャ・ローマの社会では、養子も実子と同じ権利を与えられていました。ローマ人への手紙の読者たちはこのことを理解したはずです。 また、ガラテヤ人への手紙4章4節ー6節には、 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。 と記されています。ここでも、 私たちが子としての身分を受けるようになるためです。 と言われているときの「子としての身分」と訳されていることばは「養子としての身分」を意味しています。本来、父なる神さまのことを個人的に親しく「アバ、父」と呼んでおられたのはイエス・キリストです。ゲツセマネにおけるイエス・キリストの祈りを記しているマルコの福音書14章36節を見てください。そこでイエス・キリストは父なる神さまに向かって「アバ、父よ。」と語りかけて、祈っておられます。これはイエス・キリストの固有の権利です。私たちはイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって、父なる神さまの養子としていただいているので、父なる神さまに向かって個人的に親しく「アバ、父。」と呼びかけることができるのです。そして、私たちにそのように呼ばせてくださるのは「御子の御霊」であると言われています。 ここで大切なことは、父なる神さまに個人的に親しく「アバ、父。」と呼びかけることができるのは御子イエス・キリストの固有の権利であるということです。それは、御使いたちにも与えられていない権利です。それで、御使いたちは父なる神さまに向かって「主よ」とか「神よ」と呼びかけますが、個人的に親しく「アバ、父。」と呼びかけることはありません。けれども父なる神さまは、ご自身に向かって個人的に親しく「アバ、父。」と呼びかける特権を私たちに、しかも、ご自身に対して罪を犯して、御前に堕落していた私たちに与えてくださったのです。そのためには、ご自身の御子イエス・キリストの十字架の死という代価を支払うことが必要であったのに、その特権を、私たちに与えてくださいました。私たちはこのことに御子イエス・キリストの十字架からあふれ出てくる父なる神さまの愛の大きな流れを感じ取るばかりです。 父なる神さまが私たちを御子イエス・キリストにあって義と認めてくださったことも、子としての身分を与えてくださったことも法的なことで、すでに決定的なこととしてなされています。神さまはこれを決して取り消されることはありません。これに対して、いまだ私たちの間で完全には実現されていないことがあります。それは、私たちの実質にかかわることです。父なる神さまは、私たちを法的に義と認め、子としての身分を与えてくださっているだけでなく、私たちが義であることの実質、父なる神さまの子どもとしての実質をもつ者に造り変えてくださるのです。それは、私たちがイエス・キリストの栄光のみかたちに似た者となることを意味しています。 父なる神さまはすでに私たちを御霊によって御子イエス・キリストと一つに結び合わせてくださって、私たちをその復活のいのちによって、新しく生まれさせてくださっています。ちょうど枝がぶどうの木のいのちによって生きているように、私たちはイエス・キリストとつながって生きています。御霊はその私たちを御子イエス・キリストの栄光のみかたちに似た者として造り変えてくださり、お育てくださっています。これを「聖化」と呼びます。コリント人への手紙第二・3章18節には、このことが、 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。 と記されています。これは御霊のお働きによることですが、自動的に起こることではありません。私たちが信仰の家族の兄弟姉妹たちを愛することを通して、御霊が私たちをイエス・キリストに似た者に造り変えてくださるのです。 けれども、このことは私たちの地上の生涯においては完成しません。その完成、完全な実現は、世の終わりの日に、御子イエス・キリストが再び来てくださって、私たちを完全にご自身の復活の栄光にあずからせてくださって、私たちのからだを栄光のからだによみがえらせてくださる時を待たなければなりません。私たちはその時の来ることを信じつつ、使徒信条において「我は・・・からだのよみがえりを信ず。」と告白しています。その日のことが、ヨハネの手紙第一・3章2節には、 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。 と記されています。これをこれまでお話ししてきたこととのかかわりで言いますと、父なる神さまが私たちをご自身の栄光の御臨在の御前に立って、神さまの愛を確信してその御顔を仰ぎ、個人的に親しく「アバ、父。」と呼びかける特権と祝福を完全なものとしてくださることを意味しています。 |
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