黙示録講解

(第123回)


説教日:2013年6月30日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章9節ー20節
説教題:栄光のキリストの顕現(24)


 黙示録1章9節ー20節には、イエス・キリストが黙示録の著者であるヨハネに、ご自身の栄光の御姿を現してくださったことが記されています。
 この時は、ローマ帝国においてクリスチャンに対する迫害が激しくなっていたときで、その迫害の手はローマの属州であるアジヤにも及んでいました。ヨハネは11節にその名が出てきます「アジヤにある七つの教会」の牧会者でしたが、9節に記されていますように、迫害を受けてパトモスという島に流刑になっていました。
 このような状態にあったヨハネに、イエス・キリストがご自身の栄光の御姿を表してくださいました。その御姿そのものについては、12節ー16節に、

そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

と記されています。これは、その当時の人々がなじんでいた黙示文学の表象によって示されています。
 イエス・キリストがこのような表象によってご自身の栄光の御姿を啓示してくださったのにはわけがあります。この時、「アジヤにある七つの教会」はさまざまな試練にさらされていました。外からは、ローマ帝国による迫害の手が及んできて、厳しい試練に苦しむ群れがありました。内からは、いくつかの異端的な教えを唱える者たちの働きによって福音のみことばが曲げられてしまっている群れや、この世の富や欲望によって惑わされている状態にある群れもありました。その上、このような状態にあった「アジヤにある七つの教会」の牧会者であるヨハネは、パトモスという島に流刑になっていて、直接的に一つ一つの群れを指導することはできない状態にありました。
 これに対して、「アジヤにある七つの教会」のまことの牧会者であられるイエス・キリストが、ご自身の栄光の御姿ををヨハネに示してくださいました。イエス・キリストがまず示してくださったことは、12節ー13節に記されていますように、教会のかしらであられるイエス・キリストが、ここに啓示されている栄光の主として、「アジヤにある七つの教会」のそれぞれの群れの真ん中にご臨在してくださっているということです。
 「アジヤにある七つの教会」の「7」は完全数で、それは「アジヤにある七つの教会」があった初代教会から、世の終わりにイエス・キリストが再臨される時まで地上に存在するすべての教会を代表的に表わしています。それで、イエス・キリストは12節ー16節に記されているような栄光の主として、地上に存在しているキリストのからだである教会のすべての群れの間にご臨在してくださっています。
 またそれで、イエス・キリストが12節ー16節に記されているような栄光の主であられることは、厳しい状況の中にある「アジヤにある七つの教会」と、その牧会者であるヨハネにとって、決定的に大切な意味をもっていましたし、地上に存在しているキリストのからだである教会のすべての群れにとって、決定的に大切な意味をもっています。


 イエス・キリストの栄光の御姿に接したヨハネのことが17節前半には、

それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。

と記されています。しかし、17節後半ー19節には、

しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。」

と記されています。
 ヨハネがイエス・キリストの栄光の御姿に接して、

 その足もとに倒れて死者のようになった。

ことには、出エジプト記33章20節に記されています、契約の神である主、ヤハウェがモーセに語られた、

 人はわたしを見て、なお生きていることはできない

というみことばの背景があります。
 けれども、

 人はわたしを見て、なお生きていることはできない

ということは、人の本来のあり方ではありません。神さまは創造の御業において、人を神のかたちにお造りになりました。人は神のかたちとしての栄光を受けていました。神さまが愛を本質的な特性とする人格的な方であられるように、人も自由な意志をもち、愛を本質的な特性とする人格的な存在として造られました。そして、愛とともに、義や聖さや真実さなどの神さまの人格的な特性にあずかっている者として造られています。それは人が神さまの栄光の御臨在の御前において、神さまとの愛にある交わりに生きるためでしたし、実際に、人は主の栄光の御臨在の御前に近づいて、主との愛の交わりのうちに生きていました。これが神のかたちに造られた人の本来のあり方でした。
 神のかたちに造られて、このような祝福のうちにあった人が、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。それ以来、人は自らのうちに罪の性質を宿し、実際に、思いとことばと行いにおいてさまざまな罪を犯してしまいます。そのような状態になってしまった人は、神である主の栄光の御臨在の御前において、主の聖さを冒す者として、主の聖なる御怒りによってその罪をさばかれるべき者となってしまっています。契約の神である主は、そのような状態ににある人について、

 人はわたしを見て、なお生きていることはできない

と言われたのです。ですから、その「なお生きていることはできない」ということは、ただ単に、その場で直ちに肉体的に死ぬというだけのことではありません。自らのうちに罪の性質を宿し、実際に罪を犯している者が、神さまの聖なる御臨在の御前に立つようなことがあれば、神さまはその聖なる御怒りをもって、その人のすべての罪をおさばきになります。それは、その人が永遠の刑罰を受けるという意味で滅びてしまうことを意味しています。
 これに対しまして、ご自身が無限、永遠、不変の栄光の主であられる神の御子が、父なる神さまのみこころにしたがって、私たちと同じ人の性質を取って来てくださり、私たちご自身の民のために贖いの御業を成し遂げてくださいました。
 御子イエス・キリストは、その地上の生涯の終わりに十字架におかかりになって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わってすべて受けてくださいました。これによって、私たち罪を――私たちが過去に犯した罪だけでなく、これから犯すであろう罪も、すべて完全に贖ってくださいました。それで、私たちはもはや罪をさばかれることはありません。
 それだけではありません。イエス・キリストは十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されることによって、その完全な従順に対する報いとして栄光をお受けになり、死者の中からよみがえられました。永遠の神の御子としての栄光は無限、永遠、不変ですので、増えたり減ったりすることはありません。このイエス・キリストが受けられた栄光は、イエス・キリストが人としての性質においてお受けになった栄光です。それは、イエス・キリストが私たちの契約のかしらとして、私たちのために受けてくださった栄光です。
 このようにしてイエス・キリストが人としての性質においてお受けになった栄光は創造の御業において神さまが人を神のかたちにお造りになった時に、人にお与えになった神のかたちとしての栄光と同じ栄光ではありません。神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、その歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて、神である主のみこころに従い通していたなら受けていたであろう、さらに豊かな栄光です。神さまはそれを創造の御業とともに神のかたちに造られた人に与えてくださった契約において約束してくださっていました。私たちはこれを「創造の契約」と呼んでいます。これは伝統的には「わざの契約」と呼ばれている契約です。
 永遠の神の御子イエス・キリストは、神さまが創造の御業において人を神のかたちにお造りになった時の人の性質をお取りになってきてくださいました。それで、イエス・キリストも神さまが創造の御業とともに神のかたちに造られた人に与えてくださっている契約、すなわち「創造の契約」のうちにありました。そして、地上の生涯の全体において、つまり、およそ30歳から始められたメシヤとしてのお働きにおいてだけでなく、それ以前のおよそ30年間にわたる生涯においても、父なる神さまのみこころに従い通されました。その生涯全体にわたる従順の頂点が、私たちご自身の契約の民の罪を贖うための十字架の死でした。イエス・キリストは十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことに対する報いとして栄光をお受けになり、死者の中からよみがえられました。それで、これは神さまが創造の御業において人を神のかたちにお造りになった時に人に与えてくださった栄光より、さらに豊かな栄光です。
 イエス・キリストはご自身の契約の民である私たちをこの栄光にあずからせてくださり、私たちをご自身の栄光の御臨在の御前に立たせてくださって、私たちを父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者としてくださっています。
 このすべては、父なる神さまが私たちご自身の民への限りない愛と恵みによって、御子イエス・キリストを通して成し遂げてくださったものです。そこに父なる神さまと御子イエス・キリストの私たちへの愛がこの上なく豊かに表されています。
 ローマ人への手紙5章7節ー8節には、

正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

と記されています。ここでは、

 神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

ということは、現在時制で表されてます。これによって、今から2千年前に、イエス・キリストが私たちのために死んでくださったことによって表された父なる神さまの私たちへの愛は、その後も変わることがなく、今、父なる神さまはその同じ愛をもって私たちを愛してくださっていることが示されています。そして、そのことを受けて、続く9節ー10節には、

ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。

と記されています。ここでは、父なる神さまは、御子イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったことによって表された、その愛をもって、私たちの救いを必ず完成へと至らせてくださることが示されています。さらに、これに続く11節には、

そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。

と記されています。父なる神さまはその限りない愛をもって、今すでに、私たちがご自身との愛にある親しい交わりのうちに生きる者としてくださっていること、そのゆえに、

私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいる

ということが示されています。
 言うまでもなく、ヨハネもこの恵みによる祝福にあずかっています。それでも、ヨハネはイエス・キリストの栄光の御姿に接した時に、

 その足もとに倒れて死者のようになった。

と言われています。それは、ヨハネであっても、そのうちには、なおも、罪の性質が残っており、実際に、罪を犯してしまう状態にあったからです。
 しかし、ヨハネはイエス・キリストの栄光の御臨在の御前で滅びることはありませんでした。それどころか、イエス・キリストが「右手」をヨハネの上に置いてくださったと言われています。前回までお話ししてきましたように、イエス・キリストの「右手」はご自身の契約の民のために救いとさばきの御業を遂行される力強い御手です。イエス・キリストはすでに、十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、私たちご自身の契約の民を死と滅びの中から贖い出してくださり、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者としてくださっています。そして、私たちの救いを完全に実現してくださるために、力強い右の御手を働かせてくださっています。
 イエス・キリストはこの右の御手をヨハネの上に置いてくださいました。そして、

 恐れるな。

と命令されました。それは、イエス・キリストがご自身の十字架の死によってヨハネの罪を完全に贖ってくださっていることと、ヨハネをご自身の復活の栄光にあずからせてくださって、主の栄光の御臨在の御前に恐れなく出でて、主との愛にあるいのちの交わりに生きる者としてくださっていることに基づく命令でした。イエス・キリストはすでに、ヨハネが主の栄光の御臨在の御前で恐れなくてはならない原因である罪を贖ってくださっています。そして、この命令のみことばによって、ヨハネから恐れを取り除いてくださったのです。

 イエス・キリストの右の御手は救いとさばきの御業を遂行される力強い御手です。これまでは、そのうちの救いの御業を遂行される御手という面を取り上げてきました。イエス・キリストの右の御手は、また、さばきの御業を遂行される力強い御手でもあります。そのことは、このイエス・キリストの栄光の御姿においても示されていますが、黙示録全体の中で明確に示されています。そして、そのさばきの御業を遂行されるお働きの根本にあって、その根拠となっているのは、やはり、イエス・キリストご自身が、その十字架の死によって成し遂げられたご自身の民のための贖いの御業です。
 御子イエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業は、父なる神さまと御子イエス・キリストの私たちに対するこの上なく豊かな愛と恵みの現れです。それと同時に、イエス・キリストが私たちご自身の契約の民のために十字架にかかって死んでくださったことは、もう一つのことを明らかにしています。それは、ヘブル人への手紙9章22節に、

それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。

と記されている教えに示されています。
 この教えの背景には、レビ記17章11節に記されています、

なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。

というモーセ律法に示されている教えがあります。
 このレビ記の教えは、その前の10節において、血を食べてはならないというモーセ律法の規定の理由を示しています。ここでは二つのことが示されています。一つは、

 肉のいのちは血の中にあるからである。

と言われていますように、契約の神である主が血を特別な意味をもつものとして聖別しておられるということです。これは、創世記9章4節ー6節に記されています神さまのみこころと関連していて、生き物たちのいのちの尊厳性、ひいては、神のかたちに造られた人のいのちの尊厳性を守ることにかかわっています。もう一つは、

 いのちとして贖いをするのは血である。

と言われていますように、神である主が血を特別な役割を果たすものとして聖別しておられることが示されています。
 モーセ律法においては、特に、地上の聖所においてささげられる動物の血についてこのように規定されています。それは、やがて来たるべき本物を指し示すための「地上的なひな型」として聖別されているものです。その本物とは、言うまでもなく、永遠の神の御子イエス・キリストです。
 ヘブル人への手紙9章ー10章はこのことを詳しく説明しています。先ほど引用しました9章22節の後の24節ー28節には、

キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。

と記されています。
 これは、先ほどお話ししましたイエス・キリストの右の御手が私たちご自身の契約の民の救いの完成のために働かれるということに当たります。今ここでお話ししたいことは、もう一つのことです。それは、

 血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。

という教えは、契約の神である主は人の罪を必ずさばかれ、清算されるということをも示しているということです。御子イエス・キリストの十字架の死は、まさにそのことを最も鮮明に示しています。
 先ほど引用しました9章24節ー28節には、イエス・キリストが十字架の上で流された血によって、私たちの罪が完全に贖われていることと、イエス・キリストは私たちの救いを完全に実現してくださるために再び来てくださることが示されていました。また、10章10節にも、

このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。

と記されています。
 ここだけでなく、先ほど引用しました9章24節ー28節に記されているみことばにも見られますが、ヘブル人への手紙9章ー10章においては、イエス・キリストが一度限りご自身をおささげになったということが繰り返し語られています。それは、もう繰り返される必要がないということを意味示しています。永遠の神の御子であられるイエス・キリストが、その人としての性質において、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによる刑罰をお受けになりました。それによって、私たちの罪は完全に贖われていますので、もう繰り返される必要はないのです。その意味で、

イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。

 それとともに、この10節の後の12節ー13節には、

しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。

と記されています。

神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられる

と言われていることは、メシヤのことを預言的に示している詩篇、すなわち、「メシヤ詩篇」の一つとして知られている詩篇110篇1節に、

 は、私の主に仰せられる。
 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、
 わたしの右の座に着いていよ。」

と記されていることを、イエス・キリストが成就しておられ、やがて完全に実現されるようになるということを示しています。

神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられる

と言われていますが、それは、イエス・キリストが父なる神さまの右の座に着座されて、何もされないで「その敵がご自分の足台となるのを待っておられる」という意味ではありません。父なる神さまの右の座に着かれるということ自体が、父なる神さまの御名によって、また父なる神さまのご栄光のために御業をなさることを意味しています。
 このことの背景をさかのぼっていきますと、創世記3章15節に、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

と記されています「最初の福音」にまで行き着きます。これは「最初の福音」ですが、その実体は、最初の女性であるエバを誘惑して罪へと誘った「蛇」の背後にあって働いていた暗やみの主権者であるサタンに対する、神である主のさばきの宣言です。この時に、神である主が直接的にサタンに対する最終的なさばきを執行されるなら、罪によってサタンと一つになってしまっている人とその妻も同じように、最終的なさばきを受けて滅びることになります。けれども神である主はこの時ご自身が直接的に最終的なさばきを執行されないで、まず、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。

と宣言されました。神である主が「」と「女の子孫」の集合体と、「おまえ」と呼ばれているサタンとその子孫の集合体の間に「敵意」を置いてくださって、その二つの集合体の間を引き裂かれると言われています。ここで「子孫」と訳されていることばは単数形ですが、集合名詞であると考えられます。これは、二つの集合体の間に霊的な戦いが展開するようになることを示しています。そして、最終的には、

 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

と言われています。これは「」と「女の子孫」の集合体がサタンとその子孫の集合体に勝利することを示しています。同時に、これは、「おまえ」と呼ばれているサタンへのさばきの宣言です。そして、聖書の中の集合体に「かしら」がいることは通常のことです。実際、サタンとその子孫の集合体には「かしら」がいます。言うまでもなく、それはサタンです。同じように、「」と「女の子孫」の集合体にも「かしら」がいるはずです。それは「」ではなく、集合体としての「女の子孫」の中にいます。この「女の子孫」の「かしら」として来られる方が、サタンに対する最終的なさばきを執行されます。先ほどの詩篇110篇1節は、このことがダビデの主であられるメシヤにおいて成就することを預言的にあかししています。
 ヘブル人への手紙10章では、先ほど引用しました12節ー13節において、

しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。

と言われていました。そして、これに続く14節では、

キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。

と言われています。
 ここでは、イエス・キリストが、

神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられる

ということが、「罪のために一つの永遠のいけにえをささげ」られたことと、イエス・キリストが、

聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされた

ということに挟まれるようになっています。これによって、イエス・キリストが「罪のために一つの永遠のいけにえをささげ」、私たちを「一つのささげ物によって、永遠に全うされ」て父なる神さまの右の座に着座されたことが、イエス・キリストが暗やみの主権者であるサタンに対するさばきを執行されることが深くつながっていることが示されています。それは、「最初の福音」が暗やみの主権者であるサタンに対するさばきの宣言として示されていることへとつながっています。
 みことばは、イエス・キリストが栄光をお受けになって父なる神さまの右の座に着座されたことには、基本的に二つの意味があることを教えています。
 一つは、今お話ししたとおり、それは、詩篇110篇1節の成就であるということです。霊的な戦いにおいて、暗やみの主権者であるサタンとその軍勢をご自身の足台とされるようになるということです。
 もう一つは、私たちの大祭司として私たちのために常にとりなしてくださり、私たちの救いを完全に実現してくださるために、その力強い右の御手を働かせてくださるということです。ローマ人への手紙8章34節には、

罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

と記されています。また、38節ー39節には、

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

と記されています。もちろん、これは私たちに神さまの愛のうちに踏みとどまる力があるということではなく、イエス・キリストがその力ある右の御手で私たちを父なる神さまの愛のうちに保ちづけてくださるということです。ヨハネの福音書10章28節には、

わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。

というイエス・キリストの教えが記されています。イエス・キリストは、その右の御手によって、私たちをとこしえに父なる神さまとの愛の交わりのうちに保ち続けてくださいます。


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