黙示録講解

(第回)


説教日:2013年6月23日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章9節ー20節
説教題:栄光のキリストの顕現(23)


 先主日には、小川 堅先生が説教を担当してくださいましたので、黙示録からのお話はお休みとなりました。きょうは、黙示録からのお話に戻ります。今お話ししているのは黙示録1章9節ー20節に記されています、イエス・キリストが黙示録の著者であるヨハネにご自身の栄光の御姿を現してくださったことについてです。
 ヨハネは4節に出てきて、11節にその名が記されています、「アジヤにある七つの教会」の牧会者でした。この時は、ローマ帝国において、クリスチャンたちに対する迫害が激しくなってきていて、ローマの属州であるアジヤにもその迫害の手が及んできていました。そのことは、2章ー3章に記されている、「アジヤにある七つの教会」のそれぞれに対して語られているイエス・キリストのみことばにも反映しています。そして、9節に記されていますように、牧会者であるヨハネは捕らえられて、パトモスという島に流刑となっていました。イエス・キリストは、そのような状態にあったヨハネにご自身の栄光の御姿を現してくださり、「今ある事、この後に起こる事」を黙示によって啓示してくださいました。そして、それを書き記して、「アジヤにある七つの教会」に送るように命じられました。
 「アジヤにある七つの教会」はローマ帝国による迫害にさらされていただけではありません。やはり2章ー3章に記されています、イエス・キリストのみことばから分かることですが、その当時のギリシャ・ローマの文化に一般的な発想に合わせて、福音のみことばを曲げて理解している人々の教えに惑わされている群れもありました。また、初めの愛が冷えてしまっている群れや、その群れがあった都市の産業のために、この世の富や繁栄に潤っている群れが、霊的に、すなわち、神さまの御前には貧しくて裸であることにまったく気づいていないこともありました。
 イエス・キリストはさまざまな問題を抱えている群れの一つ一つに、その目を留めてくださっています。そして、それぞれの群れにふさわしい称賛と警告、さらには励ましを与えてくださり、ご自身が終わりの日に実現してくださる祝福を約束してくださっています。そのような、それぞれの群れに対する語りかけとともに、「アジヤにある七つの教会」のすべてに、さらには、世の終わりまでの歴史を通して地上に存在するキリストのからだである教会のすべてに当てはまる、「今ある事、この後に起こる事」を啓示してくださっています。
 黙示録は、基本的に、「アジヤにある七つの教会」に宛てて記されています。けれども、「アジヤにある七つの教会」の「七」は完全数で、「アジヤにある七つの教会」は、また、歴史を通して地上に存在するキリストのからだである教会のすべてを表象的に表しています。ですから、黙示録に記されていることは、歴史を通して地上に存在するキリストのからだである教会のすべてに当てはまります。
 これらのすべてが黙示録に記されています。そして、これらのすべてを示してくださっているのは、ここでヨハネにご自身の栄光の御姿を現してくださったイエス・キリストです。ここでヨハネに現されたイエス・キリストの栄光の御姿については、12節ー16節に、

そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

と記されています。このイエス・キリストの栄光の御姿は、イエス・キリストがヨハネに与えてくださった黙示による啓示、すなわち、黙示録を理解するための鍵です。

          *
 17節前半には、イエス・キリストの栄光の御姿に接したヨハネのことが、

それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。

と記されています。これまで、このことの背景には、出エジプトの時代に、契約の神である主、ヤハウェがモーセに語られた、

 人はわたしを見て、なお生きていることはできない

というみことばに示されていることがあるということをお話ししました。そして、これは初めからそうだったのではなく、神のかたちに造られた人が契約の神である主、ヤハウェに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって生じたことであるということをお話ししました。神のかたちに造られた人は、本来、神である主の栄光の御臨在の御前において、その御顔を仰ぎ見て、主との愛にある親しい交わりに生きる者として造られています。そして、主に対して罪を犯して、御前に堕落する前には、主の御臨在の御前で、主との親しい交わりに生きていました。この、神のかたちに造られた人の本来のあり方を踏まえておくことは、とても大切なことです。
 イエス・キリストの栄光の御姿の現れに接して「その足もとに倒れて死者のようになった」ヨハネに対して、イエス・キリストがなしてくださったことが、17節後半ー18節に記されています。そこには、

しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。」

と記されています。
 イエス・キリストはまず、右手をヨハネの上に置いてくださいました。この右手については、16節で、

 右手に七つの星を持ち

と言われています。さらに、この「七つの星」については、20節で、

七つの星は七つの教会の御使いたち

と言われています。すでにお話ししたことをまとめますと、「七つの教会の御使いたち」は、人ではなく文字通り御使いであると考えられます。そして、それぞれ、七つの教会のそれぞれの群れを代表的に表わしつつ、七つの教会が地にあって、さまざまな問題を抱えているけれども、天に属しているということを表象的に表していると考えられます。キリストのからだである教会が地にあって、さまざまな問題を抱えているけれども、天に属しているのは、イエス・キリストが十字架にかかってご自身の契約の民の罪を贖ってくださったことと、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださって、ご自身の契約の民を新しいいのち、復活のいのちに生きる者としてくださったことによっています。そして、教会が歴史を通して地にあって、さまざまな問題を抱えているけれども、天に属しているものとして存在し続けることができたのは、また、この後も存在し続けることができるのは、栄光の主であられるイエス・キリストが「七つの星」を右手にもっていてくださるからです。
 その右手は利き手であって、主の契約の民のために救いとさばきの御業を遂行される力強い御手です。言うまでもなく、さばきは主に敵対する暗やみの主権者と、人も悪霊たちも含めた、その軍勢に対するさばきです。詩篇118篇15節ー16節には、

 喜びと救いの声は、正しい者の幕屋のうちにある。
 の右の手は力ある働きをする。
 の右の手は高く上げられ、
 の右の手は力ある働きをする。

と記されています。
 イエス・キリストの右の御手は「力ある働きをする」のですが、その「力ある働き」の中心は、ご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりです。これを欠いては、真の意味で「力ある働きをする」ことはできません。これによってイエス・キリストは、私たちご自身の契約の民を死と滅びから解放してくださっただけでなく、暗やみの主権者の権威を無効にし、私たちをその主権の下から解放してくださいました。さらに、私たちを契約の神である主、ヤハウェの御臨在の御前に恐れなく近づき、愛にあるいのちの交わりに生きる者としてくださいました。
 これらのことを示しているみことばの教えをいくつか見てみましょう。ヘブル人への手紙2章14節ー15節には、

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

と記されています。ここには、イエス・キリストが十字架の死によって、暗やみの主権者の権威を無効にされて、私たちをその主権の下から解放してくださったことが示されています。これと同じようなことが、コロサイ人への手紙1章13節ー14節に、

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。

と記されています。また、同じ手紙の2章9節ー15節には、

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。

と記されています。さらに、、イエス・キリストがその十字架の死によって、私たちを主の御臨在の御許に近づく者としてくださったことが、ヘブル人への手紙10章19節ー22節に、、

こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。

と記されています。
 イエス・キリストの右の御手は。ご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、私たちを死と滅びの力と暗やみの主権者の圧制の下から解放してくださり、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者としてくださいました。そして、今も、そのことを私たちの現実としてくださるために必要なことをなしてくださいます。
 その際に、キリストのからだである教会の一つ一つの群れは、それぞれが異なった状況に置かれています。また、その一つ一つの群れに属する一人一人も、それぞれ異なった事情の中にあります。イエス・キリストの右の御手は、そのようなさまざまな状況、さまざまな事情を無視することなく、一つ一つの群れ、それを構成する一人一人に応じて、ふさわしくこまやかなご配慮をもって力ある働きをします。
 そのことの現れが、この時、イエス・キリストの栄光の御姿に接して、「その足もとに倒れて死者のようになった」ヨハネに、栄光の主であられるイエス・キリストが、ご自身の右の御手を置いてくださったことです。私たちは、これはヨハネだけに起こった特別なことであると考えたくなります。確かに、イエス・キリストの栄光の御姿の現れ、クリストファニーに接したことと、それによって「その足もとに倒れて死者のようになった」ことは、ヨハネに起こった特別なことです。けれども、そのようになったヨハネに、イエス・キリストがその右の御手を置いてくださったことは、ヨハネだけに起こった特別なことではありません。そのようなことが、その後にはめったになされないということではありません。イエス・キリストは今も、ご自身のみからだである教会の一つ一つの群れのために、さらには、ご自身の契約の民である私たち一人一人のために、それぞれにふさわしいご配慮をもって、その力ある右の御手を働かせてくださっています。その一つの現れが、ヨハネの上に右の御手を置いてくださったことです。
 これによって、イエス・キリストはご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、ヨハネを支えてくださり、励ましてくださっています。これが、イエス・キリストがその右の御手をヨハネの上に置いてくださったことの意味の一つです。これには、もう一つの意味があると考えられますが、きょうはそのことに触れることはできません。
 イエス・キリストは、続いてヨハネに、

 恐れるな。

と語りかけてくださいました。ヨハネは、イエス・キリストがその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業にあずかっています。そのヨハネにとって、もはや、栄光の主の御臨在は滅びをもたらす恐怖の対象ではなく、主との愛にあるいのちの交わりをもたらす祝福の源となっているはずです。ただ、実際には、ヨハネは、自らのうちになおも罪の性質を宿しており、実際に罪を犯してしまう状態にありましたし、そのことを十分に自覚していました。それで、自分から主の栄光の御前に立つことができるとは言い難いところがあったことでしょう。そのような状態にあるヨハネには、そのことを、栄光の主であられるイエス・キリストご自身から確証していただく必要がありました。そのようにして、イエス・キリストは、ヨハネに、

 恐れるな。

と言ってくださいました。
 ここで、ヨハネに、

 恐れるな。

と言われた主は、ヨハネのために十字架におかかりになってその罪を完全に贖ってくださり、ヨハネが主の栄光の御臨在の御許で主との愛にある交わりに生きるようになるために、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったイエス・キリストです。イエス・キリストはヨハネから恐れの原因を取り除いてくださり、この時は、実際に、恐れを取り除いてくださったのです。
 私たちもヨハネと同じように、イエス・キリストがその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業にあずかっています。ですから、イエス・キリストは、私たちをも、同じように、右の御手をもって支えてくださり、励ましてくださいます。また、必要に応じて、

 恐れるな。

と語りかけてくださり、私たちから恐れを取り除いてくださいます。それは、ご自身が私たちのために十字架におかかりになってその罪を完全に贖ってくださり、私たちが主の栄光の御臨在の御許で主との愛にある交わりに生きるようになるために、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださっていることを、御霊によって、私たちに悟らせてくださることによっています。
 イエス・キリストがその力ある右の御手を働かせてくださることは、御霊によって、私たちの現実となります。イエス・キリストは御霊によって、私たちをご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずからせてくださって、新しく生まれさせてくださり、神の子どもとしての確信を与えてくださり、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きる者としてくださっています。そして、私たちそれぞれの置かれた状況や事情にふさわしく、支えてくださり、導いてくださり、いやしてくださり、励ましてくださいます。

          *
 このこととのかかわりで、ローマ人への手紙8章28節ー30節を見てみましょう。そこには、

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

と記されています。
 28節で、

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

と記されていることは、まさに、神さまの右の御手のお働きによることです。その、神さまの右の御手のお働きは、御子イエス・キリストがその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた私たちのための贖いの御業に基づくものです。

 神がすべてのことを働かせて益としてくださること

については、さらに、29節と30節で説明されています。
 29節には、神さまは、

あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた

と記されています。これは、神さまの永遠のご計画によることです。私たちの救いは、最終的には、私たちが「御子のかたちと同じ姿に」していただくことをもって完成します。そのことは、ヨハネの手紙第一・3章2節に、

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

と記されています。ローマ人への手紙8章28節で、

 神がすべてのことを働かせて益としてくださる

と言われているのは、私たちを、最終的に「御子のかたちと同じ姿に」してくださるために、

 神がすべてのことを働かせて益としてくださる

という意味です。
 30節では、

神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

と言われています。ここには、組織神学で取り扱われる「救いの順序」に当たることが示されています。けれども、ここではその代表的なことが記されているだけです。みことばは、神さまがここに記されていること以外にも、いくつかの救いの祝福を、私たちに与えてくださっていることを示しています。
 この30節は、新改訳ではすっきりとした文として訳されていますが、原文のギリシャ語では少し丁寧な言い方がされています。それを直訳調に訳しますと、

彼があらかじめ定めてくさった人々を、この人々を彼はさらに召してくださいました。また、彼が召した人々を、この人々を彼はさらに義と認めてくださいました。また、彼が義と認めてくださった人々を、この人々を彼はまた栄光ある者としてくださいました。

となります。この場合の「」は、神さまのことです。
 このような言い方から、少なくとも、二つのことを汲み取ることができます。
 第一に、ここでは、分詞や不定詞は用いられていなくて、すべてが定動詞で表されています。そして、その主語はすべて神さまです。ここに記されているすべてのことは神さまがなしてくださり、私たちはただそれにあずかっているだけです。神さまがすべてのことをなしてくださっているのですから、そのすべてのことは必ず成し遂げられ、私たちの現実となります。
 第二に、最初の段階について言いますと、神さまが「あらかじめ定めてくさった人々を」の後に、さらに「この人々を」と確認するようにして言われてから、「さらに召してくださいました」と言われています。そして、すべての段階でこのような言い方になっています。これによって、神さまが「あらかじめ定めてくさった人々」が、ひとりも漏れることなく、すべて、最後の段階に至ること、すなわち、「栄光ある者として」いただくようになることが示されています。
 そのように、29節で、神さまが「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ」定めてくださったと言われている人々を、30節では、神さまがさらに召してくださったと言われています。そして、神さまが召してくださった人々はすべて、必ず、栄光ある者としていただくようになります。
 神さまがこのように召してくださったことを、神学的には「有効召命」と呼びます。神さまの召しはご自身の権威に基づく召しです。私たちはこの神さまの召しにあずかっています。具体的には、神さまは、御霊によって、私たちの心を開いてくださり、ご自身の召しに応答して、神さまを信じ、イエス・キリストの御許に行くことができるようにしてくださいました。
 ヨハネの福音書6章44節には、

わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

と記されています。また、この少し前の、37節には、

父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。

と記されています。ここで、イエス・キリストの御許に行くということは、イエス・キリストを信じるようになるということを意味しています。「有効召命」の根底には、このような父なる神さまと御子イエス・キリストの一方的な愛と恵みによるみこころがあります。私たちが福音のみことばを聞いてそれを理解したのは、そして、イエス・キリストの御許に行ったのは、確かに、私たちのしたことです。私たちがそのようにすることができたのは、それに先立って、神さまが一方的な愛と恵みによって、私たちのために御子イエス・キリストをお遣わしになり、その十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、私たちの罪を贖ってくださっていたからです。そして、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって、私たちをイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずからせてくださったからです。御霊は私たちをイエス・キリストと一つに結び合わせてくださり、イエス・キリストの復活のいのちにあずからせてくださって新しく生かしてくださり、それによって、私たちが福音のみことばを理解し、福音のみことばにあかしされているイエス・キリストを信じるように導いてくださいました。それで、私たちはイエス・キリストを信じることができたのです。
 このような、御霊による神さまのお働きは私たちを外から動かすものではなく、私たちの知性や感情や意志の働きを活かしてくださるものです。私たちはこれを、御霊の「有機的なお働き」と呼んでいます。それで、私たちはこのような御霊のお働きを感じ取ることができません。けれども、私たちは、この御霊のお働きによって、福音のみことばを理解することができるようになり、福音のみことばにあかしされているイエス・キリストと、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業を信じることができるようになりました。
 神さまは、そのようにして、イエス・キリストを信じた私たちを、義と認めてくださいました。もちろん、これも神さまがその一方的な愛と恵みによって、私たちのためになしてくださったことです。
 そして、神さまは義と認めてくださった者たちを、すべて、栄光ある者としてくださると言われています。ここ30節で、私たちを「栄光ある者として」くださると言われていることは、私たちを、その前の29節で言われている「御子のかたちと同じ姿に」してくださることにほかなりません。
 30節の直訳で、

 この人々を彼はまた栄光ある者としてくださいました。

と言われていることは、世の終わりの日にイエス・キリストが再臨されて、私たちを栄光のからだによみがえらせてくださるときに実現することです。けれども、ここではそのことが、基本的に過去のことを表す不定過去時制で表されています。それには理由があります。すでに過去に起こったことは変更できません。その意味で、確定しています。それと同じように、神さまがなしてくださること、この場合は、私たちを栄光ある者としてくださることは、最も確かなことですので、不定過去時制で表されていると考えられます。
 このようにして、神さまは、29節で「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ」定めてくださったと言われている人々を、ひとりも漏らさず、すべて、そして、必ず、「栄光ある者として」くださいます。言い換えますと、「御子のかたちと同じ姿に」してくださいます。そのために、神さまは、28節に記されていますように、「すべてのことを働かせて益としてくださる」のです。繰り返しになりますが、それは、栄光の主であられるイエス・キリストが、その右の御手を働かせてくださって、すべてのことを益としてくださるということです。
 先ほど、ヨハネがイエス・キリストの栄光の御姿の現れ、クリストファニーに接したことと、それによって「その足もとに倒れて死者のようになった」ことは、ヨハネに起こった特別なことであるということをお話ししました。けれども、終わりのにには、人類のすべてが、父なる神さまの栄光を帯びて再臨されるイエス・キリストの栄光の御臨在の御前に立つことになります。それは、ここでヨハネが幻のうちに示されて経験していることの現実にほかなりません。そして、私たちはその時を滅びを予感させる恐怖の時としてではなく、主との愛にあるいのちの交わりをもたらす祝福が実現する時として迎えることになります。それは、その時には、神さまが私たちを、御子イエス・キリストによって、必ず、栄光ある者、「御子のかたちと同じ姿に」してくだるからです。このように、主の栄光の御臨在の御前で、私たちを立たせてくださり、御顔を仰ぐことができるようにしてくださるのは、私たちの主イエス・キリストです。イエス・キリストの右の御手のお働きによって、私たちは栄光ある者としていただき、主の栄光の御臨在の御前に立って、主との愛にあるいのちの交わりに生きるようになります。


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