黙示録講解

(第121回)


説教日:2013年6月9日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章9節ー20節
説教題:栄光のキリストの顕現(22)


 ヨハネの黙示録1章9節ー20節には、イエス・キリストがご自身の栄光の御姿を、黙示録の著者であるヨハネに現してくださったことが記されています。
 ヨハネに示された栄光のキリストの御姿のことは、12節ー16節に、

そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。 それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

と記されています。
 このようなイエス・キリストの栄光の御姿を見たヨハネのことが、17節には、

それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。

と記されています。これまでお話ししてきましたように、このことの背景には、出エジプト記33章20節に記されています、

 人はわたしを見て、なお生きていることはできない

という、契約の神である主、ヤハウェがモーセに語られたみことばの教えがあります。モーセは、その人柄においてもまた能力においても、地上で生きた人類の中でも最もすぐれた人のひとりに数えられるべき人物です。そのモーセであっても、主から、

 人はわたしを見て、なお生きていることはできない

と言われるほかはない状態にありました。それは、人類が最初の人アダムにあって、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっているために、すべての人が生まれながらに罪の性質をもって生まれてくるからです。そして、実際に、思いとことばと行いのすべてにおいて罪を犯してしまうからです。そのような状態にある人が、主の栄光の御臨在の御許に近づくようなことがあれば、主の聖さを冒す者として、さばきを受けて滅ぼされてしまいます。それは、たとえモーセであっても、例外ではありません。


 以上は先主日までにお話ししたことです。このことには大切なことがかかわっていますので、きょうは、黙示録のお話としては少し遠回りになりますが、それについてお話ししておきたいと思います。
 それは、

 人はわたしを見て、なお生きていることはできない

という、主のみことばが教えている神である主と人との関係のあり方は、神である主と人の関係の本来の姿ではないということです。
 天地創造の御業において、神さまは人をご自身のかたちにお造りになりました。創世記1章27節に、

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

と記されているとおりです。そして、創世記2章7節に、

神であるは土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。

と記されていますように、神である主は限りなく身を低くされて、人と向き合ってくださるような形で、人をお造りになりました。そして、続く8節に、

神であるは東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。

と記されていますように、人を、ご自身がご臨在される所として聖別されたエデンの園に置いてくださいました。これによって、人はそこにご臨在される神である主との愛にあるいのちの交わりに生きるようになりました。これが神のかたちに造られた人の本来のあり方であり、神である主と人の関係の本来の姿でした。この時には、人は神である主の栄光の御臨在の御前に恐れなく近づいて、主の御顔を仰ぎ、主との愛の交わりの自由の中で主を知り、主を喜びとしていました。
 一般には、エデンの園は「楽園」と呼ばれていますが、これには注意が必要です。確かに、エデンの園はいのちの豊かさに満ちていた所でしたし、そこで人は豊かないのちを享受していました。しかし、そのいのちの豊かさは神である主の御臨在に伴い、神である主の御臨在の現れとしての豊かさでした。決して、神である主の御臨在を離れて、エデンの園そのものがいのちの豊かさにあふれていたわけではありません。あくまでも仮定の話ですが、もし神である主の御臨在がエデンの園を離れ去ることがあったとしたら、そこも不毛の地になってしまっていたはずです。エデンの園の本質は人の「楽園」であることにあるのではなく、契約の神である主、ヤハウェがご臨在される所であることにありました。そして、それゆえに、エデンの園は神のかたちに造られた人にとっても祝福に満ちた所であったのです。

 このように、創造の御業において神のかたちに造られた人は、エデンの園にご臨在される契約の神である主、ヤハウェとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きていました。けれどもそれは、無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまご自身を直接的に見るということではありません。
 少し複雑な話になりますが、これはとても大切なことです。
 造り主である神さまと、神さまによって造られた人との間には、絶対的な区別があります。造り主である神さまが造られたものと絶対的に区別されることが、神さまの聖さの本質です。それで、神さまによって造られた人は、たとえ、最初に造られたままの状態の人、罪を犯して堕落する前の人であっても、無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまを直接的に見ること、知ることはできません。そのようなことができると考えることは、神さまと自分たちの間の絶対的な区別を否定することで、神さまの聖さを冒すことです。
 このことを示しているみことばとして考えられるのは、いろいろな機会に引用していますが、テモテへの手紙第一・6章15節後半ー16節に記されている、

神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。

というみことばです。
 ここでは、神さまのことが、

 人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。

と言われています。
 もちろん、神さまには物質的な要素がありませんから、神さまを目で見ることはできません。物質的な要素がないために見ることができないということは、御使いたちや悪霊たちにも当てはまります。けれども、ここでは、そのことを言っているのではありません。
 また、これには、「罪のある人間」は神さまを見ることができないという限定はありません。たとえ、最初に造られたままの状態にあったアダムであっても、ここで言われている意味で、神さまを見ることはできなかったのです。
 そうしますと、創造の御業において神のかたちに造られた最初の人とその妻が、エデンの園で、栄光の主、ヤハウェの御臨在の御前に恐れなく近づき、主の御顔を仰ぎ見つつ、主との愛にあるいのちの交わりのうちに生きていたということをどのように考えたらいいのでしょうか。
 この問題を解く鍵は、ヨハネの福音書1章18節に記されています。そこでは、

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

と言われています。この場合も、

 いまだかつて神を見た者はいない。

と言われていることには、最初に造られたままの状態にあったアダムも含まれています。けれども、

 父のふところにおられるひとり子の神

すなわち、ご自身が無限、永遠、不変の栄光の主であられる神の御子が、神さまを「説き明かされた」と言われています。神さまは御子にあって、また、御子によってこの世界をお造りになりました。また、神さまは御子にあって、また、御子によって、ご自身を私たち人間に、また、御使いたちに、さらには悪霊たちにも、啓示されます。私たちや御使いたち、さらには悪霊たちが、何らかの形で神さまを知ることができるのは、御子が神さまを私たちに分かるように啓示してくださっているからです。
 より一般的なこととして言いますと、みことばは、三位一体の神さまが御業をなさるときには、人間に合わせた言い方になりますが、御父、御子、御霊の間で「役割分担」をされることを示しています。父なる神さまは無限、永遠、不変の栄光の神さまご自身を代表する立場に立たれ、ご自身の無限、永遠、不変の栄光を表現しておられます。そして、永遠の次元において、創造の御業と贖いの御業をご計画しておられます。御子は父なる神さまのみこころにしたがって、創造の御業と贖いの御業を遂行されます。その意味で、御子がこの世界にかかわってくださるのです。それも、ご自身の無限、永遠、不変の栄光を隠し、無限に身を低くして、この世界と私たちにかかわってくださっています。そして、御霊は、御子が遂行された創造の御業と贖いの御業を、それにあずかっている一つ一つのもの、創造の御業であれば造られた一つ一つのものに、贖いの御業であれば贖われた主の契約の民の一人一人にふさわしく当てはめてくださり、それぞれの特性にしたがって活かしてくださっています。
 このことを神さまの啓示に当てはめますと、無限、永遠、不変の栄光の神さまご自身を代表しておられる父なる神さまを、直接的に見ることができる被造物は、人であっても御使いであっても、ひとりもいません。人も御使いも、さらには、悪霊たちでも、無限に身を低くしてご自身を表してくださっている御子によって啓示された神さまを知ることができるだけです。また、天地創造の御業によって神のかたちに造られた人が、エデンの園において、栄光の主の御臨在の御前に近づいて、主との愛にあるいのちの交わりができたのは、御子がその無限、永遠、不変の栄光を隠し、無限に身を低くして、エデンの園にご臨在してくださったからです。
 私たちは神さまが三位一体の神さまであられることをみことばの教えから汲み取って初めて、神さまが無限、永遠、不変の栄光の神さまであられ、私たち被造物と絶対的に区別されるお方であるのに、被造物である私たちが神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることができる、ということを理解することができます。
 私たちは、神さまが私たちとこの世界をお造りになった方であられ、私たちは神さまによって造られたものであることを心に刻みます。そして、神さまと私たちの間にある絶対的な区別を認めます。その意味で、神さまが聖なる方であられることを認めます。
 そのように、神さまが聖なる方であられることをどのようにして表すかといいますと、神さまを礼拝することによってです。神さまだけが聖なるお方であられ、礼拝されるべきお方です。それで、造り主である神さま以外のものを神とすることは、神さまの聖さを冒すことになります。私たちは何よりもまず、造り主である神さまと神さまによって造られた私たちとの間にある絶対的な区別を認めて、神さまを聖なるお方として礼拝するものです。
 改めて確認するまでもないかも知れませんが、造り主である神さまが無限、永遠、不変の神であられ、私たち被造物と絶対的に区別される聖い神であられるのに、どうして、私たちが神さまの御臨在の御前に近づいて神さまを礼拝することができるのか、それは神さまの聖さを冒すことではないのかという問題があります。これは、私たちは御子にあって私たちの間にご臨在してくださる神さま――それは、すなわち、無限に身を低くして私たちの間にご臨在してくださっている御子です――を、礼拝しているということを認めることによって解決します。

 神のかたちに造られた人は、初めから、神である主の御臨在の御許に住まい、主の御顔を仰ぎ見ていました。このことは、人にとって最も自然で、喜びに満ちていることでした。もちろん、この神である主との愛にあるいのちの交わりの中心は、神さまの御臨在の御前に出でて、神さまを礼拝することにありました。
 けれども、神のかたちに造られた人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったときに、人にとって神である主の御臨在は恐怖の的になりました。人が堕落した直後のことを記している創世記3章7節ー10節には、

このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神であるの声を聞いた。それで人とその妻は、神であるの御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神であるは、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」

と記されています。
 7節には、

このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。

と記されています。これは人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落する前のことを記している、2章25節に、

 人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。

と記されていることを受けています。この2章25節に記されていることは、ただ単に身体的に裸であるということだけではありません。二人はお互いにすべてを与え合っていて、隠さなければならないと感じるものは何もなかったということです。けれども、それがすべてであったのではありません。二人がそのようにお互いに対してすべてをさらけ出すことができたのは、それぞれが神である主との本来の関係にあり、主との愛にあるいのちの交わりのうちにあったからです。神である主との関係が愛の交わりの関係であることの上に、二人の関係が築かれていたので、二人がすべてを与えあっても、隠さなければならないと感じるものは何もなかったのです。
 そのことが明らかになるのは、二人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった直後のことを記している3章7節ー10節に記されていることにおいてです。二人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった時、二人の間には、お互いに対して隠すべきものがあることを、それぞれが独立して感じるようになりました。それは、2章25節に、

 互いに恥ずかしいと思わなかった。

と言われていることに照らしてみますと、お互い「恥ずかしい」と思うようになったということです。それでこれは、いわば「恥の意識」と言えるものです。
 お互いの間でこのような「恥の意識」をもっていた間は、

いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。

ということで、何とか間に合っていました。けれども、神である主の御臨在に伴う現象に触れると、二人は、

 神であるの御顔を避けて園の木の間に身を隠した。

と言われています。神である主の御臨在の御前においては、もはやお互いの間で間に合っていたいちじくの葉ではまったく間に合わないことがあらわになりました。また、神である主の御臨在の御前において二人が感じたことは、神である主の、

 あなたは、どこにいるのか。

という呼びかけに答えた、最初の人の、

私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。

ということばに表されています。それは、二人の間で感じていた「恥ずかしい」という思いを越えた、恐れであり、自らの滅びを予感させる恐怖感でした。
 このことから分かることは、人とその妻の間に生じた「恥ずかしい」という思いのさらに奥には、神である主の栄光の御臨在に対する恐怖感があったということです。これを地震にたとえてみますと、お互いの間で「恥ずかしい」と思っていたことは、余震に当たります。その本震に当たるのは、契約の神である主に対する恐怖感でした。いずれにしましても、神である主との本来の関係が損なわれてしまったことが根底にあり、そのことがお互いの間での「恥ずかしい」という思いを生み出していたのです。

 いまお話ししていることとの関連で言いますと、この時、人とその妻は神である主の栄光の御臨在の御前に出て、それに直接的に接してはいません。もし主の栄光の御臨在に直接的に接していたとしたら、主は、

 あなたは、どこにいるのか。

という呼びかけをすることはなかったでしょう。また、もし二人が直接的に主の栄光の御臨在の御前に出ているとしたら、二人には、主がモーセに語られた、

 人はわたしを見て、なお生きていることはできない

というみことばが示していることが当てはまり、二人は主の聖さを冒す者としてさばきを受けて滅ぼされていたはずです。人とその妻は、神である主の栄光の御臨在に伴う現象に接し、主の御声を聞いているだけです。そして、主の栄光の御臨在からは身を隠して、主の御声に答えています。
 このように人は、契約の神である主、ヤハウェに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっているので、主の栄光の御臨在の御前に立つことはできません。
 創世記3章24節に、

こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。

と記されていますように、最初の人アダムが神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったときに、神である主はアダムとエバをエデンの園から追放して、「エデンの園の東」すなわち正面に「ケルビムと輪を描いて回る炎の剣」を置かれて、人がそこから神である主がご臨在されるエデンの園に入って「いのちの木への道」を通って主の栄光の御臨在に近づくことがないようにされました。
 これは、一般には、「楽園追放」というようなことで知られています。けれども、このような理解にも注意する必要があります。これは本性が罪によって腐敗してしまっている人が、その罪の自覚のないままに、神である主の栄光の御臨在のあるエデンの園に入り込んで、主の聖さを冒す者としてさばかれ、たちどころに滅ぼされてしまうことがないようにという、神である主の取り計らいによることです。
 最初の人とその妻は、神である主の御臨在に対して、滅びの予感をともなう恐れを感じていました。ですから、二人は主の御顔、すなわち、主の御臨在を避けて園の木の間に身を隠しました。もし二人がそのままエデンの園の中に置かれていたとしますと、二人は滅びの予感をともなう恐怖におののきながら、主の御顔を避けるためにあちこち逃げ惑うほかはなかったことでしょう。神である主はそのような二人を、ご自身の御臨在のあるエデンの園の外においてくださったのです。
 同時に、神である主は、アダムの子孫が自らの罪を自覚しないままに、いのちの木について誤解をして、主の御臨在への恐れもないままに「いのちの木への道」を通って主の栄光の御臨在に近づくことがないようにされました。
 この時以来、神である主と人との関係は、

 人はわたしを見て、なお生きていることはできない

という主のみことばが教えている状態になりました。
 けれども、神である主は、ただ、人をご自身の御臨在の御前から追放されたのではありません。それに先立って、人を惑わして、神である主に対して罪を犯すように誘惑した「蛇」というより、その背後にあって働いていたサタンに対するさばきを記している3章15節に、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

と記されている「最初の福音」において、「女の子孫」のかしらとして来られる贖い主を約束してくださっています。最初の人とその妻は、この「最初の福音」の約束を信じて、神である主の御臨在のあるエデンの園から出て行きました。
 当然、二人は神である主の御臨在があることを表示し、それを守護している御使いである「ケルビムと輪を描いて回る炎の剣」に接していました。それは、神である主の御臨在、すなわち、主の栄光の顕現(セオファニー)に伴う生き物と現象に接することでした。アダムとその家族はそこに、というか、その先に、栄光の主の御臨在があることを信じて、「ケルビムと輪を描いて回る炎の剣」のあるところで、主を礼拝していたと考えられます。それも、「最初の福音」に約束されている「女の子孫」のかしらとして来てくださる贖い主によって、再び神である主のと愛にあるいのちの交わりが回復されることを信じてのことでした。詳しい説明は省きますが、少なくとも、アダムとエバ、アベルとセツは「最初の福音」に約束されていた贖い主を信じていたと考えられます。
 これ以後の人類は、神である主の御臨在の御前から退けられている者として生まれてきます。また実際に、自らのうちに罪の本性を宿す者として生まれてきますし、そのために、神である主に対して罪を犯します。けれども、神である主の一方的な愛とあわれみにあずかり、まったくの恵みによって、「最初の福音」に約束されている「女の子孫」のかしらとして来てくださる贖い主に対する信仰をもつようになった「女の子孫」たちがいます。それが主の契約の民です。
 創世記3章15節に出てくる「女の子孫」は単数形ですが、集合名詞で共同体を表しています。聖書においては、共同体には「かしら」がいます。もう一方の「おまえ」と「おまえの子孫」の共同体には「かしら」がいます。それは、言うまでもなく「おまえ」と呼ばれている「蛇」の背後で働いていたサタンです。それに対応する「」と「女の子孫」の共同体にも「かしら」がいるはずです。それは「」ではなく「女の子孫」の中にいます。その「女の子孫」の「かしら」であられる方が、約束の贖い主です。
 その「女の子孫」のかしらとして来てくださる贖い主は、人としての性質を取って来てくださった御子イエス・キリストです。御子イエス・キリストが来てくださるまでの間は、約束の時代で、古い契約の下にある時代でした。その時代の主の民は、アダムとその家族が契約の神である主、ヤハウェの栄光の御臨在を表示し、それを守護する生き物であるケルビムによって仕切られる形で、その先にある、栄光の主の御臨在を信じて礼拝をささげていたのと実質的に同じ状態で神である主を礼拝していました。
 実質的に同じ状態というのは、形が変わっているけれども、実質的に同じということです。どういうことかと言いますと、契約の神である主の御臨在のあるエデンの園は、おそらく、ノアの時代の大洪水によるさばきによって出あると思われます
が、ある時から失われています。それ以後は、神である主の栄光の御臨在を表示し、守っているケルビムもその役割を終えています。それで、主の民もケルビムのいるところに行って、神である主を礼拝することはなくなりました。けれども、主の民が、罪のあるままの状態で、神である主の栄光の御臨在の御前に近づくことができないようにされている点は、変わってはいません。
 それがモーセの時代に幕屋として制度化され、見える形においてその現実が示されるようになりました。それが「地上的なひな型」である幕屋です。それが、後に、エルサレム神殿となっていきました。
 幕屋においては、ケルビムを織り出した垂れ幕によって仕切られている聖所と、さらにその奥に、やはりケルビムを織り出した垂れ幕によって仕切られた至聖所がありました。神である主の栄光の御臨在はその至聖所にありましたが、主の契約の民はなおも、その御前に近づくことはできませんでした。まだ、約束されている贖い主による罪の贖いが成し遂げられていなかったからです。モーセも人としては人類の歴史の中で、最もすぐれた人のひとりに数えられる人物でしたが、なおも古い契約の限界の中に生きていました。ノアも、アブラハムも、ダビデも、預言者たちもそうでした。
 イエス・キリストは約束されている贖い主として来てくださって、十字架の死によってご自身の契約の民の罪を完全に贖ってくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださって、ご自身の契約の民を復活のいのちによって新しく生まれさせてくださいました。
 これによって、神である主の栄光の御臨在があることを表示しつつ、人と神である主の栄光の御臨在を仕切っていた、ケルビムを織り出している垂れ幕は取り去られました。十字架につけられたイエス・キリストが息を引き取られた時のことを記している、マタイの福音書27章51節には、

 すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

と記されています。これによって、御子イエス・キリストの十字架の死によって罪を贖われた主の契約の民が、恐れなく、神である主の御臨在の御許に近づいて、神である主の御顔を仰ぎ見て礼拝をすることができるようになりました。ヘブル人への手紙10章19節ー20節に、

こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。

と記されているとおりです。
 ここに出てくる「まことの聖所」とは、9章24節で「天そのもの」と言われており、そこに父なる神さまと御子イエス・キリストの御臨在のある所です。また「この新しい生ける道」の「新しい・・・道」とは、古い契約の下では開かれていなかったのに、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いが成し遂げられたことによって開かれた道、その意味で新しい道のことです。また、「生ける道」とは、何となく道が生きているというように感じられますが、そういうことではなく、これがいのちに至る道であるということを意味しています。すなわち、父なる神さまと御子イエス・キリストの御臨在の御許における、礼拝を中心とした愛にあるいのちの交わりへと至る道のことです。
 これは、先ほどお話ししましたように、最初の人とその妻は、神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったために、エデンの園から追放されました。神である主は罪ある者が「いのちの木への道」を通って、主の栄光の御臨在に近づくことがないようにされました。今や、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いによって、贖われた者たちは「いのちの木への道」に当たる「新しい生ける道」を通って、神である主の御臨在の御許、天にあるまことの聖所に入ることができるのです。
 私たちはすでにこの祝福にあずかって、今このように、天にあるまことの聖所において私たちの大祭司として仕えてくださっている御子イエス・キリストが主宰してくださっている礼拝をささげています。けれども、この祝福の完全な実現は、終わりの日に御子イエス・キリストが再び来てくださって、私たちを栄光のからだによみがえらせてくださり、文字通り、契約の神である主、ヤハウェの栄光の御臨在の御前に立たせてくださる時を待たなければなりません。
 その時に、造り主である神さまと神さまによって造られたものである私たちの間にある絶対的な区別がなくなるのではありません。いま私たちのうちにはなおも罪の性質が残っていますので、私たちは神である主と私たちの間にある絶対的な区別を十分にわきまえることができないでいます。けれども、その時には、私たちの罪がまったくきよめられるばかりか、私たちが栄光あるものとされますので、私たちは神さまと私たちの間にある絶対的な区別を、明確にわきまえるようになります。その上でなおも、その栄光の主の御臨在の御前に近づくことができるようにしてくださった神である主の一方的な愛の深さと恵みの大きさに圧倒されて、神さまを礼拝するようになるでしょう。


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