黙示録講解

(第120回)


説教日:2013年6月2日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章9節ー20節
説教題:栄光のキリストの顕現(21)


 黙示録1章9節ー20節には、イエス・キリストがその栄光の御姿をヨハネに示してくださったことが記されています。ヨハネは11節にその名が記されている「アジヤにある七つの教会」の牧会者でした。しかし、この時は、ローマ帝国からの迫害を受けて、9節に記されていますように、パトモスという島に流刑になっていました。これはローマ帝国においてクリスチャンに対する迫害が厳しくなっていることの現れでした。実際に、「アジヤにある七つの教会」のいくつかの教会は迫害にさらされていました。
 イエス・キリストは、そのような厳しい状況にあったヨハネにご自身の御姿を現してくださいました。そして、19節にあることばで言いますと、「今ある事、この後に起こる事」を黙示による啓示によって示してくださり、それを書き記して「アジヤにある七つの教会」に送るように命じられました。そのようにして記されたのが、今日、私たちが手にしているヨハネの黙示録です。
 先週から、17節ー18節に記されています、

それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

というみことばについてのお話を始めました。
 17節には、

 それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。

と記されています。
 これはこれに先立って12節ー16節に、

そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

と記されていますように、ヨハネがイエス・キリストの栄光の御姿に接したために起こったことです。
 これと同じようなことが、旧約聖書に何回か記録されていますので、先週は、エゼキエルが捕囚の地であるバビロンで主の栄光の顕現に接して、その御前にひれ伏したことと、ダニエルが御使いの現れに接して、からだの力が抜けしまい、その語る声を聞いて意識を失ってうつぶせに倒れたことを取り上げました。
 先週お話ししましたことですが、これらのことの背景には、出エジプト記33章18節ー20節に記されているモーセと主とのやり取りにおいて示されていることがあります。その時の状況については省略しますが、モーセは、主に、

 どうか、あなたの栄光を私に見せてください。

とお願いしました。それに対して、主は、

あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。

とお答えになりました。ここでは、

 人はわたしを見て、なお生きていることはできない

ということが示されています。これは、罪がある人間が、罪のあるままで主の栄光の御臨在の御前に立つようなことがあれば、主の聖さを冒す者として、直ちにさばきを受けて滅ぼされてしまうということを意味しています。それはモーセであっても例外ではありませんでした。モーセは古い契約の仲保者として、王、祭司、預言者の職務を兼ね備えていたばかりか、モーセの後に主が起こしてくださった、イスラエルの王たち、祭司たち、預言者たちの働きの土台を築いた人物です。そればかりではありません。モーセは人としてもまことに謙遜な人でした。民数記12章3節において、

 さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。

とあかしされているとおりです。そのモーセに対しても、主は、

あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。

と言われたのです。
 それは、モーセであっても、なおも、自らのうちに罪を宿しており、実際に、思いとことばと行いにおいて罪を犯してしまうからです。そのような状態のままで、主の栄光の御臨在の御前に近づくなら、主の聖さを冒す者としてさばきを受けて、滅ぼされるほかはありません。
 先週は、主がモーセの、

 どうか、あなたの栄光を私に見せてください。

という願いにお応えになって、ご自身の栄光の御姿を、モーセが後ろから見る形で示してくださったことをお話ししました。その中心は目に見える形で示されたことにではなく、御名による宣言として示されたことにありました。それが、出エジプト記34章5節ー7節に、

は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、の名によって宣言された。は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」

と記されています。
 この主の御名による宣言は、主がどのような神であられるかを啓示してくださったものです。先週お話ししたことですので詳しい説明は省きますが、ここで主は、ご自身が「あわれみ深く、情け深い神」であられ、「恵みとまこと」に富んでおられる方として、ご自身の契約に対して真実であられ、契約によって約束してくださった一方的な愛と恵みを変えられることがないこと(これが「恵みとまこと」ということばが意味していることです)をお示しになりました。さらに、「咎とそむきと罪を赦す」方として、どのような罪であっても、契約の約束のとおりに、すべて赦してくださる方であることもお示しになりました。


 先週は、主がその栄光の御臨在の御許からの宣言によって、ご自身がどのような方であるかをモーセに啓示してくださったことについてお話ししましたが、それによって示された、主がどのような罪をも赦してくださる方であられることについては、十分お話しできなかったという思いが消えません。そのことを告白させていただくとともに、もう少しお話を続けさせていただきたいと思います。とはいえ、これもすでにお話ししたことを再確認することになってしまいます。
 旧約聖書には、先週取り上げましたエゼキエルやダニエル以外にも、主の栄光の御臨在や御使いの現れに接した人は何人か記録されています。そのひとりですが、私たちがよく知っている預言者イザヤのことを取り上げたいと思います。
 イザヤ書6章1節ー5節には、

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。
 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の
 その栄光は全地に満つ。」
その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。そこで、私は言った。
 「ああ。私は、もうだめだ。
 私はくちびるの汚れた者で、
 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。
 しかも万軍のである王を、
 この目で見たのだから。」

と記されています。ここでイザヤは、主がモーセに語られた、

 人はわたしを見て、なお生きていることはできない

という主のみことばが示していることを、自らの滅びを実感させられるという恐ろしい形で思い知らされました。これが罪のある人間が罪のあるままで、主の栄光の御臨在に接してしまうことの恐ろしい現実です。
 そうであれば、私たち罪ある人間は主の栄光の御臨在から離れていればいいのではないかと言われることでしょう。実際、今、人々は神さまの御前に罪を犯して堕落してしまっている状態で、何事もないかのように生きています。それができるのは、人々が主の栄光の御臨在の御前に立たせられていないからです。けれども、聖書のみことばは一貫して、すべての人は主の栄光の御臨在の御前に立たせられて、その御前で罪へのさばきを受けるようになることをあかししています。
 最初の人が契約の神である主、ヤハウェに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった直後のことを記している創世記3章8節には、

そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神であるの声を聞いた。それで人とその妻は、神であるの御顔を避けて園の木の間に身を隠した。

と記されています。この時以来、人は神さまの御顔を避けて、さまざまな形で身を隠しています。その代表的な仕方が、詩篇14篇1節で、

 愚か者は心の中で、「神はいない」と言っている。

と言われていますように、神さまの存在を否定することです。心の中で「神はいない」と言うということは、その人の考え方と生き方の根本的な原理が「神はいない」という思いにあるということです。もちろん、それで神さまがいなくなってしまうわけではありません。神さまはすべての人の存在も行いも、心の思いのすべてもご存知です。ヘブル人への手紙4章13節に、

造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。

と記されているとおりです。
 人は神さまの御前から身を隠しているつもりでいます。しかし、契約の神である主はこの地にご臨在されて、すべての人をご自身の御臨在の御前に立たせられます。詩篇96篇13節には、

 確かに、主は来られる。
 確かに、地をさばくために来られる。
 主は、義をもって世界をさばき、
 その真実をもって国々の民をさばかれる。

と記されています。黙示録にも、栄光のキリストが来られることが繰り返しあかしされています。最後の章である22章12節ー13節には、

見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。

という栄光のキリストのみことばが記されています。
 そのように、すべての人が栄光の主の御臨在の御前に立たせられるようになるとしますと。すべての人は主の聖さを冒す者としてさばきを受けて滅ぼされるほかはないことになります。しかも、すべての人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっていますから、人にはそのさばきを免れる術がありません。
 それが人の現実であり、先ほど触れましたイザヤは、

 ああ。私は、もうだめだ。
 私はくちびるの汚れた者で、
 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。
 しかも万軍のである王を、
 この目で見たのだから。

と叫んだとき、自らの汚れを思い知らされ、滅ぼされるほかはない自分の現実を実感させられたのです。

 そのイザヤに、これもまた現実のこととして、福音が示されました。それが続く6節ー7節に、

すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。
 「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、
 あなたの不義は取り去られ、
 あなたの罪も贖われた。」

と記されている出来事です。
 すべての人は自分自身のうちに罪を宿しており、罪を犯してしまうものです。自分の力でその罪を始末することはできません。すでに犯してしまった罪を清算することはできませんし、これから罪を犯さないようにすることもできません。私たち人間の罪をすべて見通しておられる神さまは、その罪をすべて完全におさばきになります。
 しかし、イザヤに示されたのは、そのようにして、私たち人間の罪を完全におさばきになる主の栄光の御臨在の御許には、また、ご自身の民の罪を完全に贖う、罪の贖いが備えられているということです。それはイザヤが求めたものではありません。それはイザヤが予期していないものでした。主が一方的な愛と恵みによって備えてくださっているものです。イザヤはただその恵みにあずかっているだけです。
 自分が主の栄光の御臨在の御前においてすぐにでもさばかれて滅び去るという恐ろしい予感とともに、自らの罪とその汚れを思い知らされていたイザヤにとって、これはどういうことだったでしょうか。主が一方的な愛と恵みによって備えてくださっている罪の贖いは、まったく思い掛けないものでしたが、この贖いもまた、大きな驚きを伴う確かな現実でした。この経験が、この後のイザヤの預言者としての活動の原点になっています。
 この時、主がイザヤに示してくださった栄光は、その栄光の御臨在の御許にはご自身の民のための罪の贖いが備えられていることに現されている栄光です。6章1節において、イザヤが、

 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。

とあかししていること、すなわち、イザヤが主を見たということは、先ほど引用しました、1節ー5節に記されていることを指していると考えがちです。しかし、イザヤが主を見たということはそこで終わらないで、その後にイザヤの罪がきよめられたこととイザヤが遣わされたことも含まれます。
 この時、主がイザヤに示してくださった栄光は、先週お話しして、先ほどまとめました、主がモーセの、

 どうか、あなたの栄光を私に見せてください。

という願いにお応えになって、モーセに示してくださった、「あわれみ深く、情け深い神」であられ、あらゆる罪を赦してくださる主の栄光と同じ栄光です。
 やがてイザヤは預言者としての活動を続けていくうちに、旧約聖書の啓示の一つの大きな頂点とも言うべき啓示を受けるようになります。それが、52章13節ー53章12節に記されています、「主のしもべの第4の歌」として知られている預言です。
 それは52章13節に記されている、

 見よ。わたしのしもべは栄える。
 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。
というみことばから始まっています。ここで、
 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。

と言われているときの「高められ、上げられ」という二つのことばの組み合わせは、先ほど引用しました6章1節で、

 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。

と言われているときの「高くあげられた王座」の「高く」(直訳「高められた」)と「あげられた」という二つのことばの組み合わせと同じです。52章13節では、この二つのことばの組み合わせにさらにもう一つ「非常に高くなる」ということばが続いています。
 このことから二つのことが分かります。
 一つは、このことばによって導入されている「主のしもべの第4の歌」は冒頭で「わたしのしもべ」として紹介されている主のしもべの栄光を預言的に示しているということです。このことは、この「主のしもべの第4の歌」が、53章12節の、

 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、
 彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。
 彼が自分のいのちを死に明け渡し、
 そむいた人たちとともに数えられたからである。
 彼は多くの人の罪を負い、
 そむいた人たちのためにとりなしをする。

ということばで終わっていることからも分かります。
 もう一つは、この「わたしのしもべ」として紹介されている主のしもべこそが、6章1節でイザヤが、

 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。

とあかししている「高くあげられた王座に座しておられる主」であられるということです。
 そして、

 見よ。わたしのしもべは栄える。
 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。

というみことばによって紹介されている栄光の主であられるお方は、53節4節ー6節において、

 まことに、彼は私たちの病を負い、
 私たちの痛みをになった。
 だが、私たちは思った。
 彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
 しかし、彼は、
 私たちのそむきの罪のために刺し通され、
 私たちの咎のために砕かれた。
 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
 私たちはみな、羊のようにさまよい、
 おのおの、自分かってな道に向かって行った。
 しかし、は、私たちのすべての咎を
 彼に負わせた。

と預言的にあかしされています。栄光の主は、ご自身の民の「そむきの罪」と「」のために苦しみを受け、「いのちを死に明け渡」される(53章12節)ことになります。
 そうであるとしますと、ここには「わたしのしもべ」として紹介されている栄光の主と、

 しかし、は、私たちのすべての咎を

 彼に負わせた。
と言われている「」がおられることになります。このどちらも栄光の主であられるというのはおかしなことではないかという疑問が生じます。そのことは、永遠に父なる神さまとの愛の交わりのうちにいましながら、まことの人となって来られた御子イエス・キリストにおいて初めて解けることです。ヨハネの福音書12章39節ー41節を見てください。41節では、イザヤ書6章でイザヤが見た主の栄光はイエス・キリストの栄光であると言われています。そして、それは38節で引用されている「主のしもべの第4の歌」とつなげられています。これはさらに、32節ー33節に記されているイエス・キリストの死の意味につながっていると考えられます。
 栄光の主がご自身の民の「そむきの罪」と「」のために苦しみを受け、「いのちを死に明け渡」されたことが、6章においてイザヤに啓示された、主の栄光の御臨在の御許に、主の一方的な愛と恵みによって備えられている、ご自身の民のための罪の贖いを生み出しています。

 これらのことは、すべて、イエス・キリストにおいて成就しています。
 実際、イエス・キリストは無限、永遠、不変の栄光の神の御子です。その無限の栄光の主であられる御子イエス・キリストが、私たちと一つとなってくださるために、罪を除いて、私たちと同じ人としての性質を取って来てくださいました。
 イエス・キリストに罪がないのであれば、私たちと同じ人としての性質を取ってはおられないのではないか、そうであれば、私たちと一つになることはできないのではないか、というような疑問が出てくるかも知れません。
 これについては、二つのことを理解しておく必要があります。
 一つは、もともと人は神のかたちに造られていて、罪はないものとして造られているということです。そのように造られている人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったために、人は自らのうちに罪を宿し、実際に罪を犯してしまうものになったのです。ですから、自らのうちに罪を宿している人の状態は、本来の人の状態ではなく、罪によって腐敗し、汚れてしまっている状態です。腐った魚ももともとは生きている魚でした。それが死んで腐敗を始めたのです。イエス・キリストは、「本来の状態にある」人としての性質を取って来てくださいました。それは紛れもなく、私たちと同じ人の性質であり、イエス・キリストはまことの人となられました。それで、私たちと一つになられ、私たちの身代わりとなって、私たちの罪の贖いを成し遂げてくださることができました。
 もう一つのことは、もしイエス・キリストのうちに罪があったのであれば、イエス・キリストはご自分の罪の清算をしなければならず、とても、私たちの身代わりとなって罪の清算をすることはできなかったということです。イエス・キリストは神のかたちに造られている人の本来の状態にある性質を取って来てくださいましたので、私たちの身代わりとなって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきをお受けになることができました。
 最後に、この二つのことと関連して、もう一つのことに注意ししておきましょう。これまでお話ししてきました、主がご自身の栄光の御臨在の御許から語られた、主の御名による宣言の中で、ご自身がどのような方であられるかを示してくださっています。その主の御名による宣言によって示されていることの中には、一見すると、相容れないことがあります。
 主はその御名による宣言の中で、ご自身が「咎とそむきと罪を赦す」方、すなわち、ご自身の一方的な愛と恵みによって、どのような罪をも赦してくださるお方であることを示してくださいました。けれども、それと同時に、その主の御名による宣言の最後に、ご自身が聖なる神として、

 罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。

とも言われました。
 主は聖なる神であられ、義なるお方です。ですから「罰すべき者は必ず罰して報いる」方です。主はすべての罪をおさばきになります。
 この二つの、一見すると相容れないことが、御子イエス・キリストの十字架の死において、どちらも私たちの現実になっています。永遠の神の御子であられるイエス・キリストは、私たちご自身の民を罪とその結果である死と滅びの中から贖い出してくださるために、十字架にかかって私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わってすべて受けてくださいました。これによって、神さまは私たちの罪をすべて、聖なる御怒りによっておさばきになりました。同時に、これによって、つまり、御子イエス・キリストがその十字架の死によって成し遂げてくださった罪の贖いに基づいて、私たちの罪をすべてお赦しくださいましたし、これからも赦してくださいます。
 私たちは、聖書。特に旧約聖書を読み進めていくときに、この一見すると相容れないことのように見える二つのことの間に、私たちの理解が揺れ動くのを感じるかも知れません。しかし、ヨハネの福音書5章39節に記されていますように、イエス・キリストご自身が、

あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。

とあかししておられます。この場合の「聖書」はイエス・キリストの時代のことですので、旧約聖書に当たります。旧約聖書も新約聖書もイエス・キリストをあかししています。それで、私たちはこの一見すると相容れないことのように見える二つのこともイエス・キリストの十字架の光の下で理解するときに、その二つのことがぶつかり合うことなく、私たちの現実になっていることを理解することができます。
 これは、黙示録1章17節において、ヨハネが、

 それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。

と記している状態になったことにも当てはまります。ヨハネは御子イエス・キリストを信じて、その十字架の死による罪の贖いにあずかっています。けれども、なおも自らのうちに罪を宿している状態にあります。これが地上にある私たち主の民の現実です。
 私たちが主の栄光の顕現の御前に恐れなく立つことができるのは、私たちの罪が完全にきよめられるばかりでなく、私たちがイエス・キリストの復活にあずかってより栄光あるものとされることによっています。それで、主は栄光のうちに再臨されるときには、私たちをご自身の復活にあずからせてくださって栄光あるものとしてよみがえらせてくださいます。それによって、私たちは恐れなく、主の栄光の御臨在の御前で、顔と顔とを合わせるようにして主にまみえるようになります。ヨハネ自身がその第一の手紙3章2節において、

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

と教えているとおりです。


【メッセージ】のリストに戻る

「黙示録講解」
(第119回)へ戻る

「黙示録講解」
(第121回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church