黙示録講解

(第119回)


説教日:2013年5月26日
聖書箇所:栄光のキリストの顕現(20)
説教題:ヨハネの黙示録1章9節ー20節


 ヨハネの黙示録1章9節ー20節には、イエス・キリストがご自身の栄光の御姿をヨハネに現してくださったことが記されています。
 これまで、12節ー16節に記されています、イエス・キリストの栄光の御姿そのものについて、詳しくお話しました。そこには、

そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

と記されています。
 きょうから、これに続く17節ー18節に記されています、

それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

というみことばについてお話しいたします。


 17節では、イエス・キリストの栄光の御姿に接したヨハネが、

 この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。

と言われています。
 このことと関連して注目されているのは、旧約聖書の中にいくつか記されている、契約の神である主の栄光の御臨在に触れた主の民が、その御前にひれ伏したことです。
 たとえば、エゼキエル書1章には、捕囚の地にいた預言者エゼキエルに現された契約の神である主の栄光の顕現の様が記されています。その最後の部分の26節ー28節には、

彼らの頭の上、大空のはるか上のほうには、サファイヤのような何か王座に似たものがあり、その王座に似たもののはるか上には、人間の姿に似たものがあった。私が見ると、その腰と見える所から上のほうは、その中と回りとが青銅のように輝き、火のように見えた。その腰と見える所から下のほうに、私は火のようなものを見た。その方の回りには輝きがあった。その方の回りにある輝きのさまは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、それはの栄光のように見えた。私はこれを見て、ひれ伏した。そのとき、私は語る者の声を聞いた。

と記されています。
 26節で、

 その王座に似たもののはるか上には、人間の姿に似たものがあった。

と言われている方は、契約の神である主、ヤハウェです。28節では、この契約の神である主、ヤハウェの栄光の顕現に接したエゼキエルについて、

 私はこれを見て、ひれ伏した。

と記されています。
 28節は、これに続いて、

 そのとき、私は語る者の声を聞いた。

と言われて終わっています。この後の2章からは「その方」の語りかけが記されています。「その方」は御声をもってエゼキエルを立ち上がらせてくださいます。そして、2章3節に、

人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの民、すなわち、わたしにそむいた反逆の国民に遣わす。

と記されていますように、エゼキエルをお遣わしになります。これと同じように、エゼキエルが主の栄光の御臨在の御前にひれ伏したことは3章23節、43章3節、44章4節にも出てきます。
 御使いの現れに接してひれ伏した例としては、ダニエルが、広くガブリエルではないかと考えられている御使いの現れに接したことを記しているダニエル書10章4節ー11節を見てみましょう。そこには、

第一の月の二十四日に、私はティグリスという大きな川の岸にいた。私が目を上げて、見ると、そこに、ひとりの人がいて、亜麻布の衣を着、腰にはウファズの金の帯を締めていた。そのからだは緑柱石のようであり、その顔はいなずまのようであり、その目は燃えるたいまつのようであった。また、その腕と足は、みがき上げた青銅のようで、そのことばの声は群集の声のようであった。この幻は、私、ダニエルひとりだけが見て、私といっしょにいた人々は、その幻を見なかったが、彼らは震え上がって逃げ隠れた。私は、ひとり残って、この大きな幻を見たが、私は、うちから力が抜け、顔の輝きもうせ、力を失った。私はそのことばの声を聞いた。そのことばの声を聞いたとき、私は意識を失って、うつぶせに地に倒れた。ちょうどそのとき、一つの手が私に触れ、私のひざと手をゆさぶった。それから彼は私に言った。「神に愛されている人ダニエルよ。私が今から語ることばをよくわきまえよ。そこに立ち上がれ。私は今、あなたに遣わされたのだ。」彼が、このことばを私に語ったとき、私は震えながら立ち上がった。

と記されています。
 これらのことの背景には、契約の神である主がモーセに語られたことを記している出エジプト記33章18節節ー23節に記されていることがあります。そこには、

すると、モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」また仰せられた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」または仰せられた。「見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。」

と記されています。
 18節でモーセが主に、

 どうか、あなたの栄光を私に見せてください。

と願いますと、主は、

あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。

とお答えになりました。ここで主は、

 人はわたしを見て、なお生きていることはできない

と言われました。そして、そのことは、古い契約の仲保者であるモーセといえども例外ではないことが示されています。その理由は、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしてしまっている人はすべて、自らのうちに罪の性質を宿しており、実際に、思いとことばと行いにおいて罪を犯してしまうからです。たとえモーセであっても、そのままの状態で、栄光の主の御臨在に直接的に触れるようなことがあれば、主の聖さを冒す者として、さばきを受けて滅ぼされてしまいます。

 このことにつきましては、ここに記されていることに基づいて、もう少しお話ししたいと思います。
 この時にモーセが、

 どうか、あなたの栄光を私に見せてください。

と願ったことには理由があります。モーセは興味本位で主の栄光を見たいと願ったのではありません。モーセとしては主の栄光を見なければならない理由があったのです。そのことについては、すでに何度かお話ししたことがありますので、できるだけ簡単にまとめておきます。
 これは、出エジプト記24章12節ー31章18節に記されています、モーセが契約の神である主、ヤハウェの指示にしたがって、主の栄光の御臨在のあるシナイ山に上って行って、主から十戒を記した2枚の板と、主がイスラエルの民の間にご臨在してくださるために、イスラエルが造るべき主の幕屋についての啓示を受け取った時の出来事です。モーセがシナイ山に上って行ったことを記している24章15節ー18節には、

モーセが山に登ると、雲が山をおおった。の栄光はシナイ山の上にとどまり、雲は六日間、山をおおっていた。七日目に主は雲の中からモーセを呼ばれた。の栄光は、イスラエル人の目には、山の頂で燃え上がる火のように見えた。モーセは雲の中に入って行き、山に登った。そして、モーセは四十日四十夜、山にいた。

と記されています。
 そのモーセがシナイ山にいた「四十日四十夜」のことが、25章ー31章に記されています。
 32章1節ー6節に記されているのですが、モーセの帰りが遅いと感じたイスラエルの民は、モーセの身に何かあったのではないかと思い、モーセの兄であるアロンに自分たちをエジプトから連れ上ってくれた神を造るように頼みました。アロンが金の子牛を造りますと、人々はこれを契約の神である主、ヤハウェであるとして拝みました。
 しかし、これに先立って20章には、シナイ山にご臨在されていた主が直接、イスラエルの民に十戒の戒めを語ってくださったことが記されています。その第二戒を記している4節ー6節には、

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

と記されています。これは、主、ヤハウェの偶像を造ることを禁じるものです。もちろん、その他の神々の偶像を造ってはなりません。けれども、十戒においては、第一戒において、ほかの神々を神とすることが禁じられていますので、ほかの神々は第一戒で除外されています。そして、第二戒では、

 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。

と言われています。ここで「自分のために」と言われていることからも、これは主、ヤハウェの偶像を造ることを禁じていると考えられます。
 ですから、自分たちのために金の子牛を造って、それを契約の神である主、ヤハウェであるとして拝んだイスラエルの民は十戒の第二戒に背いているのです。
 32章7節ー14節に記されていますように、主は、この時には、まだシナイ山にいたモーセに、この事実を告げられます。そして、イスラエルの民を滅ぼし、モーセから新しい民を起こそうと言われました。しかし、モーセの執り成しによって、そのようにはなりませんでした。この後いろいろなことがありましたが、それは省略します。
 そして、33章1節ー3節に記されていますが、主はモーセにイスラエルの民を率いて約束の地に上るようにと言われました。けれども主は、3節に、

わたしは、あなたがたのうちにあっては上らないからである。あなたがたはうなじのこわい民であるから、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼすようなことがあるといけないから。

と記されていますように、このようにかたくななイスラエルの民とともに約束の地には上って行ってはくださらないと言われました。その際に、主は、主の栄光の御臨在がそのようなイスラエルの民とともにあるなら、イスラエルの民が再び同じような罪を犯したとき、主はイスラエルの民を滅ぼすことになるからであるという理由も示してくださいました。この時の出来事の意味を理解するためには、この理由が決定的に大切なことです。
 主はこのように言われましたが、12節ー17節に記されていますように、モーセはなおも主の御前に出でて、イスラエルの民のために執り成し、主が約束の地にまでイスラエルの民とともに行ってくださるように願いました。モーセの言い分は、いくら約束の地がよい地であっても、そこに主の御臨在がないのであれば、そこに上って行く意味がないということです。むしろ、荒野ではあっても、主の御臨在のあるシナイ山の麓に留まったほうがよいということです。すると、主はモーセの執り成しを受け入れてくださって、イスラエルの民とともに約束の地にまで上って行ってくださると約束してくださいました。
 そのことを受けて、モーセは、

 どうか、あなたの栄光を私に見せてください。

と、主にお願いしたのです。

 これには大きな問題があります。すでに、モーセは主の栄光の御臨在のあるシナイ山に上って、主の御臨在の御前に出て、主の語りかけを聞いています。そのことがあったので、イスラエルの民は、モーセがシナイ山から帰ってくるのが遅いと感じ、モーセに何かあったのではないかと思い、自分たちのために金の子牛を造ったのです。ですから、モーセはすでに主の栄光を見ています。そうしますと、モーセはどうして、

 どうか、あなたの栄光を私に見せてください。

と願ったのでしょうか。
 このことを理解する鍵が、先ほど触れました3節で、主が、ご自身のの栄光の御臨在がかたくななイスラエルの民とともにあるなら、イスラエルの民が同じような罪を犯したとき、主はイスラエルの民を滅ぼすことになるから、主はイスラエルの民とともには、約束の地には上っては行かないと言われたことです。その主のみことばは、すでにモーセがシナイ山の上で接していた主の栄光の御臨在がイスラエルの民とともにあるのであれば、主はいずれ、かたくななイスラエルの民を滅ぼすことになるということを意味しています。19章16節ー18節に記されていますように、すでにモーセがシナイ山の上で接していた主の栄光の御臨在は、密雲、雷といなずま、鳴り響く角笛の音などを伴うものでしたし、主が火の中にご臨在されると全山が煙り、激しく震えました。それに接したイスラエルの民は震え上がりました。そのように恐るべき主の栄光の御臨在がかたくななイスラエルの民とともにあるのであれば、いずれ、イスラエルの民は約束の地への途上で罪を犯して滅ぼされてしまうことになるでしょう。
 けれども、14節ー17節に記されていますように、主はモーセの執り成しにお答えになって、そのかたくななイスラエルの民とともに約束の地に上って行ってくださると約束してくださいました。そうであれば、イスラエルの民は、確かに、主の栄光の御臨在とともに、約束の地にまで上って行くことができるはずです。そうしますと、かたくななイスラエルの民とともにあっても、イスラエルの民を滅ぼすことがないという主の栄光は、どのような栄光なのかということが問題となります。それでモーセは、主に、

 どうか、あなたの栄光を私に見せてください。

と願ったのです。
 これに対して、主はモーセに、

あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。

とお答えになりました。けれども、主は、モーセがまったく主の栄光の御臨在を見ることができないと言われたのではありません。主の「」ということば(パーニーム)は主の御臨在をも意味します。ですから、モーセは栄光の主の御臨在そのものを見ることはできないと言われたのです。
 先ほど引用しました22節ー23節で、主は、

わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。

と言われました。主の栄光の御臨在そのものが通り過ぎるまでは、主は御手をもってモーセをおおってくださって、モーセが滅ぼされることがないようにしてくださり、その後、御手をのけてくださるというのです。
 ここで、

 あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。

と言われているときの「うしろ」ということば(アーホール)は、その用例からして、人の背中を表すことばではなく、方向としての「うしろの方」を意味することばです(からだの部分としての背中を表すことばは「ガブ」や「ガウ」。また、首の後ろを表す場合は「オーレフ」)。ですから、モーセは主の栄光の御臨在が通り過ぎた後に、その後ろの方から主の栄光を見るということです。

 実際にどのようなことがあったかを記している34章1節ー7節には、モーセが主の指示にしたがって、再びシナイ山に上ったことが記されています。そして、5節ー7節には、

は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、の名によって宣言された。は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」

と記されています。
 ここでは、モーセが主の栄光の御臨在を見るということよりも、そこにご臨在されて、語ってくださる主の御声を聞くことが中心になっています。主はご自身のことを、まず、

は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、

と宣言されました。ここで繰り返されている「」ということばは、新改訳で太字になっていることから分かりますように、契約の神である主の御名であるヤハウェです。この時、モーセに示された主、ヤハウェの栄光は「あわれみ深く、情け深い神」としての栄光であり、「恵みとまこと」に満ちた栄光でした。
 これに続く、

恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。

という宣言のみことばは、先ほど引用しました十戒の第二戒の最後にある、

あなたの神、であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

というみことばに対応しています。
 十戒の第二戒では、先に、

わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、

と言われていて、背く者への刑罰が先に出てきます。けれども、この「恵みとまこと」に満ちた主の栄光の宣言では、先に、

 恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、

と言われていて主の恵みによる罪の赦しの方が先に出てきます。しかも、ここでは「咎とそむきと罪」というように、三つの同義語が重ねられて強調されています。それがどのような罪であっても赦してくださるということです。
 さらに、十戒の第二戒では、恵みを施される人のことが、後から出てきます。その際に、条件を付けるかのように、

 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には

と言われています。しかし、「恵みとまこと」に満ちた主の栄光の宣言には、この条件を付けるかのようなことばがありません。その代わりに、十戒の第二戒にはない、

 咎とそむきと罪を赦す者

ということばで主、ヤハウェの赦しのことが示されています。
 このようにして主は、かたくなな民であるイスラエルの民とともに約束の地に上って行ってくださるご自身の栄光が「あわれみ深く、情け深い神」としての栄光であり、「恵みとまこと」に満ちた栄光であることを示してくださいました。それで、イスラエルの民は約束の地に上っていく途中で主に背くようになっても、「咎とそむきと罪を赦」していただき、滅ぼされてしまうことがないのです。

 このように主は、ご自身が「あわれみ深く、情け深い神」であられ「怒るのにおそく、恵みとまことに」富んでおられる方であること、まそのゆえに「咎とそむきと罪を赦す者」であられることを示してくださいました。けれども、33章20節に記されていますように、モーセに、

あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。

と言われました。
 それは、先ほどお話ししましたように、モーセといえども、その本性の内には罪が宿っていて、そのままでは栄光の主の御臨在の御前に立つことができないからです。かりにモーセが栄光の主の御臨在そのものを見たとしますと、主の聖さを冒した者として滅ぼされてしまいます。
 主は「あわれみ深く、情け深い神」であられ「怒るのにおそく、恵みとまことに」富んでおられる方であるのに、どうしてそのようなことになってしまうのでしょうか。それは、モーセの時代には、まだ、主の「恵みとまこと」に満ちた栄光の御臨在が、歴史の現実となっていなかったことにあります。主の「恵みとまこと」に満ちた栄光の御臨在は、無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子イエス・キリストが、私たちご自身の民と一つとなってくださり、私たちのために罪の贖いの御業を遂行してくださるために、人の性質を取って来てくださり、十字架におかかりになって、私たちご自身の民の罪を完全に贖ってくださったことによって歴史の現実となりました。
 契約の神である主、ヤハウェは、この御子イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいて、ご自身の民の「咎とそむきと罪を赦」してくださいます。
 ヘブル人への手紙10章19節ー22節には、

こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。

と記されています。これは、私たちが御子イエス・キリストの十字架の死による罪の完全な贖いに基づいて、神さまの栄光の御臨在の御前に近づくことができることを示しています。

 黙示録1章14節ー16節に記されていますイエス・キリストの栄光の御姿については、

その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

と記されています。これは、ヨハネが「恵みとまこと」に満ちた栄光の主であられるイエス・キリストの御顔を見たことを意味しています。ヨハネは栄光のキリストの御臨在そのものを見ているのです。
 続く17節には、

 それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。

と記されていす。
 これもまた、私たちの現実です。私たちはイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって、罪を完全に贖っていただいています。けれども、私たちのうちには、なおも罪の性質が宿っており、実際に罪を犯してしまいます。そのことは、ヨハネ自身が、その第一の手紙1章8節ー10節においてあかししていることです。そこには、

もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

と記されています。
 そのように、なおも罪の性質を宿し、実際に罪を犯してしまうヨハネが、主の栄光の顕現に直接的に接することになりました。それで、ヨハネは、

 それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。

と言われている状態になってしまいました。
 けれども、それでヨハネは、主の聖さを冒す者としてさばきを受けて滅ぼされてしまったのではありません。かりに、モーセがヨハネのように、主の栄光の御臨在に直接的に接したとしたら、モーセは主の聖さを冒す者として、さばきを受けて滅ぼされていたはずです。けれどもヨハネはそのようなことはありませんでした。
 17節ー18節には、さらに、

しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。」

と記されています。栄光の主としてそこにご臨在されたイエス・キリストご自身が、

 恐れるな。

というみことばをもって、ヨハネから恐れを取り除いてくださいました。イエス・キリストは、ヨハネが恐れる必要はないことを示してくださいました。それは、栄光の主であられるイエス・キリストご自身がその十字架の死をもって成し遂げてくださった罪の贖いに基づくことです。そのことをイエス・キリストは、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

というみことばをもって示しておられます。
 きょうは序論のようなお話になりましたが、このイエス・キリストのみことばにつきましては、改めてお話しいたします。


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