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説教日:2013年5月19日 |
ここでヨハネは、自分が見たことを記しています。しかしそれは、イエス・キリストがヨハネに啓示してくださったことです。それで、ヨハネが何をどのような順序で見たかも、イエス・キリストのみこころに基づく啓示によることであり、イエス・キリストのみこころを映し出しています。 ヨハネが最初に見たもの、すなわち、イエス・キリストが最初に示してくださったものは、「七つの金の燭台」です。この「七つの金の燭台」は、20節で、イエス・キリストご自身が「アジヤにある七つの教会」のことであるということを明らかにしてくださっています。流刑の地にいたヨハネが常に心にかけていた群れです。次にヨハネが見たのは、その「七つの金の燭台」の真ん中にご臨在しておられる「人の子のような方」です。13節では、新改訳にあるとおり、「それらの燭台の真ん中には」ということばが最初に出てきて強調されています。それに続いて「人の子のような方」が出てきます。そして、その方のことが「足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた」と説明されています。 このように、イエス・キリストがまず何よりも大切なこととして示してくださったのは、ご自身が「アジヤにある七つの教会」の真ん中にご臨在してくださっておられるという事実です。これはローマ帝国による迫害を受けて流刑になっているヨハネにとっても、牧会者であるヨハネと切り離されてしまっている「アジヤにある七つの教会」にとっても、最も大切なことであり、最も必要なことでした。ローマ帝国というその時代の最強の帝国によって迫害されていることは、決して、契約の神である主、ヤハウェから見捨てられたことのしるしではありませんでした。それどころか、契約の神である主、ヤハウェであられる栄光のキリストは、「アジヤにある七つの教会」の真ん中にご臨在しておられるのです。この時、ヨハネが受けた栄光のキリストからの啓示、すなわち、黙示録によりますと、イエス・キリストがその栄光の主として、「アジヤにある七つの教会」の真ん中にご臨在しておられるからこそ、ローマ帝国からの迫害を受けているということが分かります。 ヨハネが記した福音書の15章18節ー21節には、 もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。しかし彼らは、わたしの名のゆえに、あなたがたに対してそれらのことをみな行います。それは彼らがわたしを遣わした方を知らないからです。 という、イエス・キリストの教えが記されています。このイエス・キリストの教えは、それを記したヨハネにおいて、ローマ帝国からの迫害によって流刑になっているという形で現実のものとなっています。また、それは「アジヤにある七つの教会」にとっては、霊的、精神的指導者と切り離され、さまざまな形での迫害にあうということで現実になっています。 黙示録1章12節ー13節では、さらに、そのように「アジヤにある七つの教会」の真ん中にご臨在してくださっておられるイエス・キリストは、ダニエルによって預言されていた「人の子のような方」であられるということが示されています。 「人の子のような方」とは、ダニエル書7章13節ー14節に記されている、 私がまた、夜の幻を見ていると、 見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、 年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。 この方に、主権と光栄と国が与えられ、 諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、 彼に仕えることになった。 その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、 その国は滅びることがない。 というダニエルが見た幻をとおして預言されていました。このダニエルをとおして与えられている預言は、イエス・キリストにおいて成就しています。 「人の子のような方」は神さまの栄光のご臨在にともなう「天の雲に乗って来られ」と言われています。そして、「年を経た方」として表されている父なる神さまから「主権と光栄と国」を与えられ、その「永遠の主権」をもって永遠に治められることが示されています。 このことに基づいて、イエス・キリストは地上でメシヤとしてのお働きを遂行されたとき、ご自身のことを「人の子」と呼んでおられます。 イエス・キリストがご自身のことを「人の子」と呼んでおられることは、特に、イエス・キリストが、私たちご自身の民のために、苦しみをお受けになり、十字架におかかりになって死んでくださることと、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださること、そして、世の終わりに再び来てくださって、私たちの救いを完全に実現してくださり、暗闇の主権者とその使いたちへのさばきを執行されることをお示しになることと関連しています。 そのことをマルコの福音書からいくつかの個所を引用して、見てみましょう。 8章31節には、 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。 と記されています。これは、イエス・キリストがペテロの「キリスト告白」を受けて、初めて、ご自身の苦難と死と死者の中からのよみがえりについて教えられたときのことです。 また、10章33節ー34節には、 さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。 というイエス・キリストの教えが記されています。そして、同じ章の45節には、 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。 という教えが記されています。 これまではイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりのことでしたが、終わりの日にイエス・キリストが再び来てくださること関する教えを見てみましょう。13章26節ー27節には、 そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。 という教えが記されています。これは、先ほど引用しましたダニエル書7章13節に、 見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、 と記されていることを受けています。ここマルコの福音書13章26節ー27節では、終わりの日にイエス・キリストが再び来てくださって、 そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。 と言われていますように、ご自身の民の救いを完全に実現してくださることが教えられています。 また、イエス・キリストが十字架につけられるために渡される前になされた、ユダヤの最高議会サンヘドリンにおけるイエス・キリストに対する審問のことを記している14章61節ー62節には、 しかし、イエスは黙ったままで、何もお答えにならなかった。大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」そこでイエスは言われた。「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」 と記されています。このあかしによって、イエス・キリストは死に定められます。続く63節ー64節に、 すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。どう考えますか。」すると、彼らは全員で、イエスには死刑に当たる罪があると決めた。 と記されているとおりです。 もちろん、これら以外の個所でも「人の子」ということばが出てきますが、ほとんどすべてが、今お話ししましたイエス・キリストの死とよみがえりと終わりの日の再臨のことに関連しています。また、直接そのことに関連していないとしても、間接的にそれに関連しています。たとえば、2章10節ー12節には、 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。 と記されています。ここでの中心はイエス・キリストが中風の人をおいやしになったこと自体にあるのではなく、それが、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていること」をあかしするためのことであったということです。そして、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていること」は、イエス・キリストが私たちご自身の民のために十字架におかかりになって死んでくださったこと、この出来事が起こったときには、やがて死んでくださることに基づいています。 いずれにしましても、ご自身の栄光の御姿を「人の子のような方」としてヨハネにお示しになったイエス・キリストの権威、主権、栄光は、ご自身が私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったことに基づいています。ですから、イエス・キリストの御国も、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりに基づいて確立されていますし、そのことが、イエス・キリストの御国を特徴づけています。 このことを離れてイエス・キリストの権威や主権、また、栄光を考えますと、それがこの世の権威、主権、栄光のようなものに変質させられてしまいます。そのことは、残念なことに、教会の歴史の中で起こりましたし、キリストのからだである教会のそれぞれの群れの中でも起こりがちのことです。 このこととの関連で、何度も引用したことがあります、コロサイ人への手紙1章13節ー14節を見てみましょう。そこには、 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。 と記されています。 13節で「暗やみの圧制」と言われているときの「圧制」と訳されたことば(エクスースィア)は、基本的に、「権威」、「権力」を意味ししています。ここではこれが「暗やみ」のものですので、「暗やみの圧制」と訳されています。 また、「愛する御子のご支配」と言われているときの「ご支配」と訳されたことば(バシレイア)は、新約聖書の中では、しばしば「天の御国」、「神の国」と言われているときの「御国」に当たることばです。このことばは、今日の私たちが考える地理的な広がりをもつ国を意味することもありますが、基本的には、王が支配すること、王権、支配権を意味しています。それで、ここで、 愛する御子のご支配の中に移してくださいました。 と言われていることは、神の国に入れてくださったということです。「御子のご支配」にあずかるということが、神の国に入るということです。 特に注目したいのは、「愛する御子のご支配」の「愛する御子」と訳されていることばです。このことばは、この新改訳のように、「父なる神さまが愛しておられる御子」という意味に理解することができるとともに、「神のものである愛によって特徴づけられる御子」という意味にも理解することができます。ほとんどの学者が、この後の方の意味、つまり、御子の愛を表していると理解しているようです(Moo, p. 105 )。その場合には、これは御子が愛によって支配しておられる御国ということになります。 そして、これと調和して、続く14節では、 この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。 と言われています。 このことは、新改訳のように、「父なる神さまが愛しておられる御子」という意味に理解しても、変わることはありません。というのは、先週取り上げましたマタイの福音書17章1節ー8節には、一般に「変貌の山」として知られていること、山の上でイエス・キリストの御姿が栄光の御姿に変わったことを記していますが、その中の5節には、 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。 と記されています。「光り輝く雲」は神さまの栄光の顕現(セオファニー)に伴い、それを表示する「雲」です。これは、先ほどの、ダニエル書7章13節で、 見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、 と言われているときの「天の雲」に相当します。この場合、その「光り輝く雲」の中から語られたのは父なる神さまです。そして、父なる神さまは、この時から6日前に、ご自身の苦難と死と、よみがえりを予告し、教え始められた、イエス・キリストのことを、 これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。 とあかしされ、 彼の言うことを聞きなさい と命じられました。この場合の「彼の言うこと」というのは、おもに、イエス・キリストがエルサレムにおいて、ユダヤ人の指導者たちから捨てられ、殺されることです。というのは、弟子たちはそのようなことがメシヤとして父なる神さまから遣わされたイエス・キリストに起こるわけがないと考え、逆に、イエス・キリストをいさめたからです(8章32節)。それで父なる神さまは、ご自身の民のために苦しみを受け、十字架にかかろうとしておられるイエス・キリストこそは、父なる神さまの愛する御子であるとあかしされたのです。 これと同じことは、ヨハネの福音書10章17節に記されています、 わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。 というイエス・キリストの教えにも示されています。実は、これに続く18節に、これまで繰り返し引用してきました、 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。 というイエス・キリストの教えが記されています。ここでは、イエス・キリストの権威は、私たちご自身の民のために、ご自身の意志によっていのちを捨ててくださる権威であるということが示されています。それで、このイエス・キリストの権威は、私たちへの愛によって特徴づけられる権威であるということが分かります。さらに、これを、その前の17節で、 わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。 と言われていることとの関連で見ますと、それは、父なる神さまの愛のうちにおいて示されている私たちへの愛であることが分かります。 このように、父なる神さまが御子イエス・キリストを愛しておられることと、御子が私たちご自身の民を愛して、私たちのために十字架にかかって死んでくださったことは深く結びついています。ですから、コロサイ人への手紙1章13節で、「愛する御子のご支配」つまり、父なる神さまが愛しておられる御子のご支配と理解しても、それは私たちご自身の民への愛に特徴づけられる支配であることには変わりがありません。 この場合も、これと調和して、続く14節で、 この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。 と言われていることになります。 繰り返しになりますが、このようなことを離れて、イエス・キリストの主権、権威、栄光を考えますと、それが、私たちのうちになおも残っている罪の自己中心性が生み出す、この世の主権、権威、栄光の発想によって歪められてしまいます。 このことは、黙示録1章12節ー16節に記されています、イエス・キリストの栄光の御姿、栄光のキリストの御姿の顕現を理解するために、決して忘れてはならないことです。私たちは、ただ、ここに記されている栄光のキリストの御姿のまばゆいばかりの輝かしさに目を奪われてしまってはなりません。ここで、黙示文学的な表象によって示されていることの意味をしっかりと汲み取る必要があります。特に、これらの表象の背景となっている旧約聖書の個所や、新約聖書、特に福音書に記されているイエス・キリストと、その教えと御業に照らして、その意味を理解する必要があります。 そのようなわけで、これまで、黙示文学的な表象によって啓示されている栄光のキリストの御姿の一つ一つについて詳しくお話ししてきました。そのすべてが、今お話しました、イエス・キリストの十字架の死に基づき、イエス・キリストの十字架の死によって特徴づけられる、イエス・キリストの主権、権威、栄光を指し示すものでした。 霊的な戦いにおいて、暗闇の主権者であるサタンとその使いたちは、私たちがイエス・キリストの主権、権威、栄光が十字架の死に基づいており、イエス・キリストの十字架の死によって特徴づけられていることを見失うようになることを目指して働いています。 そのために、ローマ帝国をも用いて主の契約の民を迫害し、この世の国の主権、権威がいかに強力で、その栄光、栄華がいかに華麗なものであるかを思い知らせようとします。それが最終的には、主の契約の民のいのちをも奪うことへとつながっていきました。しかし、それも、マタイの福音書10章28節で、イエス・キリストが、 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。 と教えておられるように、私たちの「からだ」のことであり、地上の生涯のことです。イエス・キリストはその十字架の死によって私たちを「たましいもからだも」死と滅びから贖い出してくださり、永遠のいのちをもつ者としてくださいました。イエス・キリストの主権、権威、栄光はこのような主権であり、権威であり、栄光です。 そして、暗闇の主権者であるサタンとその使いたちの巧みな働きに、それと知らずに動かされて、主の契約の民を厳しく迫害していたローマ帝国も、やがて、歴史の主であられる栄光のキリストの御前に、過ぎ去ってしまいました。 造り主である神さまの御前にいつまでも続く国は、御子イエス・キリストの十字架の死に基づく御国であり、その王であり、主であられるお方が、その民のためにいのちをお捨てになったことによって特徴づけられる御国です。それは、御子イエス・キリストが、ご自身に対する父なる神さまの愛のうちにあって示してくださっている私たちに対する愛によって治めてくださっている御国です。 先ほど、世がイエス・キリストとその民である私たちを迫害することを教えておられるヨハネの福音書15章18節ー21節を引用いたしました。イエス・キリストはそれに先立って、9節ー12節で、 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。 と教えておられます。 イエス・キリストは、 わたしの愛の中にとどまりなさい。 と言われて、私たちがご自身の愛のうちにとどまることを求めておられます。また、 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。 と言われて、それはイエス・キリストの戒めを守ることによっている、ということを示しておられます。この場合の「戒め」は複数形です。そして、イエス・キリストは、 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。 と言われました。この場合の「戒め」は単数形で、イエス・キリストのさまざまな戒めは、すべて、この、 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと という愛の戒めに集約されることが示されています。このようにして、イエス・キリストは、私たちがイエス・キリストの愛のうちにとどまることと、私たちが互いに愛し合うことが、一つのことであることを示しておられます。これがイエス・キリストの十字架の死に基づいている御国の民としていただいている私たちの基本的なあり方です。私たちはイエス・キリストの愛のうちにとどまって、互いに愛し合うことによってしか、霊的な戦いにおいて暗闇の主権者とその使いたちに勝利することはできません。 |
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