黙示録講解

(第117回)


説教日:2013年5月12日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章9節ー20節
説教題:栄光のキリストの顕現(18)


 ヨハネの黙示録1章9節ー20節には、栄光のキリストがご自身の御姿をヨハネに現してくださったことが記されています。ヨハネは11節にその名が上げられている「エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに」という「アジヤにある七つの教会」の牧会者でした。この「アジヤ」はローマの属州としての「アジヤ」で、今日の小アジアにありました。
 この時、ヨハネは9節に記されていますように、ローマ帝国からの迫害を受けて、パトモスという島に流刑になっていました。その時は、ローマ帝国においてクリスチャンへの迫害が激しくなっていて、「アジヤにある七つの教会」も迫害を受けていました。そのような厳しい状況にあった「アジヤにある七つの教会」に栄光のキリストがご自身の御姿を現してくださいました。それは、栄光のキリストが「アジヤにある七つの教会」とどのようにかかわってくださっているかを示してくださるためのことでした。この「アジヤにある七つの教会」の「」は聖書の中では完全数で、その当時、地上に存在していたキリストのからだである教会全体、さらには、歴史を通して地上に存在し、さまざまな試練を経験している教会を代表的に表わしています。
 黙示録は黙示文学の形式で記されています。これが記された時代の人々はこのような表現になじんでいましたので、この書に出てくるさまざまな表象が何を意味しているかが、頭にすっと入ってきたはずです。けれども、私たちはそれらの表象になじんでいませんので、それらが何か現実離れをしたもののように感じられてしまいます。その当時の人々にとっては、ことばによってくどくどと説明されるより、絵画的な表象によって分かりやすく伝えられたことが、私たちにとっては何か現実離れした、ときに不気味なもののように感じられてしまうのです。もちろん、その当時の人々にとっても、黙示録を理解するためには、旧約聖書の理解が必要でした。旧約聖書に示されていることをきちんと理解しないままに黙示録を読みますと、さまさまな種類の空想的なものが生み出されてしまいます。そうであれば、このことは、今日の私たちにはなおのこと当てはまることです。
 これまで、12節ー16節に記されています栄光のキリストの御姿についてかなり詳しくお話ししてきましたのは、このような事情によっています。
 栄光のキリストの御姿についてかなり詳しくお話ししてきたのには、もう一つ理由があります。それは、ヨハネが19節に記されています、

 あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。

という栄光のキリストのみことばにしたがって、この黙示録を記しているということです。黙示録に記されていることは、この時に栄光のキリストがヨハネに与えくださった黙示による啓示です。栄光のキリストがご自身の御姿を示してくださった上で啓示を与えてくださったということは、この栄光のキリストの御姿を理解することが、黙示録に記されていることを理解するための鍵となっていることを意味しています。
 これまでお話ししたことの中心にあることを再確認しておきたいと思います。12節ー13節には、

そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。

と記されています。ヨハネに最初に示されたのは「七つの金の燭台」でした。これは、20節で「七つの教会」のことであると、栄光のキリストご自身によって説明されています。ここでは、何よりもまず、栄光のキリストが「アジヤにある七つの教会」の間にご臨在しておられることが示されています。このことは、栄光のキリストがどのようなお方であられるかということが「アジヤにある七つの教会」にとって決定的に大切なことであることを意味しています。それはまた、そのまま今日の私たちにも当てはまります。栄光のキリストは今日のさまざまな厳しい状況の中にあるキリストのからだである教会の間にご臨在してくださっています。そして、この小さな群れもこれにあずかっています。
 また、この12節ー13節では、栄光のキリストがご自身を「人の子のような方」としてお示しになったことが記されています。
 この「人の子のような方」は、旧約聖書のダニエル書7章13節ー14節に、

 私がまた、夜の幻を見ていると、
  見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、
  年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。
  この方に、主権と光栄と国が与えられ、
  諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、
  彼に仕えることになった。
  その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、
  その国は滅びることがない。

と記されていることを背景としています。ここでは、

 人の子のような方が天の雲に乗って来られた

と言われています。これは、「人の子のような方」が栄光のうちにご臨在されることを述べています。その「人の子のような方」は「年を経た方」、すなわち、父なる神さまから「主権と光栄と国」を与えられ、その「永遠の主権」をもって永遠に治められることが預言されています。
 この預言はイエス・キリストにおいて成就しています。そのことが、黙示録1章12節ー16節において示されているわけです。


 きょうは、ヨハネに示されたイエス・キリストの栄光の御姿の描写の最後に当たる16節に記されています、

また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

というみことばについてお話しします。
 ここに出てくる「七つの星」のことは、20節で、

 七つの星は七つの教会の御使いたち・・・である

とイエス・キリストご自身が説明しておられます。これは2章ー3章に記されています栄光のキリストが「アジヤにある七つの教会」のそれぞれに対して語りかけておられるときに、その語りかけの最初に出てくる存在です。たとえば、2章1節には、

 エペソにある教会の御使いに書き送れ。

と記されています。この「御使い」がだれであるかということはとても難しいことで、意見の一致を見てはいません。だいたい四つくらいの理解があるようですが、それも大きく二つに分けられます。一つは、これは文字通りの「御使いたち」すなわち天使たちでのことであるというものです。もう一つは、主のみことばを伝える「使者たち」のことであるというものです。
 黙示録の中では、御使いたちが大切な役割を負っている存在として頻繁に出てきます。1章1節、5章2節、7章1節ー4節、8章1節ー5節、10章1節ー10節、14章6節ー11節、15節ー19節、15章1節以下、16章1節以下、17章1節、7節ー18節、18章1節ー3節、19章17節ー18節、20章1節ー3節、21章9節ー10節、21章1節、16節などを見てください。問題となっている「七つの教会の御使いたち」を除きますと、黙示録では「御使い」と訳されていることば(アンゲロス)が人を表す例がありません。それで、これは御使いのことであると考えられます。
 そうしますと、「アジヤにある七つの教会」のそれぞれに「御使い」がかかわっているということはどういうことなのでしょうか。
 黙示録の背景となっている旧約聖書の書の一つであるダニエル書の10章11節ー14節には、しばしばガブリエルではないかと考えられている(けれども、確かなことは示されていませんので、分かりません)御使いがダニエルに語った、

恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。ペルシヤの国の君が二十一日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、私は彼をペルシヤの王たちのところに残しておき、終わりの日にあなたの民に起こることを悟らせるために来たのだ。なお、その日についての幻があるのだが。

ということばが記されています。ここには、神さまから啓示を託された御使いと「ペルシヤの国の君」、さらには「ミカエル」が出てきます。「ペルシヤの国の君」はこの世の国を支配している霊的な存在で、神さまに逆らって働いています。それで、これは暗闇の主権者であるサタンの軍勢に属しています。引用はしませんが、少し後の20節には、この「ペルシヤの国の君」は「ペルシヤの君」と呼ばれており、これに続いて「ギリシヤの君」が出てきます。このダニエルの時代には、まだ、栄光のキリストによる贖いの御業は約束の段階であり、歴史の事実として実現してはいません。そのような時代に契約の神である主、ヤハウェの軍勢と暗闇の主権者であるサタンの軍勢が霊的な戦いを展開していました。それは、ここでも読み取れますが、契約の神である主がご自身の民に与えられる約束の贖い主にかかわる啓示のみことばをめぐるものです。
 これにつきましては、いろいろなことをお話ししたい思いに駆られますが、それはすでに何度かお話ししたことの繰り返しになります。ここでは、この世の国々を支配している霊的な存在がいるということだけに注意しておきます。
 これとの関連でもう一つ、マタイの福音書18章10節を見てみたいと思います。そこには、

あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。

と記されています。ここには、主の民の一人一人に対してかかわっている「天の御使いたち」がいることが示されています。このことからいわゆる「守護天使」の存在が考えられるようになりました。ただ、この御使いたちがどのような働きをしているのか、私たちにはこれ以上具体的に知らされてはいません。言うまでもなく、御使いたちを礼拝あるいは崇拝してはなりません。黙示録の中でも御使いたち自身が拒んでいます(19章10節、22章8節ー9節)。
 これらのことから、主の民のそれぞれだけでなく、キリストのからだである教会の一つ一つの群れにかかわっている御使いがいると考えられています。
 ただ黙示録では、ことはそれほど単純ではありません。2章ー3章に記されています、栄光のキリストが「アジヤにある七つの教会」のそれぞれの教会の御使いに語られたことばを見ますと、

 しかし、あなたには非難すべきことがある。

と言われていることがあります(2章4節、14節、20節)。また、このように言われなくても、悔い改めるべき点を指摘されている場合もあります。その例外は、スミルナにある教会の御使いとフィラデルフィアにある教会の御使いです。問題は、御使いが非難され悔い改めるように求められることがあるかということです。これにつきましては、御使い自身はそのような罪を犯すことはないということです。もしある御使いが罪を犯したなら、その御使いは堕落してしまいます。
 このことと関連してもう一つ注意しておきたいことがあります。確かに、栄光のキリストが語りかけておられるのは、それぞれの教会の御使いです。イエス・キリストはその御使いに対して、

 しかし、あなたには非難すべきことがある。

と言われます。けれども、実際に、そこで問題を引き起こしているのは、それぞれの教会の信徒たちや信徒を装って教会を荒らしている者たちです。また、実質的に非難されているのもその人々です。たとえば、2章13節ー14節前半には、

わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。

と記されています。ここでは称賛されている人々と非難されている人々がいますが、すべて「あなた」のこととされています。14節の、

 あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。

と訳されていることばは、直訳では、

 あなたはバラムの教えを奉じている人々をもっている。

です。引用はしませんでしたが、この後の15節で「バラムの教」とは「ニコライ派の教え」のことであることが明らかにされています。
 このことから分かるのは、この「アジヤにある七つの教会」のそれぞれの教会の御使いは、その教会を代表的に表わす形でそれと同一視されているということです。もしこのような存在が人であるとすれば、この「アジヤにある七つの教会」に関して言えば、突き詰めて行きますと、最後には、ヨハネその人が称賛されたり、非難されたりしてもおかしくはありません。けれども、黙示録にはそのようなことを思わせるものはまったくありません。
 先ほどお話ししましたように、黙示録では、問題となっている「アジヤにある七つの教会」の御使いたち以外には、この「御使い」ということば(アンゲロス)は天にある存在である「御使い」を表していますので、この「アジヤにある七つの教会」の御使いたちも天にいる御使いであると考えられます。同時に、この御使いは地にあるキリストのからだである教会の一つ一つの群れを代表的に表わす形で。その群れと同一視されています。
 これらのことから、この場合の御使いたちは、キリストのからだである教会の一つ一つの群れのあり方を表象的に表していると考えられます。「アジヤにある七つの教会」は地にあります。そのために、かしらであられる栄光のキリストから非難すべきことがあると指摘され、悔い改めるようにと迫られることがあります。そうではありますが、「アジヤにある七つの教会」の一つ一つは栄光のキリストのからだとして、天に属しています。この場合の御使いたちは、このような、キリストのからだである教会の一つ一つの群れの特質を表していると考えられます。
 1章16節では、栄光のキリストがこの御使いたちを表象的に表す「七つの星」を「右手に」もっていると言われています。「右手」は利き手ということもあって、力や権威を表しています。
 これと関連して、詩篇からいくつかのみことばを見てみたいと思います。18篇35節には、

 こうしてあなたは、御救いの盾を私に下さいました。
 あなたの右の手は私をささえ、
 あなたの謙遜は、私を大きくされます。

と記されています。20篇6節には、

 今こそ、私は知る。
 は、油をそそがれた者を、お救いになる。
 主は、右の手の救いの力をもって
 聖なる天から、お答えになる。

と記されています。63篇8節には、

 私のたましいは、あなたにすがり、
 あなたの右の手は、私をささえてくださいます。

と記されています。118篇15節ー16節には、

 喜びと救いの声は、正しい者の幕屋のうちにある。
 の右の手は力ある働きをする。
 の右の手は高く上げられ、
 の右の手は力ある働きをする。

と記されています。この他にも、主の右の手について触れている個所はいくつもあります。これらの個所から分かりますように、「の右の手」は、救いとさばきの御業、特にご自身の契約の民のための救いの御業を遂行される力強い御手です。
 黙示録1章16節では、地上にありつつ、天に属しているキリストのからだである教会の一つ一つの群れと同一視されている御使いが栄光のキリストの「右手」のうちにあると言われています。これは栄光のキリストがご自身のからだである教会の一つ一つの群れを、その力強い御手をもって治めてくださり、守ってくださっていることを意味しています。特に、霊的な戦いにおいて、救いとさばきの御業を遂行して、私たちご自身の民の救いを完成へと導いてくださることを意味しています。

 一章16節では、栄光のキリストの御姿のことが、さらに、

 口からは鋭い両刃の剣が出ており

と言われています。この場合の「」ということば(ロムファイア)は幅が広くて長い剣を意味しています。これは黙示録の中では、ここの他、2章12節、16節、6章8節、19章15節、21節に出てきます。新約聖書ではこれ以外に、ルカの福音書2章35節に比喩的な意味で出てくるだけです。黙示録では、私たちが取り上げています1章16節以外の5つの個所では、すべて、さばきの執行にかかわっています。また、6章8節以外は、栄光のキリストによるさばきの執行を示しています。
 19章11節ー16節には、

また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。その着物にも、ももにも、「王の王、主の主」という名が書かれていた。

と記されています。15節では、

 この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。

と言われています。それで、1章16節で、

 口からは鋭い両刃の剣が出ており

と言われていることも栄光のキリストがさばきを執行される方であることを示していると考えられます。
 さらに「口からは」と言われていますが、これは、そのさばきがみことばによってなされることを意味しています。19章15節で

 この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。

と言われている方は、13節で、

 その名は「神のことば」と呼ばれた。

と言われています。終わりの日のことを記しているテサロニケ人への手紙第二・2章8節には、

その時になると、不法の人が現れますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。

と記されています。
 そうしますと、栄光のキリストが、

 右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており

と言われていることは、栄光のキリストが救いとさばきの御業を遂行される方であることを示していることになります。

 右手に七つの星を持ち

ということは、ご自身の民のための救いを完全に実現してくださることにかかわり、

 口からは鋭い両刃の剣が出ており

ということは、それを阻止しようとして働く暗闇の主権者とその使いたちへのさばきを執行されることにかかわっています。

 1章16節では、最後に、

 顔は強く照り輝く太陽のようであった。

と言われています。
 このことばは、「イエス・キリストが山で変貌されたこと」を記しているマタイの福音書17章1節ー2節で、

それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。

と言われていることを思い起こさせます。
 これはただイエス・キリストの御姿がこのように栄光に輝いたということではありません。これに先立つ16章13節ー28節には、ペテロの、

 あなたは、生ける神の御子キリストです。

という「キリスト告白」(16節)を受けて、イエス・キリストがご自身の苦難と栄光を語り始められたことが記されています。21節には、

その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。

と記されています。しかし、続く22節ー23節には、

するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

と記されています。ペテロを始めとして弟子たちとしては、メシヤとして父なる神さまから遣わされたイエス・キリストが「長老、祭司長、律法学者たち」、すなわち、ユダヤ人の指導者たちによって殺されるというようなことは、考えられないこと、ありえないことだったのです。
 このことを受けて、父なる神さまは、先ほどの山の上で、イエス・キリストに栄光をお与えになりました。そして、17章5節に記されていますように、

これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい

とあかしされました。このみことばは、ご自身がエルサレムで多くの苦しみを受けて殺されることを教え始められたイエス・キリストこそは、父なる神さまが「愛する子」であることをあかしするものであり、そのイエス・キリストの「言うことを聞きなさい」と求められたものです。イエス・キリストの苦難と師についての教えに聞くようにと求められたのです。
 このことは、栄光のキリストの、

 顔は強く照り輝く太陽のようであった。

と言われていることが、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにかかわっていることを示しています。
 さらに、詩篇84篇11節ー12節を見てみたいと思います。そこには、

 まことに、神なるは太陽です。盾です。
 は恵みと栄光を授け、
 正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。
 万軍のよ。
 なんと幸いなことでしょう。
 あなたに信頼するその人は。

と記されています。
 また、イザヤ書60章19節ー20節には、

 太陽がもうあなたの昼の光とはならず、
 月の輝きもあなたを照らさず、
 があなたの永遠の光となり、
 あなたの神があなたの光栄となる。
 あなたの太陽はもう沈まず、
 あなたの月はかげることがない。
 があなたの永遠の光となり、
 あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。

と記されています。
 さらに、黙示録21章21節には、

都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。

と記されています。
 これらのことから、栄光のキリストの御顔が太陽のように強く照り輝いていることは、栄光のキリストがご自身の民のために救いの御業を遂行してくださることを表していると考えられます。
 けれども、このことがさばきを表していると主張されることもあります。確かに、黙示録の中では、太陽が人を打つと言われている個所もあります(16章8節、参照7章16節)。しかし、それ以上に、太陽が光を失うことがさばきと結びつけられています。たとえば、6章12節には、

私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。

と記されています、また、8章12節には、

第四の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれたので、三分の一は暗くなり、昼の三分の一は光を失い、また夜も同様であった。

と記されています。その他、9章2節もそうです。
 さらに、1章16節では、栄光のキリストご自身が太陽のように輝いていることが示されています。そのことは、やはり、契約の神である主、ヤハウェご自身が真の太陽であることを示している旧約聖書のあかしや、

 小羊が都のあかりだからである。

という黙示録のあかしのほうを取るべきでしょう。その意味で、栄光のキリストの御顔が太陽のように強く照り輝いていることは、栄光のキリストがご自身の民のために救いを完全に実現してくださる方であることを示している、ということになります。
 ですから、1章16節においても、栄光のキリストが救いとさばきの御業を遂行される方であることが示されていますが、ご自身の民のための救いを完全に実現してくださる方であることが前面に出ています。そして、霊的な戦いにおけるさばきの執行は、そのこととの関連において取り上げられています。


【メッセージ】のリストに戻る

「黙示録講解」
(第116回)へ戻る

「黙示録講解」
(第118回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church