黙示録講解

(第116回)


説教日:2013年5月5日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章9節ー20節
説教題:栄光のキリストの顕現(17)


 ヨハネの黙示録1章9節ー20節には、イエス・キリストがご自身の栄光の御姿を、黙示録の著者であるヨハネに現してくださったことが記されています。ヨハネは4節に出てくる「アジヤにある七つの教会」の牧会者でした。けれどもこの時は、9節に記されていますように、ローマ帝国からの迫害を受けて、パトモスという島に流刑になっていました。それはローマ帝国においてクリスチャンへの迫害が激しくなっていて、それが「アジヤにある七つの教会」にも及んでいたことを意味しています。
 イエス・キリストがヨハネにご自身の栄光の御姿を現してくださったのは、そのような厳しい状況に置かれていたヨハネに対しての啓示としての意味をもっています。
 12節ー13節に、

そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。

と記されていますように、栄光のキリストはご自身を「人の子のような方」としてお示しになりました。
 この「人の子のような方」は、旧約聖書のダニエル書7章13節ー14節に、

 私がまた、夜の幻を見ていると、
  見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、
  年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。
  この方に、主権と光栄と国が与えられ、
  諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、
  彼に仕えることになった。
  その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、
  その国は滅びることがない。

と記されていることを背景としています。ここでは、

 人の子のような方が天の雲に乗って来られた

と言われています。この「天の雲」は自然現象の雨を降らす雲ではなく、契約の神である主の栄光の御臨在に伴い、その御臨在を表示する雲です。それで、

 人の子のような方が天の雲に乗って来られた

ということは、「人の子のような方」が栄光のうちにご臨在されることを述べています。ここでは、その「人の子のような方」が「年を経た方」として示されている父なる神さまから「主権と光栄と国」を与えられることと、その「永遠の主権」をもって永遠に治められることが預言されています。
 イエス・キリストはこのことに基づいて、地上の生涯において贖いの御業を遂行されたとき、ご自身のことを「人の子」と呼んでおられます。イエス・キリストは、特に、ご自身が十字架にかかって私たちご自身の民の罪を贖ってくださることと、私たちの救いを完全に実現してくださるために終わりの日に再び来てくださることをお示しになるときにこの「人の子」という称号をお用いになりました。このことにつきましては、すでに、黙示録1章7節に記されている、

見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。

というみことばを取り上げたときにお話ししましたので、これ以上取り上げません。


 先週は、ご自身を「人の子のような方」としてヨハネにお示しになったイエス・キリストの栄光の御姿のことが14節で、

その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。

と記されていることについてお話ししました。
 前半の、

 その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、

ということでは、栄光のキリストの髪の毛の白さを表す表象として「羊毛」と「」が用いられています。これらは、先ほど引用しましたダニエル書7章13節ー14節の前の、9節ー10節に記されている「年を経た方」についての描写の中で、用いられていたもので、その衣の白さを表すのに「」が用いられ、髪の毛の白さを表すのに「羊の毛」が用いられています。その白さは、しみや汚れがない完全なきよさを表しています。また、髪の毛の白さはこの方が知恵に満ちておられることを表象的に表しています。
 黙示録1章14節では、「人の子のような方」の髪の毛の白さを表すのに「羊毛」と「」が重ねられています。これによって、この方の髪の毛の白さが強調されています。繰り返しになりますが、髪の毛の白さは、表象的に知恵の豊かさを示しています。このことは、「人の子のような方」が「年を経た方」と同じ知恵をもっておられることを意味しています。栄光のキリストは無限、永遠、不変の知恵をもって、御国を確立してくださり、私たちご自身の民のためにすべてのことを治めてくださいます。そして、霊的な戦いにおいて、暗闇の主権者であるサタンとその使いたちの知恵を空しくし、最終的にはサタンとその使いたちをおさばきになります。
 14節後半の、

 その目は、燃える炎のようであった。

ということは、この方がすべてのもの、すべてのことを完全に見通しておられて、知っておられることを表しています。これは、その前に、

 その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く

と言われていること、すなわち「人の子のような方」の無限、永遠、不変の知恵と結びついています。その無限、永遠、不変の知恵は、特に、「人の子のような方」が「年を経た方」のみこころにしたがって、十字架におかかりになって成し遂げられた贖いの御業において、この上なく豊かに示されています。栄光のキリストはこの知恵をもって、私たちご自身の契約の民の救いを完全に実現してくださいます。そして、暗闇の主権者であるサタンとその使いたちのはかりごとを空しくされます。そして、サタンとその使いたちを厳正におさばきになります。

 黙示録1章では、これに続く15節には、

その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。

と記されています。
 前半の、

 その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、

と訳されていることばにはとても難しい点があります。ここで「しんちゅう」と訳されていることば(カルコリバノス)は、新約聖書のギリシャ語だけでなく、その他の古いギリシャ語の文献の中でも、黙示録のここ1章15節と2章18節に出てくるだけです(ただし、黙示録のこの個所に触れているものは除きます)。そのために、これが正確に何を意味しているかは古代の人々にも分からなかったのではないかと考えられています。
 ただ、手がかりはあります。
 この「しんちゅう」と訳されていることば(カルコリバノス)は、語源としては、「銅」や「真鍮」や「青銅」を表すことば(カルコス)と関連していると考えられます。
 また、先週取り上げましたが、14節で「人の子のような方」のことが、

 その目は、燃える炎のようであった。

と言われていることの背景が、ダニエル書10章6節に出てくる御使いの描写において、

 その目は燃えるたいまつのようであった

と言われていることにあると考えられます。そうしますと、そこで、御使いのことが、

 その腕と足は、みがき上げた青銅のようで、

と言われていることが、黙示録1章15節で、「人の子のような方」のことが、

 その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、

と言われていることの背景にあると考えられます。そのようなことから、一般に、新改訳で「しんちゅう」と訳されていることばは「青銅」のことであると理解されています。
 さらに、「炉で精錬されて光り輝く」と訳されていることばも理解するのが難しいものです。詳しい議論は省きますが、一般には、これは、精練するために炉の中で溶けている状態にあって光り輝いていることを示していると考えられています。新改訳もこのことを意味していると考えられます。皆さんも溶鉱炉の中で鉄などの金属が溶けている状態にあるのをご覧になっておられると思います。高温であればあるほど白く光り輝いています。そして、このことから、完全なきよさや純粋さの輝きを表していると考えられています。
 「」についてですが、「」がしっかりしていることは、ぐっと踏ん張ることができることを意味していますから、その人の力強さや安定して揺るがないことを表しています。
 先ほど新改訳で「しんちゅう」と訳されていることばが黙示録1章15節と2章18節にしか出てこないということをお話ししました。その2章18節には、

また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。
「燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。・・・・・」

と記されています。そして、後ほどご覧になっていただきたいのですが、テアテラの教会に対する栄光のキリストのみことばでは、預言者と自称している「イゼベルという女」とその教えに従っている者たちに対するさばきの宣言がなされています。同時に、その女の教えに従わない人たちへの励ましも記されています。ここで「イゼベル」という名が出てくるのは、その自称預言者の「」の名前というより、旧約聖書に出てくる「イゼベル」に重ねてのことです。「イゼベル」はアハブと政略結婚をして、イスラエルにバアル礼拝を持ち込み、主の預言者たちを殺害し、エリヤをも殺害しようとした女です。
 このことは、「その足は光り輝くしんちゅうのよう」と言われていることが、霊的な戦いにかかわっていることを思わせます。「人の子のような方」は霊的な戦いの状況の中で、決して揺るぐことなくその御力を発揮されます。そして、暗闇の主権者であるサタンとその使いたちを厳正におさばきになります。
 さらに、「」について考えられるもう一つのことですが、「」はその人の生涯の歩み方を表します。たとえば、ルカの福音書1章79節には、神さまのあわれみによってもたらされる「日の出」が、

 暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、
 われらの足を平和の道に導く。

というザカリヤの預言のことばが記されています。また、罪を犯して造り主である神さまの御前に堕落してしまっている人間の現実を記している、ローマ人への手紙3章15節ー16節には、

 彼らの足は血を流すのに速く、
 彼らの道には破壊と悲惨がある。

と記されています。ここでは、「彼らの足」と「彼らの道」が並行法的につながっています。
 イエス・キリストの地上の生涯は、父なる神さまのみこころに示されている道をまっすぐに進まれた歩みでした。それは罪を犯すことがなかった聖さと純粋さに特徴づけられる歩みでした。けれども、イエス・キリストの御足は、それ以上の歩みをしました。それは、私たちご自身の契約の民の罪を贖って、私たちを死と滅びから救い出してくださるために、十字架に向かって揺るぎなく進まれた御足です。マルコの福音書10章32節ー34節には、

さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話し始められた。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。 すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」

と記されています。
 黙示録1章15節後半では、「人の子のような方」について、さらに、

その声は大水の音のようであった。

と記されています。このことの背景としては、やはり、先ほど触れましたダニエル書10章6節に記されている御使いの描写において、

その腕と足は、みがき上げた青銅のようで、そのことばの声は群集の声のようであった。

と記されていることが考えられます。
 けれども、これよりもっと「大水の音のようであった」ということに似ていて、その背景となっていると考えられることがあります。
 主の栄光の顕現を記しているエゼキエル書1章24節には、主の栄光の御臨在を表示しつつそれのきよさを守っているケルビムのことが、

彼らが進むとき、私は彼らの翼の音を聞いた。それは大水のとどろきのようであり、全能者の声のようであった。

と記されています。これはエゼキエルが最初に見た幻による啓示の中でのことです。
 さらに、同じエゼキエル書の43章2節には、

すると、イスラエルの神の栄光が東のほうから現れた。その音は大水のとどろきのようであって、地はその栄光で輝いた。

と記されています。これは、エゼキエル書の最後の部分である40章ー48章に記されている、終わりの日に回復され完成する、まことの主の神殿とそれを中心とする主の契約の民の相続地についての幻による啓示の中に出てくることです。この終わりの日に完成する、主のまことの神殿とは、ヨハネの福音書2章21節ー22節に記されています、栄光のキリストの復活のからだです。
 ここで、

 イスラエルの神の栄光が東のほうから現れた。

と言われているのは、10章ー11章に記されています、幻による啓示の中で、主の栄光、すなわち主の栄光の御臨在が、エルサレム神殿から出て行き、エルサレムの東の山にとどまったことが示されていることを受けています。ここでは、その主の栄光が、「地はその栄光で輝いた」と言われていますように、さらに豊かな栄光の御臨在として、まことの神殿に帰ってくることが示されています(4節ー5節を見てください)。
 エゼキエル書では「大水のとどろき」が神の栄光の御臨在に伴う音として示されています。同時に、それが、1章24節では、

 全能者の声のようであった。

と言われています。
 エゼキエルが最初に幻による啓示を受けたとき、すでに、南王国ユダの罪に対する主のさばきが始まっていて、エゼキエルたちはバビロンへの捕囚となっていました。エゼキエルは捕囚の地で、なおもエルサレムに残っているユダ王国の政治的、宗教的指導者たちの罪の現実を示されます。8章に記されていますが、主の神殿にはさまざまな偶像が祀られていて、偶像礼拝がなされていました。そして、そのことへのさばきとして、エルサレム神殿から主の栄光の御臨在は去り、エルサレムは陥落し、エルサレム神殿は破壊され、民は捕囚となるということが告げられます。しかし、それで終わることはなく、終わりの日に、主のまことの神殿が建設されることが幻の形で示されます。「大水のとどろきのよう」であった主の栄光の御臨在に伴う音は、そこにさばきを執行されるためだけでなく、最終的にご自身の契約の民のために救いを実現してくださる契約の神である主、ヤハウェの御臨在があることを表示しています。
 これらのことは、黙示録1章15節で「人の子のような方」の御声が「大水の音のようであった」と言われているのは、それがまさに「全能者の声」であったことを示しています。そして、「人の子のような方」こそは、ご自身の契約の民のために贖いの御業を成し遂げられ、その救いの完全な実現のために、そして、暗闇の主権者とその使者たちをおさばきになるためにご臨在される栄光の主であられることを表しています。

 最後に、イエス・キリストの御足が、私たちご自身の契約の民の罪を贖って、私たちを死と滅びから救い出してくださるために、十字架に向かって揺るぎなく進まれた御足であることに関連して、一つのことをお話ししたいと思います。
 これまで何回かにわたってお話ししてきましたことから分かりますが、ここで、イエス・キリストはご自身を霊的な戦いを戦われる方として、ご自身を示しておられます。これは聖書全体を通して示されている、契約の神である主、ヤハウェは「神である戦士」であられるということを踏まえてのことです。栄光のキリストこそが「神である戦士」としてご自身を表してこられた契約の神である主、ヤハウェであられるのです。
 大切なことは、これが霊的な戦いであるということです。これは「神である戦士」としてご自身を表してこられた契約の神である主、ヤハウェであられる栄光のキリストが戦われる戦いです。私たちはこの方を主として告白し、そのみことばに従うことによって、この霊的な戦いを戦います。そして、この霊的な戦いの行方はすでに決まっています。
 第2次世界大戦のヨーロッパ戦線は、連合軍のノルマンディー上陸作戦の成功において、その大勢が決まったと言われています。それで戦争が終わったのではありませんが、それ以後、ナチス軍は敗走を重ねていって最後には降伏するようになりました。連合軍のノルマンディー上陸作戦が開始された日(1944年6月6日)が「ディー・デイ(D day)」と呼ばれています。そして連合軍が勝利した日(1945年5月8日)が「ヴィー・イー・デイ(V-E day)」と呼ばれています[「ヴィー・イー・デイ」の「イー(E)」はヨーロッパ(Europe)戦線を表しています]。これが一般化されて、戦いにおいて重要な作戦が開始される日が「ディー・デイ」と呼ばれるようになったようです。そして、勝利の日は「ヴィー・デイ」と呼ばれます。
 霊的な戦いにおけるディー・デイは、無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子イエス・キリストが、私たちご自身の契約の民の罪を贖ってくださるために十字架におかかりになって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わってすべて受けてくださった日です。イエス・キリストはこの日、この時のために、敢然と、また揺るぐことなく、十字架への道を進まれました。
 ヨハネの福音書10章18節には、

だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。イエス・キリストは、サタンがイスカリオテ・ユダにイエス・キリストを裏切る思いを植え付けたことや、ユダヤ人の指導者たちがイエス・キリストに対して抱いたねたみや危機感、さらには、人々の熱狂の叫びや、それに屈して保身をはかったピラトの計算など、すべてのことをお用いになって、ご自身の意志で十字架におかかりになりました。さらには、人類が考え出した刑罰の中で最も残酷な刑罰の一つに数えられている十字架につけられたことによる激しい苦痛の中で、十字架にとどまり続けられたのもイエス・キリストのご意志によります。
 十字架につけられてしまった人は、十字架から降りる力はありません。けれども、御子イエス・キリストにとって、十字架から降りること自体はいともたやすいことでした。けれども、もしご自分が十字架から降りてしまわれたなら、私たちご自身の民のための罪の贖いは成し遂げられずに終わってしまいます。また、父なる神さまの愛から出た、私たちのための救いのご計画も実現しないで終わってしまいます。そうしますと、霊的な戦いにおいては、サタンが勝利することになります。
 御子イエス・キリストは、父なる神さまのみこころに従い、私たちへの愛によって、十字架の上にとどまられ、十字架刑がもたらす想像を絶する苦痛を味わわれたばかりか、それをはるかに越える、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきの苦しみを、私たちに代わってすべてお受けになりました。これによって、神さまが聖なる方であり、義であられ、どのような罪をも厳格に清算されることが示されました。それと同時に、父なる神さまと御子イエス・キリストの、私たちに対する愛がこの上なく深く豊かに現されています。
 このことにつきましては何度かお話ししてきました。その準備をする度に、私は手を休めてうなだれてしまいます。自分の小さな心では、それ以上に、なおも罪の自己中心性が残っている心では、この愛を曇りなく受け止めることができないということを、思い知らされるからです。この心は、自分に何か「よいこと」があったときにしか、神さまの愛を実感することができないような、貧しいものであることを痛感させられます。しかも、多くの場合に、その「よいこと」の基準にも自己中心的な思いが影を落としています。このような自らの心の貧しさと曇りを思い知らされるとき、終わりの日における、救いの完全な実現を待ち望まないではいられません。その救いの完成の日にも、私たちは被造物の限界の中にありますから、御子イエス・キリストの十字架において示されている神さまの愛の豊かさを知り尽くすことはできません。それは私たちにとって、永遠にわたって、常に新鮮な愛です。けれども、そのような私たちの限界にもかかわらず、その日には、私たちは罪を完全にきよめていただき、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛を、一点の曇りもなく受け止めることができるようになるでしょう。
 御子イエス・キリストの十字架の死において、「神である戦士」として霊的な戦いを戦われるイエス・キリストの勝利が確定しています。私たちは、御子イエス・キリストとその十字架の死による罪の贖いに信頼して、イエス・キリストの十字架に現されている愛と恵みを、自分たちの思いとことばと行いに映し出すことによってだけ、霊的な戦いに勝利することができます。それが、イエス・キリストの御足の跡に従うということです。
 これに対して、サタンとその使いたちは、血肉の力で霊的な戦いを戦います。時には、この世の国の主権者による迫害によって、また、巧妙な誘惑によって、さらには、神さまの御前では、黙示録12章10節で、サタンのことが「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」と言われていますように、私たちの罪を告発することによって戦っています。
 これに対して、神さまの御前では、ローマ人への手紙8章34節に、

罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

と記されていますように、栄光のキリストが、ご自身が十字架の死によって成し遂げられた私たちのための罪の贖いに基づいて、私たちのためにとりなしてくださっています。サタンが私たちの罪を告発しても、その罪に対するさばきはすでにご自身の十字架の上で執行されていて終わっていることを明らかにしてくださいます。これによって、サタンの告発を無効としてしまわれます。また、栄光のキリストは私たちもご自身に倣って兄弟姉妹たちのために執り成すように求めておられます。エペソ人への手紙6章18節に、

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

と記されているとおりです。
 そればかりではありません。マタイの福音書5章43節ー44節には、

「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

というイエス・キリストの教えが記されています。私たちの主は、

 自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

と教えておられます。自分に敵対して、迫害してくる人々に対しては、愛をもって応えなさいということです。その人々に対して同じ敵愾心をもって応じるなら、たとえ、相手をやり込めたとしても、霊的な戦いにおいては、つまり、神さまの御前においては敗北です。
 栄光のキリストはご自身に敵対していた人々に対して、いや、ご自身を十字架につけて抹殺しようとしていた人々に対してさえ、その人々と同じような敵対心をもって向かわれたことはありません。その人々にさまざまな形で警告されたことはあります。それは、その人々のために涙を流してのことでした。ルカの福音書19章41節ー44節に、

エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」

と記されているとおりです。それも、これに先立って、ご自身に敵対している人々に救いの道を示し続け、招き続けてこられた上でのことです。同じルカの福音書13節34節には、

ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。

という、イエス・キリストの嘆きのことばが記されています。福音書に記されているイエス・キリストの厳しい告発の裏には、その人々のための涙がありました。それで、その警告や告発を通してでも、その人々を救いのうちへと導こうとしておられたことを思わされます。
 実際に、イエス・キリストはご自身を十字架につけた人々がその罪に気づいて、神さまに立ち返ったときのために、十字架の上で罪の贖いを成し遂げられました。もちろん、イエス・キリストを十字架につけたのは私たち自身です。ただこの場合は、その当時、そのことに加担した人々のことを取り上げています。使徒の働き2章14節ー36節には、聖霊降臨節(ペンテコステ)の日にペテロが、祭りのためにエルサレムに上ってきた人々に語った「説教」が記されています。それは、36節に記されています、

ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。

という告発のことばで結ばれています。これを聞いて心を刺された人々は、

兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。

と問いかけました。するとペテロは、

悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

と答えました。無限、永遠、不変の栄光の主を十字架につけるようなとんでもない罪を犯したのだからもう赦されないというのではなく、無限、永遠、不変の栄光の主は、ご自身を十字架につけて殺すような罪を犯した人々の罪を贖うために死なれたのだということです。
 御子イエス・キリストが十字架につけられて死なれた日が霊的な戦いにおけるディー・デイであるのは、このような事情によっています。今、私たちはそのディー・デイの後のヴィー・デイに至るまでの霊的な戦いを戦っています。それは、私たち自身が自分の十字架を背負って、すなわち、自分に対して死んで、兄弟姉妹たち、さらには敵対する人々への愛のうちを歩むことによって、御子イエス・キリストに従っていくことによって戦うものです。


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