黙示録講解

(第115回)


説教日:2013年4月28日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章9節ー20節
説教題:栄光のキリストの顕現(16)


 先主日には、春の特別集会をいたしましたので、黙示録からのお話はお休みしました。きょうは、黙示録からのお話に戻って、1章9節ー20節に記されています、イエス・キリストがご自身の栄光の御姿を、黙示録の著者であるヨハネに現してくださったことについてのお話を続けます。このとき、ヨハネは4節に出てくる「アジヤにある七つの教会」の牧会者でした。けれども、ローマ帝国からの迫害を受けて、パトモスという島に流刑になっていました。それはローマ帝国からの迫害が「アジヤにある七つの教会」に及んでいたことを意味しています。
 ヨハネにご自身の栄光の御姿を現してくださった栄光のキリストは、19節にありますように「今ある事、この後に起こる事」を黙示によって示してくださり、それを書き記して「アジヤにある七つの教会」に送るようにお命じになりました。それで、黙示録はヨハネを通して「アジヤにある七つの教会」に与えられた啓示を記しています。その「アジヤにある七つの教会」の「」は完全数で、「アジヤにある七つの教会」は、同時に、世の終わりまで地上に存在するキリストのからだである教会全体を表象的に示しています。
 前回まで、12節ー13節に記されている、

そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。

とみことばにありますように、栄光のキリストがご自身を「人の子のような方」としてお示しになったことについてお話ししてきました。
 簡単に復習しておきますと、この「人の子のような方」は、旧約聖書のダニエル書7章13節ー14節に記されていることを背景としています。ダニエル書7章13節ー14節には、

 私がまた、夜の幻を見ていると、
  見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、
  年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。
  この方に、主権と光栄と国が与えられ、
  諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、
  彼に仕えることになった。
  その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、
  その国は滅びることがない。

と記されています。ここでは、

 人の子のような方が天の雲に乗って来られた

と言われています。これは「人の子のような方」が栄光のうちにご臨在されることを述べています。「人の子のような方」はそのようにして来られて、「年を経た方」として示されている父なる神さまから「主権と光栄と国」与えられることと、その「永遠の主権」をもって父なる神さまのみこころに従って永遠に治められることを意味しています。
 「人の子のような方」の御国は父なる神さまのみこころに従って確立され、治められる永遠の御国です。それで、それは一つの御国です。この「人の子のような方」の御国は、引用はしませんが、その前の1節ー8節に記されている海から上ってきた4頭の獣によって表象的に表されているこの世の国々と対比されています。古代オリエントの文化では、海は暗闇の主権を表象的に表していました。4頭の獣は次々と現れては過ぎ去っていくこの世の国々を表象的に表しています。この世の国は次第にその凶暴さを増していき、最終的に、第4の獣において、その凶暴さが頂点に達します。
 黙示録13章1節ー2節には、

また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。

と記されています。すでにお話ししたことですので説明は省きますが、この海から上ってきた獣は、ダニエル書7章1節ー8節に記されている、海から上ってきた4頭の獣のうちの第4の獣のようでありつつ、さらにほかの3頭の獣、「ひょう」、「」、「獅子」の特性をも合わせもっている凶暴な獣です。これは「アジヤにある七つの教会」を迫害していた、その当時のローマ帝国をモデルとして記されています。同時に、これは「アジヤにある七つの教会」によって表象的に示されている、世の終わりまで地上に存在しているキリストのからだである教会を迫害するこの世の国を表しつつ、終わりの日にその凶暴さを極まらせる反キリストの帝国をも示しています。
 黙示録の流れの中では、この13章1節ー2節に記されている海から上ってきた獣が出現した経緯とその凶暴さの理由が、その前の12章に記されています。
 これもごく簡単にまとめておきますと、1節ー6節では、古い契約の時代からと新しい契約の時代を通して存在している主の契約の民を表象的に表している「」がみごもっていて子を産もうとしていました。これに対して、サタンを表象的に表している「赤い竜」が、産まれてこようとしている子を食い尽くそうとしていました。「」は「男の子」を産みました。
 これは、創世記3章15節に記されている、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

という、契約の神である主のサタンへのさばきのことばを背景としています。ここでは、サタンへのさばきは「女の子孫」のかしらとして来られる贖い主によって執行されることが示されています。黙示録12章で「」が産んだ「男の子」がそのサタンへのさばきを執行する贖い主です。それで「赤い竜」はその子を食い尽くそうとしていたのです。けれども、5節には、

 その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。

と記されています。ここでは、12章に記されていることの主旨に沿って、このように簡略に記されています。言うまでもなく、このようにして生まれた男の子が、私たちの罪を贖うために十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきをお受けになったことと、栄光を受けて死者の中からよみがえられたことが踏まえられています。
 続く7節ー12節には、天に霊的な戦いが起こり、竜すなわちサタンとその使いたちは敗北して、天から投げ落とされました。これは、「女の子孫」たちが、贖い主が成し遂げられた罪の贖いにあずかって父なる神さまの御許に集められることと、サタンへの最終的なさばきが執行されるための条件が整えられたことを意味しています。12節には、

それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。

と記されています。

 悪魔が自分の時の短いことを知り

ということばは、サタンが自分に対する最終的なさばきが執行される時が迫ってきていることを悟っていることを意味しています。そして、

 激しく怒って、そこに下った

ということばは、この地において、サタンが最後の抵抗をしようとしていることを意味しています。それがどのようなことであるかが、13節ー18節に記されています。そして、12章の最後の17節ー18節に、

すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。そして、彼は海べの砂の上に立った。

と記されています。サタンは「」すなわち古い契約の時代からと新しい契約の時代を通して存在している主の契約の民に対して「激しく怒り」、

女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った

と言われています。この「女の子孫の残りの者」とは、地上にある主の契約の民のことです。黙示録が記された時代であれば、ローマ帝国において御子イエス・キリストを贖い主として信じて、「神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たち」のことです。今日であれば、父なる神さまの一方的な愛とあわれみにより、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかっている、私たちもこの群れの中に加わえられています。
 このような、霊的な戦いの状況の中で、13章1節ー2節において、

また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた

と記されています。ヨハネとヨハネが牧会している「アジヤにある七つの教会」がローマ帝国からの激しい迫害を受けているのは、このような霊的な戦いの状況の中にあってのことです。それはサタンとその使いたちが天における霊的な戦いに敗北したことの現れです。栄光のキリストはこのことをヨハネに、また、ヨハネを通して「アジヤにある七つの教会」にお示しくださったのです。


 このようなことを踏まえて、ヨハネにご自身を現してくださった栄光のキリストの御姿について、1章13節ー16節に記されていることに基づいて、さらに見ていきましょう。
 13節には、

それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。

と記されています。ご自身を「人の子のような方」として表してくださったイエス・キリストの御姿について、ここでは、

 足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた

と言われています。これが何を意味しているかにつきましては、学者たちの意見は分かれています。一つの見方は、これが大祭司の装束を意味しているというものです。その場合は、栄光のキリストがご自身を大祭司としてお示しになったということになります。もう一つの見方は、大祭司の装束という特定のものではなく、より広く天に属する存在としての栄光を表しているというものです。
 ここで「人の子のような方」が着ていた「足までたれた衣」というのは、長服のことです。モーセの兄アロンは最初の大祭司です。出エジプト記28章2節ー4節には、そのアロンの装束について記されていますが、それが長服であることが示されています。けれども、このことだけで、「人の子のような方」が着ていた「足までたれた衣」が大祭司の衣装を表していると言うことはできません。旧約聖書のヘブル語では「長服」を表すことばがいくつかあります。私が見つけることができたのは三つ(メイール、クトーネト、マハラーツォート)ですが、どれも祭司の衣装だけでなく、高貴な階級の長服とか礼服などをも表します。
 また、ここで「足までたれた衣を着て」と訳されていることばと同じことばの組み合わせが、エゼキエル書9章2節の七十人訳に出てきます(ヘブル語に基づく新改訳では「亜麻布の衣を着」)。これは主がエルサレムへの刑罰を執行する際に用いられた御使いのことであるので、祭司的な存在ではないと主張されることがあります、しかし、これは7人の御使いのうちのひとりで、ほかの6人がさばきを執行するのに対して、この御使いは主を恐れる人々の額にしるしをつけること、それによってその人々にはさばきが執行されないようにすることに用いられた御使いですので、祭司的な働きをしていた可能性もあります。
 このように、ことばの上からは決定的なことは言えません。
 もう一つのことですが、この「人の子のような方」は腰にではなく、「胸に金の帯を締め」ておられたと言われています。これは、大祭司が胸につけていたエポデのことで、これは大祭司の装束のことであると主張されることがあります。けれども、黙示録15章6節には、

そしてその聖所から、七つの災害を携えた七人の御使いが出て来た。彼らは、きよい光り輝く亜麻布を着て、胸には金の帯を締めていた。

と記されています。ここには、先ほど触れましたエゼキエル書9章2節と同じように、主のさばきを執行するために遣わされた7人の御使いたちが出てきます。この場合は、7人ともさばきを執行するために用いられていますので、祭司的な働きの可能性はありません。その御使いたちが、

 胸には金の帯を締めていた。

と言われています。それで、「人の子のような方」が腰にではなく「胸に金の帯を締め」ておられたと言われているときの「金の帯」(ことばは同じ)は、必ずしも、大祭司が身に付けるエポデのことではないことになります。
 また、もう少し広い文脈で見てみますと、黙示録1章13節ー16節に記されている、

足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

という栄光のキリストの御姿の描写は、ダニエル書10章5節ー6節に記されている、

私が目を上げて、見ると、そこに、ひとりの人がいて、亜麻布の衣を着、腰にはウファズの金の帯を締めていた。そのからだは緑柱石のようであり、その顔はいなずまのようであり、その目は燃えるたいまつのようであった。また、その腕と足は、みがき上げた青銅のようで、そのことばの声は群集の声のようであった。

という御使いの描写と、その描写が似ていることから、これを背景としていると考えられています。そうであるとしますと、「人の子のような方」が大祭司の装束を身にまとっておられたという可能性はより低くなります。ただ、ダニエル書10章5節ー6節に記されている御使いについての描写と、黙示録1章13節ー16節に記されている「人の子のような方」の描写には違いもあります。明らかに、黙示録1章13節ー16節に記されている「人の子のような方」は、ダニエル書10章5節ー6節に記されている御使いに優る栄光をもつ存在として描かれています。それで、この二つの個所の比較からも、決定的なことは言えません。
 けれども、全体的に見た場合に、黙示録1章13節ー16節に記されている「人の子のような方」の描写が大祭司の表象ではないのではないことを示すものが二つあります。
 第一に、先ほどお話ししたことですので、説明はいたしませんが、「人の子のような方」はダニエル書7章13節ー14節の背景に照らしてみますと、永遠の御国を確立し、王として治められる主権者として受け止められます。
 第二に、この「人の子のような方」については、黙示録1章16節で

 口からは鋭い両刃の剣が出ており

と言われています。これと関連することが19章15節には、

この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。

と記されています。ここでは、終わりの日に最後のさばきを執行される方としての、栄光のキリストの御姿が記されています。
 これらのことから、この1章13節ー16節に記されている「人の子のような方」は、栄光のキリストがご自身のことを大祭司としてお示しになっておられるのではないことを意味しています。むしろ、父なる神さまのみこころにしたがって永遠の御国を確立され、それを治める主権者として、さらには、霊的な戦いにおいて暗闇の主権者とその使いたちに対する最終的なさばきを執行される方として示してくださっていると考えられます。
 そのようなわけで、「人の子のような方」が身に付けておられた「足までたれた衣」と「金の帯」は、この方が天に属しておられる存在の栄光を帯びておられることを示していると考えられます。

 14節には、接続詞(デ)があります。それで、ここから16節までの「人の子のような方」ご自身についての、具体的な描写が始まっています。12節ー13節では、「人の子のような方」が「七つの金の燭台」すなわち「アジヤにある七つの教会」の真ん中にご臨在してくださっていることが中心となっています。そして、14節ー16節では、その方がどのような方であるかが示されています。
 14節には、

その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。

と記されています。
 この場合の「頭と髪の毛」と言われているときの「」と訳されている接続詞(カイ)は「すなわち」をも意味しますので、「頭と髪の毛」は「頭すなわち髪の毛」ということです。私たちの間でも「頭が白い」と言えば髪が白いことを意味しています。ここでは、

 白い羊毛のように、また雪のように白く

というように、白いことを表すために用いられる「羊毛」と「」が重ねられてその白さが強調されています。このことの背景には、ダニエル書7章9節に、

 私が見ていると、
  幾つかの御座が備えられ、
  年を経た方が座に着かれた。
  その衣は雪のように白く、
  頭の毛は混じりけのない羊の毛のようであった。

と記されている「年を経た方」についての描写があります。この「年を経た方」についての描写では「」は衣の白さを表すために用いられており、「混じりけのない羊の毛」は頭の毛の白さを表すのに用いられています。黙示録1章14節ではその二つが「人の子のような方」の髪の毛の白さを表すのに用いられています。これは、黙示録の著者であるヨハネの不手際で、本来は、「」は「人の子のような方」の衣の白さを表すために用いられるべきであるという主張もあります。けれども、これはヨハネが意図したことであると考えるべきです。
 というのは、聖書の中では衣の白さは御使いたちの描写にも用いられています。けれども、髪の毛の白さは「年を経た方」と「人の子のような方」だけに用いられています。これが「人の子のような方」の髪の毛の白さを強調して示すために、「羊毛」と「」が重ねられて用いられている理由であると考えられます。つまり、ここでは、「年を経た方」に当てはまることが、そのまま、「人の子のような方」に当てはめられているのです。この白さはいっさいのシミや汚れと関係がない完全なきよさを表しています。それとともに、髪の毛の白さは、知恵の豊かさを示しています。「人の子のような方」は「年を経た方」の知恵を完全に共有しておられます。栄光のキリストは無限の知恵をもって私たちご自身の民のためにすべてのことを治めてくださり、霊的な戦いにおいて、暗闇の主権者の知恵を空しくし、最終的にはサタンとその使いたちをおさばきになります。
 サタンとその使いたちは、この世の権力者による迫害によって、主の契約の民が主を捨ててしまうように働いたり、巧妙な誘惑によって、主の契約の民が福音のみことばを曲げてしまい、結果的に、契約の神である主への信頼を失うようにと働きかけます。けれども神さまの知恵は「人の子のような方」として来てくださった御子イエス・キリストの十字架において最も豊かに示されています。それは生まれながらの人には理解できないことであるだけでなく、暗闇の主権者であるサタンの思いをもはるかに越えたものです。
 黙示録1章14節後半では、「人の子のような方」について、

 その目は、燃える炎のようであった。

と言われています。
 これは、先ほど引用しましたダニエル書10章6節で、御使いのことが、

 その目は燃えるたいまつのようであった。

と言われていることを背景としていると考えられます。黙示録では、さらに、2章18節に、

また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。
「燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。」

と記されている中に出てきますし、19章12節ー13節に、

また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。

と記されている中に出てきます。
 この「人の子のような方」の「燃える炎のような目」は、まず、すべてのもの、すべてのことを見通しておられる目であることを表しています。これは、ただ単に、すべてのことを見ておられるというだけのことではありません。先ほどの、

 その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く

というみことばに示されている「人の子のような方」の無限のきよさと無限の知恵と相まって、霊的な戦いの状況の中で、この方が、私たち主の契約の民を治め導いてくださっていることの確かさ、私たちの救いを完全に実現してくださる方であることを私たちにあかししています。
 さらには、暗闇の主権者であるサタンの働きによって、地上にあるキリストのからだである教会は、激しい迫害にさらされ、巧妙な誘惑にさらされます。サタンとその使いたちはそのことに知恵を尽くし力を尽くして、霊的な戦いを戦います。しかし、私たちを治め導いてくださる「人の子のような方」は、サタンとその使いたちの知恵をはるかに越えた、知恵と洞察をもって、サタンのはかりごとを空しくされます。そして、サタンとその使いたちを厳正におさばきになり、私たち主の契約の民の救いを完全に実現してくださいます。
 最後に、このことを覚えて、主のみことばをいくつかお読みいたします。
 詩篇62篇5節ー8節には、

 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。
 私の望みは神から来るからだ。
 神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。
 私はゆるがされることはない。
 私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。
 私の力の岩と避け所は、神のうちにある。
 民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。
 あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。
 神は、われらの避け所である。

と記されています。
 また、ヨハネの福音書14節1節では、ご自身を「人の子のような方」としてお示しになった栄光のキリストご自身が、

 あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

と言われましたし、27節では、

わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。

と言われました。


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