ヨハネの黙示録1章9節ー20節には、イエス・キリストがご自身の栄光の御姿を、黙示録の著者であるヨハネに現してくださったことが記されています。栄光のキリストは、ヨハネに黙示による啓示をお与えになり、それを巻物に書き記して、アジアにある七つの教会に送るようにお命じになりました。このようにして、ヨハネは栄光のキリストから受けた黙示による啓示を書き記しました。それが、今日私たちが手にしているヨハネの黙示録です。
先週は、12節ー13節に、
そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。
と記されていますように、イエス・キリストがご自身のことを「人の子のような方」としてお示しになったことについて、お話ししました。きょうは、そのお話をもう少し続けます。
この「人の子のような方」は、旧約聖書のダニエル書7章13節ー14節に記されている、ダニエルが見た幻のうちに示されたことを背景として記されています。ダニエル書7章13節ー14節には、
私がまた、夜の幻を見ていると、
見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、
年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。
この方に、主権と光栄と国が与えられ、
諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、
彼に仕えることになった。
その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、
その国は滅びることがない。
と記されています。ここでは、
人の子のような方が天の雲に乗って来られた
と言われています。ここに出てくる「天の雲」は自然現象としての空の雲のことではなく、契約の神である主の栄光の御臨在、すなわち、セオファニーに伴う雲のことです。ですから、
人の子のような方が天の雲に乗って来られた
ということは、「人の子のような方」の栄光の御臨在のことを述べています。そして「人の子のような方」はそのようにして来られて、永遠の御国を確立されます。「人の子のような方」は、その御国を「年を経た方」として示されている神さまから与えられた「永遠の主権」をもって確立されます。これは、「人の子のような方」が「年を経た方」のみこころに従って御国を確立されて、「年を経た方」のみこころに従って永遠に治められることを意味しています。
この「人の子のような方」の御国は、同じダニエル書7章の1節ー8節に記されている海から上ってきた4頭の獣によって表象的に表されているこの世の国々と対比されています。古代オリエントの文化では、海は暗闇の主権を表象的に表していました。このことは、「人の子のような方」の御国が神さまのみこころに従って確立されていることと対比されます。4頭の獣は次々と現れては過ぎ去っていくとともに、次第にその凶暴さを増していき、最終的に、第4の獣において、その凶暴さが頂点に達する、この世の国々を表象的に表しています。これに対して「人の子のような方」の御国は、神さまのみこころに従って確立される、一つの御国、したがって永遠の御国です。
このように、4頭の獣によって表象的に表されているこの世の国々と「人の子のような方」の御国が、それぞれの主権の本質的な特性の違いによって区別されています。その違いについては、これまでにも何度か取り上げたものですが、イエス・キリストの教えにも示されています。マルコの福音書10章35節ー45節には、
さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」彼らは「できます」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。 しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
と記されています。
今お話ししていることとかかわっていることに焦点を絞ってお話ししますが、ヤコブとヨハネは、
あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。
と願い出ています。これは、ダニエル書7章14節で、
この方に、主権と光栄と国が与えられ、
諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、
彼に仕えることになった。
その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、
その国は滅びることがない。
と預言されていることが成就するときのことを踏まえての願いです。
これに対してイエス・キリストは、この世の国々の主権の特質について、
異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
と教えておられます。このように、海から次々と上ってきた4頭の獣によって表象的に表されているこの世の国々の主権は、人の上に立って支配しようとすることを特徴とする権力です。それがお互いの間で発揮されるので、後から起こる国がその前の国を打ち倒すという形で、主権が確立されます。
イエス・キリストがヤコブとヨハネにこのようなことを教えられたのは、二人が思い描いている「あなたの栄光の座」すなわちイエス・キリストの主権が、この世の国々の主権と同じ特質のものであるということであることをお示しになるためです。事実、41節には、
十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。
と記されていて、すべての弟子たちが同じ思いをもっていることがあらわになっています。
この教えで、イエス・キリストは、
しかし、あなたがたの間では、そうでありません。
と言われて、そのことが国に限らず、小さな群れにも当てはまることを示しておられます。というのは、この世の国の主権の特質が人の上に権力を振るうことにあるのは、突き詰めていきますと、それが、それぞれの人のうちに宿っている罪の自己中心性から出ているからです。
これに対して、イエス・キリストの御国の主権の特質について、イエス・キリストは、
人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。
と教えておられます。ここでイエス・キリストはご自身のことを「人の子」と呼んでおられます。先週お話ししましたように、これは、先ほど引用しましたダニエル書7章13節ー14節に記されています、「人の子のような方」が永遠の御国を確立されることを預言しているみことばに基づいている呼び方です。「人の子のような方」であられるイエス・キリストは、確かに、父なる神さまから委ねられた主権によって、父なる神さまのみこころにしたがい、父なる神さまの栄光を映し出す、永遠の御国を確立されます。それは、主権者であられるイエス・キリストご自身が、「多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与える」ことによって確立される御国です。「人の子のような方」であられるイエス・キリストが父なる神さまからお受けになった主権の特質は、主であられ、王であるイエス・キリストご自身が、その主権の下にある私たちのために十字架におかかりになって、私たちの罪を贖い、私たちを死と滅びの中から贖い出してくださり、私たちをご自身の復活にあずからせてくださって新しく生まれさせてくださり、父なる神さまの子どもとしてくださったことによって、最も豊かに、また、最も鮮明に現されています。
これは、すでに、この黙示録のお話の中で何度か引用しました、ヨハネの福音書10章18節に記されています、
だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。
というイエス・キリストの教えに示されている、イエス・キリストの権威の特質と同じものです。イエス・キリストはご自身の権威により、ご自身の意志によって、私たちご自身の民のために十字架におかかりになって、いのちをお捨てになりました。また、イエス・キリストが、
わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。
とあかししておられますように、イエス・キリストの権威は父なる神さまのみこころに従うことにある権威です。これによって、イエス・キリストの主権が父なる神さまのみこころに従う主権であることが示されています。
このような「人の子のような方」であられるイエス・キリストが父なる神さまからお受けになった主権の特質は、永遠に変わることがありません。それが世の終わりまでのことで、新しい天と新しい地において変わってしまうというのではありません。つまり、イエス・キリストは、十字架におかかりになるまでは、貧しく仕える者の姿を取っておられたが、栄光を受けて死者の中からよみがえられた後は、特に、父なる神さまの右の座に着座された後は、すべての者の上に立って権力を振るわれるということではありません。
確かに、イエス・キリストは、今すでに、すべてのものの上に高く上げられて、父なる神さまの右の座に着座しておられます。そして、すべてのものを治めておられます。エペソ人への手紙1章20節ー21節に、
神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
と記されているとおりです。
けれども、それはイエス・キリストが、罪の自己中心性から出ているこの世の権力と同じ特質をもった権力を掌握されて、すべてのものの上に立って権力を振るうという意味ではありません。この世の権力の序列の最高位に栄光のキリストの権力があって、すべてのものを支配するということでは決してありません。この世の権力の序列の最高位に立つというような権力であれば、あの海から上ってきた4頭の獣によって表象的に表される国の権力と同じものになってしまいます。それでは暗闇の主権者が栄光を受けてしまいます。
栄光のキリストが父なる神さまからお受けになった主権は、神さまの本質的な特性である愛を映し出す権威です。そうであるからこそ、「人の子のような方」であられるイエス・キリストの御国は、主権者であられるイエス・キリストご自身が、「多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与える」ことによって確立されましたし、そのことにこそ、「人の子のような方」であられるイエス・キリストが父なる神さまからお受けになった主権の特質が最も豊かに、また、鮮明に現されているのです。
マルコの福音書10章35節ー45節に記されています記事の中で、イエス・キリストが教えておられる教えにおいては、このようなことが踏まえられて、弟子たちの間でどうあるべきかが教えられています。イエス・キリストは、
あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。
と教えておられます。
栄光のキリストが父なる神さまからお受けになった主権は、神さまの本質的な特性である愛を映し出す権威です。その権威がどのようなものであるかは、イエス・キリストの十字架の死において最も豊かに、また、鮮明に現されました。これが栄光のキリストの主権の特質であることは永遠に変わることはありません。ですから、イエス・キリストは、
あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。
と教えておられます。私たちは、愛をもって互いに仕え合うことによってしか、イエス・キリストをあかしすることはできません。また、愛をもって互いに仕え合うことによってしか、父なる神さまがどなたであるかをあかしすることもできません。
ガラテヤ人への手紙5章13節ー15節には、
兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。
と記されています。
ここでは、
愛をもって互いに仕えなさい。
と戒められています。そのことは、私たちの生来の力、によることではなく、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によることです。なぜなら、少し後の、22節ー23節に、
御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
と記されているからです。
先ほどの、13節ー15節に記されている教えに続く16節には、
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
と記されています。
「肉の欲望を満足させる」ということについては、結論的なことだけを言いますと、「肉」(サルクス)は「肉体」(ソーマ)のことではありません。「肉」が御霊と対比されているときには、この世、この時代を動かしている根本動因を意味しています。あの海から上ってきた4頭の獣たちが凶暴であったのは、この意味での「肉」の働きによることです。その根底には、それぞれの人のうちに宿っている罪の自己中心性があるのですが、それを具体的な形で現すように働く根本動因が「肉」です。
ガラテヤ人への手紙5章では、15節で
もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、
と言われていることは「肉」の働きによることです。先ほどの、ヤコブとヨハネに対して、ほかの十人が腹を立てたということも、罪の自己中心性から出た対抗心によることで、「肉」の働きによることでしょう。「肉」の働きは巧妙なものです。その弟子たちの事例でも、必ずしも十人がすべて、その憤りを口に出したとは限りません、イエス・キリストがおられたのですから、だれも口にはしないで、密かな怒りや嫉妬などの形であったかも知れません。見た目は穏やかでありながら、「隠れた所で見ておられる」(マタイの福音書6章4節、6節)神さまの御前では、
互いにかみ合ったり、食い合ったりしている
というようなこともありえます。
この、
もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら
ということばは、「互いに」ということばによって、つまり、お互いの間でなされることとして、13節で、
愛をもって互いに仕えなさい。
ということばと対比される形で関連しています。また、その13節では、
その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。
と言われていますように、「肉の働く機会」と「愛をもって互いに仕え」ることが対比されています。
いずれにしましても、「人の子のような方」の主権の特質は神さまの本質的な特質である愛を現すことにあります。そしてそれは、「人の子のような方」がご自身の民である私たちのための贖いの代価として、ご自身のいのちをお捨てになったことに、この上なく豊かに、ま、た鮮明に現されています。それで、「人の子のような方」の御国においては、御霊に導いていただいて、愛をもって互いに仕え合うことが、父なる神さまと栄光のキリストをあかしすることの出発点であり、到達点です。それは同じところに帰ってくるということではなく、愛をもって仕え合うことによって、お互いの愛が深められていきますから、さらに豊かに、また、より自然なこととして、愛をもって仕え合うようになります。
これまでお話ししたことは、同じく「人の子のような方」の御国にあずかっている主の契約の民の間におけることですが、この世の人々に対しても同じです。ですから、世の終わりまでは、クリスチャンたちはこの世の国や社会や人々から迫害を受けたりして、苦しめられたり、悔しい思いをするけれども、終わりの日に確立されるとある人々が想定している千年王国においては、クリスチャンが人々の上に立って支配するようになるということではありません。千年王国については、栄光のキリストの再臨との関係で、大きく分けて三つの理解があります。一つは、前千年王国再臨説と呼ばれるもので、終わりの日に栄光のキリストが再臨されて、主の民が支配する千年の期間が確立されるという理解です。もう一つは千年王国後再臨説と呼ばれるもので、終わりの日に向かうにしたがって、福音が広まっていって千年王国の状態が実現し、その後に、栄光のキリストが再臨されるという理解です。さらに、もう一つは、イエス・キリストが贖いの御業を成し遂げられてから、世の終りに栄光のキリストが再臨されるまでの期間が千年王国であるというものです。それぞれに言い分があります。千年王国がどのような形で実現するものであるとしても、そこで主の民が「キリストとともに」王として支配するということ(黙示録20章6節)は、神さまの本質的な特質である愛を現すことにあります。そこでも、マタイの福音書5章44節に記されています、
しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
というイエス・キリストの教えは変わらないはずです。また、ローマ人への手紙12章20節ー21節に記されています、
もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。
という教えも変わらないはずです。
ちなみに、
彼の頭に燃える炭火を積む
ということは、言うまでもなく、比喩的なことばで、主の民を苦しめていた人が主の民の具体的な愛に触れて、自らがしていたことを恥じ入るようになることを表すか、もっと積極的に、自らのしていたことを悔い改めて、主を信じるようになることを表すと考えられています。もちろん、すべての場合にそうなるという意味ではありません。また、それには原型があります。それは、御子イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって私たちの罪を贖ってくださったことに触れて、私たちが罪を自覚し、悔い改めて、神さまに立ち返ったことです。
終わりの日のことについて言いますと、新しい天と新しい地においては、この世で神さまと人により多く仕えた人が、ほかの人の上に立って支配するということもありません。マタイの福音書25章14節ー29節に記されている、「タラントのたとえ」において、忠実なしもべに対する主人のことばは、
よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。
というものです。「良い忠実なしもべ」として「よくやった」から、もう何もしなくてもよいというのではなく、
私はあなたにたくさんの物を任せよう。
と言われています。愛をもって仕えることに豊かである人は、具体的な状況で愛を現すことによって、その愛がますます豊かになり、さらに愛をもって仕えることが喜びとなります。その人は、そのようにして、御子イエス・キリストの栄光のみかたちに似た者として成長して、父なる神さまの栄光をより豊かに現すようになるでしょう。
ダニエル書7章14節前半では、「人の子のような方」が永遠の御国を確立されることについて、
この方に、主権と光栄と国が与えられ、
諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、
彼に仕えることになった。
と言われています。そのように、「諸民、諸国、諸国語の者たち」が集められて「人の子のような方」の御国に入れられます。このことを受けて、マタイの福音書24章30節ー31節には、イエス・キリストが、
そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。
と教えられたことが記されています。
黙示録1章9節ー20節において、イエス・キリストがご自身の栄光の御姿をヨハネに現してくださったことは、ただ単に、光り輝くまばゆい御姿を現してくださったということではありません。イエス・キリストは、ご自身がダニエルをとおして啓示されていた、「人の子のような方」であられることをヨハネにお示しになったのです。
そして、この「人の子のような方」であられる栄光のキリストが「アジヤにある七つの教会」を表象的に表している「七つの金の燭台」の真ん中にご臨在しておられることをお示しになりました。このことによって、「人の子のような方」が、「アジヤにある七つの教会」、ひいては「アジヤにある七つの教会」によって代表的に示されている、歴史をとおしてこの世界に存在するすべての教会を治めてくださっていることを示してくださいました。言い換えますと、「アジヤにある七つの教会」、ひいては「アジヤにある七つの教会」によって代表的に示されている、歴史をとおしてこの世界に存在するすべての教会が、あの4頭の獣によって表象的に表されているこの世の国々から集められて、「人の子のような方」が確立された永遠の御国の民としていただいているということです、私たちも「諸民、諸国、諸国語の者たち」に属していて、これにあずかっています。
これに相当することが、コロサイ人への手紙1章13節に、
神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。
と記されています。やはり、ここでも、「愛する御子のご支配」と私たちが「贖い、すなわち罪の赦しを得て」いることが結びつけられています。
ですから、私たちは黙示録を読み進めるときに、「愛する御子のご支配」が、御子イエス・キリストの十字架の死によって最も豊かに現された、神さまの本質的な特性である愛を映し出すものであることを忘れないようにしたいと思います。
確かに、先ほど触れました、ダニエル書7章1節ー14節では、海から上ってきた4頭の獣によって表されているこの世の国々は、9節ー12節に記されていますように、「年を経た方」の御前において執行されるさばきによって滅ぼされます。そのことは、黙示録にも記されています。
海から上ってきた4頭の獣によって表されているこの世の国々がさばきを受けるのは、本来の主権は造り主である神さまの本質的な特性である愛を映し出すものであるということによっています。4頭の獣によって表されているこの世の国々が本来の主権を、自らの罪の自己中心性によって腐敗させてしまい、神さまの本質的な特性である愛を映し出すどころか、暗闇の主権者の「凶暴性」を映し出しているからです。
主はそのさばきによって、暗やみの主権者の「凶暴性」を明らかにされます。それは、同時に、本来の主権は造り主である神さまの本質的な特性である愛を映し出すものであるということを明らかにされることによっています。その意味で、ご自身の義だけでなく、愛と恵みに満ちたご栄光を現されます。私たちはそのことで主に感謝し、その栄光をたたえます(黙示録19章1節ー5節参照)。けれども、とても微妙なことですが、それは、私たちの罪の自己中心性から出た復讐心に動かされて、溜飲を下げるということではありません。
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