![]() |
説教日:2013年4月7日 |
13節では、栄光のキリストの御姿のことが、 足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方 と記されています。きょうは、この「人の子のような方」のことしかお話しできませんが、「人の子のような方」のことは、黙示録では、このほかもう一個所、14章14節に出てきます。そこには、 また、私は見た。見よ。白い雲が起こり、その雲に人の子のような方が乗っておられた。頭には金の冠をかぶり、手には鋭いかまを持っておられた。 と記されています。ここでは、「人の子のような方」は「白い雲」に「乗っておられた」と言われています。 この場合の「雲」は、自然現象としての雨を降らす雲のことではなく、契約の神である主、ヤハウェの栄光の御臨在、セオファニーに伴う雲のことです。マタイの福音書17章1節ー5節には、 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。しかも、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか。すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。 と記されています。ここにも「雲」が出てきますが、父なる神さまがそこにご臨在しておられることを表示する「雲」です。[注] [注] ちなみに、そのようにして、そこにご臨在された父なる神さまが、イエス・キリストのことをあかしして、 これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。 と言われました。どうしてこのように言われたかと言いますと、これに先立って、16章21節に記されていますが、イエス・キリストが十字架につけられて殺されるということを教え始められたからです。また、ペテロが、 そんなことが、あなたに起こるはずはありません。 と言って、その教えを否定したからです。父なる神さまは十字架につけられて殺されるイエス・キリストこそは、 わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。 とあかしされ、 彼の言うことを聞きなさい。 すなわち、十字架につけられて殺されることを教えておられるイエス・キリストの言うことを聞くように命じられたのです。 このように、契約の神である主の栄光の顕現、セオファニーは、主の贖いの御業の遂行、救いとさばきの御業の遂行と深くかかわっています。 黙示録14章14節においては、雲に乗って来られる「人の子のような方」が「鋭いかま」を手に持っておられたと言われています。これは、収穫を表す表象で、この方が最後のさばきを執行され、ご自身の民の救いを完全に実現されることを意味しています。そのことは、この前の7節ー13節までを読みますと分かります。 また、「人の子のような方」が「白い雲」に「乗っておられた」ことは、黙示録1章7節において、 見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。 と記されていることと関連しています。この1章7節で、 見よ、彼が、雲に乗って来られる。 と言われているときの「彼」は、その前の、5節ー6節に記されているヨハネの挨拶――ヨハネの挨拶は4節から始まっていますが、その最後の部分において、 また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。 と言われている栄光のキリスト、私たちご自身の民のために贖いの御業を成し遂げてくださって、私たちを御国の民としてくださっている栄光のキリストのことです。 また、終わりの日に栄光のキリストが雲に乗って来られることは、イエス・キリストご自身が教えられたことです。マタイの福音書24章30節ー31節には、 そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。 と記されています。 このイエス・キリストの教えでは、「人の子」であられるイエス・キリストが「天の雲に乗って来る」ことは、 天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます と言われていますように、主の契約の民の救いの完全な実現のためであることが示されています。 ちなみに、ここでは、終わりの日に再臨される栄光のキリストのことが「人の子」と呼ばれています。その点は、黙示録1章13節と14章14節で「人の子のような方」と言われていることと微妙に違っています。けれども、同じ栄光のキリストのことを指していることには変わりありません。 これらの新約聖書のみことばの背景にあるのは、ダニエル書7章13節ー14節に記されています、ダニエルが見た幻のうちに示されたことです。そこには、 私がまた、夜の幻を見ていると、 見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、 年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。 この方に、主権と光栄と国が与えられ、 諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、 彼に仕えることになった。 その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、 その国は滅びることがない。 と記されています。ここでは、 人の子のような方が天の雲に乗って来られた と言われています。この「人の子のような方」ということばが、黙示録に出てくる「人の子のような方」の背景になっています。また、先ほど引用しました、マタイの福音書24章30節ー31節に記されている、終わりの日のことについてのイエス・キリストの教えに出てくる「人の子」の背景となっています。 イエス・キリストは地上の生涯全体にわたってご自身のことを「人の子」と呼んでおられます。それは、このダニエル書7章13節ー14節に記されています啓示に基づくことです。また、イエス・キリストがこの「人の子」という称号を用いられたのは、その当時のユダヤの社会では「メシヤ」という称号には政治的な意味合いが加えられて理解されていたという事情があったと考えられています。つまり、人々は「メシヤ」がその偉大な力を発揮して、敵であるローマ帝国を打ち破り、モーセ律法に基づく、理想的な国を建設し、すべてを支配するようになると信じていたのです。けれども、その場合の戦いは、武力など血肉の力による戦いでした。イエス・キリストはそのような意味合いが染みついてしまっている「メシヤ」と言う称号を避けて、そのような意味合いのついていない「人の子」という称号をお用いになったということです。 ダニエル書7章13節では、 見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、 年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。 と記されていました。この「年を経た方」は父なる神さまのことです。この「年を経た方」のことは、これ(13節)より少し前の9節ー10節に、 私が見ていると、 幾つかの御座が備えられ、 年を経た方が座に着かれた。 その衣は雪のように白く、 頭の毛は混じりけのない羊の毛のようであった。 御座は火の炎、 その車輪は燃える火で、 火の流れがこの方の前から流れ出ていた。 幾千のものがこの方に仕え、 幾万のものがその前に立っていた。 さばく方が座に着き、 幾つかの文書が開かれた。 と記されています。 これにつきましては、黙示録1章7節についてお話ししたとき(黙示録のお話の97回)に、お話ししたことがありますが、今お話ししていることとのかかわりで注目したいのは、これが、ダニエルが見た同じ幻の中に出てくる4頭の獣のさばきとかかわっているということです。 これはダニエル書7章9節ー10節に記されていますが、その前の2節ー8節には、その4頭の獣のことが記されています。そこには、 私が夜、幻を見ていると、突然、天の四方の風が大海をかき立て、四頭の大きな獣が海から上がって来た。その四頭はそれぞれ異なっていた。第一のものは獅子のようで、鷲の翼をつけていた。見ていると、その翼は抜き取られ、地から起こされ、人間のように二本の足で立たされて、人間の心が与えられた。また突然、熊に似たほかの第二の獣が現れた。その獣は横ざまに寝ていて、その口のきばの間には三本の肋骨があった。するとそれに、「起き上がって、多くの肉を食らえ」との声がかかった。この後、見ていると、また突然、ひょうのようなほかの獣が現れた。その背には四つの鳥の翼があり、その獣には四つの頭があった。そしてそれに主権が与えられた。その後また、私が夜の幻を見ていると、突然、第四の獣が現れた。それは恐ろしく、ものすごく、非常に強くて、大きな鉄のきばを持っており、食らって、かみ砕いて、その残りを足で踏みつけた。これは前に現れたすべての獣と異なり、十本の角を持っていた。私がその角を注意して見ていると、その間から、もう一本の小さな角が出て来たが、その角のために、初めの角のうち三本が引き抜かれた。よく見ると、この角には、人間の目のような目があり、大きなことを語る口があった。 と記されています。 ここに出てくる4頭の獣についてはすべて、 海から上がって来た と言われています。「海」は、古代オリエントの世界では、神に敵対する勢力を象徴的に表していました。「海から上がって来た」4頭の獣のうち最初の3頭の獣はそれぞれ、「獅子」、「熊」、「ひょう」のようだと言われています。けれども、第4の獣は動物にたとえられていなくて、というより、たとえようがなくということでしょう、7節で、 それは恐ろしく、ものすごく、非常に強くて、大きな鉄のきばを持っており、食らって、かみ砕いて、その残りを足で踏みつけた。これは前に現れたすべての獣と異なり、十本の角を持っていた。 と説明されています。 これらの獣が何を表しているかということについては、黙示録1章7節についてお話ししたときに、いくつかのことをお話ししましたが、そのうちの三つのことだけを振り返っておきます。 第1に、これら4頭の獣の「4」という数字は完全数です。特に空間的あるいは地理的な広がりの全体性を表します。それで、これら4頭の獣によって、この世の国々全体が象徴的に表されていると考えられます。しかも、これら4頭の獣が次々と現れてくるということから、これら4頭の獣によって象徴的に表されているのは、ダニエルが仕えていたネブカデネザルの時代から世の終わりに至るまでの歴史の中に登場してくるこの世の国々であると考えられます。 第2に、このような意味をもっているこれら4頭の獣についての描写を見ますと、だんだんとその凶暴性が増していき、第4の獣において頂点に達します。これによって、世の終わりに至るまでの歴史の中に登場してくるこの世の国々は、だんだんとその凶暴性を増していくことが示されています。そして、終わりの日に登場してくる帝国においてその頂点に至ることが示されています。 第3に、このことをダニエルにお示しになったのは、ダニエルが言う「天の神」、すなわち、ダニエルが信じていた神、契約の神である主、ヤハウェです。主はご自身のみこころとは関係なく移り変わっていくこの世界の有り様を見通して、それをダニエルにお示しになったのではなく、ご自身が治めておられるこの世界の歴史がどのようになっていくかをお示しになりました。言い換えますと、これら4頭の獣は、地上に出現しては消えていくこの世の国々ですが、それを治めておられる神が天におられるということです。 この世の国々が次々と出現しては消えていくことも、この方のさばきの現れの一つです。この方は最終的にこの世のすべての国々をおさばきになります。そのことが、先ほど引用しましたダニエル書7章で、これらの4頭の獣について記している2節ー8節に続いて、9節ー10節に記されている、 私が見ていると、 幾つかの御座が備えられ、 年を経た方が座に着かれた。 その衣は雪のように白く、 頭の毛は混じりけのない羊の毛のようであった。 御座は火の炎、 その車輪は燃える火で、 火の流れがこの方の前から流れ出ていた。 幾千のものがこの方に仕え、 幾万のものがその前に立っていた。 さばく方が座に着き、 幾つかの文書が開かれた。 というみことばに示されています。ここでは、これに続く11節ー12節に、 私は、あの角が語る大きなことばの声がするので、見ていると、そのとき、その獣は殺され、からだはそこなわれて、燃える火に投げ込まれるのを見た。残りの獣は、主権を奪われたが、いのちはその時と季節まで延ばされた。 と記されていて、そこでさばきが執行されていることが分かります。そして、これに続いて、13節ー14節に、 私がまた、夜の幻を見ていると、 見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、 年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。 この方に、主権と光栄と国が与えられ、 諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、 彼に仕えることになった。 その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、 その国は滅びることがない。 と記されているのです。 ですから、 人の子のような方が天の雲に乗って来られた ということは、終わりの日に、ご自身の御国を永遠に確立されるためです。もちろん、それは、ご自身の民をその永遠の御国の民としてくださるためです。このことは、先ほど引用しました、マタイの福音書24章30節に記されている、 そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。 というイエス・キリストの教えを思い起こさせます。終わりの日に再臨される栄光のキリストは、「天の果てから果てまで、四方からその選びの民」をお集めになり、永遠の御国の民とされます。 このように、ダニエル書7章には、暗闇の勢力を表す海から上って来る4頭の獣によって代表的に示されているこの世の国々と、神のかたちに造られた人の表象によって示されている神さま(「年を経た方」)と神さまがお立てになったメシヤ(「人の子のような方」)の御国――これは一つの御国です――が対比されています。そして、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人が、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後の歴史においては、この世の主権者がその凶暴な権力をもって支配し、それはますますその腐敗の度合いを深めていくことが示されています。 けれども、それがすべてなのではありません。目に見える様相が、獣にたとえられている権力者がすべてを牛耳っているように見えても、それがすべてではありません。契約の神である主、ヤハウェがそのすべてを治めておられます。神さまはご自身がお立てになった贖い主によって、救いとさばきの御業を遂行され、必ず、永遠の御国を確立し、ご自身の民をその御国の民としてくださいます。そのことが、すでに、神さまがダニエルに与えてくださった啓示において示されています。 黙示録1章9節ー20節に記されています、栄光のキリストがご自身の栄光の御姿をヨハネに示してくださった記事においては、栄光のキリストはご自身を「人の子のような方」としてお示しになりました。これには、このような、ダニエル書7章に記されている、神さまがダニエルにお示しになった幻による啓示という背景があります。 すでにお話ししましたように「アジヤにある七つの教会」は、この時、牧会者であるヨハネから切り離されてしまっておりました。そして、ローマ帝国からの迫害を受けて苦しむ群れもいくつかありましたし、その迫害の手はさらに広げられつつありました。 黙示録13章1節ー2節には、 また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。 と記されています。あのダニエルが見た4頭の獣のうち最初の3頭の獣はそれぞれ、「獅子」、「熊」、「ひょう」のようだと言われていました。ここ黙示録13章1節ー2節に記されている海から上ってきた獣は、そのすべてを備えています。また、ダニエルが見た第4の獣の特徴である「十本の角」ももっています。ですから、ここに記されている獣は、ダニエルが見た4頭の獣を総合するような獣として描かれています。この獣は最終的には、終わりの日に出現するであろう反キリストの帝国を表していますが、「アジヤにある七つの教会」にとっては、ローマ帝国でした。黙示録13章には、この海から上ってきた獣が主の契約の民を厳しく迫害することが記されています。実は、先ほど引用しました、黙示録14章14節に、 また、私は見た。見よ。白い雲が起こり、その雲に人の子のような方が乗っておられた。頭には金の冠をかぶり、手には鋭いかまを持っておられた。 と記されていました。ここに記されている「人の子のような方」が執行されるさばきは、その前の13章に記されている海から上ってきた獣に対するさばきです。 ダニエル書7章では「人の子のような方」がどのようにして、4頭の獣をおさばきになり、永遠の御国を確立されるかは示されてはいませんでした。しかし、黙示録では、1章5節後半ー6節前半において、 イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。 とあかしされています。そして、12節後半ー13節では、その栄光のキリストが「アジヤにある七つの教会」の真ん中にご臨在してくださっていることが、真っ先に示されています。これは、栄光のキリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった罪の贖いに基づいて、永遠の御国を確立してくださり、すでに、「アジヤにある七つの教会」、ひいては、「アジヤにある七つの教会」によって代表的に表されている、歴史を通して地上に存在しているすべての教会の信徒たちを、永遠の御国に入れてくださっていることをあかしするものです。 これらのことを考えますと、栄光のキリストがヨハネにご自身の栄光の御姿を現してくださったときに、何よりもまず、ヨハネが牧会している「アジヤにある七つの教会」を表す「七つの金の燭台」を示してくださったことに、さらには、栄光のキリストご自身を「アジヤにある七つの教会」の真ん中にご臨在しておられる「人の子のような方」としてお示しになったことに、栄光のキリストがどんなにか「アジヤにある七つの教会」にお心を注いでくださっているかを汲み取ることができます。それはまた、歴史をとおして地上に存在しているすべての教会に、したがって、この私たちにもそのまま当てはまることです。 |
![]() |
||