黙示録講解

(第112回)


説教日:2013年3月24日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章9節ー20節
説教題:栄光のキリストの顕現(13)


 ヨハネの黙示録1章9節ー20節には、栄光のキリストがご自身の御姿をヨハネに現してくださったことが記されています。その時、栄光のキリストはヨハネに黙示による啓示をお与えになり、それを巻き物に記して、アジアにある七つの教会に送るように命じられました。
 これまで、10節ー11節に記されています、

私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」

というみことばについてお話ししました。きょうから、これに続く12節ー16節に記されています、

そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。 その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

というみことばについてお話しします。


 12節前半には、

 そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。

と記されています。私たちは、「私に語りかける声を見ようとして」という言い方はおかしいと感じます。それは、もちろん、その声の主(ぬし)を見ようとして、ということです。一般的には、ここでは「」が人格化されていると理解されています。そういうことですが、この「私に語りかける声を見ようとして」という言い方には、声の人格化ということにとどまらない意味があると思われます。この言い方は、ヨハネがその声のうちに、栄光のキリストの御臨在を感じ取っていたことを示しているということです。ただし、この時点では、ヨハネはそれが栄光のキリストの御臨在であるとまでは分かっていませんでしたから、主の栄光の御臨在を感じ取っていたことになります。福音書の中には神さまの天から御声が聞こえたことが記されています(マタイの福音書3章17節、ヨハネの福音書12章28節)。この時、ヨハネが経験したことは、そのこととは少し異なって、主の栄光の御臨在を感じ取っています。そのことは、この「私に語りかける声を見ようとして」という言い方からだけでなく、この「私に語りかける声」について10節に、

私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。

と記されていることからも分かります。その声は「ラッパの音のような大きな声」でした。
 前回お話ししましたように、ここで「ラッパの音のような大きな声」と言われているときの「ラッパ」は、聖書のその他の個所にも出てきますが、栄光の主の御臨在に伴うものです。また、古代の戦いにおいては、人の声は遠くまで届きませんから、「ラッパ」の吹き方によって、さまざまな合図を送っていました。このように「ラッパ」は、主がご臨在されて、霊的な戦いにおいて、救いとさばきの御業を遂行しておられることの現れでもあります。
 さらに、「ラッパの音のような大きな声」と言われているときの「大きな声」は、黙示録の中では三つに分類されます。一つは神さまあるいは栄光のキリストの御声であり、もう一つは御座の回りで神さまと小羊とを礼拝している者たちの声です。三つ目は御使いたちの声で、これがいちばん多く出てきます。これらすべては、天に属する存在の声であり、神である主が救いとさばきの御業遂行してゆかれることに関連している点で共通しています。また、そのような意味での「大きな声」で語られたことは大切なことであり、真実で確かなことです。
 ヨハネはこのような意味をもった「ラッパの音のような大きな声」による語りかけに、栄光のキリストの御臨在を感じ取ったということです。
 10節ー20節に記されている栄光のキリストの顕現では、まず、栄光のキリストが背後からヨハネに「ラッパの音のような大きな声」で語りかけて、この時、栄光のキリストが黙示によって啓示してくださることを書き記して、「アジヤにある七つの教会」に送るよう命じられました。そのようにして記されたのが、このヨハネの黙示録です。すでにお話ししたことから分かりますように、栄光のキリストがご自身の御姿を現してくださったのは、「アジヤにある七つの教会」に、この黙示録に記されている啓示を与えてくださるためです。
 このことは、霊的な戦いの状況において、主が救いとさばきの御業を遂行してゆかれることに深く関わっています。栄光のキリストは、牧会者であるヨハネを通して黙示録に記されている啓示を「アジヤにある七つの教会」に与えてくださいました。それによって、「アジヤにある七つの教会」を、さらには、「アジヤにある七つの教会」によって代表的に表わされている、すべての時代にある主の契約の民を、ご自身の霊的な戦いへと招集してくださっているのです。実際、黙示録には、霊的な戦いの状況の中で、主がどのように救いとさばきの御業を遂行してゆかれるかが啓示されています。
 霊的な戦いは、福音のみことばに基づく真理の戦いであって、血肉の戦いではありません。私たち主の契約の民には、福音のみことばの光の下で、愛のうちを歩むことをとおして、神さまが愛の神であられ、恵みの神であられることをあかしし、いっさいの栄光を神さまに帰することによってしか、暗闇の主権者とその軍勢に勝利する道はありません。霊的な戦いは、そのようにして、御父、御子、御霊にいます神、すなわち、契約の神である主にいっさいの栄光を帰して、礼拝することを中心とした戦いです。そして、このことのために、イエス・キリストはご自身の栄光の御姿をヨハネに現してくださり、黙示による啓示を与えてくださいました。

 ヨハネが「語りかける声を見ようとして」振り向きますと、まず「七つの金の燭台」が見えました。この場合の「燭台」(リュクニア)はローソクを差し込んで固定するものではなく、ランプ(リュクノス)をその上に置く台です。
 出エジプト記25章31節ー40節には、主の栄光の御臨在のある幕屋に備える「純金の燭台」(メノーラー)のことが記されています。この燭台は幕屋の前の部分である「聖所」に置かれていました。ヘブル人への手紙9章1節ー2節には、

初めの契約にも礼拝の規定と地上の聖所とがありました。幕屋が設けられ、その前部の所には、燭台と机と供えのパンがありました。聖所と呼ばれる所です。

と記されています。この燭台には一つの台座と支柱があり、その支柱自体が燭台となっています。さらに、その支柱の両脇からそれぞれ燭台となる三つの枝が出ていて、合計で七つの燭台があることになります。そして、それぞれの燭台の上に出エジプト記25章37節の新改訳で「ともしび皿」と訳されているランプが置かれるようになっていました。このように、主の幕屋の中に置かれていた七つの燭台は、全体が1本の木とその枝のように一体となっていました。
 この主の幕屋に置かれた七つの燭台は、幕屋が主の栄光の御臨在のあるところであることに関わっていて、そこに栄光の主の御臨在があることを示しています。主の栄光の御臨在そのものの現れである雲の柱(旧約聖書ヘブル語には出てきませんが、後のユダヤ教の用語で「シェキーナー」の雲)は聖所のさらに奥にある至聖所に置かれていた契約の箱の上蓋である「贖いのふた」の両脇にあるケルビムの間にありました。出エジプト記25章22節には、

わたしはそこであなたと会見し、その『贖いのふた』の上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう。

と記されています。これは、「あかしの箱の上の二つのケルビムの間」に主の栄光の御臨在の現れである雲の柱があることを踏まえて語られたものです。主はその御臨在の御許から語ってくださったのです。ちなみに、この「あかしの箱」は契約の箱のことです。
 聖所に置かれていた七つの燭台は、その主の栄光の御臨在の輝きを表しています。この「7」も完全数で、主の御臨在の栄光の輝きが完全な輝きであることを象徴的に表しています。主の幕屋で仕えた祭司たちは、このともしびの明かりの下で主に仕えました。主の御臨在の栄光の輝きの下で仕えていたということになります。
 この古い契約の下で備えられた「地上的なひな型」としての幕屋によって示されていたことの完全な実現が黙示録21章22節ー24節に、

私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。

と記されています。
 古い契約の下での「地上的なひな型」としての幕屋から、一気に、終わりの日における完全な実現に飛んでしまいましたが、そうしますと、いま、イエス・キリストが十字架の上で流された血による新しい契約の下にある私たち主の民にとってはどうなっているのでしょうか。古い契約の下での「地上的なひな型」として与えられた幕屋の至聖所にあった主の栄光の御臨在の現れである雲の柱(シェキーナーの雲)は、新しい契約の下にある私たちにおいては、栄光のキリストの御霊が私たちのうちに宿ってくださっていることにおいて成就しています。主の栄光の御臨在は私たちの外にあるのではなく、私たちのうちに、また、私たちの間に実現しています。コリント人への手紙第一・3章16節には、

あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

と記されています。ここで「神殿」と訳されていることば(ナオス)は、神殿の建物全体を表すことば(ヒエロン)ではなく、神殿の中心である聖所を意味しています。この場合は、「あなたがた」が一つの「神殿」であると言われています。コリントにある教会が、神の御霊の宿っておられる神殿であると言われています。また、同じコリント人への手紙第一の6章19節には、

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

と記されています。ここで「神から受けた聖霊の宮」と言われているときの「」と訳されていることば(ナオス)も、先ほどの神殿の中心である聖所を意味しています。
 古い契約の下では、イスラエルの民は主の栄光の御臨在の現れである雲の柱に導かれて荒野の旅を続けました。出エジプト記40章36節ー38節に、

イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。イスラエル全家の者は旅路にある間、昼はの雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていたからである。

と記されているとおりです。私たちはこの「の雲」の本体である神の御霊に導いていただいて歩んでいます。ローマ人への手紙8章14節ー15節には、

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

と記されていますし、ガラテヤ人への手紙5章16節には、

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

と記されています。
 また主の御臨在はヘブル語では「顔」ということば(パーニーム)によって表されます。このことを踏まえて、コリント人への手紙第二・4章6節を見てみましょう。そこには、

「光が、やみの中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。

と記されています。
 古い契約の下での「地上的なひな型」としての意味をもっている幕屋の聖所に置かれていた七つの燭台は、1本の木のように、全体がひとまとまりとなっていました。これに対して黙示録に出てくる、ヨハネが見た「七つの金の燭台」は、それとは違って、それぞれが独立した燭台でした。そのことは、黙示録1章13節に、

それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。

と記されていることから分かります。
 また古い契約の下で与えられた幕屋の聖所に置かれていた燭台には、主の御臨在の栄光の輝きを表すものとしての意味がありました。ところが、黙示録1章20節には、

わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。

と記されています。この栄光のキリストのみことばから分かりますように、「七つの燭台は七つの教会」すなわち「アジヤにある七つの教会」、さらには、その「七つの教会」によって代表的に表わされている、すべての時代の教会を表しています。
 このことから、黙示録1章12節に出てくる「七つの金の燭台」は、主の御臨在の栄光を現すのではなく、暗闇の世に光を照らす教会を表していると考えている人々もいます。マタイの福音書5章14節ー16節には、

あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 しかし、ここには注意しなければならないことがあります。このイエス・キリストの教えの最後は、

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

となっています。「世界の光」としての神の子どもたちの行いは「天におられるあなたがたの父」すなわち父なる神さまがどのようなお方であるかを映し出し、あかしするものです。その意味では、神さまの栄光を現すことと関わっています。
 また、イザヤ書60章1節には、

 起きよ。光を放て。
 あなたの光が来て、

 の栄光があなたの上に輝いているからだ。
と記されています。これは、その前の59章59章20節に出てくるシオンに対して語られた主のみことばですが、主の契約の民に当てはまるものです。ここでは、主が「あなたの光」であると言われています。そして、主の契約の民が光を放つのは、「の栄光」を反映してのことであると言われています。ちょうど、鏡が太陽の光を反射するようなことです。
 このみことばはさらに続いていますので、1節ー3節までを見てみましょう。そこには、

 起きよ。光を放て。
 あなたの光が来て、
 の栄光があなたの上に輝いているからだ。
 やみが地をおおい、
 暗やみが諸国の民をおおっている。
 しかし、あなたの上にはが輝き、
 その栄光があなたの上に現れる。
 国々はあなたの光のうちに歩み、
 王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。

と記されています。お気づきのことと思いますが、これは、先ほど引用しました、黙示録21章22節ー24節に、

私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。

という新しい天と新しい地において完全な形で実現する祝福の描写の背景になっています。つまり、このイザヤ書60章1節ー3節に記されているみことばは、最終的には、黙示録21章22節ー24節に記されているみことばにおいて成就するのです。ですから、黙示録1章12節に記されている「七つの金の燭台」が「アジヤにある七つの教会」表していて、彼らがこの暗闇の世において輝かす光を意味しているということは、「アジヤにある七つの教会」が主の御臨在の栄光を映し出しているということにほかなりません。
 もう一つ大切なことがあります。古い契約の下において与えられた幕屋にご臨在された主の栄光の現れである雲の柱の本体は、私たち新しい契約の下にある主の民のうちに宿ってくださっている御霊です。そして、私たちはその御霊によって導かれて歩んでいますし、御霊によって導かれて歩むように戒められています。私たちはそのようにして御霊によって導いていただいて歩むことによって初めて、光を放つことができます。御霊によって導いていただかなければ、主の栄光の御臨在があることを映し出す光を放つことはできません。ヨハネの福音書8章12節には、

わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。この教えに示されている、イエス・キリストに従って歩むことは、栄光のキリストの御霊に導かれて歩むことにほかなりません。
 出エジプト記25章22節には、

わたしはそこであなたと会見し、その『贖いのふた』の上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう。

と記されていました。このようにして主は「あかしの箱の上の二つのケルビムの間から」モーセに語ってくださることによって、イスラエルの民に対する命令を与えられました。けれども、それは外側から与えられたもので、イスラエルの民は主の戒めに背いてしまいました。
 新しい契約の下においては、主は私たちのうちに御霊を宿らせてくださり、御霊によって真理のみことばを悟らせてくださり、主のみこころのうちを歩むように導いてくださっています。このことを実現してくださるために、御子イエス・キリストは私たちの罪を負って十字架にかかって死んでくださり、私たちの罪を完全に贖ってくださいました。そればかりでなく、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださいました。栄光のキリストは、このようにしてご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、御霊によって私たちを復活のいのちで新しく生まれさせてくださいました。そして、私たちを御霊によって導いてくださって、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに、また信仰の家族の兄弟姉妹たちとの愛の交わりのうちに生きるものとしてくださっています。
 このことにおいて、エレミヤ書31章31節ー34節に記されている、

見よ。その日が来る。――の御告げ――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。――の御告げ――彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――の御告げ――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、「を知れ」と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。――の御告げ――わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。

という新しい契約についての預言が、私たちにおいて成就しています。それで、私たち新しい契約の下にある主の契約の民は暗闇の世において光を放つことができるのです。

 黙示録1章12節において、

そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。

と言われていることには、もう一つ注目すべきことがあります。
 すでにお話ししましたように、この時、栄光のキリストはご自身の栄光の御姿をヨハネにお示しになるに当たって、まず、背後から「ラッパの音のような大きな声」をもって語りかけられました。その御声を聞いたヨハネはそこに主の栄光の御臨在があることを感じ取って、それを見ようとして振り向きました。このすべてが幻の中で起こっていますので、栄光のキリストの啓示としての意味をもっています。それで、栄光のキリストの御姿より前に「ラッパの音のような大きな声」をもって語りかけられたことも、「七つの金の燭台が見えた」ことも、栄光のキリストのみこころによることでした。
 そして、これに続いて、13節に、

それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。

と記されています。ここで初めて、栄光のキリストの御姿が啓示されています。しかも、栄光のキリストは「それらの燭台の真ん中に」ご臨在しておられると言われています。「それらの燭台」とは「アジヤにある七つの教会」のことでした。すでにお話ししてきましたように、栄光のキリストが「ラッパの音のような大きな声」でヨハネに語りかけてくださったことは、「アジヤにある七つの教会」のために黙示による啓示を与えてくださるということでした。そして、ここでは、その栄光のキリストが「アジヤにある七つの教会」の「真ん中に」ご臨在しておられると言われています。このように、栄光のキリストは、初めから、また、徹底してご自身の栄光の御臨在を「アジヤにある七つの教会」と結びつけておられます。
 この時、「アジヤにある七つの教会」はローマ帝国からの迫害を受けて、とても厳しい状態にありましたし、さまざまな異端的な教えが忍び込んできていて、福音の真理が歪められてしまう危険にさらされていました。そのことは、2章ー3章に記されています、栄光のキリストが「アジヤにある七つの教会」のそれぞれに対して語っておられるみことばから汲み取ることができます。おまけに、ローマ帝国の思惑のために、牧会者であるヨハネはパトモス島に流刑になってしまっていました。人間的な目から見ますと、「アジヤにある七つの教会」は神に見放されたということになるでしょう。けれども、確かに、栄光のキリストはそのような厳しい状況にある「アジヤにある七つの教会」の「真ん中に」ご臨在してくださっています。そして、そのような厳しい状況に置かれている「アジヤにある七つの教会」のことを何よりも深くみこころに留めてくださっています。このことは、栄光のキリストが黙示による啓示によって、ご自身の栄光の御臨在をヨハネに示してくださったことを通して、示されていることです。「アジヤにある七つの教会」の信徒たちは、牧会者であるヨハネから送られてきた黙示録に記されている、栄光のキリストの顕現がどのようなものであったかを理解することによって、自分たちが決して見捨てられているのではないことを確信することができたことでしょう。
 このことは、「アジヤにある七つの教会」によって代表的に表わされている、歴史をとおして現れてくるキリストのからだである教会の全体に当てはまります。いつの時代にある教会も、したがって私たちも、栄光のキリストが自分たちの中心にご臨在してくださっていることを信じるように招かれています。また、そのように信じて、ここで栄光のキリストが啓示してくださったことを心に留めて、霊的な戦いの状況の中で、栄光のキリストに従って、光のうちを歩むことが栄光のキリストのみこころです。1章3節に、

この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。

と記されているとおりです。


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