黙示録講解

(第111回)


説教日:2013年3月10日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章9節ー20節
説教題:栄光のキリストの顕現(12)


 ヨハネの黙示録1章9節ー20節には、イエス・キリストがご自身の栄光の御姿をヨハネに現してくださって、ヨハネに黙示による啓示をお与えになり、それを巻き物に記して、アジアにある七つの教会に送るように命じられたことが記されています。
 これまで、10節に、

 私は、主の日に御霊に感じ

と記されていますように、それが「主の日に」起こったことであることについてお話ししてきました。きょうから、それに続いて記されています、栄光のキリストの顕現そのものについてお話しします。この栄光のキリストの顕現は、しばしば、「クリストファニー」と呼ばれています。
 ヨハネは、まず、10節後半において、

 私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。

と述べています。ヨハネはイエス・キリストの栄光の御姿を見る前に、イエス・キリストの御声を聞いています。この9節ー20節が全体として示していることは、イエス・キリストがご自身の栄光の御姿をヨハネに啓示してくださったということです。ですから、ヨハネが、まず、自分の「うしろにラッパの音のような大きな声を聞いた」のは、イエス・キリストのみこころによることです。イエス・キリストが、まず、ヨハネに語りかける形で、ご自身を現してくださったのです。
 ここで「ラッパの音のような大きな声」と言われているときの「大きな声」ということば(フォーネー・メガレー)は黙示録の中では、20回出てきます。新改訳では「大きな声」、「大きい声」、「大声」と訳されていますが、同じことばです。また、11章15節では、黙示録ではここだけに出てくる複数形を反映して「大きな声々」と訳されています。
 これらの「大きな声」は、大きく、3つに分類されます。
 一つは神さま、または、栄光のキリストの御声です。いま私たちが取り上げています1章10節のほかには、11章12節、16章1節、17節などがあります。ただし、これらすべてが神さまの御声であるという点で、意見が一致しているわけではありません。代表的に16章1節に記されているみことばを見てみましょう。そこには、

また、私は、大きな声が聖所から出て、七人の御使いに言うのを聞いた。「行って、神の激しい怒りの七つの鉢を、地に向けてぶちまけよ。」

と記されています。「聖所から出て、七人の御使い」たちに命令を与えていますので、この「大きな声」は神さまの御声であると考えられます。
 もう一つは、御座の回りにおいて神さまと小羊を礼拝している者たちの讃美や告白の声です。これは、5章12節、7章10節、11章15節、19章1節に見られます。代表的に5章12節を見てみましょう。11節から引用しますと、そこには、

また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。
 「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」

と記されています。これらとともに分類できるのは、6章10節に、

彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」

と記されている「神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々」の叫びです。
 三つ目に分類されるのは、これら以外のもので、御使いたちの声です。黙示録には5章2節、7章2節、10章3節、12章10節、14章7節、9節、15節、18節、19章17節、21章3節の10回出てきます。おそらくこれに、8章13節に記されている「一羽の鷲」の声が加えられてもよいでしょう。5章2節を1節から見てみますと、そこには、

また、私は、御座にすわっておられる方の右の手に巻き物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。また私は、ひとりの強い御使いが、大声でふれ広めて、「巻き物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか」と言っているのを見た。

と記されています。また、7章2節ー3節には、

また私は見た。もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出るほうから上って来た。彼は、地をも海をもそこなう権威を与えられた四人の御使いたちに、大声で叫んで言った。「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」

と記されています。御使いたちの声の場合は、いま引用しましたみことばにも見られますが、ほとんどの場合、それが御使いの声であることが示されています。
 これらの「大きな声」は、すべて天に属している存在の声です。これで、その声の大きさは天的な存在の声であることの現れであると考えられます。そして、これまでに引用しました個所からも分かりますが、神さまが栄光のキリストによって救いとさばきの御業を遂行していかれることに深くかかわっています。その御業を遂行される神さまと栄光のキリストの御声であったり、神さまの御業の遂行のために用いられている御使いが語りかける声であったり、神さまが御業をなさったことに応答して神さまを讃えて礼拝する天の群れの讃美と告白であったり、祈りであったりします。


 黙示録に出てくる「大きな声」には、このような意味があるのですが、その中でも、私たちがいま取り上げています、1章10節に記されている栄光のキリストの御声は特別なものです。その御声が特別なものであることは二つのことに見られます。
 第1には、これ以外の「大きな声」は、それが聞こえる範囲が広いこととかかわっています。そして第2には、後ほどお話ししますが、この栄光のキリストの御声が「『ラッパの音のような大きな声」と言われていることにかかわっています。
 第1の点ですが、これ以外の「大きな声」は聞こえる範囲が広いと考えられます。けれども、この1章10節においては、栄光のキリストはヨハネに、いわば個人的に、語りかけておられます。その意味では、この場合の「大きな声」は遠くまで響かせるためのものではありません。この「大きな声」は、語っておられる栄光のキリストの栄光を反映しており、その御声の権威や力、語っておられることの確かさや大切さなどを象徴的に表していると考えられます。それはイエス・キリストの十字架の死と、死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた罪の贖いに基づく権威と力であり、確かさや大切さです。先ほど引用しました5章12節に記されています天上の讃美では、

ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方

と讃えられていました。イエス・キリストの栄光は、ヨハネの福音書1章14節に記されていますように「恵みとまことに満ちた」栄光です。そのみことばの権威と力は、ご自身の民を死と滅びから贖い出し、永遠のいのちに生かす恵みと愛といつくしみに満ちた権威であり力です。同時に、後ほどお話ししますが、霊的な戦いにおいて、闇の主権者とその従者たちを最終的におさばきになる権威であり、力です。
 ここでは、栄光のキリストが「大きな声」で、すなわち、栄光のキリストが権威あるみことばをもって、

あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。

と命じられたことに基づいて、ヨハネは黙示録を記しました。それは栄光のキリストの権威に基づいてなされたことであって、ヨハネが黙示録に記していることにも、権威があることを示しています。
 さらに、ここで、栄光のキリストが「大きな声」でヨハネに語っておられることが大切なことであることは、この10節ー20節に記されていることの構成からも汲み取ることができます。
 この10節に続いて11節には、

その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」

と記されています。この11節でイエス・キリストがヨハネに命じられたことは、この栄光のキリストの顕現の記事の終わりの部分である19節ー20節において再び繰り返されています。そこには、

 そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。

と記されています。
 このように、栄光のキリストの顕現の記事の初めの11節に記されていることと、終わりの部分の19節ー20節に記されていることが対応しています。これはインクルーシオーと呼ばれる、初めの部分と終わりの部分が対応している形の表現方法で、その対応している部分が強調されています。つまり、イエス・キリストがヨハネに啓示してくださった「今ある事、この後に起こる事」を書き記して、アジアにある七つの教会に送ることがとても大切であることを示しているということです。
 とはいえ、ここには注意しなければならないことがあります。それは、ここでヨハネは、イエス・キリストがご自身の栄光の御姿を啓示してくださった順序に従ってこれを記していということです。ヨハネは、イエス・キリストがご自身の栄光の御姿を啓示してくださった順序に従って記したのですが、それが、結果として、初めめと終わりが対応しているものとなったということです。そして、これによって、イエス・キリストがヨハネに命じられた「今ある事、この後に起こる事を」書き記して、アジアにある七つの教会に送ることがとても大切なことであることを示してくださったということです。

 このこととのかかわりで、さらに、二つのことに触れておきたいと思います。
 一つはすでにお話ししてきたことですが、ヨハネは「アジヤにある七つの教会」の牧会者でした。けれども、この時は、9節に、

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

と記されていますように、ローマ帝国からの迫害を受けて、エーゲ海南東部にある「パトモスという島」に流刑となっていました。そのようにして、自分が牧会している「アジヤにある七つの教会」から切り離されてしまっていたヨハネは、自分が牧会している群れである「アジヤにある七つの教会」に思いをはせ、教会のかしらであられるイエス・キリストに信頼して、絶えず執り成していたことでしょう。
 そのヨハネが「主の日に」、契約の神である主を礼拝していたときに、その主であられるイエス・キリストが、ご自身の栄光の御姿を現してくださいました。そして、2章ー3章に記されていることから分かりますが、栄光のキリストご自身が「アジヤにある七つの教会」のまことの牧会者として、一つ一つの群れにお心を注いでくださり、ふさわしいみことばをもって教え、導いてくださっていることを示してくださいました。そればかりではありません。イエス・キリストはヨハネに「今ある事」だけでなく「この後に起こる事」をも書き記して「アジヤにある七つの教会」に送るように命じられました。ですから、黙示録に記されていることすべてが、基本的に、「アジヤにある七つの教会」に対して語られた栄光のキリストのみことばであるのです。
 もちろん、これにはもう一つの面があります。すでにお話ししましたように、「アジヤにある七つの教会」の「七」は完全数で、この「アジヤにある七つの教会」は現実の教会ですが、同時に、これによって、世の終わりまで続いていくキリストのからだである教会の全体を代表的に表しています。黙示録に記されていることは、また、世の終わりまで続いていくキリストのからだである教会の歴史のそれぞれの時代に存在する一つ一つの教会に与えられています。
 イエス・キリストは「今ある事、この後に起こる事」を「アジヤにある七つの教会」に示してくださるために、ヨハネにご自身の栄光の御姿を現してくださいました。ヨハネからずれば、自分は「アジヤにある七つの教会」に仕える牧会者として、栄光のキリストから「今ある事、この後に起こる事」についての啓示を与えていただいたということになります。
 このことは、前にお話ししましたが、牧会者であるヨハネであっても、自分が個人的に受け取った啓示を自分が牧会している「アジヤにある七つの教会」に分かち合っているのではなく、栄光のキリストがご自身のからだである教会に与えてくださる啓示を自分も受け取っている、牧会者である自分が代表的に受け取っているということを意味しています。それは、牧会者だけに当てはまることではありません。私たち主の契約の民すべては、そのようにして、栄光のキリストから与えられた啓示のみことばにあずかっているのです。それで、私たちが「主の日に」御霊によって導いていただいて、父なる神さまと御子イエス・キリストの御臨在の御許に集い、父なる神さまと御子イエス・キリストを礼拝する中で、ともに主のみことばに聞くことは、とても大切なことであるのです。牧会者もみことばを語りながら、ともにみことばに聞かなければなりません。信仰の家族の兄弟姉妹たちとともに、みことばに聞くことができることはとても幸いなことです。
 もう一つのことは、先ほどお話ししましたように、この9節ー20節に記されている記事では、イエス・キリストが命じられたように、ヨハネが「今ある事、この後に起こる事を」書き記して、「アジアにある七つの教会」に送ることがとても大切なことであることが示されています。イエス・キリストは「アジアにある七つの教会」の現状について語っておられるだけではありません。初代教会の現実を超えて、終わりの日に至るまで成し遂げられていく救いとさばきの御業の中心にあること、その意味で、いつの時代の主の民にも当てはまることを、「アジアにある七つの教会」に示してくださっています。これを言い換えますと、栄光のキリストは、「アジアにある七つの教会」に示してくださったこと、すなわち、ヨハネが黙示録に記していることに従って、終わりの日に至るまで、救いとさばきの御業を遂行していかれるし、今日においても、遂行しておられるのです。
 このことは、アモス書3章7節に記されている、

 まことに、神である主は、
 そのはかりごとを、
 ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、
 何事もなさらない。

というみことばを思い起こさせます。
 また、具体的な事例として、主がソドムへのさばきを執行されるに当たって、語られたみことばが思い起こされます。創世記18章17節ー19節には、

はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じての道を守らせ、正義と公正とを行わせるため、が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」

と記されています。このようにして、主がソドムに対するさばきを執行しようとしておられることを示されたアブラハムは、主の御前に立って、ソドムのために執り成して、主に祈りました。そのことが、続く22節ー33節に記されています。
 「アジアにある七つの教会」も、栄光のキリストが与えてくださった啓示のみことばを、ことに「主の日に」、契約の神である主の御臨在の御許に近づいて、主を礼拝するときに朗読し、「それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める」ようにと導かれていました。1章3節に、

この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。

と記されているとおりです。
 このことは、2章ー3章に記されている栄光のキリストのみことばが示しているように、「アジアにある七つの教会」の一つ一つの群れが、栄光のキリストから指摘されている問題と取り組まなければならないことを意味していました。その問題は、おもに二つのことにかかわっています。一つは、さまざまな形で群れの中に入り込んできて、自分たちの発想によって真理のみことばを曲げてしまっている働きに対して、真理のみことばを堅く保ち続けることです。栄光のキリストは「アジアにある七つの教会」のいくつかに入り込んできている「ニコライ派」(2章6節、15節)、「サタンの会衆である人たち」(2章9節)、「バラムの教え」(2章14節)、「イゼベルという女」(2章20節)などの働きを取り上げておられます。もう一つは、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛のうちにあって、互いに愛し合うことです。栄光のキリストは、エペソにある教会が偽預言者を見抜いたり、「ニコライ派」を憎んでいることを推奨しつつも、「初めの愛から離れてしまった」ことを指摘しておられます。
 真理のみことばを堅く保ち、愛のうちを歩むことは、エペソ人への手紙4章14節ー15節に記されています、

私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。

というみことばに示されていることに当たります。
 これらのこととともに、「アジアにある七つの教会」は、ローマ帝国からの迫害という試練のうちを歩まなければならないときも、黙示録の最後の22章16節ー17節に、

「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。

と記されていますように、栄光のキリストが来てくださることを信じて待ち望みつつ歩むように招かれています。

 最初に取り上げたことですが、黙示録に出てくる「大きな声」は、すべて、神さまが遂行される救いとさばきの御業とかかわっています。その中でも、1章10節に記されている栄光のキリストの御声は特別なものです。そのことは、第2のこととして、それが「ラッパの音のような大きな声」と言われていることに現れています。
 「ラッパ」(サルピンクス)は黙示録の中では、この1章10節のほかに、4章1節、8章2節、6節、13節、9章14節に出てきます。その他に「ラッパを吹き鳴らす」という動詞が9回ほど出てきます。ほとんどの場合、御使いたちがラッパを吹き鳴らすと、主の救いとさばきの御業が進展していくことが記されています。
 黙示録以外には5回出てきますので、それを見てみましょう。
 終わりの日に関するイエス・キリストの教えを記しているマタイの福音書24章31節には、

人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。

と記されています。
 コリント人への手紙第一には2回出てきます。まず、14章8節には、

また、ラッパがもし、はっきりしない音を出したら、だれが戦闘の準備をするでしょう。

と記されています。これは異言についての教えの中に出てくるのですが、ラッパが戦いの中で用いられることを受けて語られています。戦いの中では声が通じませんから、ラッパの音でさまざまな指示が出されていました。また、15章52節には、

終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

と記されています。
 テサロニケ人への手紙第一・4章16節には、

主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。

と記されています。
 最後に、ヘブル人への手紙12章18節ー19節には、

あなたがたは、手でさわれる山、燃える火、黒雲、暗やみ、あらし、ラッパの響き、ことばのとどろきに近づいているのではありません。このとどろきは、これを聞いた者たちが、それ以上一言も加えてもらいたくないと願ったものです。

と記されています。これは、出エジプト記19章ー20章に記されています、神である主がシナイ山にご臨在されたときのことに触れるものです。出エジプト記では「角笛」となっています。それは栄光の主の御臨在にともなうものです。
 これらのことから、「ラッパ」は栄光の主の御臨在に伴うものであり、主がご臨在されて救いとさばきの御業を遂行されることを告げるものであることが分かります。また、「ラッパ」が戦いの中で用いられることも、主の救いとさばきの御業が、暗闇の主権者であるサタンとその従者たちとの霊的な戦いとしての意味をもっていることにかかわっています。
 黙示録1章10節において、栄光のキリストの御声が「ラッパの音のような大きな声」であったと言われていることは、このようなこととかかわっています。
 この時、ヨハネは「ラッパの音のような大きな声」を聞きますが、栄光のキリストの御姿はまだ見てはいません。けれども、その「ラッパの音のような大きな声」は、そこにご臨在される栄光のキリストの御声であり、そこにイエス・キリストの栄光の御臨在、クリストファニーがあることを告げ知らせています。
 さらに、栄光のキリストは「ラッパの音のような大きな声」と言われている御声をもって、救いとさばきの御業を遂行されます。そして、霊的な戦いにおいて、暗闇の主権者とその従者たちを最終的におさばきになります。テサロニケ人への手紙第二・2章8節には、

その時になると、不法の人が現れますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。

と記されています。続く9節ー10節前半に、

不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。

と記されていますように、この「不法の人」はサタンの働きによって現れる存在です。また黙示録19章11節ー16節には、霊的な戦いを遂行される栄光のキリストのことが、

また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。その着物にも、ももにも、「王の王、主の主」という名が書かれていた。

と記されています。この方は、

 「神のことば」と呼ばれた

とあかしされており、さらに、

 この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。

とあかしされています。これは、「神のことば」と呼ばれる方、すなわち、栄光のキリストが、その御口から出るみことばをもって、さばきを執行されることを示しています。
 1章10節ー20節では、このようにあかしされている栄光のキリストがご臨在されて、まず、「ラッパの音のような大きな声」をもって、ヨハネに語りかけてくださいました。そして、それは、栄光のキリストが啓示してくださった「今ある事、この後に起こる事」を書き記して、「アジヤにある七つの教会」に送るということでした。そうであれば、「アジヤにある七つの教会」は栄光のキリストが与えてくださった啓示を受け止め、その主のみことばに堅く立って歩むことによって、霊的な戦いに参加していくようにと招かれていることになります。実際、天における霊的な戦いで、サタンとその軍勢が敗北して、天から投げ落とされたことを記している12章の10節ー11節には、

そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。
 「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

と記されています。
 私たちも、この時代における霊的な戦いの状況の中で、栄光のキリストが与えてくださっているみことばの上に堅く立って、契約の神である主を礼拝することを中心として、愛のうちを歩むように招かれています。


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