黙示録講解

(第110回)


説教日:2013年3月3日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章9節ー20節
説教題:栄光のキリストの顕現(11)


 ヨハネの黙示録1章9節ー20節には、イエス・キリストがご自身の栄光の御姿を黙示録の著者であるヨハネに現してくださっことが記されています。。
 10節に、

 私は、主の日に御霊に感じた

と記されていますように、イエス・キリストがご自身の栄光の御姿を現してくださったのは「主の日」のことでした。
 この「主の日」は、新約聖書のいくつかの個所に出てくる「週の初めの日」のことです。そして、初代教会の信徒たちは、イエス・キリストが十字架におかかりになって、私たち主の民のために罪の贖いを成し遂げてくださってから、栄光を受けて死者の中からよみがえられたことを覚えて、「週の初めの日」に集って、神さまを礼拝していました。
 これまで、そのことの意味を考えるために、古い契約の下において与えられたモーセ律法に規定されている「安息日」についてお話ししてきました。きょうは、これまでお話ししてきたことを補足しながらお話を進めていきます。
 古い契約の下において、主の契約の民であるイスラエルの民は、週の第7日を安息日として聖別するように戒められていました。十戒の第4戒においては、

 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

と戒められています。イスラエルの民はこの戒めにしたがって、第7日を安息日として聖別し、その日に集って、主を礼拝していました。それは二つのことを覚えるためでした。
 一つは、神さまが天地創造の御業において、6日にわたって御業を遂行され、7日目に休まれたことです。十戒の第4戒を記している出エジプト記20章8節ー11節の最後の11節に、

それはが六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。

と記されているとおりです。
 もう一つは、神さまがご自身の契約の民であるイスラエルをエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださったことです。同じ十戒の第4戒を記している申命記5章12節ー15節の最後の15節に、

あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。

と記されているとおりです。
 主の契約の民が安息日において覚えるべきこれら二つのことは、深くつながっています。そのことを理解するためには、すべてのことの根底にある、神さまの天地創造の御業を理解する必要があります。これまでお話ししたことをごく簡単にまとめておきましょう。
 まず、心に留めておきたいのは、ヨハネの福音書1章1節ー3節に記されていることです。1節では、

 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

と言われています。ここでは「ことば」と呼ばれている御子が永遠の神であられることが示されると同時に、

 ことばは神とともにあった。

と言われていることによって、その御子は、永遠に、父なる神さまとの無限の愛にある交わりのうちに、まったく充足しておられることが示されています。そして、3節において、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と言われていますように、父なる神さまとの愛の交わりのうちに充足しておられる御子が創造の御業を遂行されたことが示されています。
 このことから、創造の御業は愛を本質的な特性とする神さまの御業として、神さまの愛をご自身の外に向けて表現する御業であったことが分かります。そうであれば、神さまはご自身の愛を受け止め、愛をもって神さまに応答する存在をお造りになったはずです。それが、創世記1章1節ー2章3節に記されている天地創造の御業の記事において、神のかたちに造られたとあかしされている人です。
 全知全能の神さまは一瞬のうちに、この大宇宙を創造することがおできになります。けれども、天地創造の御業の記事に示されていますように、神さまは創造の御業の6日にわたる御業によって、この世界をお造りになりました。その意味で、創造の御業は歴史的な御業でした。それで、創造の御業によって造り出されたこの世界も歴史的な世界です。神さまがお造りになったこの世界が歴史的な世界であるということは、この世界が時間とともに変化していくだけではなく、神さまがみこころによって定められた目的が実現される世界であるということを意味しています。
 神さまの創造の御業の目的は、ご自身の愛を受け止め、愛をもってご自身に応答する人を神のかたちにお造りになることでした。そして、この「」を、イザヤ書45章18節のことばでいいますと、「人の住みか」に形造られることでした。実際、創世記1章1節ー2章3節に記されている、神さまの天地創造の御業の記事は、神さまが、今私たちが住んでいるこの「」を「人の住みか」に形造られたことをあかししています。
 最初に造り出されたときの「」の状態を記している1章2節には、

地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

と記されています。「」がいまだ「人の住みか」とは言えない状態にあったときに、神さまは御霊によってこの「」に御臨在しておられました。「」は「人の住みか」である前に、神さまがご臨在される所として、聖別されているのです。神さまはご自身がご臨在されるこの「」を「人の住みか」に形造られました。神のかたちに造られた人をご自身がご臨在される所に住まわせてくださるのです。言うまでもなく、これは神のかたちに造られた人が、この「」にご臨在される神さまの御前に近づいて、神さまとの愛にある交わりのうちに生きることができるようにしてくださるためです。
 神さまは、3節に記されている、

 光があれ。

というみことばから始まる一連のみことばをもって「」を「人の住みか」に形造っていかれました。この「」が明るく、澄み渡っており、暖かな「」であり、ここに多種多様な植物が芽生えており、さまざまな生き物が生息しているのは、この「」に愛といつくしみに満ちた神さまがご臨在しておられることの現れです。神さまは、神のかたちに造られた人がこの「」において、目で見ることができない神さまの愛といつくしみに満ちた御臨在に触れることができるようにしてくださったのです。それが、神さまが「」を「人の住みか」として形造ってくださったことの中心にあることです。
 神さまはこのために必要なすべてのものを整えられた後に、人を神のかたちにお造りになりました。そして、神のかたちに造られた人に、ご自身がお造りになったこの歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。神のかたちに造られた人は、この世界にあふれている、神さまの愛といつくしみに満ちた御臨在の現れに接し、いっさいの栄光を神さまに帰して、神さまを讃えつつ礼拝することを中心として、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を果たすように召されています。そのように、神のかたちに造られた人が神さまの御臨在の御許に近づいて、いっさいの栄光を神さまに帰して、神さまを礼拝することこそが、人が神さまとの愛にある交わりのうちに生きていることの中心にあることです。
 さらに神さまは、創造の御業の第7日をご自身の安息の時として、祝福して、聖別されました。この創造の御業の第7日はいまだ閉じていなくて、今日に至るまで続いています。この創造の御業の第7日は、神のかたちに造られた人がこの世界にあふれている、神さまの愛といつくしみに満ちた御臨在の現れに接し、いっさいの栄光を神さまの帰して、神さまを讃えつつ礼拝することを中心として、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を果たすために、神さまが備えてくださった時です。それは、とりもなおさず、神のかたちに造られた人が神さまとの愛にある交わりに生きるための時です。
 大切なことは、この創造の御業の第7日が「神さまの」安息の時であるということです。この日に神さまは、ご自身のた栄光の御臨在の御許に近づいてくる人に御顔を向けてくださり、ご自身の愛といつくしみを注いでくださいます。それによって、神さまの安息が実現します。それで、神のかたちに造られた人も、自分たちの第7日を神さまの御臨在の御許に近づいて、神さまを礼拝することにおいて、神さまとの直接的な愛の交わりのうちに過ごす時として聖別するのです。
 この場合、「直接的な愛の交わり」ということは、無限、永遠、不変の栄光の神さまと直接的な交わりをするということではありません。そのようなことは、どのような被造物にもできないことです。これは、ほかの6日間におけるように、神さまがお造りになったこの歴史的な世界において歴史と文化を造る使命を果たすために、さまざまな形での働きをすることをとおして、神さまの御臨在の現れに触れるという形ではなく、神さまの御臨在そのものに触れて神さまを礼拝するという意味です。それも、神さまが御子にあって、無限に身を低くされて、この「」にご臨在してくださるので、神のかたちに造られた人はその御前に近づいて、神さまの御顔を仰ぎ見ることができるのです。
 もう一つ大切なことは、この創造の御業の第7日が歴史的な日であるということです。この日に神さまがご自身の愛といつくしみを神のかたちに造られた人に注いでくださり、人は神さまとの愛にある交わりに生きるようになります。その神さまとの愛の交わりは、神のかたちに造られた人が愛において成長するとともに、より深く豊かになっていきます。神さまの愛には限りがありませんが、人はその愛をすべて受け止めることができるわけではありません。人が愛においてより豊かに成熟し、成長するにしたがって、神さまの愛をよりよく受け止めることができるようになります。そのようにして、神のかたちに造られた人の成長とともに、神さまがより深く豊かな愛を注いでくださるのです。それによって、神さまの安息もより深く豊かなになっていきます。
 そればかりではありません。神さまは、神のかたちに造られた人がこの世界にあふれている、神さまの愛といつくしみに満ちた御臨在の現れに接し、いっさいの栄光を神さまの帰して、神さまを讃えつつ礼拝することを中心として、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて、神さまのみこころに完全に従いとおした時に、そのことへの報いとして、被造物として許される限りでの、最も豊かな栄光に満ちたいのちにあずからせてくださるみこころを示されました。それが、創造の御業とともに神のかたちに造られた人に与えられた契約、すなわち、「創造の契約」に約束されている祝福でした。そのことが実現する時に、創造の御業の第7日をご自身の安息の時として祝福して、聖別された神さまのみこころは実現し、神さまの安息はまったきものとなります。神さまの安息は、ご自身の深く豊かな愛を私たちにすべて注いでくださるまでは、まったきものとならないということです。これはひとえに、神さまが私たちをそのように愛してくださっているからです。
 これが、天地創造の御業において示されている神さまのみこころの中心にあることです。それは、創造の御業の第7日において、神のかたちに造られた人が歴史と文化を造る使命を果たして、神さまのみこころに沿って、この世界の歴史と文化が造られていった結果、実現することです。その意味で、その実現は将来のことでした。それで、神さまは神のかたちに造られた人に、人の日の第7日を安息日として聖別するようにと戒められたのです。これは、神さまが天地創造の御業において示されたみこころによることであって、人が神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったために定められたことではありません。
 先ほどの「創造の契約」は一般には「わざの契約」と呼ばれています。それは、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人が、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて、神さまのみこころに完全に従いとおした時に、神さまがそのことへの報いとして、被造物として許される限りでの、最も豊かな栄光に満ちたいのちにあずからせてくださることを約束してくださったものです。実は、イエス・キリストが十字架の死に至るまでも父なる神さまのみこころに従いとおされて、その報いとして栄光をお受けになって死者の中からよみがえられたのは、この「創造の契約」において、神さまが与えてくださっている約束に基づくことでした。
 このように、イエス・キリストが栄光をお受けになって死者の中からよみがえられたことによって、「創造の契約」において約束されている祝福が歴史の現実となっています。これによって、神さまが創造の御業の第7日を、ご自身の安息の時として祝福して、聖別されたみこころは「原理的に」実現しています。それで、新しい契約の下にある私たちは、「週の初めの日」を主の安息の日として聖別しているのです。「原理的に」ということは、そのために必要なことは、すでに、すべて備えられているということを意味しています。それは、終わりの日に私たち主の契約の民がイエス・キリストの復活の栄光にあずかって栄光あるものとしてよみがえる時に完全に実現します。そして、その時にこそ、神さまの安息はまったきものとなります。


 話を戻しますと、実際には、人が、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、創造の御業の第7日をご自身の安息の時として祝福して、聖別された神さまのみこころは踏みにじられてしまいました。神さまの安息はかき乱されてしまったのです。
 神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人は、この「」にご臨在しておられる神さまとの愛にある交わりにあずかって、神さまを生きておられる方として親しく知ることができました。神のかたちとしての栄光と尊厳性を与えられ、神さまの愛といつくしみを受けて、神さまとの親しい交わりのうちに生きるという豊かな特権と祝福にあずかっているものが、暗闇の主権者であるサタンに誘われて、自分も神のようになれるという、サタンと同じような高ぶりを心に抱き、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。
 これによって、神のかたちに造られた人に限りない愛といつくしみを注いでくださることにおいて、ご自身の安息が満たされるようにしてくださっていた神さまのみこころは踏みにじられ、神さまの安息はかき乱されてしまいました。それによって、創造の御業において示された神さまのみこころの実現が、サタンの働きによって阻止されてしまったように思われました。
 けれども、神さまはそのサタンへのさばきの宣言において、ご自身の契約の民のために贖い主を備えてくださいました。それが、創世記3章15節に記されています、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

という主のみことばです。
 この時、「」と「おまえ」と呼ばれているサタンは罪によって一つに結ばれてしまっています。もし、この時に神である主がサタンを最終的におさばきになっていたとしたら、罪によってサタンと一つになっていた悪霊たちだけでなく、「」とその夫であるアダムも最終的なさばきを受けて滅ぼされていたことでしょう。それでは、サタンが神さまの創造の御業において示されていたみこころの実現を阻止したということになってしまいます。
 ところが、このサタンへのさばきの宣言で、神である主は、「」と「おまえ」と呼ばれているサタンとの間に「敵意を置」かれて、「」とサタンの間の、罪によるつながりを断ち切ってしまわれると言われました。その「敵意」はさらに「女の子孫」の共同体と「おまえの子孫」すなわちサタンの霊的な子孫の共同体の間にまで置かれて、霊的な戦いにおいて二つの共同体が対立するようになると言われています。これによって、「」と「女の子孫」の共同体は、常に神さまに逆らっているサタンとその霊的な子孫の共同体と対立するようになります。それは、「」と「女の子孫」の共同体が霊的な戦いにおいて神さまの側に立つようになるとことを意味しています。それが、「」と「女の子孫」の共同体の救いを意味しています。その意味で、これは「最初の福音」と呼ばれています。
 この「最初の福音」に示されている神さまのみこころが実現して、「」と「女の子孫」の共同体である主の契約の民が神さまとの本来の交わりに回復されるなら、神さまの安息も回復されることになります。
 先に結論的なことをお話ししますが、実際には、先ほどお話ししましたように、御子イエス・キリストが私たち主の契約の民のために十字架におかかりになって罪の贖いを成し遂げてくださり、その十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことによって栄光を受けて死者の中からよみがえってくださいました。私たち主の契約の民はこのイエス・キリストの十字架の死にあずかって罪を贖われているだけでなく、イエス・キリストのよみがえりにもあずかって、栄光あるいのち、永遠のいのちによって新しく生まれています。これは、創造の御業において最初の人が神のかたちに造られたときの状態に回復されるということではありません。人が歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて神さまのみこころに従い通していたなら、そのことに対する報いとして受けたであろう、より深く豊かな栄光をもつ者とされているということです。これによって、私たちは父なる神さまのことを親しく「アバ。父。」と呼ぶことができるほどに、神さまの愛といつくしみに満ちた御臨在の御許に近づくことができるようにされています。それによって、神さまの安息は「原理的に」完成しています。
 しかし、古い契約の下では、この約束の贖い主が来られることを待ち望んでいますので、第7日が主の安息の日として指定されていました。
 再び話を戻しますと、この「最初の福音」はサタンへのさばきの宣言ですが、その最終的なさばきは、

 彼は、おまえの頭を踏み砕く

と言われているときの「」、すなわち、「女の子孫」のかしらとして来られる贖い主によって執行されます。そして、「女の子孫」の共同体は、このかしらであられる贖い主との一体において救いにあずかります。
 しかし、これによって、サタンへの最終的なさばきの執行は、「女の子孫」のかしらとして来られる贖い主が来られるまで引き延ばされました。これは、サタンにとっては、さらに神である主のみこころの実現を阻止しようとして働く機会を与えられることとなりました。
 サタンとしては、何とかして、「女の子孫」のかしらとして来られる贖い主が来られないような状況を生み出そうとして、知恵と力を尽くして働くようになりました。一方では、「女の子孫」の共同体に属する者たちを誘惑して、神さまに逆らうように導くとともに、他方では、「女の子孫」の共同体に属する者として、神さまの恵みと愛を信じて、その約束の贖い主を待ち望んでいた者たちを迫害して、抹殺してしまうことを謀ってきました。そのことは、神さまの贖いの御業の歴史を記している旧約聖書の至る所に見られます。そして、実際に、永遠の神の御子イエス・キリストがご自身の民の贖い主となるために、人としての性質を取って来てくださった時には、絶えずイエス・キリストを誘惑するとともに、人々がイエス・キリストを約束の贖い主として受け入れることがないようにと働きかけ、ついには、イエス・キリストを十字架にかけて殺してしまうように導きました。
 そのようにして、御子イエス・キリストを十字架につけて殺してしまった時に、サタンは霊的な戦いに勝利したと思ったことでしょう。もはや、自分を最終的にさばくべき者はいなくなってしまったと感じたことでしょう。しかし、それは、サタンへのさばきを宣言している「最初の福音」において、

 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

と言われていることの成就でした。
 御子イエス・キリストの十字架の死は、私たちご自身の民の罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって受けてくださるという、父なる神さまのみこころを実現するものでした。イエス・キリストの教えを記している、ヨハネの福音書10章18節に、

だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。

と記されていますように、イエス・キリストはご自身の意志によって、父なる神さまのみこころに従い、十字架にかかっていのちをお捨てになりました。そのようにして、私たちの罪に対する神さまの最終的なさばきを、私たちに代わって受けてくださいました。これによって、私たちの罪をすべて、また、完全に贖ってくださり、私たちを罪によってサタンと結ばれている状態から、御子イエス・キリストと一つにされている状態へと移し替えてくださいました。コロサイ人への手紙1章13節ー14節に、

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。

と記されているとおりです。
 このようにして、サタンに対する最終的なさばきが執行されても、私たちイエス・キリストの民がサタンとともにさばきを受けて滅びることはない状態が生み出されました。いつサタンに対する最終的なさばきが執行されてもよい状態が生み出されたのです。しかし、それがまだ執行されない理由があります。終わりの日に関するイエス・キリストの教えを記しているマタイの福音書24章14節には、

この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。

と記されています。また、ヨハネの福音書6章39節には、

わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。

というイエス・キリストの教えが記されています。さらに、パウロが異邦人への使徒としての歩みを踏み出すに至った、パウロの宣教の転換点に当たることを記している使徒の働き13章の48節には、

異邦人たちは、それを聞いて喜び、主のみことばを賛美した。そして、永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰に入った。

と記されています。これらのみことばを合わせて見ますと、神さまがご自身の主権的な恵みに基づくみこころによってイエス・キリストに「与えてくださったすべての者」、「永遠のいのちに定められていた人たち」が全世界に散らばっていて、その人々の数が満ちるまで、最終的なさばきの執行が引き延ばされていることが分かります。
 ですから、ここには、いつサタンに対する最終的なさばきが執行されてもよい状態が生み出されたけれども、「永遠のいのちに定められていた人たち」の数が満ちるまでは、その執行は引き延ばされているという、ある種の緊張状態があります。そのような状態の中で、暗闇の主権者とその軍勢は、最後の力を振り絞って霊的な戦いを戦っています。黙示録12章12節に、

しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。

と記されているとおりです。
 この結果、地にある主の契約の民は、より厳しい状況に追い込まれていきます。サタンの欺きはより巧妙なものとなり、迫害も厳しいものとなっています。黙示録はその現実を記しています。このことが父なる神さまのみこころを痛めることであることは、想像に難くありません。けれども父なる神さまは、ご自身の契約の民をすべて、御子イエス・キリストによって、ご自身との栄光にある愛の交わりに生きる者としてくださるために、忍耐してくださっています。ペテロの手紙第二・3章9節には、

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

と記されています。
 そのこと、すなわち、地上にあります主の契約の民の苦難のことをヨハネに啓示してくださった方は、「女の子孫」のかしらとして来てくださって、私たちご自身の民のために十字架にかかって罪の贖いを成し遂げてくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださった方です。黙示録1章17節ー18節では、ご自身のことを、

恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

とあかししておられます。この方は、ご自身がすでに成し遂げられた贖いの御業に基づいて、必ず、暗闇の主権者とその軍勢に対する最終的なさばきを執行されます。そして、私たちご自身の契約の民を栄光あるものとしてよみがえらせてくださり、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに導き入れてくださいます。そのようにして、神さまの安息をまったき安息として実現してくださいます。


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