黙示録講解

(第109回)


説教日:2013年2月24日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章9節ー20節
説教題:栄光のキリストの顕現(10)


 黙示録1章9節ー20節には、栄光のキリストがご自身の栄光の御姿をヨハネに現してくださって、ヨハネが黙示録に記したことを啓示してくださったことが記されています。10節に、

 私は、主の日に御霊に感じた

と記されていますように、このことが起こったのは「主の日」のことでした。この「主の日」ということばは、新約聖書の中では、ここだけに出てきます。これは新約聖書のその他のいくつかの個所に出てくる「週の初めの日」のことです。
 これまで、この「主の日」の意味を考えるために、旧約聖書に出てくる安息日のことをお話ししてきました。きょうも、それを補足しながらまとめつつ、さらにお話を進めていきます。
 古い契約の下では、主の契約の民は第7日を安息の日として聖別して、契約の神である主を礼拝していました。それは、十戒の第4戒を記している出エジプト記20章8節に、

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

と記されていることに基づいています。そして、その理由が、11節に、

それはが六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。

と記されています。その理由は、創世記2章1節ー3節に記されていますように、造り主である神さまが創造の御業の第7日に休まれ、この日をご自身の安息の日として祝福し、聖別されたからであるということです。
 神さまの知恵も力も無限です。それで、神さまはこの宇宙をお造りになったからといって、お疲れになることはありません。また、神さまは三位一体の神さまです。御父と御子の間には、御霊による、無限、永遠、不変の愛の交わりがあり、神さまは永遠にまったき愛のうちに充足しておられます。ですから、神さまはあらゆる点で無限の豊かさに満ちておられます。その神さまが創造の御業の第7日に休まれ、この日をご自身の安息の日として祝福し、聖別されたのは、ご自身のうちに何らかの必要があって、それを満たすためのことではありません。
 その意味を理解するための鍵は、これまでお話ししてきましたように、二つあります。一つは、天地創造の御業そのものが歴史的に進展して、神さまがお定めになった目的を実現するようになる御業であり、そのような御業によって造り出されたこの世界も歴史的な世界であるということです。もう一つは、神さまが、人をご自身のかたちにお造りになって、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったということです。
 創世記1章1節ー2章3節に記されている天地創造の御業の記事は、1章2節に、

地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

と記されていますように、私たちが住んでいるこの「」に焦点が合わされています。もちろん、天地創造の御業は同時並行的に宇宙全体に渡って遂行されていますが、天地創造の御業の記事の関心は、もっぱら私たちが住んでいるこの「」に向けられているのです。
 また、この2節に記されているのは、神さまが最初に造り出されたときの「」の状態です。「」がこのような状態の時に、神さまは御霊によって、この「」にご臨在しておられました。そして、その御臨在の御許から発せられたみことばによって、「」を、イザヤ書45章18節において神さまのことが、「」を、

 人の住みかにこれを形造った方

と言われていることに合わせて言いますと、「人の住みか」に形造っていかれました。創世記1章3節に、

 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。

と記されていますように、神さまは「」に光があるようにされて、明るく暖かい世界とされました。また、創造の御業の第2日に、2節に出てきた「大水」を二つに分けられました。そのようにして、大気圏が形成され、それとともに、大気の循環のシステムが確立され、「」が澄み渡り、適度に潤うものとなりました。さらに、そこに多種多様な植物が芽生えて実を結び、さまざまな生き物たちが生息するようにされました。それらすべては、神さまの御臨在がこの「」にあることの現れとしての豊かさでした。
 そのように、神さまはご自身の御臨在の御許からあふれ出る豊かさに満ちいている「」を「人の住みか」としてくださいました。詩篇115篇16節には、

 天は、の天である。
 しかし、地は、人の子らに与えられた。

と記されています。神のかたちに造られた人は、造り主である神さまの御臨在が映し出されているこの世界のあらゆるところで、またあらゆることにおいて、愛といつくしみに満ちた神さまの御臨在に触れることができます。人はその愛といつくしみを汲み取り、いっさいの栄光を神さまに帰する讃美と告白をもって、神さまを礼拝することを中心として、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を果たしていくように造られ、召されているのです。
 それだけではありません。神さまは神のかたちに造られた人をご自身の御臨在の御前に立たせてくださり、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生きる者としてくださっています。それこそが神のかたちに造られた人のいのちの本質です。神のかたちに造られた人が委ねられた歴史と文化を造る使命を果たしつつ、神さまの御臨在の御許に近づいて、いっさいの栄光を神さまに帰して、神さまを讃え礼拝するとき、人は神さまご自身との愛にあるいのちの交わりにあずかっているのです。ですから、神さまが神のかたちに造られた人に歴史と文化を造る使命を委ねてくださった目的は、人をご自身の御臨在の御前に立たせてくださり、ご自身の愛をもって人を受け入れてくださることにあります。
 そのようにして、神のかたちに造られた人が神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たしつつ、常に、神さまの御臨在の御許に近づき、いっさいの栄光を神さまに帰して神さまを讃え礼拝することをとおして、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生き、神さまのこの上ない愛に包まれるとき、神さまの安息が実現します。
 そのような意味で、神のかたちに造られた人が、神さまがお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を果たしてゆくことは、神さまの祝福によることです。実際、創世記1章28節に、

神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されていますように、歴史と文化を造る使命は神さまの祝福のみことばとして与えられました。そして、そのように、神のかたちに造られた人が神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たしていくのは、神さまが創造の御業において。ご自身の安息の日として祝福して、聖別してくださった、創造の御業の第7日においてのことです。この創造の御業の第7日は、天地創造の御業以来、今日に至るまで続いています。
 私たち人間の間の愛でも、愛は時とともに深められていきます。お互いが人として成長していくということの中心には、愛が深められ、豊かになっていくことがあります。なぜなら、ヨハネの手紙第一・4章8節と16節に、

 神は愛です。

と記されていますように、神さまの本質的な特性が愛であり、それゆえに、神のかたちの本質的な特性も愛であるからです。
 このようにして、神のかたちに造られた人が造られた最初の状態にとどまるのではなく、愛において成長していって、より深く豊かな神さまの愛を受け止め、その愛をもって神さまと隣人を愛するようになることにおいて、神さまの安息は実現します。これを神さまの側から見ますなら、ご自身の愛をより深く豊かに神のかたちに造られた人に注いでいかれることにおいて、ご自身の安息が実現するということです。
 このことから、お分かりになるかと思いますが、神さまの安息はどこかで止まってしまっているものではありません。何事もなく平安無事であるから安心であるということではなく、より豊かな安息となって深められていくものです。それは、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人の愛が、より深く豊かなものとなって、神さまの愛をより深く受け止めるようになることによっています。
 さらに、神さまは特別なみこころとして、最初の人アダムをかしらとする人類に契約をお与えになりました。神のかたちに造られた人は歴史と文化を造る使命を果たす歩みの中で、成長していきます。それは、先ほどお話ししましたように愛にある成長です。その成長とともに、神さまと隣人への愛も深まっていきます。けれども、今お話ししている特別なみこころによって与えられた契約は、それとかかわっていますが、そのような経験とともに人格が成熟し、成長していくこととは別のことです。それは、神のかたちに造られた人が、神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて、神さまのみこころに完全に従ったなら、そのことへの報いとして、さらに豊かな栄光にあるいのち、すなわち、永遠のいのちを与えてくださるという約束です。これによって、神のかたちに造られた人がより豊かな栄光をもつ者となり、神さまの栄光の御臨在の御許にさらに近く近づいて、神さまとの愛にあるいのちの交わりがより豊かな栄光に満ちたものとなるためでした。そのことが実現するときに、神さまの安息は最終的に実現し、まったきものとなります。


 ここで、これまでお話ししてきたこととの関連で、もう一つのことに触れておきたいと思います。
 神さまは創造の御業の第7日に休まれたと言われています。しかし、それは、神さまが何のお働きもされなくなったということではありません。ヨハネの福音書5章1節ー18節には、イエス・キリストが「三十八年もの間、病気にかかっている人」に、「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」と言われると、その人が「すぐに直って、床を取り上げて歩き出した」ことが記されています。その日が安息日であったために、ユダヤ人たちはイエス・キリストが安息日に関する戒めを破ったと非難しました。
 もちろん、これは安息日に関するモーセ律法の戒めを破ったということではありません。ユダヤ人たちはイエス・キリストがモーセ律法の戒めを破ったと考えています。けれども、実際には、安息日に関するユダヤ教のラビたちの教え、安息日にどのようなことをしてよいか、あるいは、してはいけないかという規定に反していたということです。イエス・キリストはほかの個所(たとえばマルコの福音書7章6節ー13節)で、そのラビたちの規定に根本的な問題があることを示しておられます。
 ユダヤ人の非難に対して、イエス・キリストは(ヨハネの福音書5章)17節に記されていますように、

わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。

とお答えになりました。
 このイエス・キリストのお答えが、どうして、安息日に関する契約の神である主の戒めを破ったという非難に対する答えになるのかが問題となります。その鍵は、天地創造の御業以来、今日に至るまでの歴史全体が、神さまがご自身の安息の日として祝福して、聖別してくださった創造の御業の第7日であるということです。造り主である神さまの安息の日である第7日に、神さまは、ご自身がお造りになったこの歴史的な世界のすべてのものを、真実な御手をもってお支えくださり、導いてくださっています。それで、この世界とその中のすべてのものは、今日に至るまで保たれてきました。これは、神さまの「摂理のお働き」と呼ばれます。詩篇119篇89節ー91節には、

 よ。あなたのことばは、とこしえから、
 天において定まっています。
 あなたの真実は代々に至ります。
 あなたが地を据えたので、
 地は堅く立っています。
 それらはきょうも、あなたの定めにしたがって
 堅く立っています。
 すべては、あなたのしもべだからです。

と記されています。また、マタイの福音書6章26節にも、

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。

と記されています。
 このように、神さまはご自身がお造りになったこの世界とその中のすべてのものを、真実な御手をもって支えてくださり、導いてくださり、保持してくださっています。具体的には、それは御子イエス・キリストのお働きです。ヘブル人への手紙1章3節に、

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。

と記されているとおりです。
 神さまは、ご自身の安息の日として、祝福して、聖別された創造の御業の第7日において、お造りになったすべてのものを真実な御手をもって支えてくださり、導いてくださっています。そのように、ご自身の愛といつくしみをお造りになったすべてのものに注いでくださることは、神さまがご自身の安息の日として、祝福して、聖別された創造の御業の第7日にふさわしいことであるのです。そのことの中心に、神のかたちに造られた人がご自身の御臨在の御許に近づいて、ご自身を神として礼拝するときに、愛と恵みに満ちた御顔を向けてくださり、ご自身の愛を豊かに注いでくださって、人がご自身との愛にある交わりに生きるようにしてくださることがあります。
 御子イエス・キリストは、まことの神、無限、永遠、不変の栄光の主として、お造りになったこの世界とその中のすべてのものを、力あるみことばをもって支え、導き、保っておられます。その御子イエス・キリストが私たちの贖い主となってくださるために、人の性質をお取りになって、来てくださったとき、「三十八年もの間、病気にかかっている人」に、「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」と言われて、その人をおいやしになられました。それは、神さまの愛とあわれみをあかしするイエス・キリストの御業でした。まさに、神さまがご自身の安息の日として祝福して、聖別してくださった創造の御業の第7日にふさわしいことであったのです。

 これには、さらに考えておかなければならないことがあります。
 このことは、「三十八年もの間、病気にかかっている人」にとっては、本当に大きな喜びであったことでしょう。けれども、それだけでは空しいのです。もしそれだけであったとしたら、その人は、その後、長くて数十年生きたことでしょうが、罪と死の力に捕らえられたまま滅びに至ってしまったことでしょう。
 実際、ヨハネの福音書5章14節には、

その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」

と記されています。ここでイエス・キリストはこの人に、そのことを警告しておられます。この場合、イエス・キリストが警告しておられる「もっと悪い事」とは、「三十八年もの間、病気にかかって」苦しみ続けること以上のことです。また、ここでは、この人は自分自身のこととして、イエス・キリストが父なる神さまの御許から遣わされたメシヤであることをあかししてくださっている御業にあずかっています。その意味で、この人は罪を悔い改めて、神さまが遣わしてくださったメシヤを信じるように招かれています。それで、この「もっと悪い事」とは、もっと重い病気のことではなく、罪を悔い改めることなく、神さまが遣わしてくださった贖い主を信じないままに過ごして、その罪へのさばきを受けて滅びに至ることであると考えられます。ここには、この人がどうしたかは記されてはいません。
 このとき、イエス・キリストがなさったことは、神さまの安息の日にふさわしいことでした。けれども、単なる癒しで終わってしまうなら、それは、真の意味で神さまの安息を実現するものではありません。この人が罪を悔い改めて、イエス・キリストを神さまが遣わしてくださった贖い主を信じて、罪を贖っていただき、神さまの御臨在の御許に近づいて、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるようになってこそ、神さまの安息は実現します。
 このことは、神さまの安息の実現について、とても大切なことを示しています。
 先主日にお話ししましたように、神のかたちに造られた人が神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしてしまったことによって、神さまの安息はかき乱されてしまいました。それは、神さまが神のかたちに造られた人をご自身の御臨在の御許において生きる者としてお造りくださり、限りない愛を注いでくださっていたのに、人はその神さまに背を向け、自らの罪の力に捕らえられ、死と滅びの道を突き進む者となってしまったからです。人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後に、人へのさばきを記している創世記3章17節ー19節には、

 また、人に仰せられた。
 「あなたが、妻の声に聞き従い、
 食べてはならないと
 わたしが命じておいた木から食べたので、
 土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。
 あなたは、一生、
 苦しんで食を得なければならない。
 土地は、あなたのために、
 いばらとあざみを生えさせ、
 あなたは、野の草を食べなければならない。
 あなたは、顔に汗を流して糧を得、
 ついに、あなたは土に帰る。
 あなたはそこから取られたのだから。
 あなたはちりだから、
 ちりに帰らなければならない。」

と記されています。ここに記されています、堕落後の、人の労苦や、病などは人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった結果もたらされたものです。それで、それは、人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっていることをあかしするものです。その意味で、これらは、やがて訪れる死と滅びを思い起こさせるものです。
 しかし、神さまはご自身に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったご自身の契約の民を、ご自身との愛の交わりのうちに生きる者として回復してくださるために、贖い主を約束してくださいました。それは、この3章17節ー19節に記されています人へのさばきに先立って、14節ー15節に記されています「蛇」の背後にあって働いていたサタンへのさばきのことばの中に示されています。15節には、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

と記されています。これはサタンへのさばきの宣言ですが、「最初の福音」と呼ばれています。これにつきましては、いろいろな機会にお話ししてきましたので、結論的なことだけをお話しします。
 大切なことは、ここでは、

 彼は、おまえの頭を踏み砕く

と言われていますから、これはサタンに対する最終的なさばきの執行が宣言されているということです。
 もしこの時、神である主が直接的なさばきを執行していたとしたら、罪によってサタンと一つに結ばれてしまっていた人とその妻も、そのさばきによって滅びなければならなかったことでしょう。そうなっていたとしたら、神さまが創造の御業においてこの世界を歴史的な世界としてお造りになり、神のかたちに造られた人にこの世界の歴史と文化を造る使命を委ねられたことは、その初めにおいて挫折し、神さまのみこころは実現しなかったことになります。さらには、創造の御業の第7日をご自身の安息の日として祝福して、聖別してくださったことも、空しくなり、神さまの安息はかき乱されたままで終わってしまうことになります。
 これに対して、神である主はこの時に、ご自身が直接的に最終的なさばきを執行しないで、「女の子孫」のかしらとして来られる贖い主を通して、

 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

と言われている、最終的なさばきを執行されるというみこころをお示しになりました。それとともに、それまでの間に、神さまご自身が、「おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を」置いてくださって、この「」と「女の子孫」の共同体と、「おまえ」と「おまえの子孫」の共同体という、二つの共同体の間を引き裂かれるということをも宣言されました。「おまえ」と「おまえの子孫」は神である主に敵対して働いています。それに対して、「」と「女の子孫」が敵対して立つようになるというのです。それは、「」と「女の子孫」が神である主の側に立つようになることです。これが「」と「女の子孫」の救いを意味しています。そして、最終的には、「女の子孫」のかしらとして来られる贖い主が最終的なさばきを執行されるということです。これが、このサタンへのさばきの宣言が「最初の福音」と呼ばれることの意味です。
 この「最初の福音」の後に、先ほどのアダムに対するさばきの宣言が記されています。そうしますと、そこに記されている、堕落後の人類のさまざまな労苦は、その労苦の中で人が自らの罪を自覚し、神さまが一方的な恵みによって備えてくださっている贖い主を信じる信仰へと導かれるために用いられるものともなりえます。
 このようにして、福音のみことばにおいてあかしされている贖い主をとおして、創造の御業において示された神さまのみこころは回復され、創造の御業の第7日を、ご自身の安息の日として祝福して、聖別してくださった神さまのみこころも実現します。
 このことを背景として、古い契約下において与えられたモーセ律法では、週の第7日を安息日とすべきことが規定されています。十戒の第4戒を記している申命記5章12節には、

 安息日を守って、これを聖なる日とせよ。あなたの神、が命じられたとおりに。

と記されています。そして、その理由を記している15節には、

あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。

と記されています。
 ここには、神である主がご自身の契約の民であるイスラエルをエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださったこと、そのようにして、イスラエルの民に安息を与えてくださることが、イスラエルの民が安息日を守るべき戒めの理由として示されています。ここでは、神さまの天地創造の御業のことは触れられていません。けれども、これまでお話ししてきたことから、これは、出エジプト記20章8節に記されている安息日に関する戒めと矛盾するものではないことが分かります。
 これらのことから、契約の神である主の贖いの御業の歴史においても、古い契約の下においては、週の最後の日である第7日を安息日として守るべきことの意味が分かります。あの出エジプトの贖いの御業も、「地上的なひな型」として、やがて「女の子孫」のかしらとして来られる贖い主による贖いの御業を指し示すものでした。モーセ律法に示されている主の栄光の御臨在の場としての幕屋や神殿も、そこでささげられる動物のいけにえも、やがて「女の子孫」のかしらとして来られる贖い主を指し示す「地上的なひな型」でした。そのことを明らかにしているヘブル人への手紙9章9節ー12節には、

この幕屋はその当時のための比喩です。それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序の立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎないからです。しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。

と記されています。
 このようなわけで、古い契約の下では、やがて来てくださる御子イエス・キリストが、その十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださる罪の贖いを将来のこととして指し示していました。神さまの安息の回復と完成は、御子イエス・キリストの贖いの御業によって実現しますから、古い契約の民は、週の第7日を安息の日として聖別するように戒められていました。
 御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、私たち主の契約の民の贖いは成し遂げられ、神さまの安息は「原理的に」回復し、実現しています。「原理的に」実現しているということは、私たち主の契約の民の贖いのために必要なことは、すべて、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、すでに成し遂げられているということです。それで、私たちの贖いは必ず実現します。
 このようなことから、御子イエス・キリストを贖い主として信じている私たちは、「週の初めの日」である「主の日」を神さまの安息の日として聖別しています。私たちはこの日に。御子イエス・キリストにあって、父なる神さまの御臨在の御許に近づ来ます。そして、父なる神さまの愛といつくしみの御顔を仰ぎ見て、神さまを造り主として讃え、栄光のキリストを贖い主として讃えつつ告白して、礼拝します。このことのうちに、神さまの安息が実現していると信じてのことです。


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