黙示録講解

(第108回)


説教日:2013年2月17日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章9節ー20節
説教題:栄光のキリストの顕現(9)


 黙示録1章9節ー20節には、イエス・キリストがご自身の栄光の御姿を、黙示録の著者であるヨハネに現してくださったことが記されています。
 このことが起こったのは、10節に、

 私は、主の日に御霊に感じた

と記されていますように、「主の日」のことでした。聖書に記されていることから分かりますが、初代教会の信徒たちは、イエス・キリストが十字架におかかりになって、私たち主の民のために罪の贖いを成し遂げてくださってから、栄光を受けて死者の中からよみがえられたことを覚えて、「週の初めの日」に集って、神さまを礼拝していました。ヨハネは、この黙示録1章10節において、この「週の初めの日」を「主の日」と呼んでいます。
 先主日は、旧約聖書に出てくる安息日のことをお話ししました。古い契約の下では、主の契約の民は第7日を安息の日として聖別して、その日に会堂に集って、契約の神である主を礼拝していました。それが、イエス・キリストが十字架の上で流してくださった血によって確立された新しい契約の下では、「週の初めの日」すなわち「主の日」を聖別して、契約の神である主を礼拝するようになりました。
 このように言いますと、「主の日」が安息日に取って代わったかのように聞こえるかも知れません。けれども、そういうことではありません。正確には、神さまの安息の日が、週の終わりの日である第7日から、「週の初めの日」の「主の日」に変わったということです。どちらも、それが神さまの安息の日としての意味をもっていることには変わりありません。


 このことを踏まえて、古い契約の下での安息日について、先主日にお話ししましたことを補足しつつ、復習しながら、お話を進めていきます。
 神さまの天地創造の御業を記している創世記1章1節ー2章3節には、神さまが創造の御業の6日間にわたって、この世界の「すべてのもの」をお造りになったことが記されています。ご自身が無限、永遠、不変の栄光の主であられ、無限の知恵と無限の力に満ちておられる神さまには、限界がありません。神さまは、一瞬のうちにこの大宇宙のすべてのものをお造りになることができます。その神さまが創造の御業の6日間にわたって創造の御業を遂行されたのは、神さまの創造の御業が歴史的な御業であることと、そのようにして神さまがお造りになったこの世界が歴史的な世界であることを意味しています。
 歴史的であるということは、ただものごとが時間とともに移り変わっていくということではありません。神さまがお造りになったこの世界には明確な目的があって、その目的の実現に向かって進展していく世界です。そして、その目的の実現に向かって進展していくことによって意味が生み出されていくことを歴史的と言います。この世界のすべてのものは、造り主である神さまの知恵や御力だけでなく、愛といつくしみ、聖さや義を映し出す世界です。その意味で、この世界は造り主である神さまの栄光を現す世界としての意味をもっています。この神さまの栄光の中心は、神さまご自身の本質的な特性である愛です。神さまの知恵と力は、神さまの愛を現すように働きます。また、神さまの愛を離れて、神さまの聖さや義はありません。この世界が歴史的であるということは、この世界が時の経過とともに、愛を本質的な特性とする造り主である神さまの栄光をより豊かに現すようになることを意味しています。
 けれども、この世界がそのように造り主である神さまのご栄光を映し出していても、そのことだけでは文化になりませんし、そのような文化が継承され発展していく歴史にもなりません。この世界に属しているものが、そのことを理解し受け止めて、愛をもって応答する形で造り主である神さまを礼拝し、神さまにいっさいのご栄光を帰することがあって初めて、この世界の文化となり、神さまの栄光をより豊かに現す歴史となります。神さまがお造りになったこの世界の歴史と文化は、造り主である神さまを愛して、神さまを礼拝することを中心としています。
 神さまは、ご自身がお造りになったこの歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を神のかたちに造られた人にお委ねになりました。創世記1章26節には、

神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」

と記されており、続く27節ー28節に、

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されています。
 神さまは天地創造の御業の中で、人を神のかたちにお造りになって、人に歴史と文化を造る使命をお委ねになっただけではありません。創世記2章1節ー3節には、

こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである

と記されています。神さまは創造の御業の第7日を、ご自身の安息の時として祝福してくださり、聖別してくださいました。
 この創造の御業の第7日はいまだ閉じていなくて、今日に至るまで、まだ続いています。言い換えますと、神のかたちに造られた人は、神さまがご自身の安息の時として祝福し、聖別された、創造の御業の第7日において、神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすように召されているのです。ですから、天地創造の御業の初めから、今日に至るまで続いている時間は、造り主である神さまの安息の時として祝福され聖別されているのです。決して、無機的な時が機械的に流れているのではありません。
 私たちは時計が身近にある時代に生きています。時間と言えばすぐに時計を思い起こします。その時計の秒針がカチッ、カチッと時を刻んでいるイメージで時を理解しています。そのために、時は機械的に流れていると感じています。またそのために、時は無機的なものであるとも感じています。けれども、時計がなかった時代の人々にとっては、時間は日が昇って世界が明るくなり、暖かくなり、日が沈んで暗くなり、安息の休みをもたらすようになるというように、人や生き物たちの生活のリズムを刻むものという意味をもち、春の訪れとともに、草花が芽生えて、ゆっくりと生長し、秋には実を結ぶという人や生き物の生存を支える実りをもたらすに至るという、豊かな意味が生み出される時として感じ取られていたことでしょう。ただ、残念なことに、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後には、人はこれらのことから、造り主である神さまを認めることはしなくなってしまいました。
 先主日にお話ししましたが、イザヤ書45章18節では、神さまのことが、

 天を創造した方、すなわち神、
 地を形造り、これを仕上げた方、
 すなわちこれを堅く立てた方、
 これを茫漠としたものに創造せず、
 人の住みかにこれを形造った方、

と言われています。また、創世記1章2節では、神さまが創造の御業において最初に造り出された時の「」の状態が、

地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

と記されています。ここに出てくる「」の状態を示す「茫漠として」ということば(トーフー)は、イザヤ書45章18節に出てくる「茫漠としたもの」と同じことばです。それで、創世記1章2節のみことばは、この最初に造られた状態の「」がとても「人の住みか」とは言えない状態にあったことを示しています。しかし、このみことばは、「」がそのような状態にあった時に、

 神の霊が水の上を動いていた。

ことを示しています。「」がとても「人の住みか」とは言えない状態にあった時、すでに、神さまはこの「」にご臨在しておられました。その意味で、「」は「人の住みか」であるより前に、造り主である神さまが御霊によってご臨在される所、すなわち「神殿」としての意味をもっている所として聖別されています。
 そのようにして、この「」にご臨在しておられた神さまは、創造の御業の6日にわたって、この「」を「人の住みか」に形造っていかれました。神さまはこの「」を、明るく、暖かく、いのちにあふれ、実を豊かに結ぶ世界にお造りになりました。人が種を蒔けば、芽を出し、生長し、実を結ぶに至ります。それによって、さらに生き物たちのいのちが育まれます。これは、先主日にもお話ししましたように、この「」に愛といつくしみに満ちた神さまの御臨在があることの現れとしての豊かさです。ですから、この「」の豊かさは、愛といつくしみに満ちた神さまの御臨在をあかししています。
 このことは、神のかたちに造られた人が堕落した後においても汲み取ることができます。実際、詩篇65篇9節ー13節には、

 あなたは、地を訪れ、水を注ぎ、
 これを大いに豊かにされます。
 神の川は水で満ちています。
 あなたは、こうして地の下ごしらえをし、
 彼らの穀物を作ってくださいます。
 地のあぜみぞを水で満たし、そのうねをならし、
 夕立で地を柔らかにし、
 その生長を祝福されます。
 あなたは、その年に、御恵みの冠をかぶらせ、
 あなたの通られた跡には
 あぶらがしたたっています。
 荒野の牧場はしたたり、
 もろもろの丘も喜びをまとっています。
 牧草地は羊の群れを着、
 もろもろの谷は穀物をおおいとしています。
 まことに喜び叫び、歌っています。

と記されています。
 そうであるからこそ、神のかたちに造られた人は、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後も、この世界が明るく、暖かく、いのちにあふれていることに、神的なものの存在を感じ取り、神さまがお造りになって、用いておられる太陽を「神」として拝むようになってしまいました。また、人が蒔いた種が実を結ぶに至ることに、やはり、神的なものの働きを感じて、種まきや収穫の時などに、お祭りをしたりして、自分たちの考える「神」を拝んでしまっています。これがどのようなことであるかを、これまでお話ししたこととのかかわりで考えますと、造り主である神さまがご自身の御臨在の場として聖別しておられるこの「」において、神さまの御臨在をあかしする豊かさに満ちているこの「」において、偶像礼拝がなされているということです。

           * * *
 同じことは時間についても言うことができます。時間は神さまが歴史的な世界としてお造りになった、この世界の時間です。それで、時間は神さまの天地創造の御業とともに始まっています。決して、天地創造の御業の始まる前にも時間が流れていて、そこに神さまだけがおられて、ある時、天地創造の御業を開始されたということではありません。時間は創造の御業とともに始まり、創造の御業の行われる時としての意味をもっていました。このような創造の御業が遂行された間に流れた時間は、神さまがこの「」を神のかたちに造られた人の「人の住みか」として、明るく、暖かく、いのちにあふれ、豊かな実を結ぶ世界にお造りになった時間として、深く豊かな意味をもっていました。決して、無機的な時間が流れていたのではありません。
 そのことは、天地創造の御業そのものが終わった後も変わりません。神さまがお造りになったこの歴史的な世界の時間は、創造の御業が終わった後も、神さまがご自身の安息の時として祝福し、聖別された創造の御業の第7日として、今日に至るまで続いています。神のかたちに造られた人は、この創造の御業の第7日において、神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすように召されているのです。
 先週お話ししましたように、創造の御業において神さまがお造りになったものを祝福されたことは、3回記されています。そして、それはいのちの豊かさにかかわっています。ヨハネの福音書17章3節に、

その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

と記されていますように、神のかたちに造られた人のいのちは、神さまを知ることにあります。この場合の「知る」ことは、ヘブル的な意味においての「知る」ことで、神さまを生きた人格的な方として知ることであって、愛の交わりの中で知ることです。

 このことは、神さまが創造の御業の第7日をご自身の安息の時として祝福し、聖別してくださったことに深くかかわっています。神さまは創造の御業を終えて休まれました。それは、神さまが創造の御業を通してではなく、直接的に御顔を神のかたちに造られた人に向けてくださって、人をご自身との愛にあるいのちの交わりに生かしてくださるためです。聖書の中では、神さまの御顔を表すことば(パーニーム)と御臨在を表すことばは同じことばです。
 神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられ人は、創造の御業の第7日において、神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことをとおして、この「」にご臨在される神さまの愛といつくしみに満ちた栄光に触れることになります。そして、時に応じて、神さまの御臨在の御前に近づいて、神さまの御顔を仰ぎ見て、神さまを造り主として礼拝し、いっさいの栄光を神さまに帰するのです。
 先週お話ししましたように、あらゆる点において無限の豊かさに満ちておられる神さまは、永遠に変わることなく充足しておられます。愛を本質的な特性としておられる神さまは、その愛においてまったく充足しておられます。ともにまことの神であられ、無限、永遠、不変の栄光の主であられる御父と御子が、御霊による永遠の愛の交わりのうちに充足しておられるのです。また、知恵と力において無限、永遠、不変であられる神さまは、創造の御業を遂行されたからといって、お疲れになったわけではありません。その神さまが創造の御業の第7日を、ご自身の安息の時として祝福して、聖別されたのは、ひとえに、神のかたちに造られた人に御顔を向けてくださり、人をご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるようにしてくださるためでした。恐れ多いことですが、みことばの教えに導かれて、あえて次のように言わなければなりません。ご自身が神のかたちに造られた人に愛といつくしみを注いでくださり、人がご自身の御臨在の御許に近づいてご自身との愛にあるいのちの交わりにおいて生きることにおいて、神さまの安息が満たされるということです。
 神さまがそのような意味で、ご自身の安息の時として祝福し、聖別されたのが、創造の御業の第7日であったということは、この神さまの安息が、さらに、深く豊かなものとなるべきものであることを意味しています。これもあえて大胆に言わなければならないことですが、神さまが創造の御業の第7日をご自身の安息の時として祝福して、聖別されたと言われているときの、神さまの安息は、私たち主の民が神さまの栄光の御臨在の御許にもっと近づいて、さらに深く豊かな愛において神さまとの交わりに生きるようになることにおいて完成するようになるということです。そして、それは、人が、最初に神のかたちに造られた時の栄光より豊かな栄光をもつ者となることによって実現します。
 みことばの教えの全体から分かることを、結論的に言うことをお許しいただきたいと思います。神さまは、人が創造の御業において神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を遂行することにおいて、神さまのみこころに従いとおしたなら、そのことに対する報いとして、人を、最初に神のかたちとして造られた時の栄光より豊かな栄光に満ちたいのちをもつ者としてくださるということです。そのいのちが「永遠のいのち」です。このことを約束してくださったのが、一般に「わざの契約」と呼ばれている神さまの契約です。私たちは、それは神さまの創造の御業の中で、一方的な愛と恵みによって与えられた契約であるということから、「恵み」との対比で考えられている「わざ」ということばを避けて、「創造の契約」と呼んでいます。
 もし、人が神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を完全に果たして、神さまのみこころに従いとおしていたなら、人はそのことへの報いとして、より豊かな栄光を受けていたはずです。もしそうなっていたとしたら、人は最初に造られた時の神のかたちの栄光において、契約の神である主の御臨在の御前に近づいていた時より、さらに御臨在の御許に近づいて、神さまとの深く豊かな愛の交わりに生きる者、すなわち「永遠のいのち」をもつ者となっていたことでしょう。そして、より大切なことですが、もしそうなっていたとしたら、神さまの安息が完成されていたことでしょう。そのようにして、神さまが創造の御業の第7日をご自身の安息の時として祝福して聖別されたみこころは実現することになっていたはずです。
 そのことが実現するまでは、神さまの安息の完成は目指すべき目的です。それで、主の契約の民は、第7日を安息日として聖別して、その日に契約の神である主を、造り主として讃え礼拝するようにと命じられていました。

 けれども、実際には、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人が、こともあろうに、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。神さまは、ご自身のかたちに造られた人がご自身との愛にあるいのちの交わりに生きるようにと、エデンの園に御臨在してくださり、その愛といつくしみを惜しみなく注いでくださっていました。それは無限、永遠、不変の栄光の神である主の限りないへりくだりによる御臨在です。人はそこにご臨在してくださっている神である主との親しい愛の交わりのうちに生きていました。そのような祝福を受けていた人が、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったのです。人が神である主に対して罪を犯した原因についてはいろいろなことが考えられますが、この神である主の限りないへりくだりによる御臨在による主との親しい交わりにあずかっていくうちに、主が身近な方となり、自分たちとあまり変わらない存在であると感じられるようになったということが考えられます。いずれにしましても、これによって、神さまの安息はかき乱されてしまいました。
 永遠に無限の愛のうちに充足しておられる神さまの安息がかき乱されるということはどういうことでしょうか。私たちにはそのすべてが分かるわけではありません。一つだけ、確かなことは、神さまが私たちをそれほどの愛をもって愛してくださっているからだということです。先主日もお話ししましたように、私たち人間であっても、愛する人が傷ついたりしたら、私たちの心は乱されます。もし私たちが神さまにとってどうでもよい存在であったとしたら、神さまの安息が乱されるようなこともなかったのです。
 しかも、神さまは私たちをご自身の御臨在の御許に近づいて生きる者としてくださるために、ご自身の御子を、私たちの罪の贖いのために遣わされました。繰り返しお話ししてきましたように、御父と御子は永遠に無限の愛の交わりのうちにあって充足しておられます。父なる神さまは、そのようにして、無限の愛を注いでおられる御子を、私たちの罪を贖うためにお遣わしになったというのです。この137億光年の彼方にまで広がっているという広大な宇宙の点でしかないこの地球の、さらに点でしかない私たちを、再び、ご自身の栄光の御臨在の御許に近づいて、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者としてくださるために、ご自分の御子をお遣わしになったのです。それが、ヨハネがその福音書の3章16節であかししている、

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

ということの意味の一つです。
 永遠の神の御子イエス・キリストは、私たちの契約のかしらとなってくださるために、そして、私たちご自身の民のために罪の贖いを成し遂げてくださるために、私たちと同じ人としての性質をお取りになって、来てくださいました。そして、十字架の上で、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを、余すところなく受けてくださいました。これによって、私たちそれぞれの罪を完全に贖ってくださいました。
 そればかりではありません。御子イエス・キリストは、十字架の死に至るまで、完全に父なる神さまのみこころに従われました。そして、そのようにして父なる神さまのみこころに完全に従われたことへの報いとして、栄光を受けて、死者の中からよみがえられました。ピリピ人への手紙2章6節ー11節に、

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

と記されているとおりです。
 イエス・キリストは神のかたちに造られた人が神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて、完全に神さまのみこころに従っていたら受けたであろう、最初に神のかたちに造られた人の栄光より、さらに豊かな栄光をお受けになって、死者の中からよみがえられました。それは、ひとえに、私たちご自身の民をその復活の栄光にあずからせてくださるためのことです。ご自身の栄光のためということであれば、もともと御子は無限、永遠、不変の栄光の主ですから、栄光をお受けになる必要はありません。イエス・キリストがさらに豊かな栄光をお受けになって、死者の中からよみがえられたのは、それによって、私たちが最初に神のかたちに造られた人よりもさらに近く神さまの御臨在の御許に近づいて、さらに深く豊かな愛におけるいのちの交わりのうちに生きるようになるためです。ヘブル人への手紙では、そのことが、すでにイエス・キリストにおいて私たちの現実となっているとあかしされています。10章19節ー22節には、

こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。

と記されています。
 ここに出てくる「まことの聖所」とは、9章24節で「天そのもの」と言われている所で、そこに父なる神さまと栄光のキリストの御臨在があります。私たちはいま、地上にあって礼拝しています。けれども、私たちはこの天にある「まことの聖所」で仕えてくださっている栄光のキリストを大祭司として戴く御国の祭司として礼拝しています。その意味で、私たちの礼拝は天にある「まことの聖所」における礼拝に連なっています。
 これまでお話ししてきたことから、お分かりのことと思います。これによって、神さまが創造の御業の第7日を、ご自身の安息の時として祝福して、聖別してくださったことが、「原理的に」実現しています。「原理的に」実現しているというのは、その完全な実現は栄光のキリストが再び来てくださる日を待たなければなりませんが、その完全な実現のために必要なすべては、すでにイエス・キリストが成し遂げてくださっているということです。また、それで、その完全な実現
 このように、御子イエス・キリストが私たちご自身の民の罪を贖うために十字架にかかって死んでくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったことによって、創造の御業の第7日をご自身の安息の時として祝福して、聖別された神さまのみこころは、「原理的に」実現しています。私たちにこの上ない愛といつくしみを注いでくださった神さまの安息は「原理的に」完成しています。それで、私たちはイエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえられた「週の初めの日」を「主の日」と呼んで、この日に「大胆にまことの聖所に入」って、栄光の主の御臨在の御許に近づいて、父なる神さまと御子イエス・キリストを礼拝しているのです。


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