黙示録講解

(第107回)


説教日:2013年2月10日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章9節ー20節
説教題:栄光のキリストの顕現(8)


 黙示録1章9節ー20節には、栄光のキリストがご自身の御姿を、黙示録の著者であるヨハネに現してくださったことが記されています。
 ヨハネは4節に記されていることばで言いますと「アジヤにある七つの教会」、すなわち、11節に記されている「エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤ」にある教会の牧会者でした。けれども、この時は、9節に記されていますように、ローマ帝国からの迫害を受けて「パトモスという島」に流刑となっていました。
 10節には、

 私は、主の日に御霊に感じた

と記されています。
 先週は、ここに出てくる「主の日」についてお話ししました。ごく簡単に、振り返っておきましょう。
 ことばとしては、「主の日」ということばは新約聖書の中には、ここに出てくるだけです。これは、新約聖書のほかのいくつかの個所に出てきます「週の初めの日」、すなわち、日曜日のことです。
 「週の初めの日」が「主の日」と呼ばれているのは、その日に、イエス・キリストが栄光をお受けになって死者の中からよみがえられたからです。初代教会の信徒たちは、イエス・キリストが十字架におかかりになって、私たち主の民のために罪の贖いを成し遂げてくださってから、栄光をお受けになって死者の中からよみがえられたことを覚えて、「週の初めの日」に集って、神さまを礼拝していました。そして、ヨハネは、この黙示録1章10節において、この意味での「週の初めの日」を「主の日」と呼んでいます。
 今日、私たちが日曜日のことを「主の日」と呼んでいるのは、この黙示録1章10節に記されているみことばに基づいています。この「主の日」が主を礼拝する日としての意味合いで日曜日を表すことは、新約聖書では黙示録1章10節に見られるだけですが、第2世紀においては、一般的な用語となっていたと言われています。


 これらのことを踏まえた上で、きょう取り上げたいのは、旧約聖書に出てくる安息日のことです。
 安息日の起源は神さまの天地創造の御業にあります。神さまの天地創造の御業のことを記している創世記1章1節ー2章3節の最後の部分である、2章1節ー3節には、

こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。

と記されています。
 そして、このことを受けて、十戒の第4戒を記している出エジプト記20章8節ー11節には、

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も――それはが六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。

と記されています。
 11節に、

それはが六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。

と記されていますように、また、創世記1章1節ー2章3節に記されています天地創造の御業の記事から分かりますように、神さまは天地創造の御業を六つの日にわたって遂行されました。この六つの日は創造の御業の日ですので、私たちが住んでいる地上の日と同じというわけではありません。創造の御業の日は24時間であると主張しておられる方々もたくさんおられますが、私は、いくつかの理由によって、24時間よりは長いと理解しています。その理由の一つは、後ほどお話しします、創造の御業の第7日の長さです。
 神さまはその無限の知恵と無限の御力によって、一瞬で、この大宇宙のすべてを造り出すことがおできになります。けれども、神さまは創造の御業の六つの日にわたる御業によって、この世界をお造りになりました。そのことには大切な意味がありますその意味について考えるために、神さまの天地創造の御業の記事に記されていることを見てみましょう。
 創世記1章1節には、

 初めに、神が天と地を創造した。

と記されています。
 これは、1章1節ー2章3節に記されています、神さまの天地創造の御業の記事全体をまとめる見出し文です。「天と地」ということばは、「メリスムス」という表現の仕方で、日本語にも見られます。「老いも若きも」というと「すべての人」を表し、「昼も夜も」というと「いつも」を表すのと同じように、この世界の「すべてのもの」を表しています。しかも、「天と地」というように、秩序立てられたこの世界のすべてのもののことで、今日のことばで言う「宇宙」に当たります。ですから、1節の、

 初めに、神が天と地を創造した。

という見出し文は、神さまがこの世界のすべてのものを、まったき調和のうちにあるものとしてお造りになったことを示しています。
 2節には、

地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

と記されています。
 この2節の冒頭には、新改訳には訳されていない、離接的な接続詞があります。これを生かして訳しますと、

 さて、地は

となります。これは、神さまの天地創造の御業を記している記事の焦点が、いま私たちが住んでいるこの「」に合わされていることを示しています。もちろん、天地創造の御業はこの大宇宙全体にわたって遂行されていたのですが、2節以下に記されている天地創造の御業の記事においては、その関心は、もっぱらこの「」に注がれているということです。そして、その他の天体のことも、この「」との関わりで触れられているだけです。
 そのようにして、2節においては、神さまが最初に造り出された時の「」の状態が、

地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

と記されています。神さまはこのような最初に造られた状態の「」から始めて、創造の御業の六つの日にわたって、この地を形造り、整えていかれました。そして、イザヤ書45章18節に、

 天を創造した方、すなわち神、
 地を形造り、これを仕上げた方、
 すなわちこれを堅く立てた方、
 これを茫漠としたものに創造せず、
 人の住みかにこれを形造った方、

と記されていますように、神さまはこの「」を「人の住みか」に形造られたのです。
 このことから分かりますように、神さまの天地創造の御業自体が、六つの日にわたって進展してていき、神さまが目的としてお定めになったことを実現するようになる御業でした。その意味で、神さまの天地創造の御業そのものが歴史的な御業でした。このこととの関わりで申しますと、ただ物事が移り変わっていくということだけでは、「歴史的」とは言えません。それが目的に向かって進展していき、そのために、その一つ一つの段階に意味がある場合に、それは歴史的なことになります。神さまの天地創造の御業そのものは、そのような意味で、歴史的な御業でした。そして、そのような御業によって造り出されたこの世界も、歴史的な世界です。
 創造の御業の第6日の最後のことを記している1章31節には、

神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。

と記されています。これによって、神さまがこの世界を造り出し、形造って、整えていかれた創造の御業が終わっていることが示されています。このように神さまは、ご自身の目から見ても、

 見よ。それは非常に良かった。

とされる世界をお造りになりました。
 けれども、そのようにしてお造りになった世界を放置されたのではありません。2章1節ー3節に、

こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。

と記されていますように、創造の御業の第7日を祝福し、聖別されました。

 創造の御業の記事の中では、神さまがお造りになったものを祝福されたことは3回記されています。その一つは、いま引用しましたみことばに示されていますように、神さまが創造の御業の第7日を祝福されたことです。それは、天地創造の御業の最後になされたことです。最初の祝福のことは1章21節ー22節に、

神は、海の巨獣と、種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神はそれを見て良しとされた。神はそれらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ。」

と記されています。これは最初にいのちのあるものが造り出された時のことです。神さまはそれ以前に、種をもって実を結ぶ植物が芽生えて実を結ぶようにしておられます。私たちは植物が芽生えて実を結ぶようになることは神さまの祝福によっているということを知っています。けれども、創造の御業においては、植物への祝福のことは記されてはいません。いわば、神さまが祝福されることは、いのちのあるものが造られる時まで取っておかれました。このことにおいて、創造の御業における神さまの祝福が「いのちの豊かさ」に関わっていることが示されています。
 この後、神さまは動物や地をはう生き物などをお造りになりますが、それらの生き物たちは、先ほどの、最初の祝福のうちにあるものとして造られていると考えられます。
 さらにその後。神さまは人をご自身のかたち、神のかたちにお造りになって、祝福してくださっています。1章27節ー28節に、

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されているとおりです。これも、人のいのちの豊かさに関わっています。
 人は愛を本質的な特性とする神さまのかたちに造られています。それで、神のかたちに造られた人も、愛という人格的な特性をもつものとして造られています。そして、その人のいのちの本質は造り主である神さまとの愛の交わりのうちにあります。それで、この神さまの祝福は、神さまとの愛の交わりの豊かさに関わる祝福です。しかし、一見したところ、ここには、そのようなことは記されていないように見えます。それで、それがどのようなことかお話ししたいともいます。
 28節に記されている神さまの祝福の最初のことばは、

 生めよ。ふえよ。地を満たせ。

というものです。これは、先ほど引用しました22節に記されている、

 生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ

という生き物たちへの祝福と共通しています。
 生き物たちへの祝福はこれで終わりますが、神のかたちに造られた人への祝福はさらに続いています。神さまは、

地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

と言われました。
 この祝福のみことばについては、いろいろな議論を省いて、結論的なこと、また、いまお話ししていることと関連していることだけをお話しします。
 これは、神さまの創造の御業におけることですので、人類が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまう前のことです。それで、ここに出てくる「従えよ」とか「支配せよ」ということばには、罪の自己中心性がもたらす、自分の利益のためにほかのものを搾取するというような意味合いはありません。聖書のみことばは一貫して、本来の意味での「治める」とか「支配する」ということは、上から押さえつけることではなく、むしろ、今日のことばで言うなら、「仕える」ことにあるとを教えています。
 実際に、創世記2章には、

 地を従えよ。

と命じられた人が「地を」耕していたこと、具体的には、人がおかれたエデンの園を耕していたことが記されています(15節)。また、生き物たちを支配するようにと命じられた人が、生き物たちとの親しい関係を築き上げたことが記されています。人が生き物たちの名を付けたこと(19節ー20節)は、生き物たちとの関係を築いたことを意味しています。それは、明白に記されているわけではありませんが、生き物たちのお世話をするようになることにつながっていくことです。どういうことかと言いますと、人は地を耕していました。それによって、より多くの収穫がもたらされ、生き物たちのいのちがより豊かに支えられるようになります。それは、神のかたちに造られた人が、その本質的な特性である愛を表現することでもあります。
 しかし、神のかたちに造られた人に与えられた祝福において委ねられた使命は、それで終わるものではありません。神のかたちに造られた人のいのちの本質は造り主である神さまとの愛の交わりのうちにあります。造り主である神さまとの交わりの中心は、神さまを造り主として礼拝し、讃えることにあります。神のかたちに造られた人は、この地に働きかけて、造り主である神さまが地に与えられたさまざまな豊かさを発見し、その都度、造り主である神さまの知恵と御力といつくしみをほめたたえ、神さまを礼拝します。また、さまざまな生き物たちと触れ合うことによって、生き物たちの生態の多様さや不思議さなどを発見するようになります。これらのことをとおしても、やはり、造り主である神さまの知恵と御力といつくしみをほめたたえ、神さまを礼拝します。
 さらに、そのように、造り主である神さまへの礼拝をとおして、神さまへの愛を現していくことによって、さらには、神さまがお造りになったものたち、特に、同じく神のかたちに造られている人への愛を、具体的な形で現していくことによって、人は、自分自身が愛において成長し、愛の豊かな者となっていきます。それによって、愛を本質的な特性とする造り主である神さまを、見える形で現し、あかしするようになるのです。
 神さまは物質的な方ではありませんから、目には見えません。私たちに見えるということは、光を反射して、私たちの網膜に像を結ぶということです。そのようにして見えるものは物質的なものです、物質的なものは広がりがありますので、光を反射します。しかし、広がりがあるものには、また、限りがあります。物質的なものはこの造られた世界のものであり、時間とともに経過するものです。この世界をお造りになった神さまには物質的な要素はありません。ですから、神さまは目で見ることはできません。けれども神さまは、見えない神さまを見える形で映し出す存在をお造りになりました。それが、神のかたちに造られた人です。愛を本質的な特性とする神のかたちに造られた人は、見えない神さまを、被造物としての限界の中にあってではありますが、見える形で映し出す存在であるのです。それは、より具体的には、創造の御業において与えられた祝福において委ねられた使命を果たす中で、神さまを礼拝することと中心として、愛を具体的に現していくことによっています。神さまを礼拝することによって、そこに神さまがご臨在しておられることをあかしします。また、自分自身が神のかたちの本質的な特性である愛において成長し、成熟することによって、愛であられる神さまをより豊かに映し出すようになるのです。
 いずれにしましても、神さまが創造の御業において神のかたちに造られた人に与えられた、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という祝福は、人を、造り主である神さまを礼拝することを中心として、愛を具体的な形に現すことにおいて、見えない神さまを写し出すように召しているものです。
 大切なことは、そのことが、一時的なことで終わらず、

 生めよ。ふえよ。地を満たせ。

という祝福のみことばが示すとおり、子々孫々と受け継がれていって、神さまがお造りになったこの歴史的な世界の歴史を造り出していくということです。その意味で、神さまが創造の御業において神のかたちに造られた人に与えてくださった祝福において委ねられた使命を、私たちは、この歴史的な世界の「歴史と文化を造る使命」と呼んでいます。これは、一般的には「文化命令」と呼ばれていますが、基本的には、歴史を造る使命です。
 先ほど、神さまは天地創造の御業の最後に、創造の御業の第7日を、ご自身の安息の日として祝福して、聖別されたということをお話ししました。その創造の御業の第7日はまだ閉じてはいません。創造の御業の記事においては、第6日までは、それぞれの日について、

 夕があり、朝があった。第・・・日。

という結びのことばがありますが、第7日にはそれがありません。創造の御業の第7日は、今日に至るまで続いている時です。神のかたちに造られた人は、創造の御業において、神さまがご自身の安息の時として祝福し、聖別された創造の御業の第7日において、造り主である神さまから委ねられた、この歴史的な世界の「歴史と文化を造る使命」を果たすように召されているのです。それは、造り主である神さまを神として礼拝することを中心として、神のかたちの本質的な特性である愛を具体的に現すことによって、見えない神さまを写し出す歴史であり、文化です。

 このことを、さらに別の観点から見てみましょう。
 先ほど引用しましたように、天地創造の御業が始められて最初に造り出された「」の状態を記している1章2節には、

地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

と記されています。これは、やはり先ほど引用しましたイザヤ書45章18節に記されているみことばと比べますと、この時の「」は、とても「人の住みか」とは言えない状態にあったことを意味しています。けれども、「」がいまだそのような状態にあった時に、

 神の霊が水の上を動いていた。

と言われています。そのような状態にあった「」に、すでに、「神の霊」がご臨在しておられました。御霊によって、神さまがご臨在しておられたのです。その意味で、この「」は「人の住みか」に形造られる前に、造り主である神さまがご臨在される所として聖別されていました。神さまはこのようにご自身がご臨在される「」を「人の住みか」に形造られました。
 「」は明るく、暖かく、澄んでおり、変化に富んでおり、多種多様の植物が芽生え育ち、それらによって支えられている多種多様のいのちあるものが生息しています。神さまはこのような豊かさに満ちた「」を「人の住みか」としてくださいました。その意味で、神のかたちに造られた人は豊かな祝福にあずかっています。
 けれども、これが神のかたちに造られた人が受けている祝福のすべてではありません。いまお話ししましたようなこの「」の豊かさは、この「」に造り主である神さまが、御霊によってご臨在しておられることの現れとしての豊かさであるのです。この「」は御霊によって造り主である神さまがご臨在される所、すなわち「神殿」としての意味をもっています。
 このように神さまは、ご自身がご臨在される所であるこの「」を「人の住みか」としてくださいました。創世記2章7節には、

神であるは土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。

と記されています。ここには、神さまが擬人化され、特に、陶器師の表象において表されています。このことから、批評家たちによって、この記事はより原始的な低い神観を示していると言われてきました。これに対して、1章1節ー2章3節の記事は高度の神観を示していると言われてきました。しかし、これは決して低い神観を反映しているのではなく、神さまがこの「」に親しくご臨在されて、神のかたちに造られた人と人格的に、親しく関わってくださって、人を神のかたちにされたことを示しています。神さまが「」にご臨在されて創造の御業を遂行されたことは、すでに、1章2節に示されています。
 このようにして、神のかたちに造られた人は、造られたその時から、神である主の御臨在の御前にありました。人が最初に意識したことは、そこにご臨在しておられる神さまであったはずです。神のかたちに造られた人はこの神である主の御臨在の御前にあり、主を神として礼拝することを中心として、委ねられた、この世界の歴史と文化を造る使命を果たしていく者であるのです。
 このように、神のかたちに造られた人は、初めから、造り主である神さまのご臨在されるこの「」に住まう者として、造り主である神さまを礼拝し、いっさいの栄光を神さまに帰することを中心として、この世界の歴史と文化を造る使命を果たす者でした。

 神のかたちに造られた人が、この「」にご臨在される主の御前において、主を神として礼拝することを中心として、この世界の歴史と文化を造る使命を果たすことによって、この世界が神さまのご栄光をより豊かに映し出す世界となっていきます。それが、被造物としての限界の中でではありますが、見えない神さまをこの世界において映し出すということです。それはまた、神のかたちに造られた人が、神さまとの愛にあるいのちの交わりを、より豊かなものとしていただくという、祝福にあずかることでもあります。
 このことが、神さまの安息と深く関わっています。
 神さまはあらゆる点において無限、永遠、不変の栄光の主です。神さまはあらゆる点において、永遠に、また、完全に充足しておられます。
 私たちは三位一体の神さまを信じています。しかし、もし神さまが一位一体であったとしたらどうなるでしょうか。無限、永遠、不変の人格は一つしかないということになります。そうしますと、神の本質的な特性は愛であるといっても、その神には、対等に向き合って愛する相手がいないということになります。無限の愛を余すところなく注ぐことができる相手がいないことになります。しかし、実際には、そのようなことはありません。ヨハネの福音書1章1節ー2節に、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。

と記されています。これも結論的なことだけですが、この、

 ことばは神とともにあった。

というみことばは、「ことば」であられる御子イエス・キリストが、永遠に、父なる神さまとの完全な愛の交わりのうちに充足しておられることを意味しています。
 そして、続く3節には、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と記されています。永遠に、父なる神さまとの完全な愛の交わりのうちに充足しておられる「ことば」であられる御子イエス・キリストが、創造の御業を遂行されたことが示されています。これによって、神さまが御子によって、その愛をご自身の外に向けて表現されたことが示されています。それが天地創造の御業の中心にある意味です。
 あらゆる点において無限の豊かさに満ちておられて完全に充足しておられる神さまが、人をご自身のかたちにお造りになって、これに豊かな愛を注いでくださいました。私たち人間の愛のことを考えても、本来、愛はより深くなっていくものです。私たちは愛する人をもっとよく知りたいと思うようになりますし、もっと深く愛したいと願います。そうであれば、当然、神さまの愛は「現状維持」ではなく、生き生きとした愛として、より深く豊かに現されるようになっていくものでした。神さまの愛は常に豊かなものですが、それを受け止める私たち人間には、成長が必要です。赤ちゃんはお父さんやお母さんの愛を感じ取っています。けれども、その子が成長して、お父さんやお母さんについていろいろなことが分かってくると、お父さんやお母さんがどのように自分を愛してくれているかを、より具体的なことをとおして、知ることができるようになっていきます。それと同じように、神のかたちに造られた人は、自分自身が愛において成長し成熟することによって、神さまの愛をより豊かに受け止めることができるようになります。それによって、神さまとのより深く豊かな愛における交わりが実現します。
 天地創造の御業における神さまの安息は、このことにかかっています。それはひとえに、神さまが私たち神のかたちに造られた人を愛してくださったからです。私たちであっても、愛する人との交わりによって喜びに満たされ、人として充足します。愛する人に何か不幸なことがあれば、私たちの充足、安息は乱されます。私たちは、このことを手がかりとして、神さまの安息の意味を考えることができます。
 神さまの愛を受けて、神のかたちに造られた人が愛においてさらに豊かになり、神のかたちとして成長し、成熟することによって、まずます神さまとの愛の交わりを深く、豊かなものとしていくことが、神さまにとっての安息を意味しています。そのことを考えますと、神のかたちに造られた人がご自身に背いて、罪を犯し、死と滅びの道を歩むようになった時に、神さまの安息がどれほど乱されたことか、想像することができます。
 神さまが創造の御業の第7日を祝福して、ご自身の安息の時として聖別してくださったことは、神さまが神のかたちにお造りくださった人、私たちを愛してくださったことによっています。神さまは私たちがご自身とのさらに豊かな愛の交わりのうちに生きるようになることをもって、ご自身の安息が完成するようになるというみこころを、創造の御業の第7日を祝福し、ご自身の安息の時とされたことにおいて示しておられます。そして、これが天地創造の御業の第7日のことであるということは、この神さまの安息が、いまだ完成していなくて、完成に向かっているということを意味しています。
 これが天地創造の御業において、神さまが創造の御業の第7日を祝福して聖別されたことの意味です。また、これが神さまの安息のことを理解する上で最も基本的なことです。そして、このことを覚えて、モーセ律法では、週の第7日を安息日として聖別するようにと命じられていました。
 それが、イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえられたことによって、「週の初めの日」に変わったことには、大きな意味があります。それについては改めてお話しします。


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