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説教日:2013年2月3日 |
きょうは、これに続いて記されています「主の日に」ということについてお話しします。とはいえ、きょうは、その一つの基本的なことしかお話しできません。 今日の私たちは日曜日のことを「主の日」と呼んでいますが、その出発点がここにあります。 「主の日」ということばは新約聖書の中では、ここに出てくるだけです。この「主の日」ということばが何を意味しているかにつきましては、いくつかの見方があります。結論的には、これは、私たちが今日用いていますように、日曜日のことを指しています。[注] [注]一つだけ別の見方を紹介しておきますと、旧約の預言者たちが、主が救いとさばきの御業を執行される日を「主の日」と呼んでいます(イザヤ書2章12節、13章6節、9節、エゼキエル書13章5節、30章3節、ヨエル書1章15節、2章1節、11節、3章14節、アモス書5章18節、20節、オバデヤ書15節、ゼパニヤ書1章7節、14節、14章1節など)。この見方は、その意味での「主の日」、特に、「終わりの日」のことであるという見方です。 けれども、ここ(黙示録1章10節)で用いられている「主の日」ということば(キュリアケー・ヘーメラ[「キュリアケー」は形容詞])は、旧約聖書のギリシャ語訳である七十人訳に出てくる「主の日」ということば(ヘーメラ・キュリウー[冠詞はついていたりついていなかったりしていて、一定していません。「キュリウー」は名詞の属格])と違っています。 日曜日すなわち「週の初めの日」が「主の日」と呼ばれているのは、その日に、イエス・キリストが栄光をお受けになって死者の中からよみがえられたからです。マタイの福音書28章1節ー7節には、 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」 と記されています。同じことは、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書にも記されています。 ヨハネの福音書20章11節ー23節には、その日に、イエス・キリストがマグダラのマリヤや弟子たちにご自身を現されたことが記されています。特に、19節ー23節には、 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」 と記されています。 ここに記されていることと、使徒の働き2章に記されている聖霊降臨節(ペンテコステ)の日の出来事との関係につきましては、いろいろと論じられています。ヨハネがこの福音書を記した時には、すでに、聖霊降臨節の日の出来事は起こっていましたから、ヨハネはここでイエス・キリストがなさったことと聖霊降臨節の日に起こったことを混同したり、対立するものとして記しているとは考えられません。 イエス・キリストはここで、ご自身が十字架の死による罪の贖いを成し遂げられた後、栄光をお受けになって、死者の中からよみがえられたことによって、ご自身が御霊をお遣わしになられる方となられたことをお示しになったと考えられます。イエス・キリストが父なる神さまの御許にお帰りになってから、御霊をお遣わしになることは、すでに、ヨハネの福音書14章ー16章に記されているイエス・キリストの教えの中に示されていたことです。たとえば、15章26節には、 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。 と記されていますし、16章7節には、 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。 と記されています。それで、この時、イエス・キリストは、そのこと、すなわち、イエス・キリストが父なる神さまの御許から御霊を遣わしてくださることが、ご自身の死者の中からのよみがえりによって、すでに、現実のこととなっていることをお示しになったということです。 今お話ししていることとの関わりで大切なことは、このことが、「週の初めの日」起こったということです。 ちなみに、聖霊降臨節の日のことを記している使徒の働き2章の1節ー4節には、 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。 と記されています。この「五旬節」(ペンテコステ)がいつのことかについては、第1世紀のユダヤ教の中でも解釈が別れていたようです。「五旬節」はもともとモーセ律法に定められている「七週の祭り」(レビ記23章15節ー16節)です。サドカイ派の解釈によりますと、この日はいつも週の同じ日で、日曜日に当たります。ところが、パリサイ派の解釈によりますと、この日は月の同じ日で、週の日はまちまちになります。イエス・キリストが十字架におかかりになったのは紀元30年頃のことです。そして、エルサレム神殿が崩壊したのが70年のことです。エルサレム神殿が崩壊するまでは、サドカイ派の解釈が規範的であったということから、初期のクリスチャンたちは、聖霊降臨節は「週の初めの日」であったと考えていたようです(Bruce, Acts, p.49, n.3)。 また、新約聖書は、弟子たちが「週の初めの日」に礼拝のために集まっていたことを示しています。使徒の働き20章7節には、 週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。 と記されています。これは新約聖書の中で、クリスチャンたちが「週の初めの日」に礼拝のために集まっていたことを示す、最初の記事です。 これは7節に記されていますが、その前の6節には、 種なしパンの祝いが過ぎてから、私たちはピリピから船出し、五日かかってトロアスで彼らと落ち合い、そこに七日間滞在した。 と記されています。ですから、これはトロアスにあった教会のことを記しています。トロアスは今日の小アジアの北西部にあるエーゲ海沿いの港町です。この町は「ムシヤ」地方にあったと言われていますが、「ムシヤ」は「アジヤ」州に属したり、独立した州になったりしていたようです。パウロは第2次伝道旅行の際に、ここトロアスでマケドニア人の幻を見て、マケドニアに渡りました(使徒の働き16章8節ー11節)。 使徒の働き20章7節は、新約聖書の中で、クリスチャンたちが「週の初めの日」に礼拝のために集まっていたことを示す最初の記事ではありますが、クリスチャンたちは、もっと早い時期に、「週の初めの日」に礼拝のために集まっていて、それが、ここトロアスにおいても行われていたということを示しています。 ここで パンを裂くために集まった と言われているのは、広い意味での交わりのための食事のことで、その中で、主の晩餐がなされたという意味であると考えられています(Bruce, Acts, p.384)。いずれにしましても、この記事から、主の民が「週の初めの日」に礼拝のために集まっていたと考えることができます。 パンを裂くための集まりのことは、それが何曜日のことであるかは記されていませんが、使徒の働き2章42節に、 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。 と記されています。これは聖霊降臨節の日に新しい契約の下での教会が誕生して間もない時のことです。 さらに、コリント人への手紙第一・16章1節ー4節には、 さて、聖徒たちのための献金については、ガラテヤの諸教会に命じたように、あなたがたにもこう命じます。私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。私がそちらに行ったとき、あなたがたの承認を得た人々に手紙を持たせて派遣し、あなたがたの献金をエルサレムに届けさせましょう。しかし、もし私も行くほうがよければ、彼らは、私といっしょに行くことになるでしょう。 と記されています。ここからはいろいろなことが読み取れますが、今お話ししていることとの関わりでは、コリントにある教会においても、「週の初めの日」が礼拝のための日として覚えられていたということです。 これらのことから、初代のクリスチャンたちは「週の初めの日」に集って、主を礼拝していたことが分かります。それは、人となって来てくださった神の御子イエス・キリストが、私たちご自身の契約の民のために十字架におかかりになって、罪の贖いを成し遂げてくださり、栄光をお受けになって死者の中からよみがえられたことに基づいています。 改めてお話ししますが、イエス・キリストが栄光を受けてよみがえられたことは、新しい時代、来たるべき時代の始まりを告げる出来事です。イエス・キリストの復活のからだは、神さまのより豊かな栄光の御臨在のある新しい時代、来たるべき時代に属しています。そして、この新しい時代、来たるべき時代を生み出し特徴づけているのが、栄光のキリストが父なる神さまの御許から遣わしてくださった御霊です。 私たちご自身の契約の民のために十字架におかかりになって、私たちの罪を贖ってくださってから、栄光を受けてよみがえられたイエス・キリストは、父なる神さまの御許に上られました。そして、そこから御霊を遣わしてくださいました。聖霊降臨節の日に起こったことの意味を説明しているペテロのことばを記している使徒の働き2章33節に、 ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。 と記されているとおりです。このように、栄光のキリストによって遣わされた御霊は、栄光のキリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになります。 コリント人への手紙第一・15章45節には、 聖書に「最初の人アダムは生きた者となった」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。 と記されています。 このコリント人への手紙第一・15章には、私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださったイエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえられたことについて記されています。それで、ここで、 最後のアダムは、生かす御霊となりました。 と言われているときの「最後のアダム」は、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストのことです。何気なく読みますと、栄光のキリストが「御霊」に変化してしまわれたかのように思われます。もちろん、ここで言われていることは、そのようなことではありません。これは、「生かす」お働きにおいて、栄光のキリストと栄光のキリストがお遣わしになった御霊が一つとなって働かれることを示しています。ですから、 最後のアダムは、生かす御霊となりました。 というみことばは、栄光のキリストが、御霊によって、私たちを復活のいのちによって生かしてくださることを意味しています。 このような意味で、栄光のキリストが御霊と一つになっておられることは、ローマ人への手紙8章9節ー11節にも示されています。そこには、 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。 と記されています。 ここでは、「神の御霊」が私たちのうちに住んでおられることが示されています。9節では、 もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら と言われています。これは仮定法ですが、ギリシャ語の仮定法にはいくつかの意味合いがあります。この場合は、実際にそうであるということを伝えています。それを生かして訳せば、 神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるのですから となります。同じことは、この後の10節に出てくる、 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、 ということばにも、また11節に出てくる、 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら ということばにも当てはまります。すべて「あなたがた」と言われているローマにある教会の信徒たちのうちに御霊が住んでおられることを踏まえています。9節後半では、 キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。 と言われています。この場合は、そのような「人は」(ティス)ということで、「あなたがた」とは区別されています。 今お話ししていることとの関連で注目したいのですが、9節では、 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。 と言われていますように、同じ「御霊」が「神の御霊」と呼ばれているとともに「キリストの御霊」とも呼ばれています。また、9節で、 神の御霊があなたがたのうちに住んでおられる と言われていることが、10節では、 キリストがあなたがたのうちにおられる と言われています。 聖霊降臨節の日に、栄光のキリストが父なる神さまの右の座から遣わしてくださったのは神の御霊ですが、その御霊は「キリストの御霊」としてお働きになります。それで、神の御霊が私たちのうちに住んでおられることと、私たちが「キリストの御霊」をもっていることと、「キリストが」私たちのうちにおられることは同じことです。それはまた、「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が」私たちのうちに住んでおられるということでもあります。 11節で、 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。 と言われていることは、からだのよみがえりのことを述べていますから、また、 あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。 と言われているときの「生かしてくださる」という動詞も未来時制ですから、終わりの日に起こることです。これに対して、コリント人への手紙第一・15章45節において、 最後のアダムは、生かす御霊となりました。 と言われていることは、その終わりの日のことも含みますが、同時に、それはすでに私たちの間の現実になってもいます。栄光のキリストは、御霊によって、私たちをご自身と一つに結び合わせてくださり、ご自身の死とよみがえりにあずからせてくださって、私たちを新しく生まれさせてくださっています。私たちは、すでに、復活のいのち、永遠のいのちに生きるものとしていただいています。この永遠のいのちは、ただ単に、いつまでも続くいのちということではありません。そのいのちの質が大切なのです。永遠のいのちの本質は、神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛の交わりのうちに生きることにあります。 栄光のキリストは「生かす御霊」として、今ここにいる私たちを、この永遠のいのちに生きる者としてくださっています。そして、終わりの日には、再び来られて、私たちのからだを栄光のからだ、復活のからだによみがえらせてくださいます。 このように、聖霊降臨節の日に、栄光のキリストが父なる神さまの右の座から御霊を遣わしてくださったことによって、御霊は「キリストの御霊」として私たちのうちに住んでくださいます。それは、私たちが神さまがお住まいになっておられる神殿としての意味をもっているということでもあります。 コリント人への手紙第一・3章16節ー17節には、 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。 と記されています。 ここでは、複数の「あなたがた」が、単数の「神の神殿」であると言われています。言い換えますと、キリストのからだである教会が「神の神殿」であるということです。この場合の「神殿」と訳されていることば(ナオス)は、神殿の建物全体のことではなく、その中心にある、主がご臨在しておられる「聖所」を表すことばです。それで、 神の御霊があなたがたに宿っておられる と言われています。 また、同じコリント人への手紙第一・6章19節には、 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。 と記されています。 ここで「あなたがたのからだ」と言われているときの「からだ」は単数形です。ですから、私たちそれぞれの「からだ」が「神から受けた聖霊の宮」であると言われています。また、ここで「宮」と訳されていることば(ナオス)も、主がご臨在しておられる「聖所」を指すことばです。ですから、私たちそれぞれのうちには「神から受けた聖霊」がご臨在しておられると言われています。 神さまの神殿は、そこに神さまが御霊によってご臨在しておられる所です。そこでは、神さまへの礼拝がささげられます。そして、神さまへの礼拝を中心とした、主の民の交わりがあります。 このように、栄光のキリストのからだである教会が、神さまが御霊によって御臨在してくださる神殿として生み出されたのは、イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえられたことに基づいています。そして、聖霊降臨節の日に、栄光のキリストが御霊を遣わしてくださったことによって実現しています。それで、初代のクリスチャンたちは、このことを覚えて、「週の初めの日」すなわち「主の日」に集って、神さまを礼拝し、お互いの間の交わりをもっていました。 黙示録1章10節において、ヨハネは、 私は、主の日に御霊に感じた と述べています。それが「主の日」に起こったということがわざわざ記されていることは、ヨハネが、これまでお話ししてきましたような意味で、御霊によってご臨在してくださっている神さまを礼拝していたということを意味しています。そのヨハネに、栄光のキリストがご自身を現してくださり、「今ある事、この後に起こる事」を啓示してくださいました。 このことを考えますと、ヨハネがこの時に受けた啓示を記している黙示録が、神さまと栄光のキリストへの礼拝に満ちていることが了解されます。黙示録では、神さまの救いとさばきの御業が遂行されていくことと、それにしたがって、天において神さまと小羊とに礼拝と讃美がささげられていくことが、織り合わされるように記されています。 |
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