黙示録講解

(第105回)


説教日:2013年1月27日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章9節ー20節
説教題:栄光のキリストの顕現(6)


 黙示録1章9節ー20節には、イエス・キリストがご自身の栄光の御姿を黙示録の著者であるヨハネに現してくださったことが記されています。
 これまで、9節に記されています、

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

というみことばについて、いろいろなことをお話ししてきました。
 きょうは、これに続いて10節ー11節に記されています、

私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」

というみことばについてお話しします。
 9節に記されていますように、この時、ヨハネはローマ帝国からの迫害を受けて、「パトモスという島」に流刑となっていました。
 11節には「エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤ」にある教会のことが出てきます。4節では「アジヤにある七つの教会」と呼ばれています。これらの教会のことはすでにいくつかのことをお話ししましたが、振り返りつつ、補足をしておきたいと思います。これらはヨハネが牧会者として仕えていた教会です。これら七つの町はローマの属州であるアジアで、今日の小アジアにありました。今日の小アジアにはその他の属州もありましたが、西部のエーゲ海寄りの地域が「アジヤ」です。これには、エーゲ海沿岸のさまざまな島も含まれています。
 ローマの属州としましては、今日の小アジアのいちばん西にあるのが「アジヤ」ですが、その東には、北部のビテニヤとポント、その南のガラテヤ、パンフリヤ、さらにその奥(東)にはカパドキヤや(パウロが生まれたタルソがある)キリキヤなどがありました。ちなみに、ペテロの手紙第一・1章1節には、

イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している、選ばれた人々

と記されています。今日の小アジアにあったいくつかの属州に「散って寄留して」いた人々です。
 これらの教会が存在していた「アジヤ」の地域には、これらの教会以外にも、コロサイやヒエラポリス(コロサイ人への手紙4章13節に出てきます)にある教会などもありました。それで、ヨハネは黙示録に出てくる七つの教会以外の教会の牧会者でもあったと考えられます。またローマの属州である「アジヤ」にあった町としても、これら七つの教会のうちのいくつかのものよりも重要な町もありました。それらの町にも教会があった可能性があります。
 そのような中で、どうしてこれら七つの教会が選ばれているかにつきましては、いくつかの見方があります。
 一般には、これらは、エペソから始まってラオデキヤに至る、郵便が配達されるルートに沿っている町の教会であるというように理解されています。11節には、

その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」

と記されていますが、ここに出てくる町の順にそのルートがあったということです。そうであるとしますと、ヨハネはここに記されていますように、栄光のキリストのみことばに従って黙示録を記しますが、記されたものは、エペソから始まって、このルートに従って、回覧された可能性があります。また、その過程で、原本が何回か書き写された可能性もあります。
 また、これら七つの町は、そこからさらに郵便を配達する別のルートにつながっていて、それらの町を拠点として、さまざまな地方へと配達されて行ったという見方もあります。そうであるとしますと、ヨハネが書き記した黙示録がさらに書き写されて、あちこちの町にある教会へと送られたり、回覧された可能性があります。
 さらに、これら七つの教会が置かれていた状況や直面している問題が、それぞれ異なっていて、その当時の教会の代表的なものであるので、これら七つの教会が取り上げられているという見方があります。この意味では、これら七つの教会が、栄光のキリストのからだである教会全体を代表的に表わしているということになります。また、その場合には、これらの教会が「七つ」であるということにも意味があります。聖書の中では「七」は完全数です。この完全数である「七つ」の教会を用いて、キリストのからだである教会全体を表しているということです。
 このことと関連して、というか、このことを支持することとして考えられることがあります。2章ー3章には、これら七つの教会のそれぞれに対して語られた栄光のキリストのみことばが記されています。それらは、すべて、その結びの部分に、

 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。

というみことばがあります。ですから、栄光のキリストがこれら七つの教会のそれぞれに対して語られたみことばは「御霊が諸教会に言われること」でもあるのです。それは、その当時の「諸教会」に対して語られただけでなく、いつの時代の、どこにある教会に対しても語られている栄光のキリストのみことばであるのです。
 これら三つの見方は、矛盾するものではありませんので、三つのことすべてが当てはまる可能性があります。その中でも、特に大切なものは、最後に取り上げた、これら七つの教会によって、歴史を超えて存在するキリストのからだである教会を代表的に表わしているという見方です。


 1章10節には、

私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。

と記されています。
 この10節は、原文のギリシャ語では、新改訳が「私は・・・御霊に感じ」と訳していることばで始まっています。[注(末尾に)] それで、このことが大切なこととして強調されています。けれども、この「御霊に感じた」ということがどのようなことであったかは、分かりにくい気がします。
 まず、この「御霊」と訳されたことば(プネウマ)自体は、神の「御霊」を意味する場合もありますし、人の「霊」を意味する場合もあります。このことを巡っては、これは人の「霊」のことであるという主張もあります。その場合には、その人の「霊が奮い立たせられたりして、高揚した状態になった」というようなことを意味することになります。けれどもこれは、新改訳やその他の翻訳のように、また、大多数の学者が主張していますように、神の「御霊」のことであると考えられます。
 そうしますと、「御霊に感じた」ということはどういうことかということが問題になります。
 これは私だけの感じ方かもしれませんが、「御霊に感じた」と言いますと、なんとなく、「御霊のお働き」を感じたのではないかという気がします。あるいは、何かにピンと来たというようなことではないかという気がします。それらの場合には、これはヨハネの感じ方や内面的な状態のことを表しているということになります。実際、名の知れた学者たちが、これはヨハネがある種の恍惚状態になったことを意味していると主張しておられます[Mounce, p. 55 ( a state of spirital exaltation best described as a trance )、同様の考え方として、Berkeley, Robbins, Bauckhamが取り上げられています]。しかし、先に結論的なことを述べますが、ここではそのようなヨハネの感じ方や内面的な状態のことが言われているのではありません。
 この新改訳が、

 私は・・・御霊に感じた

と訳していることばを直訳調に訳しますと、

 私は御霊にあった

あるいは、同じことですが、

 私は御霊のうちにあった

となります。この「御霊(のうち)に」ということば(エン・プネウマティ)自体は「御霊によって」ということも意味しますが、ここでは「あった」という自動詞とつながっていますのでこのようになります。
 これは、御霊がヨハネを満たして、ヨハネが見ること、聞くこと、理解し悟ること、感じること、語ること、そして、記憶することなど、ヨハネの全人格を生かして導いてくださっていたことを示しています。その結果、ヨハネがどう感じたか、あるいは、ヨハネの内側がどのような状態になったかということは示されてはいません。
 この10節ー20節に記されていることを改めて見てみますと、ヨハネは自分が聞いた御声が語っていることをきちんと理解しています。イエス・キリストがご自身の栄光の御姿を示してくださったときには、それをしっかりと見て記憶にとどめています。それでヨハネはこの10節ー20節に記されていることを、記すことができたのです。また、イエス・キリストの栄光の御姿に接した自分が、その栄光の御臨在の御前においては滅ぶべき者であることを悟るようになっています。それで、その御前で「死者のようになった」のです。そのような自分をイエス・キリストがどのように取り扱ってくださったかも、きちんと受け止めています。もちろん、そのことの意味も理解してのことです。そして、最初と最後に繰り返して栄光のキリストが委ねてくださった使命もしっかりと受け止めています。
 そればかりではありません。1章は20節で終わっていますが、栄光のキリストがその栄光の御臨在の御許から語ってくださったみことばは終わってはいません。2章ー3章には「アジヤにある七つの教会」の一つ一つに対して語られたイエス・キリストのみことばが記されています。先ほどお話ししましたように、「アジヤにある七つの教会」の一つ一つが置かれている状況や直面している問題は異なっていました。それで、それに対する栄光のキリストのみことばも、かなり具体的であり、それぞれの状況に応じてふさわしいみことばとなっています。これも、この時、ヨハネが「御霊にあって」聞いたことです。それで、ヨハネは後に、黙示録を記すときに、「アジヤにある七つの教会」の一つ一つに対して語られたイエス・キリストのみことばを詳細に、また、誤りなく記すことができたのです。
 ここで大切なことは、ヨハネが「アジヤにある七つの教会」の牧会者であったということです。それで、ヨハネも、ヨハネなりに、「アジヤにある七つの教会」の一つ一つが置かれている状況や直面している問題を理解していました。パトモスにおいてヨハネが記した黙示録が「アジヤにある七つの教会」に送られたことは、ヨハネと「アジヤにある七つの教会」との間には、何らかの交流があったことを示しています。そうであれば、ヨハネは「アジヤにある七つの教会」の実情をある程度は知っていたと考えられます。御霊は、ヨハネが「アジヤにある七つの教会」の牧会者として、その一つ一つの群れにみことばをあかしし、そのためにとりなし祈ってきたことを生かして用いてくださっているということです。決して、ヨハネ自身は空っぽになって、訳が分からないうちに、あるいは、無意識のうちに、我を忘れて、いろいろなことを見たり聞いたりしたということではありません。
 御霊のお働きはこのようものです。私たちの人格の全体に働きかけてくださって、私たちにみことばを悟らせてくださり、私たちを導いてくださいます。そのような御霊のお働きを、私たちは、御霊の「有機的な働き」と呼んでいます。これは、否定的には、御霊のお働きが「機械的」あるいは「自動的」なものではないということを意味しています。

 この時のヨハネの内側で起こっていたことについては、私たちは想像するほかはないのですが、これらのことから、ヨハネが恍惚状態になっていたということは、あまり考えにくいことです。少なくとも、我を忘れて喜びに満たされていたということは考えられません。なぜなら、ヨハネは、栄光のキリストの栄光の御姿の御前において、自分が滅ぶべき者であることを実感して「死者のようになった」ほどだからです。確かに、その後、栄光のキリストが右手をヨハネの上に置いてくださって、

恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

と語りかけてくださったときに、ヨハネの恐れは完全に取り除かれました。栄光のキリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりに基づいて、その恐れを取り除いてくださったのです。その時、ヨハネの心には喜びがあふれていたことでしょう。しかし、それは恍惚状態がもたらした喜びではなく、福音のみことばが指し示している、栄光のキリストが成し遂げてくださった罪の贖いの恵みを、最も現実的なものとして経験し、悟ったことによる喜びです。
 さらには、パトモスに流刑になっていたヨハネが常に心にかけていた「アジヤにある七つの教会」の一つ一つに対して、栄光のキリストが語りかけてくださったみことばを聞いたヨハネはどうだったでしょうか。
 その中には、ローマ帝国からの厳しい迫害に苦しむ群れもありました。栄光のキリストがその現実について語ってくださっているときに、ヨハネの心は傷まなかったのでしょうか。自分だけが恍惚状態になって喜びに満たされていたのでしょうか。
 いくつかの群れには、誤った教えを持ち込んできて、群れを荒らしている者がいること、ある群れについては、栄光のキリストによって、

 わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。

とまで言われています(2章13節)。そのようなことを聞いたヨハネはどうだったでしょうか。心がつぶれるような思いとともに、御前にひれ伏して栄光の主のあわれみを祈り求める心境であったのではないでしょうか。
 コリント人への手紙第二・11章23節ー27節には、

彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。

というパウロのことばが記されています。これは、パウロがみことばのあかしのために経験した外から降りかかってきた苦しみです。ヨハネとパウロのどちらがより多く苦しんだかというような比較をする必要はないのですが、ヨハネもこの時、

 神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島に

いました。パウロのことばはさらに続きます。28節ー30節には、

このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。

と記されています。これが牧会者の現実です。「アジヤにある七つの教会」牧会者として、その一つ一つの群れに心を注いでいたヨハネも、まさに、

だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。

ということを切実に感じていたはずです。
 正直に申しますと、私は恍惚状態になったことはないと思っています。以前お話ししましたように、神学校の授業の合間の礼拝中に、一時的に、何か別世界へと移されてしまったような状態になるというか、そのようなことをリアルに感じたというか、それなりに不思議な経験をしています。たった一度だけのことです。その時の何とも言えない感覚は今でも覚えているのですが、それは、いわゆる「恍惚状態」として聞いている状態とはまったく違います。それで、恍惚状態の中で、自らの絶望的な罪の深さを実感して死者のようになることがあるのか、あるいは、心にかけている人々の実情に、胸が張り裂けるような苦しみにうめくようになるのか、私には分かりません。
 かりに、そのようなことがあるのだとしても、ここでお話ししていることの主旨は変わりません。黙示録1章10節において、ヨハネが最初に記している、

 私は御霊(のうちに)にあった

ということは、御霊がヨハネを満たして、ヨハネが見ること、聞くこと、理解し悟ること、感じること、語ること、そして、記憶することなど、ヨハネの全人格を生かして導いてくださっていたことを示しています。その時、ヨハネが恍惚状態、エクスタシー状態にあったかどうか、すなわち、ヨハネの感じ方や内面の状態を伝えてはいません。そうであったかも知れませんし、まったくそのような状態にはなかったかも知れません。

 ヨハネが記している、

 私は御霊(のうちに)にあった

ということをさらに考えるために、ペテロの手紙第二・1章20節ー21節に記されているみことばを見てみましょう。そこには、

それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。

と記されています。
 今お話ししていることと関わっていることだけを取り上げますが、ここには「聖書の預言」が出てきます。これが何かについては意見が分かれています。一つは、旧約聖書のことだという主張です。もう一つは、旧約聖書だけでなく、すでにこの時に記されていた新約聖書の一部(3章15節ー16節にはパウロの手紙のことが出てきます)も含むという主張があります。いずれにしましても、これは基本的には旧約聖書のことです。とはいえ、ここに記されていることは原理的なことですので、新約聖書にも当てはまります。
 そのことはおいておいて、注目したいのは、

預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだ

という教えです。
 ここに出てくる「人間の意志によってもたらされた」の「もたらされた」という動詞(定動詞・受動態・不定過去時制)と、「聖霊に動かされた人たち」の「動かされた」という動詞(分詞・受動態・現在時制)は同じことば(フェロー)です。この動詞は、基本的に、「運ぶ」ことを表します。これは「聖書の霊感」のことを述べているのですが、ここでは、「聖霊に動かされた」、「聖霊に運ばれた」というように、聖霊の主権的なお働きが示されています。先ほどお話ししましたように、その聖霊のお働きは「有機的」であって、聖霊のお働きにあずかった人々の人格的な特性、さまざまな能力やその働き、経験などが生かされています。それで、新改訳は「聖霊に動かされた人たち」と訳していると思われます。
 いずれにしましても、この人たち、すなわち、旧約聖書の預言者たちが「聖霊に動かされた」と言われていることと、黙示録1章10節において、ヨハネが、

 私は御霊(のうちに)にあった

と述べていることは、同じことを指しています。大切なことは、預言者たちやヨハネがどのように感じていたかや、彼らの内側の状態がどのようなものであったかということではなく、御霊が彼らを満たしてくださり、彼らのの人格的な特性、さまざまな能力やその働き、経験などを生かして用いてくださっているということです。
 ペテロの手紙第二・1章21節では、旧約聖書の預言者たちのことが、「聖霊に動かされた人たち」と言われています。そして、この「聖霊に動かされた人たち」は「神からのことばを語った」と言われています。預言者たちは「聖霊に動かされた人たち」なので、「神からのことばを語った」ということです。それゆえに、預言者たちが語ったことばには権威があります。またそれで、その「神からのことば」には「人の私的解釈を施してはならない」のです。
 このことは、黙示録を記したヨハネにもそのまま当てはまりす。ヨハネは「御霊にあった」ので、栄光のキリストの啓示を受け取り、それを書き記しました。それで、ヨハネが黙示録に記したことばは、栄光のキリストが啓示してくださったみことばとしての権威をもっています。またそれで、このみことばには「人の私的解釈を施してはならない」のです。
 黙示録1章10節でヨハネは、ただ、

 私は御霊(のうちに)にあった

と述べているだけです。これは、栄光のキリストがヨハネに対してなしてくださったことです。栄光のキリストがヨハネにご自身の栄光の御姿を現してくださり、幻によって「今ある事、この後に起こる事」を啓示してくださいました。ヨハネはこの事実だけを述べています。だから自分が記していることは権威がある、ということは述べてはいません。そのこと、すなわち、黙示録に記されていることには権威があるということは、黙示録に記されているヨハネのことば、すなわち、栄光のキリストの啓示のみことばを読んでいる私たちが汲み取るべきことです。実際、ヨハネはそのための「布石」とも言うべきものを打っています。1章3節には、

この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。

と記されています。また、駄目を押すように、最後の章である22章7節において、

見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。

というイエス・キリストのみことばを記すようになります。
 私たちも主のみことばを聞くときに、御霊に満たしていただいて、私たちの人格的な特性、主が与えてくさっでいるさまざまな能力とその働き、さらに主とともなる歩みの中で経験してきたこと、もちろん、心の痛む経験も含めてのことですが、これらを生かしていただいて、みことばを聞いて悟り、「堅く守る者」としていただきたいと思います。


[注]
 ここで「御霊に感じ」と訳されていることば(エン・プネウマティ)は、黙示録の中では、この他、3回出てきます。
 4章2節には、
たちまち私は御霊に感じた。すると見よ。天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、
と記されています。また、17章3節には、
それから、御使いは、御霊に感じた私を荒野に連れて行った。すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。
と記されています(ここでは「エン・プネウマティ」だけで「御霊に感じた」と訳されています)。さらに、21章10節には、
そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。
と記されています。
 少し注釈しますと、4章2節で、
 私は御霊に感じた。
と訳されていることばは、1章10節で、
 私は・・・御霊に感じた
と訳されていることばと同じです。
 そして、17章3節で、
 御霊に感じた私を・・・連れて行った
と訳されていることばと、21章10節で、
 御霊によって私を・・・連れて行った
と訳されていることばは同じです。この二つの節(17章3節と21章10節)で同じことば(エン・プネウマティ)の訳が違っている理由は分かりません。
 このことば(エン・プネウマティ)は、黙示録以外でも用いられています(マタイの福音書22章43節[「ダビデは、御霊によって」]、ルカの福音書2章27節[「彼が御霊に感じて宮に入ると」]、使徒の働き19章21節[「パウロは御霊の示しにより」]、コリント人への手紙第一・12章3節[「神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。」]など。


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