黙示録講解

(第104回)


説教日:2013年1月20日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章9節ー20節
説教題:栄光のキリストの顕現(5)


 ヨハネの黙示録1章9節ー20節には、イエス・キリストがヨハネにご自身の栄光の御姿を現してくださったことが記されています。
 今お話ししているのは、9節に記されています、

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

というみことばです。
 ここに記されていますように、ヨハネは「神のことばとイエスのあかしとのゆえに」ローマ帝国からの迫害を受け「パトモスという島」に流刑となっていました。そのような事情によって、自分が牧会している群れから切り離されて、流刑の地であるパトモスにいたヨハネに、栄光のキリストがご自身の栄光の御姿を現してくださいました。
 先ほど引用しました9節の前半には、

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、

と記されています。すでに繰り返しお話ししてきましたように、この9節前半に記されているみことば全体が主語となっています。これによって、ヨハネは自分がどのような者であるかを述べています。ヨハネは「アジヤにある七つの教会」の牧会者でしたから、「アジヤにある七つの教会」の信徒たちはヨハネのことをよく知っていました。ヨハネはイエス・キリストから直接的に任命された使徒でしたし、「アジヤにある七つの教会」の牧会者でした。また、その意味で長老でした。ところが、この9節前半に記されているみことにおいて、ヨハネは、自分が使徒であるとも、「アジヤにある七つの教会」の牧会者であるとも、長老であるとも述べてはいません。その代わりに、

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であ[る]

と述べています。このようにして、ヨハネは自分のことを、徹底して、「アジヤにある七つの教会」の信徒たちと一つであると述べているのです。
 このこととのかかわりで、これまで特に注目してきたことがあります。
 仮に、ここでヨハネが、自分のことを使徒であり、「アジヤにある七つの教会」の牧会者でり、長老であると述べたとしましょう。それでも、ヨハネが「アジヤにある七つの教会」の信徒たちと一つであることは十分伝わります。牧会者である長老は自分が牧会している群れと一つに結ばれています。
 そうではあっても、牧会者、長老には、その群れとは区別される面があります。この点に関してみことばの教えをいくつか見てみましょう。
 使徒の働き20章28節には、

あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。

と記されています。これは、17節に、

パウロは、ミレトからエペソに使いを送って、教会の長老たちを呼んだ。

と記されていますように、パウロがエペソにある教会の長老たちに語ったことばです。パウロは、エペソにある教会の長老たちに、

聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになった

と語っています。
 その他、牧会者については、エペソ人への手紙4章11節ー13節に、

こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

と記されています。ここでは、栄光のキリストがご自身のみからだである教会を建て上げてくださるために、「使徒」、「預言者」、「伝道者」、「牧師また教師」を立ててくださっていることが示されています。
 最初に出てくる「使徒」と「預言者」は、2章20節に、

あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。

と記されている中に出てきます。ここでは「使徒」と「預言者」はキリストのからだである教会の「土台」となっていると言われています。これは、イエス・キリストの血による新しい契約の下で、啓示のみことばを受け取った人々です。それで、「使徒」と「預言者」は今では存在していません。「使徒」と「預言者」が受けたみことばは新約聖書にまとめられています。その意味で、キリストのからだである教会は新約聖書に記されているみことばを「土台」として建てられています。
 最後に出てくる「牧師また教師」は両者が一つの定冠詞で結ばれていますので、一人の人が「牧師また教師」である可能性がありますが、この二つの働きが密接に関わっていることを意味しているだけであるという理解もあります。
 いずれにしましても、この「使徒」、「預言者」、「伝道者」、「牧師また教師」は、キリストのからだである教会において、みことばに関わる賜物と職務を与えられている人々です。
 さらに、ヘブル人への手紙13章7節には、

神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。

と記されており、17節には、

あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。

と記されています。ここに出てくる「指導者たち」は「神のみことばをあなたがたに話した」人々のことです。7節では、

 [あなたがたの]指導者たちのことを、思い出しなさい。

とか、

 彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。

と言われていますから、過去の「指導者たち」のことが記されています。17節では、

 あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。

と言われていますから、現在の「指導者たち」のことが記されています。


 これらのことから、神さまのみことばをもってキリストのからだである教会を牧会する者と、その群れの信徒たちは、イエス・キリストにあって一つに結ばれていながらも、その働きにおいて、区別される面があることが分かります。
 先ほど取り上げました、エペソ人への手紙2章20節に、

あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。

と記されていますように、キリストのからだである教会は「使徒と預言者という土台の上に建てられており」、「使徒と預言者」が受けたみことば、すなわち、新約聖書に記されているみことばの上に建てられています。また、このエペソ人への手紙2章20節のみことばは、教会が「使徒と預言者という土台の上に建てられて」いるときに「キリスト・イエスご自身がその礎石」となっておられるということを示しています。人が「教会」という組織を造れば、それが自動的にキリストのからだである教会になるわけではありません。それが、栄光のキリストが「使徒と預言者」を通して与えてくださったみことばを土台として、その上に建てられているときにだけ、栄光のキリストのみからだである教会であることができます。それで、キリストのからだである教会ではみことばが正しく語られ、聞かれることが決定的に大切なことになります。これまで、みことばを引用しながら取り上げてきました、群れの監督として牧会の働きをする長老たち、「牧師また教師」たち、「指導者たち」は、そのみことばそのものに関わっていますので、決定的に大切な立場にあり、決定的に大切な役割を負っているのです。
 先ほど引用しました使徒の働き20章28節には、

あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。

と記されていました。それに続く29節ー32節には、

私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。

と記されています。外からやって来る「狂暴な狼」によってであれ、自らのうちから起こる「いろいろな曲がったことを語」る者によってであれ、みことばが曲げられてしまえば、群れは荒らされ、羊は散らされてしまいます。それは、必ずしも「教会」という組織が壊れるという意味ではありません。もし、みことばにかかわる務めを委ねられている牧会者としての長老、「牧師また教師」、「指導者たち」がみことばを曲げてしまえば、「教会」という組織全体が、そのまま、キリストのからだである教会の本質を失ってしまうこともありえます。
 黙示録2章ー3章に記されています「アジヤにある七つの教会」のそれぞれに対する栄光のキリストのみことばには、このような、誤った教えに対する警告が繰り返し出てきます。引用はしませんが、後ほど、2章6節、14節ー15節、20節ー23節、3章3節をご覧になってください。また、そのことにかかわっていると思われる2章9節(「サタンの会衆である人たち」)、13節(「サタンの住むあなたがたのところ」)、3章9節(「サタンの会衆に属する者」)なども参照してください。
 ですから、キリストのからだである教会の牧会者はその群れにとって、決定的に大切な使命を委ねられています。それは、まことの牧者であられる栄光のキリストがみことばをもって、ご自身のみからだである教会を養い育ててくださるからです。黙示録を記したヨハネは「アジヤにある七つの教会」の牧会者として、当然、これらのことをよくわきまえています。

 そのヨハネが1章9節において、自分のことを、

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者である

と述べています。
 ここでヨハネは、自分を中心にして、「あなた方は私の兄弟である」と言ってはいません。むしろ、「アジヤにある七つの教会」の信徒たちを中心にして見て、「私はあなた方の兄弟である」と言っています。また、自分がローマ帝国からの迫害を受けてパトモスに流刑になっていることを中心にして、あなた方も、イエス・キリストにあって、私とともに「苦難と御国と忍耐とにあずかっている」と言ってはいません。むしろ、「アジヤにある七つの教会」の信徒たちの苦難と忍耐を中心にして見て、

私ヨハネは・・・あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者である

と言っています。
 これは、ある人々の目から見れば、重箱の隅を突っつくようなことと聞こえることでしょう。少なからぬ学者たちが、このような区別をしてみても、どちらも同じことを言っているのであるから、このような区別には意味がない、と言うことでしょう。けれども、ここでまた、少し個人的なことをお話しさせていただきますと、先週お話ししましたように、曲がりなりにも、この小さな群れの牧会者として仕えさせていただいている者にとっては、ここには、いわば「コペルニクス的転回」とも言うべきものがあります。
 栄光のキリストは、御霊によって、ご自身のみからだである教会をお建てになっておられます。それによって、ここに、この群れが形成されています。それで、私もこの群れの牧会者に立てられています。栄光のキリストが御霊によって、この群れにみことばをお与えになられます。それで、私もこの群れの牧会者としてみことばを受け止めさせていただいています。栄光のキリストが御霊によって、この群れを、みことばをもって養ってくださっています。それで、私も御霊とみことばによって養っていただいています。父なる神さまがこの群れを神の家族とし、栄光のキリストを「長子」としてくださっています。それで、私も神の家族の兄弟の一人としていただいています。
 確かに、時間的な順序としましては、私がまずみことばを受け取って、それを今ここでしているように、皆さんに語らなければならないでしょう。けれども、そのように、私がまず先に受け取るべきみことばは、この群れに与えられたみことばです。決して、私に与えられて私のものとなったみことばを、皆さんに分かち与えているわけではありません。
 ご本人にお断りしないままこのようなことをお話ししてしまいますが、もうかなり前のことです。神学生として奉仕に来てくださっていた方が、教会に置いてあった私の聖書研究のノートをこっそり見てしまったと告白してくださいました。私はその方の誠実な姿勢に、いたく心を揺さぶられました。それとともに、頭の中でそういうことであると分かっていた一つのことが、その時、私にとって現実的なこととなり、明確なことばとなって出てきました。私はその方に「このノートは私のものだけれど、ここに記されていることは、私個人に与えられたものではないので、このようなものでも、見ていただければありがたいことです」というようなことをお伝えしました。
 その後、高尾長老が、私の説教を玉川上水キリスト教会のホームページに掲載してくださるようになった時に、そのような経験を通して自覚させていただいたことが思い起こされました。確かに、それは私の説教であり、そこには取り違えなどがあるでしょう。その責任は私にあります。けれども、私は栄光のキリストがこの群れに与えてくださっているみことばを受け止めさせていただいて、それを皆さんに語らせていただいています。それが、ホームページを通して、公開されていると考えています。

 黙示録1章9節でヨハネは、自らのことを、

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者である

と述べています。ここでは、ヨハネが牧会している「アジヤにある七つの教会」の信徒たちがイエス・キリストにあって「苦難と御国と忍耐」にあずかっているということがあり、ヨハネもともにそれにあずかっているということが示されています。
 ここには「苦難と御国と忍耐」という三つのことばが出てきます。ギリシャ語の原文では、この三つのことばは一つの定冠詞でまとめられています[文法的には、これには「シャープの法則」が適用されます]。これによって、これら三つのことばが表していることが密接につながっていることを示しています。
 さらに大切なことは、この三つのすべてが、というか全体が、「イエスにあって」のものであるということです。
 問題は三つのことばが表していることがどのように関わっているかということです。これには、二つの見方があります。
 一つは、これらのことばが出てくる順序に意味があるという見方です。どういうことかと言いますと、イエス・キリストにあって、すなわち、イエス・キリストを主として従っているために「苦難」を受けている人は、「御国」に入っており、「御国」の民となっています。それで、そのことから「忍耐」が生まれてくるというのです。
 もう一つの見方は、この三つのことばの最初の「苦難」と最後の「忍耐」が対応していることに注目します。それで対応している「苦難」と「忍耐」を「a」として、それらとは違っている「御国」をbとします。そうしますと、これはaーbーaという、一般に「交差対句法」(キアスムス)と呼ばれる構成となっています。その場合の中心は、文字通り真ん中にある「御国」になります。それで、ここで言われている「苦難」と「忍耐」は「御国」との関係で考えられる「苦難」と「忍耐」であるということになります。
 どちらの見方を取ってみても、実質的には、同じことになると思われますが、私としましては、後の方の、「御国」が中心にあって、それとの関わりで「苦難」と「忍耐」が考えられるという見方がいいのではないかと思います。というのは、「苦難」と「忍耐」は地上における私たちの生き方に関わることですが、「御国」は私たちの地上におけるあり方だけでなく、新しい天と新しい地における私たちのあり方にも関わる、より根本的なことであるからです。
 いずれにしましても、大切なことは、この三つのすべてがというか、この三つ全体が、さらに根本的な「イエスにあって」のものであるということです。
 「イエスにあって」歩む者、すなわち、イエス・キリストを主として信じて、イエス・キリストに従って歩む者は迫害を受けます。テモテへの手紙第二・3章12節に、

確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。

と記されているとおりです。言うまでもなく、これはローマ帝国からの迫害の中にある「アジヤにある七つの教会」に書き送られた黙示録において一貫して踏まえられていることです。
 しかし、その「苦難」は私たちが「御国」に属していることの現れでもあります。マタイの福音書5章10節には、

 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

というイエス・キリストの教えが記されています。また、ヨハネの福音書15章18節ー19節には、

もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。ここでは、私たちが迫害を受けるのは、私たちがこの世のものではなく御国に属しているからであることが示されています。
 みことばの教えは、この「御国」に属している者の「苦難」や「患難」が「忍耐」と関わっており、さらには、「希望」と深く関わっていることを示しています。
 そのことは、みことばのいろいろな箇所で教えられていますが、ここではその一つを取り上げるに留めます。ローマ人への手紙5章1節ー4節には、

ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

と記されています。

信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

と言われているのは、私たちの現在の状態です。また、現在の現実でありつつ、永遠に変わることはありません。これを言い換えれば、私たちが御国に入っているということです。
 けれども、これはずっと同じ状態が続くということ、現状維持ということではありません。続いて、

またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。

と言われています。これは8章18節のことばで言いますと、「将来私たちに啓示されようとしている栄光」を待ち望んで喜ぶという、積極的な姿勢を示しています。
 私たちがこの栄光にあずかることは、今すでに始まっています。コリント人への手紙第二・3章18節には、

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

と記されています。ここに記されているように、私たちはすでに、御霊のお働きによって、栄光のキリストのみかたちに造り変えられつつあります。そして、ヨハネの手紙第一・3章2節に、

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

と記されていますように、それは終わりの日に完全に私たちの現実になります。
 今、私たちはこの望みの中に生きています。その根底には、私たちを御子イエス・キリストの栄光のみかたちに似た者としようとされた父なる神さまの「永遠のみこころ」、永遠の聖定におけるみこころがあります。ローマ人への手紙8章28節ー29節に、

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

と記されているとおりです。神さまは私たちの苦難や患難をも含めて「すべてのことを働かせて益としてくださ」います。その「」とは、29節に説明されていますように、私たちが「御子のかたちと同じ姿に」なることです。そのようにして栄光化された神の子どもたちとして父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりに生きる者となることです。
 ですから、私たちはあきらめにも近いものをもって、ただ忍耐しているのではありません。迫害の中にある「アジヤにある七つの教会」の信徒たちも、それがローマ帝国からの迫害であるからということで、あきらめて忍耐しているわけではありません。
 先ほど引用しましたローマ人への手紙5章3節後半ー4節前半では、

患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す

と言われていました。ここで「練られた品性」と訳されていることば(ドキメー)は「試練によって試されて、それに耐えるものであることが証明された資質」を意味しています。それこそ、十字架の死に至るまで苦しみの道を、ご自身の意志で歩み通されたイエス・キリストの品性です。ここで「練られた品性が希望を生み出す」と言われていますように、「練られた品性」は、患難や苦難などの試練の中で、父なる神さまの「永遠のみこころ」に基づく希望を、常に、生きた希望として働かせていることを特徴としています。それで、試練の中における忍耐において、「練られた品性」が生み出されるとともに、希望がさらに強くされるのです。このすべてを支えてくださるのは、

なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

と言われているように、御霊によって、私たちの心に注がれている、父なる神さまの愛です。
 黙示録1章9節において、ヨハネは「アジヤにある七つの教会」の信徒たちとともに、イエス・キリストにあって「苦難と御国と忍耐とにあずかっている」と述べています。それは、イエス・キリストにあって「御国」に入れていただいている「アジヤにある七つの教会」の信徒たちの「苦難」と「忍耐」が、生きた希望を生み出していることを踏まえてのことであると考えられます。また、それは、流刑の地であるパトモスにいたヨハネ自身が、その生きた希望のうちにあったからにほかなりません。


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