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説教日:2013年1月13日 |
ここでヨハネは自分のことを「ともに・・・あずかっている者」であると述べています。新改訳は分かりやすくするために、原文にはない「あなたがたと」ということばを補って「あなたがたとともに・・・あずかっている者」としています。この「ともに・・・あずかっている者」ということばはギリシャ語では「シュンコイノーノス」です。これは、「交わり」を表す「コイノーニア」ということばに関連することばです。この「コイノーニア」ということば自体が、何かに「ともにあずかること」、何かを「ともに受けること」を意味しています。新約聖書では、基本的に、ともに父なる神さまと御子イエス・キリストの愛と恵みにあずかる神の子どもたちの神さまとの交わり、また、お互いの間の交わりを意味しています。これと関連する「コイノーノス」ということばがありますが、それは何かに「ともにあずかっている者」、何かを「ともに受けている者」を表しています。ここ黙示録1章9節で用いられている「シュンコイノーノス」ということばは、この「コイノーノス」に、さらに、だれだれ「とともに」ということを表す接頭辞がついているものです。このことばは、一般的な用例では「ビジネス・パートナー」を表していました(BDAG)。このことばは新約聖書には、ここを含めて4回出てくるだけです。ここ以外の箇所でどのように用いられているかを見てみましょう。 ローマ人への手紙11章17節ー18節前半には、 もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、あなたはその枝に対して誇ってはいけません。 と記されています。これは「野生種のオリーブ」にたとえられている異邦人クリスチャンが、「オリーブ」にたとえられているユダヤ人に接ぎ木されて、その「オリーブ」の枝に混じって「オリーブの根の豊かな養分をともに受けている」ということを述べています。 また、ピリピ人への手紙1章7節には、 私があなたがたすべてについてこのように考えるのは正しいのです。あなたがたはみな、私が投獄されているときも、福音を弁明し立証しているときも、私とともに恵みにあずかった人々であり、私は、そのようなあなたがたを、心に覚えているからです。 と記されています。ここでは、このことばは、 あなたがたはみな、私が投獄されているときも、福音を弁明し立証しているときも、私とともに恵みにあずかった人々であり、 と言われている中に出てきます。問題は、 私とともに恵みにあずかった と言われているときの「恵み」が何かということですが、結論的には、パウロが、 投獄されているときも、福音を弁明し立証しているときも ということですので、パウロが投獄されている状態にあることを恥じることなく、パウロとの交わりをもち、進んでパウロに援助の手を差し伸べ、パウロとともに「福音を弁明し立証している」ことを指しています。 最後に、新約聖書に出てくる順序が違っていますが、今お話ししていることと関わることがありますので、コリント人への手紙第一・9章23節に記されているみことばを取り上げます。そこには、 私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。 というパウロのことばが記されています。 ここで、 それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。 と言われているときの「福音の恵みを」の「恵み」ということばは原文にはない新改訳の補足です。これによって、新改訳は一つの理解を示しています。 これに対して、この理解では、パウロの働きが自分の利益を目的とするものとなってしまい、パウロの考え方に反するという主張があります。それで、この主張をする人々は、 それは、私も福音の宣教の働きにともにあずかる者となるためなのです。 というように理解すべきであると言います(そのように訳すべきであるということではありません)。 さらに、この二つ(「福音の恵みを」と「福音の宣教の働き」)を、そのように鋭く区別して、どちらかを選ぶようにすべきではないという主張もあります。 おそらく、この最後の主張のように、この二つを区別して、どちらかを選ぶということを退けるのが正しいのではないかと思います。 けれども、新改訳のように、 それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。 と理解することは自己の利益を追求することでパウロの考え方に反するという主張は、名の知られた学者たちが主張していることですが、あまりにも機械的すぎて、賛成できません。そのような主張をする人は、たとえば、ピリピ人への手紙3章10節ー14節に記されている、 私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。 というパウロの姿勢は自己の利益を追求することでパウロの考え方に反するというように考えるでしょうか。 もう一つ、いまお話していることとの関連で、それ以上に大切なことがあります。 先ほど引用しましたピリピ人への手紙1章7節には、 あなたがたはみな、私が投獄されているときも、福音を弁明し立証しているときも、私とともに恵みにあずかった人々であり、 と記されていました。ここで「私とともに恵みにあずかった人々」と言われているときには、「私とともに」ということばがあることから、その中心がパウロにあります。実際に、ここでは、先ほどお話ししましたように、ピリピの教会の信徒たちが、獄中にあったパウロとの交わりにあずかり、パウロの働きにあずかっていることが記されています。 けれども、コリント人への手紙第一・9章23節が、新改訳が示すように、 それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。 と言われていると理解したときには、その中心はパウロにはありません。パウロが福音を伝えた人々が「福音の恵み」にあずかることが中心にあって、パウロはその人々とともに「福音の恵み」にあずかるということです。曲がりなりにも牧会の働きにあずからせていただいている者としての受け取り方ですが、このような考え方を「自己の利益を追求すること」とすることとして退けることは、福音のみことばをともに分かち合うことの現実的な豊かさと喜びを損なうことであると思います。 このコリント人への手紙第一・9章23節のことを最後に取り上げたのは、今お話ししたことが、黙示録1章9節に出てくる「ともにあずかる者」ということばの理解に深く関わっているからです。ここでヨハネは、自分のことを、 あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者 であると述べています。先ほどお話ししましたように、「あなたがたとともに」の「あなたがたと」は新改訳の補足で、ギリシャ語の原文にはありません。けれども、ここでは「あなたがたとともに」ということを意味しています。ヨハネは、自分がパトモスに流刑になって「イエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかって」いて、「アジヤにある七つの教会」の信徒たちもともにそれにあずかっていると言っているのではありません。「アジヤにある七つの教会」の信徒たちが「イエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかって」いて、自分もともにそれにあずかってパトモスに流刑になっていると言っているのです。ヨハネの思いは、自分の苦しみ以上に、自分が心にかけている「アジヤにある七つの教会」の信徒たちの苦しみにあるのです。 このことは、先週お話ししましたことと符合しています黙示録1章9節ー20節に記されています、イエス・キリストの栄光の御姿の顕現(クリスファニー)において、ヨハネはイエス・キリストの栄光の御姿を見るより前に、 あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。 という栄光のキリストの御声を聞きます。そして、ヨハネがイエス・キリストの栄光の御姿を見た後にも、 そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。 という栄光のキリストの御声を聞いています。栄光のキリストがヨハネにご自身の栄光の御姿を現してくださったのも、また、「今ある事、この後に起こる事」を啓示してくださったのも、「アジヤにある七つの教会」の信徒たちのためのことでした。栄光のキリストが「アジヤにある七つの教会」の信徒たちに「今ある事、この後に起こる事」を啓示してくださるので、ヨハネがそれを受け取ったということです。ここでヨハネはそのことをしっかりと受け止めて、イエス・キリストがご自身の栄光の御姿を現してくださったことを記しています。 これは、ヨハネと「アジヤにある七つの教会」の信徒たちとの関係に限られたことではありません。あるいは、牧会者と信徒たちの関係に限られたことでもありません。それが誰であっても、「イエス・キリストにあって」ともにあずかる、ともに受けるということは、そのようなことなのです。 黙示録1章9節で、ヨハネは、自分のことを、 あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者 であると述べています。ここでは、ヨハネが「アジヤにある七つの教会」の信徒たち「とともに・・・苦難と御国と忍耐とにあずかっている」のは「イエスにある」ことであると言われています。この「イエスにある」(エン・イエースー)ということは、パウロの手紙にしばしば出てくる「キリストにあって」(エン・クリストー)ということばに合わせて言いますと、「イエスにあって」となります。この「イエスにあって」ということは、御霊によって、イエス・キリストと一つに結び合わされていることを指しています。ヨハネが「アジヤにある七つの教会」の信徒たちとともに「苦難と御国と忍耐とにあずかっている」のは、まず、ヨハネと「アジヤにある七つの教会」の信徒たちが、ともに御霊によって、イエス・キリストと一つに結び合わされているからであるのです。 もし私たちが御霊によってイエス・キリストと一つに結び合わされているなら(実際、私たちはイエス・キリストと一つに結び合わされています)、私たちはイエス・キリストのいのちによって生きる者とされています。ヨハネの福音書15章4節ー5節には、 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。 というイエス・キリストの教えが記されています。また、パウロも、ガラテヤ人への手紙2章20節において、 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。 と記しています。私たちは御霊によってイエス・キリストと一つに結び合わされています。それで、私たちを通してイエス・キリストのいのちが現れてくるようになります。 そのイエス・キリストは、私たちの苦しみや痛みをご自身のこととして負ってくださり、十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わってすべて受けてくださいました。 イエス・キリストが味わわなければならない十字架の死は、一般的な十字架刑とは違って、肉体的な苦痛で終わるものではありませんでした。十字架刑は人類が考え出した刑罰のうちの最も残酷なものの一つであると言われています。その肉体的・精神的な苦痛だけでも耐え難いものでした。イエス・キリストは、その肉体的・精神的な苦痛に加えて、私たちご自身の民の罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばき、地獄の刑罰をお受けになりました。 イエス・キリストは十字架におかかりになる前の夜に、ゲツセマネにおいて、父なる神さまに祈られました。そのことを記しているルカの福音書22章41節ー44節には、 そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。 と記されています。十字架の死を前にして、イエス・キリストはこの上なく深い悲しみと恐れを抱いておられました。それでも、父なる神さまのみこころの意味を理解しておられ、私たちへの愛のために、私たちの負うべき地獄の刑罰の苦しみをご自身のこととしてお受けになられました。それによって、私たちを私たちの罪とその結果である死と滅びの中から贖い出してくださいました。そして、イエス・キリストの復活のいのちにあずからせてくださって、新しく生まれさせてくださいました。 「イエス・キリストにある」とは、何よりもまず、イエス・キリストの十字架の死と、死者の中からのよみがえりによる罪の贖いにあずかっていることにあります。それで、パウロは、 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。 と告白しています。 黙示録1章9節において、ヨハネが自分が受けている苦しみよりも、「アジヤにある七つの教会」の信徒たちの苦しみのことを思い、自分はその苦しみにともにあずかっていると考えていたのは、「イエスにあって」のことでした。そのイエス・キリストは、ご自身のこの上ない苦しみよりも、私たちが受けなければならない苦しみのことを覚えてくださり、それを私たちに代わって受けてくださったお方です。ヨハネは御霊によってこのイエス・キリストと一つに結び合わされており、イエス・キリストの復活のいのちによって生かされていました。そのことが、ヨハネのうちに、自分が受けている苦しみよりも、「アジヤにある七つの教会」の信徒たちの苦しみのことを思う思いを生み出しているのです。 私たちはともすると、「私には、とても、そのようなことはできない。」(「とても、ヨハネのようにはなれない。」)と考えます。けれども、それは福音のみことばが教えていることではありません。繰り返しの引用ですが、パウロは、 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。 と述べています。よく知られているのは、前半の、 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。 というみことばです。しかし、これとともに、後半の、 いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。 というみことばも大切です。「私には、とても、そのようなことはできない」と言って済ますことは、「私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によって」生きることを放棄することです。それは、実質的に、イエス・キリストを信じて生きることを放棄することです。もちろん、「私には、とても、そのようなことはできない」のです。けれども、それで終わりません。御霊が私たちのうちに働いてくださって、私たちをイエス・キリストの復活のいのちで生かしてくださっています。それはヨハネにとっても、同じことでした。 少し振り返ってみましょう。私たちは信仰の家族の兄弟姉妹たちに与えられている父なる神さまの愛と、御子イエス・キリストの恵みに、信仰の家族の兄弟姉妹たちとともにあずかっています。それで、私たちは信仰の家族となっています。 もう少し振り返ってみましょう。私たちは信仰の家族の兄弟姉妹たちのことを主の御前に覚えて、とりなし祈るでしょう。自分のことを祈るよりも前に、病や試練や労苦の中にある兄弟姉妹たちのことを祈るのではないでしょうか。時には、自分のことを忘れて、病や試練や労苦の中にある兄弟姉妹たちのことを祈るのではないでしょうか。いつの間にか、それが私たちにとって自然なことになっているのではないでしょうか。 これらのことはとても小さなことかもしれません。しかし、栄光のキリストの御霊が私たちのうちに働いてくださって、少しずつ私たちを造り変えてくださっていることの現れです。何か目を見張るようなことを求めるのではなく、このような小さなことに目を向けることから始めたいと思います。そのような愛の実践をとおして、私たちは御霊によって少しずつイエス・キリストのみかたちに似た者に造り変えられていきます。そうすれば、コリント人への手紙第二・3章18節に記されています、 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。 というみことばが、たとえそれがやっと芽が出たというような形であっても、すでに、私たちの間の現実になっていることが理解できるようになります。 |
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